スラ研の思い出(第11回)

外川継男(上智大学)

今年(2001)の1月になって、はじめて人づてに去年の11月7日に山本敏さんが亡くなられたということを聞いた。ご自宅で脳内出血で急逝され、ご遺体はご遺志にしたがって献体されたとのことであった。

それからしばらくの間、何度か山本さんについてこの「スラ研の思い出」で、1回分をついやして書こうかと考えたが、結局いまの段階で書くことはできないとの結論に達した。1960年代から大学紛争をはさんで山本さんが北大を去る1971(昭和46)年まで、山本さんについて思い出すことは多々ある。北大では山本さんは「敏(びん)さん」と皆から呼ばれていた。これは愛称であった。いまこの場を借りて「敏さん」こと、山本敏(さとし)先生のご冥福をお祈りする。

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北大の概算要求は毎年6月に各部局から大学本部に提出され、評議会を経て、順位をつけて文部省に出されるのが8月初めで、文部省の省議決定が8月末と決まっていた。

スラ研が初めて施設からセンターへの改組・拡充案を大学本部に出したのは、センターに昇格する3年前の1975年(昭和50年)の7月17日のことである。この日、私は小暮法学部長、今田事務長と2人で、大学本部に経理部長と主計課長をたずねて、センター構想について説明した。このときの案では専任教授4、客員教授2、助教授1となっていたが、この日の午後、西村主計課長から二度、三度にわたって、質問の電話をもらった。このような手応えは初めての経験だった。西村さんにはその後たいへんお世話になった。この人は今田事務長や、前法学部会計係長で、主計の予算係長になっていた浜中さんの先輩にあたる人物だった。

施設設立20周年記念祝賀会で挨拶する木村彰一教授

その2日前にスラ研は定例の研究員会議で、10月から就任する次期施設長候補に木村汎助教授を選出し、私はやっと4年半の管理職からまもなく解放されると思ってほっとしたところであった。本来なら私は3月末で2期つとめた施設長を木村さんに代わってもらうはずであった。しかし、この春まで3年間をモスクワの日本大使館で調査員として過ごした彼を、帰国早々施設長にお願いするのは、いままでの行き掛かりからして無理だと、われわれ専任研究員も木村さん本人も判断して、半年間私が施設長を続けることになった。そしてこの半年間に、木村さんにセンター昇格のことや、スラ研図書係の図書館との統合といった、いろいろむずかしい問題を考えてもらおうということで、異例の10月就任ということになったのだった。

またこの7月15日には、夕方6時からクラーク会館で、スラ研創設20周年と、木村彰一・矢田俊隆両教授の還暦祝賀会が開催された。春から理学部出身の丹羽学長に代わって、法学部の今村教授が学長になっていたが、今村学長と小暮法学部長もこの祝賀会に出席されて、祝辞を述べてくださった。このあと小暮部長にはスラ研のセンターへの改組のことでいろいろお世話になることになる。

それまでの1年間、スラ研内部で出、伊東両助教授と何度も作戦を練って、文部省がいっさい新しい研究所を認めないところから、大学院の地域研究科を前面に出すか、それともセンターで行くしかないだろう、しかし、前者は北大文系学部との関係から当分は実現が難しいから、実際問題としてセンター構想以外にはないとの結論に達した。先に出来ていた京都大学の東南アジア研究センターなどをのぞいて、近年できるセンターはいずれも独立したセンター直属の事務部門をもっていないが、スラ研も事務部門は将来の課題として従来通り法学部の事務に負ぶさっていくほかない。そして、研究部門だけでもなんとか振り替えと客員で形を整え、プロジェクト・チームを作って、教授である専任研究員がその中核となって研究プロジェクトを推進する体制をつくる、というのがわれわれの構想であった。

このような客員教授や兼任研究員の体制については、大学本部の幹部の事務官も十分理解していないと思われるので、7月25日には庶務課長に会って、スラ研が従来やってきた他学部・他大学の研究員を交えた研究体制と、センターになってからの構想を説明した。

このあと8月2日にS事務局長に会って、あらためてセンター構想について応援を頼んだが、局長は次年度の北大の概算要求の重点項目に「ソ連・東欧研究センター」を組み入れたが、文部省の感触も悪くないと言った。このとき私は猪木教授と岡野元審議官の名前をあげて、スラ研がけっして「アカの巣」ではないことを強調した。そしてその晩、猪木さんに電話して、センター昇格が緒につきだしたことをつたえ、文部省の大学局長と学術国際局長にスラ研のことでよろしく伝えていただきたいとお願いした。また大学課長と京大法学部で同期だった木戸さんにも電話して、同様の依頼をした。 

施設設立20周年記念祝賀会
向かって左から 外川 今村学長 鳥山元施設長 斉藤研究員

しかし、その数日後、猪木さんから木村汎さんを通して連絡があって、文部省のK学術国際局長が、スラ研のセンターへの改組は認めないと言っていたと伝えられた。そしてその理由として猪木さんは、どうもK局長はこの春北大では学長が代わって、左派の勢力が強くなったが、この時期におけるセンターへの改組は、このような学長をかついでの左派勢力によるものと理解しているらしいとのことであった。

その翌日、私は木村汎さんと丹羽前学長をたずね、スラ研のセンター構想について参考意見を求めた。これに対する丹羽さんの意見は、やはり定員増加はいまの時期には大学院を考えなければ無理であろうとのことだった。その日の夕方、私はあらためて小暮法学部長、今田事務長と相談したが、事務長から本部の事務局長も経理部長も、現在のところは、法学部付属研究施設のまま、定員振り替えで、実質的な定員増をねらう以外にないだろうとの意見だと伝えられた。先の事務局長の言った「文部省の感触も悪くない」というのが、はたして彼のリップサービスだったのか、それとも本省のK局長の判断でくつがえったのか、その辺のところは私には皆目見当がつかなかった。

結局この年度のセンター構想は、文部省の幹部の政治的判断で潰えた。このあと、法学部の今田事務長から何度か連絡があって、結局スラ研の概算要求は、振り替え1か、客員1のいずれかになるだろうということになった。私はそのいずれをとるかを、事務長に一任した。

このあと9月15日には小暮法学部長、今田事務長の3人で文部省にK学術国際局長、O大学課長を訪ね、スラ研の概算要求についてよろしくと繰り返し頼んだ。Kさんは小柄でやせて神経質そうな人だったが、一方、Oさんは大柄で太っているのが対象的だった。あとで私はこの二人がそろって京大法学部の出身だということを聞いた。8月来この件では今田事務長に一任していた私は、このとき初めて本省に出したスラ研の要求が客員教授1、助手1、設備費500万円だということを知った。

この年の10月から私は4年半つとめた施設長をおりて、木村汎さんと交替した。新たに施設長になった木村さんと私は、小暮法学部長と今田事務長をススキノの「あずま寿司」にお招きして、今年度の概算要求の件でお礼を言うとともに、今後のご協力をあらためてお願いした。

このあと木村さんはさっそく10月中旬に上京して、文部省に挨拶しただけでなく、大蔵省の主計局の文部省担当のF氏が小暮さんと東大法学部の同期で親しかったところから、小暮さんの紹介でこの人にも会って、よろしく頼んだ。木村さんは札幌に帰ってから、すぐにこのことを大学本部の幹部連中に伝えたが、これは事務局長や経理部長には効果があったように見えた。

木村汎さんが施設長をやってくれるおかげで、私には講談社から頼まれていた『ロシアとソ連邦』を執筆する時間ができ、この冬はスキーと原稿の執筆に専念することができた。

12月になって、この年のお歳暮に初めて施設長名で本部の事務局長ら3人の幹部にアルメニア・コニャックを、文部省のK学術国際局長には新巻鮭を贈ったが、K局長からは木村施設長あてに簡単な礼状が送られてきた。木村さんはさっそくこれをコピーして、本部の幹部連中に配ったが、これなんかは、とうてい私の真似することのできないところであった。なおこの時のコニャックはスラ研出入りの本屋からのお歳暮の3本で、新巻鮭はみんなのポケットマネーで買ったものだった。

年が明けてから事務長から連絡があって、本部の幹部連中はこのアルメニア・コニャックがいたく気に入って、こんなおいしいコニャックは初めてだが、これは日本でも買えるのか聞いていると言ってきた。これはできたらもう1本いただきたいということだと判断したわれわれは、ソ連商品を扱う東京の商社を通じて新たに3本購入して、新年のプレゼントにした。

ロッキード汚職で逮捕された田中角栄首相のあと、期待されて登場した三木内閣の新年度予算は、福祉関係が後退して公共投資の土木・建設関係が増えたが、就任時、多少は期待された永井学者文相も、自民党文教部会の強腰に押されて、日教組が反対する主任制の導入に踏み切った。この頃はまだ日教組の力がかなりのもので、自民党文教部会と文部省はその対策に懸命だった。永井文相の後退について新聞には、「やはり野に置けレンゲ草」かと書かれた。


スラブ研究センターニュース No85 目次