スラ研イレギュラー調査報告

塚崎今日子(センターCOE非常勤研究員)

どうもあそこは出るらしい。・・・パチンコ屋の話ではない。北大附属図書館の書庫のことである。それに出るのは玉ではなくてお化けだ。「あそこはなんか変だ」とはじめに言い出したのは、京大でロシア文化を研究している歌子さんだった。ただ彼女は「ハンニバル」はおろか、「シックス・センス」も見られないという「怖いの大嫌い」人間なので、周囲はあまり深刻に受け止めようとはしなかった。次に同じ場所で、「いるはずのない人の気配」を感じたのは同僚の坂井さんだった。彼は、小さい頃はいろいろと不思議なモノが見えたそうで、今でもポルターガイストのようなものには遭うというから、霊感はかなり強いといえる。「これはいよいよホンモノか?!」ということになった。わたしたちの間に生じたこのモヤモヤとした疑惑に決定打を打ち込んだのは、以前ここの図書室に勤めていらした由香さんだった。「前からよく出るんですよ、あそこは」とキリッとした目で言い切った。

チャンス到来!・・・妖怪研究を始めて早?年、のわりには今まで一度もお化けや幽霊に遭ったこともなければUFOを目撃したこともなく、金縛りにあうには熟睡しすぎ、テケテケやトイレの花子さんに会うには年を食い過ぎてしまったわたしは、これまでずっと肩身の狭い思いをしてきたのだ。この機会を逃す手はない。恰好の調査対象を前に、身体の中の「フィールド魂」がウズウズしてくるのを感じた。

動物も大好きな渡辺さんの撮影による「アルハンゲリスクの猫」

思い起こせば去年の8月、北ロシアはアルハンゲリスク州でのフォークロア調査をなんとか終えたわたしたち(フォークロア研究者の渡辺節子さんと熊野谷葉子さん、わたし)は、埃っぽい初夏のモスクワの街を歩いていた。というよりは、渡辺さん企画の「モスクワ幽霊名所巡り」に熊野谷さんとわたしがノコノコついていったという方が正確かもしれない。渡辺さんの綿密な事前調査をもとに、作家のブルガーコフご本人が出るというブルガーコフ博物館、もとベリヤ邸で女の子の幽霊が出るというチュニジア大使館、そして「とにかく出る」というプロスペクト・ミーラの救急病院を訪れた。「訪れた」といっても何をするわけでもない。ただ、「はぁー、ここにねえ」と嘆息しながら、建物をバックに艶然と微笑む渡辺さんの写真を撮るだけだ。あれらの写真はどうしただろう・・・。

などということを考えながら、調査の段取りを練る。まずは聞き込みだ。長年図書館を利用していらっしゃるスラ研の先生がたからなら、何か有力な手掛かりを得られるかもしれない。だが、先生がた一人一人の顔を思い浮かべてみてハタと気づいた、「・・だめだっ、あまりにも社会科学系が多すぎる!!!」。わたしの長年の経験からいうと、社会科学系の人間がお化けなり幽霊を見る確率は極端に少ない(まだ理数系のほうが多いと思う)。例外的に河童伝説に囲まれた少年時代を過ごされたとおっしゃっていた、皆川先生からお話を伺えないのが残念だった。文学系のアラモ砦・望月先生も、この間の飲み会では、「北大の七不思議」のようなものについてはご存知ないとおっしゃっていた。前図書館長の原先生のところに行こうかとも考えたが、それは、「夜中の12時にポプラ並木を走っているクラーク像」について聞くため、学長室を訪ねるのと同じであることに気づいてやめた。また、センター長室へ行こうものなら、後々までおちょくられ続けるのは火を見るよりも明らかだ。このようなわけで、先生がたからの聞き込みは断念(前のスラ研セミナーで「妖怪」をテーマに発表するという、考えようによっては、お化けに出くわすよりも恐ろしいことをしてしまったので、しばらくは大人しくしていたほうがいい、という保身本能が働いていたことも否定はしない)。

そこでとりあえず現場に赴くことにした。柳田国男によれば、お化けが出るのは黄昏時だから、勤務時間のあとに行けばちょうどよい。だが、ここでひとつ問題が生じた。張り込みには欠かせない「相棒」と「差入れ」がないことに気づいたのだ。書庫の中に牛乳とアンパン(本当はメロンパンの方が好きなのだが、世の中には外せない定番というものがある)を持ち込むわけにもいかないから、差入れ(持参だが)は諦めるにしても、相棒は持ち込めるだろう。そこで、同室の相方たちの様子をそれとなく探ってみる。例の霊感パワーの坂井さんと、わたしの大好きなナマハゲについて、以前詳細に講義してくださったフロム秋田の畠山さんだ。どちらも今回の調査の相棒としては申し分ない。だが、お二人ともご自分の研究に専念されている様子で(わたしも、ある意味では、自分の研究に専念している最中なのだが)、「一緒にお化けを見にいきましょう」と誘える雰囲気ではとてもない。しかたがないので一人で行くことにした。だがそうなると、何かあった時のために身を守るモノが必要だ。妖怪が金属に弱いのは万国共通だから、図書館のお化けにもそれでよかろう。何か手頃なモノ、銀の十字架とか銅板の表紙の付いた豪華版聖書なんかがないかとあたりを見渡したが、そんな都合のいいものがあるわけがなく、見つかったのはジンギスカン用の火挟みくらいだった。しようがないので、いざという時はお経でも唱えることにする。宗旨・宗派を問わない柔軟な対応も時には必要だ。服装は、やはり「黒のタートルと細身のスラックス」のスパイ・スタイルが望ましかったが、普段と変わらぬシャツとジーンズで来てしまっていた。いまさら着替えるといっても、ロッカーの中にはトナカイの着ぐるみしかない。アレを着て書庫にこもっているよりは、このままの方がまだ目立たなかろう。こうして黄昏時を待って図書館へと向かった。

書庫に入ったらまずは場所取りだ。お化けが出る場所はたいてい決まっているものだから、ポジショニングの成否が結果を左右するといっても過言ではない。以前歌子さんが座っていたスラ研図書のあたりがよいだろう。書架から本を取ると(この場にふさわしいと思われた『ロシア俗神百科』を選ぶ)、席に着いた。人影はない。スラ研の建物を迷宮に喩えたのは前任者の楯岡さんだったが、短い階段で連絡している、幾重にも分かれた層から成るこの書庫も、「迷宮」と呼ばれる資格は十分ありそうだ。

・・・結果から言うと、今回はお化けとの遭遇はなかった。ただ、時々遠くから(時には思いがけず近くから)響いてくる足音、書庫独特の圧するような空気、電灯の届かない暗い片隅などなど、それらしい雰囲気は十分に感じられた。また、図書館に長年勤務していらっしゃる職員の方からお話をうかがうことができた。それによると、図書館にまつわる怪談のたぐいは最近は聞かないそうだが、10数年ほど前にある事件があった際には、いろいろな噂がたったという。その詳しい内容については、また機を改めてうかがいに行くつもりだ。

現場百篇。そして調査は続く。


スラブ研究センターニュース No86 目次