スラ研の思い出(第12回・最終回)

外川継男(上智大学)

1976年(昭和51年)の正月早々、京都の帰省先から帰ったばかりの木村施設長を中心に、4人の専任(木村、出、伊東、外川)で会議を開き、新設の助手ポストに情報・資料を担当する松田潤君を採用し、それまで内外から必要性が認められながら発行を引き伸ばしてきた『ソ連・東欧関係文献目録』と、わが国におけるソ連・東欧地域の研究者名簿の作成にあたってもらうことに意見が一致した。北大の哲学を出て、札幌大学の図書館に勤めている松田君を引っこぬくからには、任期はつけないということも一同で了解した。

1月17日には東京の学士会館でスラ研20周年祝賀会が開かれ、江口、猪木、尾形、岩間、金子教授等と、日南田教授をのぞく在札研究員が全員出席し、近況報告と懐古談にふけった。このあと、この年は初めて神戸で研究員会議を開催し、松田君の助手人事の件が正式に承認されたが、学外研究員の斉藤孝さんから、やはり助手の任期はあったほうがよいとの意見が出された。これも経験者の貴重な意見として聞いた。

4月には木村施設長から来年度の概算要求として、「ソ連・東欧研究センター」はやめて、施設に研究部と資料・調査部の2部を設け、振り替えによる3教授ポストと、助教授1の純増を求めるという案が出され、一同それを承認した。

1975年 施設設立20周年記念祝賀会
向かって左から外川 今村元学長 鳥山 斉藤

5月には木村・伊東・日南田三氏と私とで第1回の助手選考委員会を開き、経済の分野を優先し、3年から5年の任期をつけて採用する、7月の研究委員会議までに候補をさがすということが原則として決まった。このあと何回か選考委員会が開かれたが、木村さんと日南田さんの意見が合わず、伊東さんの提案でこの件は来年1月の第2回研究員会議まで、ゆっくり時間をかけて考えようということになった。

7月の札幌での研究員会議では予定通り木村助教授の昇進人事、百瀬・木戸両研究員の後任人事、助手人事の三つの選考委員会ができたが、私はそのすべてのメンバーに選ばれた。

スラ研の専任助教授の教授への昇任については、百瀬さんのとき、学術書が公刊されてはじめてそれにもとづいて教授昇進の選考を行なうということが、専任教員のあいだで取り決められ、百瀬さんのときも私のときも、それにもとづいて昇進人事が行なわれた。木村さんも近く最初の著書が刊行されるというので、教授人事が研究員会議にかけられることになったのだった。

8月から9月にかけて私はポーランドへ行き、ワルシャワ大学のポーランド語講習会に参加した。久しぶりの海外研修だった。このあとワルシャワから汽車で栗生沢君夫妻が留学している西ベルリンへ出たが、当時まだベルリンには、東西を隔てる壁がまがまがしく立ちはだかっていた。

9月23〜25日にはパリ大学スラヴ研究所で開催された「ソ連・東欧研究国際委員会」に日本代表の代理として出席したが、これは日本を出発する前に「ソ連・東欧学会」の代表理事の気賀健三教授と島大使に頼まれたからで、この第2日目に会議で欧亜協会の後進である「日本国際問題研究所」が日本代表として認められた。その後この委員会には木村汎さんが日本を代表して参加し、副会長になった。私にとっては、このときパリ大学教授で、スラヴ研究所長のジャン・ボナムール氏と知り合いになれたのが最大の収穫だった。ボナムール教授とはその後家族ぐるみでお付き合いをするようになった。

11月の初めに、国際文化会館から来年2ヵ月間ほどソ連に行く気があるなら、申請するようにとの話があった。これは国際文化会館とソ連科学アカデミー東洋学研究所の研究者交換協定によるもので、去年はその第1回目として神戸大学の木戸さんが行った。そこで来年の9〜10月に行きたいと専任研究員に伝えたところ、木村さんが10月からジョージタウン大学に留学する予定なので、10月から再度私が施設長になり、したがってソ連行きは8〜9月にしてもらいたいとの発言があった。木村さんは3年間という異例に長いモスクワでの留学から去年帰国したばかりで、また2年間アメリカに行くというのである。いったいだれがそれを認めたのか、私は半ば怒り、半ば呆れたが、とにかく来年9月末までの施設長の任期中にセンター昇格問題を、なんとか実現の方向で精一杯やってもらうほかないと思って、このときは黙っていた。

アメリカ生活の長かった木村さんは、このとき施設長になったら、自分の思うような人事ができるし、またそうでなければ管理職の意味がないと考えていたようであった。

12月17日に木村助教授の教授昇進の選考委員会が矢田・鳥山・五十嵐の3教授と私とで開かれ、私が選考委員長にえらばれ、各自が分担して論文を読むことになった。

このころ文学部のロシア文学科の大学院設置で灰谷助教授などと話し合った。文学部庶務掛長の出村さんも熱心にこの問題に加わってくれて、ロシア文学専攻がドイツ文学専攻の軒先をかりて、数年に一人修士課程に入学するといった現在の変則的な形は、勉強をつづけたいという学生にとっても気の毒なので、なんとか独立した大学院のコースを設置するように努力し、そのためにはどうすればよいか皆で考えようということになった。私がこの集まりに加わったのは、ずっと学内非常勤講師として、ロシア文学科の講義を担当してきたからであった。しかし、最大のネックは大学院設置のためのスタッフが足りないことと、中心となるべきロシア文学科の主任の福岡教授が乗り気でないことだった。

年末になって沿岸200カイリが領海として正式に認められるようになると、にわかに北洋漁業問題がクローズアップされてきて、新聞もテレビも今後は日本の漁業は収益が半分になると盛んに述べたてた。年の暮れの市場の魚屋も「さあ、もうこんな値段は今年かぎりだよ」と言って、購買力をそそった。

この年は12月に総選挙が行なわれ、クリスマス・イヴになって福田内閣が発足した。

1977年(昭和52年)の正月は木村汎さんの教授昇進のための論文を読むかたわら、ニセコ・アンヌプリで吹雪のなかをスキーをしたりした。10日には選考委員会を開き、各自が自分の読んだ分の感想を話しあった。また、この日は夕方5時から7時半まで、専任研究員一同で弁当を食べながら、近い将来のスラ研の人事構想と、東京会議を廃止して、札幌でだけ会議を開くことを検討した。札幌で会議ができれば、いままでのように年に2回と限定されることなく、札幌以外の学外研究員の旅費さえ都合つけば、いつでもできるようになるからである。

この年の東京でのスラ研の会議は1月17日から本郷会館で行なわれ、18日午後の研究員会議では木村汎さんの4月1日付けでの教授昇進が正式に承認された。選考委員長として私は肩の荷がひとつ降りた気持ちだった。

1月21日には木村施設長から概算要求で、スラ研は振り替えで教授ポスト2が認められたことが説明された。さらに法学部2階の新しい建物に急遽移転することが決まって、1月26日にまる1日かけてスラ研の事務室、研究室の引っ越しをした。

2月8日には先の本郷会議で決まった経済ポストの選考委員会が開かれ、鳥山・伊東・外川の3人に木村施設長が加わって、第1回の話し合いが行なわれた。この選考委員長には私が互選された。このとき私は全国の主なソ連経済の専門家に推薦を依頼することからはじめたらどうかと提案したが、木村さんは「今度の振り替えによるポストは私が努力して獲得したもので、適任者ならすでにいる」と言った。しかし、この施設長の意見は3人の選考委員によって認められず、このときから人事問題にたいする木村さんの態度はいっそうかたくなになった。

私は国立大学の機関の長は、あくまでもその機関の合議と多数の意見にもとづいて、事務機関と打ち合わせつつ、機関の利益を追求し、業務を遂行するものだと理解していた。しかし、木村さんはそうではなく、あくまでも機関の長として、みずから最善のことを実行することにこそ役割と意義があると考えていたようである。

2月16日の第2回選考委員会では、鳥山さんから専任の間で意見の一致をはかってもらいたいとの発言があった。結局選考委員長である私の名で約25人のソビエト経済の専門家に推薦を依頼することになり、木村さんがつよく推す人も、候補者のひとりとして考えようということになった。しかし、この依頼にたいして推薦されたのは3月末までで、わずか2名にすぎず、公募がいかにむずしいか、とくにマル経と近経が対立する経済部門は、容易なことでは優秀な研究員が採用できそうもないことが、あらためてわかった。 

4月1日付けで法学部の事務長、掛長が大幅に交替し、法学部の改組をはさんで例外的に長く事務長を勤めた今田さんが教養部の事務長になり、農学部附属農場の事務長の森さんが法学部事務長として移ってこられた。4月7日には法学部主催の今田事務長歓送会が開かれ、私もそれに出席した。翌日には今度は新事務長、学事掛長の歓迎会が行なわれ、前年12月に小暮さんのあとを襲って法学部長に就任した小川さんとともに、私もこれに出席した。

この年は4月から法学部の大学院で、去年にひきつづいて、ロシア語の原書講読を週1回担当したが、今学年は民法(比較法)の千葉さんと、東欧政治を専攻する秋野豊君の2人と一緒に3人して、レーニンのトルストイ論を読むことになった。

5月1日づけで、それまでスラ研の庶務をやっていた長手さんが歯学部にうつり、今年公務員になったばかりの川村嬢が代わりにきた。長手さんは会計の専門の佐藤安一さんの後任としてスラ研にきたのだが、庶務も会計もなんでもよくこなすことのできる人であった。スラ研に来たときには井上さんと言ったが、その後法学部の庶務の長手君と結ばれ、われわれはその結婚の披露に参加した。

ヴァリツキ教授の講演 向かって左は花田教授

5月25日には概算要求につき専任研究員の話し合いがなされ、外国人客員研究員を要求しているので、もし実現したときのために候補者を考えておかなければならないとのことで、イタリアのトリーノ大学のヴェントゥーリ教授、オックスフォードのカービイ教授、それにポートランド州立大学のドミトリッシン教授の3人をあげ、それぞれに札幌で6〜10ヵ月過ごす意向があるか、私から手紙を書いた。結局、翌年カービイ教授とドミトリッシン教授が、スラ研最初の外国人客員教授として来ることになった。

6月初めには私が学術振興会を通して招聘したポーランド科学アカデミーのヴァリツキ教授が札幌へ来て、スラ研で「スラヴ主義」について講演をした。これには文学部の鳥山教授、哲学の花田教授、経済学部の日南田教授のほか、札幌大学でロシア思想史をやっている渡辺雅司さんらも出席して、積極的に質問された。ヴァリツキさんは、このあと花田教授の西洋哲学関係の集まりでも「ポーランドのロマン的メシアニズム」について講義をした。

私はヴァリツキ教授には1年前にワルシャワで再会して、かれに車でショパンの生家などを案内してもらった。しかし、初めて会ったのは1961年にバークレーで、ヴァリツキさんがロシア・インテリゲンツィアについて講演をしたときで、この講演のあとマーチン・マリア教授は、共産圏のポーランドの研究者がソ連とはまったく違って、ウェーバーやマンハイムの理論を使って、鋭い分析をするといって称賛していた。

6月7日に木村施設長は森事務長と一緒に大学本部に呼ばれ、西村主計課長から、今年の北大のメダマとしてスラ研の「ソ連・東欧研究センター」を出すことを告げられる。6月3日に衆議院の外務委員会で木村さんが参考人として日ソ関係について意見を述べた際に、わが国におけるソ連研究の施設の少ないこと、唯一といってよいスラ研の予算の乏しいことを強調したのが効果を発揮したようであった。2年前にスラ研のセンターへの昇格を認めなかったK局長はその後次官に昇進し、先日の国立大学経理部長会議でも特にスラ研のことについてメンションしたそうだが、今回の概算要求もこのK次官のヒントがあったらしい。主計課長は熱心にセンター案を推し進めるべく、京大の「東南アジア研究センター」くらいの規模の構想を出してもらいたいと言ったとのことだった。

翌日、朝10時に全専任(といっても教授2、助教授2、助手1の5人だが)が集まり、「ソ連・東欧研究センター」の資料を作るべく、役割分担をきめた。そのあと私は木村さんと一緒に法学部の学部長、事務長、庶務・会計掛長に会って、今回の本部、本省の意向を説明するとともに、自分たちの考えを述べて、協力をお願いした。

かねてから基本構想はできていたので、研究部に言語・文学、歴史、社会、政治、安全保障、国際関係、法律、農林・水産、貿易・通商、資源開発の10部門を置き、これに情報資料部と事務部をつけるというのが、構想の根幹となった。大学院教育については、スラ研独自のものは無理なので、他の研究科の一部をになって、研究と平行して大学院教育にも携わるとして、カリキュラムも作った。大学院については伊東さんがもっとも積極的だった。

スラ研は2000年度から文学研究科の歴史地域文化学講座のなかの「スラブ社会文化論専修」として正式に発足したが、これはこの時から数えて23年後のことである。

概算要求の資料作りは事務の人にも加わってもらって、連日夜の10時近くまで仕事をして、6月11日にはようやく終わった。しかし、この日にはフロリダのT氏から、スラ研に来るのを断る手紙をもらった。このあとの専任の4人の集まりで、私から木村さんに、ようやくセンターへの昇格も目鼻がついてきたので、いまいちばん大事なこの時期にアメリカに行くのを1年でも半年でもよいから延ばしてこの問題に専念してもらうよう、再考をうながしたが、木村さんはどうしてもうんと言わなかった。

6月15日には木村さん、伊東さん、それに法学部の事務長、会計掛長と一緒に私は大学本部に行って、西村主計課長、浜中課長補佐にスラ研の概算要求を説明した。この日は北海道神宮(われわれは昔ながらに札幌神社と呼んでいた)の祭りと、夏のボーナスの支給日で、アカシアやライラックの咲く、1年でいちばんよい季節でもあった。

木村施設長は6月22日から高麗大学に出張して、その留守のあいだ私はまたしても施設長代理になったが、27日には会計より本年度のスラ研の予算案を作って出すよう言ってきた。新人の川村嬢は役にたたず、前年度、前前年度の予算を参考に、二日間ほとんど徹夜して、予算案を作った。

7月1日には木村さんがつよく推す人の業績について、選考委員会で話し合ったが意見の一致がみられなかった。4人ともいままでの業績からして採用するなら講師だが、実際に採用するか否かという点で意見が一致せず、結局見合わせることになった。翌日午後、専任の集まりで木村さんからかなり強硬な意見が出て、おそくまで議論した。7月7日には3時から8時まで選考委員会を開き、激論が交わされたが、ついに全員一致の結論がえられず、この件については否決ときまった。

7月11日から本年度の第1回のスラ研の研究員会議が開かれ、2日目の午後には木村彰一教授が「偶感」と題して、日本のロシア・スラヴ研究についての感想を話された。結論としてわが国の研究はいまだ蓄積が少ないこと、しかし、それにもかかわらず先人の業績を十分摂取する態度が見られないことを指摘されて、「謙虚なれ」と語って終わられた。

後列向って左から 外川 出 平井 百瀬 伊東 南塚 福岡
前列向って左から 鳥山 木村 斉藤 木戸

そのあとの事務会議で議長の木村施設長から次期施設長候補の案件が出され、12票対1票でふたたび私が選ばれた。7月25日には木村さんと川村さんをのぞく全員で、またも本部から言ってきた資料を作って、夕方本部に行って、西村主計課長に出した。課長の話では文部省もスラ研のセンター昇格には乗り気だが、なにぶん定員増は時節柄きびしいので、助教授3の教授への振り替えで、純増は教授1と情報資料部の助教授1がよいところだろうと言われた。先日木村施設長に「東南アジア研究センター」なみの大きな構想をと言って、せっかく苦労して概算要求を作ったのに、結局この程度に落ち着くのかと思ったが、なにぶんよろしくお願いしますと頼んで引き上げた。

1977年(昭和52年)の8月初めから9月末までの2ヵ月を、私は主としてモスクワで過ごした。しかし、8月11日から9月1日までの3週間はレニングラードのホテル「モスクワ」で過ごし、この間プーシキンスキー・ドーム(ロシア文学研究所)に通って、チャアーダーエフのマニュスクリプトを筆写した。 

9月27日に帰国した私は、翌日の朝9時半に虎の門の教育会館で木村施設長と落ち合い、連れ立って文部省へ行って、次官をはじめ大学課長らに会って、10月1日からの施設長交替の挨拶をした。このあと、今度は大蔵省に行って、文部省担当の主計官であるF氏に会い、スラ研のことでよろしくお願いした。そのあとアメリカへ発つ木村さんと新橋の第一ホテルでスラ研の事務打ち合せをして、夕方2ヵ月ぶりに札幌へ帰った。この日はダッカ空港でJALが連合赤軍によってハイジャックされ、世情騒然としていた。

10月3日から後期の授業が始まり、私は6、7人の学生を相手にバーリンのツルゲーネフ論を読むことにした。また5日からは教養部のロシア語選択生を相手にカルポーヴィッチの『ロシア史概説』を読みはじめた。14日の金曜日からは法学部の講義も始まり、今学期は月、水、金と3コマ授業を担当した。講義をやって、そのあとスラ研の施設長としても雑務をこなし、夕食を大学の学生食堂で食べて、ようやく6時すぎから自分の時間になって、講談社から依頼された『ロシアとソ連邦』の原稿の執筆をした。10月から12月にかけて毎晩帰宅が11時近くになった。ときどき大学の近くの指圧にかかるようになり、また近所の医者からヴィタミン剤と睡眠薬をもらうこともしばしばだった。

1978年(昭和53年)は、正月3日の森事務長からの電話で始まった。それはついにスラ研の長年の念願だったセンターへの昇格が、年末ギリギリの復活折衝で認められたことを報せる電話だった。新しくできるセンターの定員は教授7、客員教授1、外国人客員教授2というもので、われわれが要求した10部門、10教授というのが客員を入れれば認められた形になっていた。これでついにスラ研は法学部附属の研究施設から独立して、北海道大学附属の学内共同利用施設として、大学に直属する研究機関になることが正式に決まったのである。1月12日の法学部の教授会で、わたしは概算要求でスラ研のセンターへの昇格が決定したことを述べ、いままでの協力を感謝し、これからもひきつづき応援をしていただきたいとあいさつした。  

1月末に小川法学部長、森事務長と3人でセンター設立準備委員会について相談し、文系4学部から一人づつ教授を選出してもらい、それに法学部長、スラブ研究施設長、事務局長を加え、事務は法学部事務長と庶務掛長にやってもらうことにきめた。準備委員長には法学部長の小川教授が就任した。2月中に文学部からは鳥山教授、教育学部からは鈴木教授、法学部からは矢田教授、経済学部からは是永教授が選ばれ、こちらで準備したセンター規定案の承認、伊東助教授の教授昇進人事などを行なった。この準備委員会で、新設のセンター長にはわたしが推されたが、このときわたしはセンター長は評議員に任ぜられることと、センター長手当てがつくことをつよく希望した。これは学内におけるセンターの位置付けに関して、かねてから考えていたところだったが、後で小川準備委員長から、事務局長にしてみれば「せっかく作ってやったのに、センター長についてあのように条件をつけるのはまずかった」と、たしなめられた。また4月の評議会のあと、小川さんは、どうも学長も事務局も、スラブ研究センター長を評議員にすることには消極的なようだと聞かされた。当時の今村学長は行政法が専門で、従来の慣例を変更することには消極的だった。むしろそのあとの工学部から来た有江学長の方が素人だけに軽く考えて、スラブ研究センター長に最初は評議会を傍聴することを認め、やがて正式な評議員になる道筋をつけてくれた。

この年2月8日の施設最後の研究員会議で、小樽商大の望月教授のスラ研の移動人事が承認され、そのあと神田の学士会館の本館で、旧研究員や、岡野氏を交えての懇親会が行なわれた。

(訂正とお詫び)

「スラ研の思い出(第6回)」(2000年1月発行の『センターニュース』第80号)の中には不適切な箇所がありました。10頁、下から7行目から11頁1行目までの8行を削除いたします。この件でご迷惑をおかけしました。関係各位にお詫び申し上げます。外川継男


スラブ研究センターニュース No86 目次