九 州 旅 行

アルバハン・マゴメドフ(ウリヤノフスク国立工科大学、ロシア/
センター外国人研究員として滞在)

大須賀さんからセンターニュースに小エッセイを書いてほしいと頼まれたとき、一つだけ困ったことがありました。この膨大な印象をどうやって1-2ページに収めたらいいのか、ということです。当然、短く書くことのほうが難しさを伴うものです。この短文に私が記すことができるのは、日本の最も鮮明な印象のみです。

最初にちょっと脇にそれますが、おもしろいことに私が初めて日本の名称を耳にしたのはまだ子どもの頃でした。私は村の小学校の生徒だったのですが、郷土文学の授業でダゲスタンの詩人ラスル・ガムザトフの作品を習いました。ガムザトフにはあの名高い『鶴』から始まる日本を題材にした大きな連作があります。『鶴』はソビエトで一世を風靡した歌ですが、この連作の中で私にとりわけ印象深いのは『奈良の都で』と『広島の鐘』です。これらの詩は見知らぬ土地の悲しみと希望への共感にあふれており、非常に感動的に、そして冴え冴えと響くのです。

《...そしてYamabukiという名のバラが
年々歳々あたりを黄色く染め上げる
きみよ、生者らに手を差しのべ給え、
私は傍らで悲しげに警鐘を鳴らしつづけよう》

指宿”長崎鼻”にて

そして何年も経って後、私はこうして、世界的に有名な北海道大学スラブ研究センターの外国人研究員招聘プログラムで客員教授として日本にやってきました。横浜で行なわれたロシア・東欧学会に出席したとき、私はほかならぬラスル・ガムザトフの創作の旅に同行した中本信幸氏(神奈川大学)にお目にかかる僥倖を得、非常に驚きました。

私の日本滞在中のできごとで最も印象深いのは、お正月7日間の忘れがたい日々を過ごした九州旅行です。他の札幌や日本でのこと(大通り公園のビール園から始まって、富士山登山に終わる)とは違って、この旅行はまるでスローモーションのカラーフィルムのようです。雪深い北海道から亜熱帯の王国に、ヤシの木の茂る火山と温泉のくに、熊本・鹿児島に降り立ったときからすぐに驚異は始まりました。私の担当教官の松里公孝氏がこの“驚異”を企画してくれたのです。彼は親切にも熊本の田舎にある、伝統的日本の建物の実家に私を招待してくれました。その家は仏教寺院を思わせ、刈り取り後の田んぼの上におとぎ話のようにそびえ立っていました。そこで私は松里家4世代の心遣いと世話を受け、非日常的雰囲気の中で新年と新千年紀を迎えたのでした。

松里氏の実家にて
向かって左は公孝氏とその娘さんではありません、念のため

自然がいままさに生まれつつあるきざしであり、また日本人のポピュラーな娯楽である温泉は、北海道で山村氏と夫人のゆきさんのおかげで体験したことがあります。九州で私は別のもの、南国の保養所の砂風呂を初体験しました。指宿で私は熱い砂に15分間“埋められ”て、かつてない感覚を味わい、熊本では阿蘇山の煙の立った火口群をのぞきました。

しかし九州はその自然と名産の酒や焼酎でのみ名高いのではありません。九州には独特の歴史があります。この歴史の違いは土地の人たちの頑固で剛毅な性格を形作り、また家庭での家父長支配、社会での男優位といった、この地方独特の慣習を形成しました。このような権威の実例は71歳の家長である松里公孝氏の父君です。70年代にヒットしたアメリカ映画『マッケンナの黄金』には一個の鮮やかな人物像が出てきます。まだらの馬にまたがったインディアンの酋長ですが、松里氏の父君は鍛えぬかれた、情熱的で意志堅固な顔つきが彼にそっくりなのです。それでいて指導者の物腰のすき間からは卓越したユーモアのセンス、優しく清らかな心といった、賢く魅力的な人物像が見え隠れするのですが。父君と焼酎を酌み交わしゆっくりと語らうことで、日本南部の伝統のよりよき理解を助けられ、また日本のリーダーシップの本質についても熟考させられます。

九州から帰ってきた時は、まるで長い探検旅行からもどってきたような気がしました。松里氏が私のセンターでの後見人だったことはとても運が良かったと思います。彼の中では一流の学者としての威厳と才覚あふれる人間的魅力が一体となっています。これらの特質は彼を、常に物事に驚き、また人を驚かせる人間に仕立てています。私のセンターでの研究活動が十分実り多いものだったのも、日本での生活が人間的な側面でも面白かったことも、まさに彼のおかげでした。

センターでの私のそばには多くの方々がいて、いつも助けられ、お世話になりました。田畑朋子さんは私を日本料理の世界に案内してくれましたし、山村夫妻は日本の未開の自然や温泉に案内してくれました。井上、村上、家田、田畑、宇山の各氏は滞在中常に暖かく見守り、励ましてくれました。兎内氏と図書室のスタッフは私の仕事に大きく貢献してくれました。二瓶さんの親切と機転とプロフェッショナルな仕事ぶりによって私はセンターでの日常生活を気楽に難なく過ごすことができました。そしてもちろん、私の傍らには常にモスクワから来たボリス・ラーニン氏とカナダから来たルネオ・ルキッチ氏がいてくれました。

すべての方々に感謝します!

(ロシア語より大須賀みか訳)


スラブ研究センターニュース No85 目次