ヴォルガ中流域からウクライナへ(その1)

 

松里公孝(センター)

1月30日から2月27日まで、文部省科学研究費補助金・基盤研究「東欧・中央ユーラシアにおける“近代”と“ネイション”」(2000-03年度、林忠行代表)を推進するために、ロシア・ウクライナに出張した。主要な目的は、ヴォルガ中流域6共和国(タタルスタン、バシコルトスタン、チュワシ、モルドヴィヤ、マリエル、ウドムルチヤ)の地方学(kraevedenie)文献を蒐集し、また、それら民族の近代史についての論文集と史料集を準備するために現地の歴史家を組織することであった。昨年12月の出張の際、旧・右岸ウクライナ3県について同種の論文集・史料集を編纂する段取りは整えたので、これが第2弾ということになる。ヨシカララは、ヴォルガ中流域で私が行ったことのない唯一のリージョン首都であったし、ウファを訪ねたのは9年ぶりであった。

私は1998年から2000年にかけて、袴田茂樹、下斗米伸夫、宇山智彦諸氏と共に、科研費基盤研究の一環としてヴォルガ中流域民族共和国を研究した。そのときのやり残しやしがらみを考えると、「東欧・中央ユーラシアにおける“近代”と“ネイション”」研究をヴォルガ中流域でも展開することは自然ななりゆきではあった。とはいうものの、右岸ウクライナだけでも手一杯なのに、さらに戦線を拡大すると、自分自身が文書館に座る時間を犠牲にしなければならなくなるのは目に見えている。つまり本末転倒である。私はずいぶん逡巡したが、結局、プロモーター的な活動を敢えて優先することにした。帝政の民族政策は右岸ウクライナとヴォルガ中流域でパラレルな関係にあったので(スラブ研究センター研究報告シリーズNo.74を見よ)、ヴォルガ中流域の歴史研究はウクライナ史研究をも助けると考えられるし、また、昨夏、タンペレのICCEES世界大会において、ヴォルガ中流域における民族の春が継続・深化していることを実感したからである(『センターニュース』No.83の拙稿参照)。鉄道の連結が悪い6共和国首都(およびエカテリンブルク)を2週間で回るのは大変で、齢41にして旅の過酷さの自己記録を更新した感じである。それでも何とか6共和国全てについてエキスパートを組織することができたのは、いつものことながら、現地で献身的なナヴィゲーターとなってくれる同僚たち、友人たちのおかげである。


平凡社 世界地図帳より

上述のヴォルガ中流域研究の際にも痛感したのだが、攻撃的なチュルク系民族(タタルスタン、バシコルトスタン、チュワシ)、おとなしいフィン・ウゴル系民族(マリエル、ウドムルチヤ、モルドヴィア)という、よく言われる2分法は、これら民族のアイデンティティーを理解する上で不十分である。特に大切なのは、ヴォルガ中流域というマクロリージョンの空間構造を理解することである。この地域の盟主の地位を自負しているのは、言うまでもなくタタルスタンである。これに対し、チュワシ、ウドムルチヤ、マリエル、モルドヴィヤの4民族はカザニとモスクワの間に挟まれたバッファーの位置にあり、カザニ・ハン国とモスクワ大公国が対立していた頃以来、ある局面では強大な両民族に同化される危機にさらされながら、別の局面では両民族の対立の中でキャスチング・ヴォートを握ってきた。これは、こんにちのプーチン・シャイミエフ間の綱引きの中でも変わらない。こうした事情の結果、これらバッファー共和国の民族をめぐる言説はプリモルディアリスト的になり、自民族の存在理由を論証することが自民族研究の重要な課題となった。

マリの工芸品(19世紀末)

 

この点ではバシコルトスタンの状況は全く異なっている。たとえば、つい最近まで、バシコルトスタン憲法は、2国語主義を規定していない、ロシアでは希な民族共和国憲法であった。バシコルト人は、その言語がタタール語に酷似していることから、特にタタール中心主義的な視点からは民族としての存在そのものが疑われてきた(バシキール問題などというものは、タタール人を掣肘するためにモスクワによって人為的に作り出されたものだ、といった考え方は日本の研究者の一部にも影響を及ぼしている)のだから、バシコルトスタンは民族起源論の巣窟となって当然のような感じがするが、そうはなっていない。推察するに、こんにちのラヒモフ政権の特殊な性格(後述)もさることながら、バシコルトスタンがモスクワとカザニの間ではなく、むしろカザニと中央アジアの間に位置していることから、「タタール人、ロシア人、そして自民族」という3局構造の中でアイデンティティーを形成するというバッファー的心理がバシコルト人には育たなかったのではないだろうか。

民族のアイデンティティー形成に大きく影響する学術活動の点では、マリエルとチュワシが最も恵まれている。まず、ヨシカララ市とチェボクサリ市は、相互に100キロ弱の距離であるから、研究を交流し、助け合うことができる。また双方ともカザニとは130-40キロ程度の距離であるから、カザニから刺激を受け、また密かに競争心を抱くことになる。私はマリ大学の同僚たちに、「いわゆる一流大学を有するカザニが研究者を自家生産する傾向が強いのに対し、ヨシカララの優秀な学生はモスクワやサンクトペテルブルクの大学院に行って訓練されるのだ(だから我々の方が、案外優秀なのだ)」と言われた。位置的にはウドムルチヤはやや不利であり、さらにモルドヴィヤは、フィン・ウゴルの兄弟たちから空間的に隔絶されて(サランスクからチェボクサリまで、冬期はバスで10時間かかる)、むしろリャザニ州やウラジミル州などと共に、モスクワにコンプレックスを植え付けられるところの灰色ベルトに帰属することになった。メルクーシュキン政権のモスクワべったりの姿勢は、こうしたことにも規定されているのだろう。

実際、過去10年間で、地域史研究・タイトル民族研究の最も華々しい進展が見られたのは、マリエルとチュワシであろう。もちろんここでは、宇山氏が日本でも紹介したレオニード・タイマソフやアナニー・イワノフといった個人のイニシアチヴが大きな役割を果たしている。マリエル大学歴史学部の紀要を読めば、ヨシカララのような貧しいまちで何故このような雑誌が出せるのか驚かされるだろう。タンペレでも、ロシアのフィン・ウゴル学者の中でヘゲっていたのは、どう見てもマリ人であった。ウドムルチヤでは、ウドムルチヤ人がフィン・ウゴルの最も典型的なタイプであること(たとえば、ウドムルチヤ語が非常にアルカイックな言語であること、また赤毛が生まれる確率がアイルランド人を凌駕して世界最大であること等)が人口に膾炙している。そうは言ってもこんにちのロシア・フィン・ウゴル学の中心にあるのはマリ人じゃないかと私が挑発すると、「まさにそういうふうに器用にシャカシャカと仕事ができるところが、マリ人がチュルク化されている証拠なのだ。本来のフィン・ウゴルであるところのウドムルト人は、ゆーっくりと(ポステペエーンノ)発展するのだ」「チュルク化の結果としてマリ人の風貌はモンゴロイド化されており(実際、前掲のイワノフや一昨年亡くなったゼムストヴォ史家のヴィタリー・アブラーモフの顔は、日本人とほとんど見分けがつかない)、ヴォルガのヴェトナム人と呼ばれているのだ」などという答えが返ってくる。しかも、このような問題発言をする人が水準の低い学者ばかりとは限らない。

モルドヴィヤの画家スイチコフ(1870-1958)の
作品

エカテリンブルクから17時間、汽車に揺られて土曜日の午後3時にウファに着いた。タンペレで知り合ったイリダール・ガブドラフィコフがホームで迎えてくれる。この後、月曜日の午前3時にウファを発つまで、イリダールの別宅が我々の基地となる。ウファでの課題は民族史関連のものばかりではなかった。『レギオヌィ・ロッシイ』のバシコルトスタン部分を書くことになっていたセルゲイ・フファエフ(バシコルトスタンのヤブロコ組織のリーダー)が義務不履行のまま逃亡したので、それに替わる研究拠点を作る必要があったのである。この課題は予想外に順調に達成された。イリダールおよびルシャン・ガリャーモフを中心として、現地の政治学者・社会学者が協力してくれることになったからである。彼らが発表したもの・書きためてきたものに私は急いで目を通したが、このような研究者がこれまでスラ研の網にひっかからなかったことに驚かされ、恐縮した。その原因は、彼らが知っている外国語が仏語・独語であること(つまり英語ではないこと)以外に考えられない。逆に、英語をよく知っているロシアの政治学者は、(特にモスクワ在住だったりすると)西側で過大評価される傾向がいまだにある。冷戦終了後10年経って、これが私たちの到達点なのである。スラ研の外国人研究員であるアルバハン・マゴメドフが、この正月に私の故郷である九州を訪問したときのエッセイ(本号8-9頁収録)をロシアの政治学者に電子メイルで送ったため、向こうは私の親父のことまでよく知っている。そういえば、私が教授に昇進したときも、日本ではそのような出来事を祝福する習慣がないので誰も祝ってくれなかったが、ロシアの同僚は耳ざとく探知していて、あちこちでウォッカをつがれた。

イリダールも、ルシャンも、ラヒモフ体制の迫害を被った経験を持つ。1998年の大統領選挙に際して、ラヒモフ大統領は、ライバルの候補者登録を不法に阻止することによって無風選挙を実現した。バシコルトスタン考古学・民族学博物館副館長だったイリダールは、彼が関連する研究機関がこれを批判した責任をとらされて辞任した(現在、モスクワの民族学研究所のウファ支部長のような地位にある)。ルシャンは、学位論文の中でバシコルトスタンのエリートを客観的に分析したことがたたって、長い間、大学に就職することができなかった。こうした不愉快事にもかかわらず、イリダールもルシャンも実に飄々として、ラヒモフ体制をあくまで学術的視点から見る視点を失っていない。これは職業倫理のみならずダンディズムの点からも好感が持てる。

反面、近代を専門とする歴史家を組織するのには苦労した。政権にとって都合がよいであろう、民族起源論的な歴史研究でさえ過去10年間に進展していないのである。これは、ウクライナと比較しても対照的である。民族起源論は個人の人権尊重の観点からは問題があるが、それでも民族、民衆といったシンボルを強調する点で、民主主義の一要素がある。政権を正当化するために民族起源論を利用する必要さえ感じず、また民族形成に無関心なバシコルトスタンの国家性とは、要するに石油利権のクラン間での分配機構にすぎない。プリモルディアリズムがない代わりに、パトリモニアリズムで国を運営しているのである。

過去10年間、バシコルトスタンでは、バシコルト語の南東方言を標準語として定着させる政策がとられてきた。共和国の南東地方は、ラヒモフをはじめとする現共和国指導者の大多数を輩出した農村地帯である。南東地方のバシコルト人にとっては西部方言はタタール化された不純なバシコルト語にすぎないが、反面、西部バシコルト人にとっては南東方言はカザフ語に汚染されたバシコルト語である(「プリドニエプル方言とガリツィヤ方言、どちらが本当のウクライナ語か」という議論と同じ)。政権が共和国の「南東化」を追求したせいで、共和国西部では住民の「タタール化」がかえって進んでしまった。つまり、西部バシコルト人の高齢者は、たとえタタール語に相対的に近い言語で話していても、自分がバシコルト人であることを生涯疑わなかったが、その孫の世代は、テレビ・学校で自分に馴染みのない言語が「これこそが正しいバシコルト語だ」と繰り返し吹き込まれるので、自分たちをタタール人であるとアイデンティファイするようになったそうである。バシコルトスタンの言語社会学者の中には、バシコルトスタン西部で使用されている言語はバシコルト語の西部方言であってタタール語ではないと主張する人がいる。これは一見、大バシコルト主義のように見えるが、ラヒモフ政権の言語政策との関係では、むしろリベラルな主張なのである。

この一例にも示されるように、民族共和国のエスノポリティクスにおいてしばしば大きな意味を持つのは、「タイトル民族・対・ロシア人」という対立軸ではなく、むしろタイトル民族内部のサブエトノス間の関係である。草原マリ人と山岳マリ人、モルドヴィヤにおけるモクシャとエルズャ、上チュワシと下チュワシ、北部ウドムルト人と南部ウドムルト人の関係は、共和国政治を陰に陽に条件付けてきた。
(次号へ続く)


スラブ研究センターニュース No85 目次