カラカルパクスタン共和国を訪ねて


坂井弘紀(センターCOE非常勤研究員)


 眼下に広がるキジルクム沙漠のかなたに緑のオアシスが見えた。目的の地、中央アジア・カラカルパクスタン共和国の首都ヌクスである。ヌクスには、ウズベキスタンの首都タシュケントから小型旅客機でおよそ3時間で到着した。1999年のはじめての訪問に次いで二度目のカラカルパクスタンである。ヌクスのソビエト的な町並みも人々の素朴さも二年前と変わっていなかった。
 「カラカルパクスタン共和国」は一般にはなじみのない名であろう。アラル海南岸、キジルクム沙漠に広がるカラカルパクスタンは「共和国」を名乗っているものの、ウズベキスタンに包含される名目上の国で、そこに独自の主権や外交権はない。歴史や言語が異なる地に置かれた文化的自治のみが許された「共和国」である。実際、カラカルパクスタンの主要民族カラカルパク人は、言語や歴史、習俗の面においてウズベク人とは異なった特徴をもっている。

パンと塩で歓迎を受ける

 今回私がカラカルパクスタンを訪ねた目的は、「叙事詩エディゲとその研究に関する国際会議」に参加することである。同会議は、昨2001年9月5・6日に、首都ヌクスにおいて、ウズベキスタン学術技術国家委員会やユネスコの後援を受けて開催された。ウズベキスタンでは9月1日が独立記念日となっていて、この前後に多くの様々な関連行事が開かれたが、とりわけ2001年はソ連崩壊とそれにともなう新国家の独立から10年となる記念すべき年であり、「叙事詩エディゲとその研究に関する国際会議」もこれを記念した行事の一つとして開催された。この会議は、1997年に行われた「叙事詩『40人の娘』に関する国際会議」に次いで、カラカルパクスタンで行われた二回目の国挙げての一大イベントとなった。
会議のテーマとなった英雄叙事詩「エディゲ」とは、14世紀後半から15世紀前半のキプチャク草原を舞台に活躍したエディゲを主人公とした作品である。エディゲは、モンゴル帝国の後継国家ジョチ=ウルス(いわゆるキプチャク=ハン国)のハンであったトクタミシュのライバルで、長年に渡って彼と熾烈な争いを繰り広げた。トクタミシュとの戦いに勝利したエディゲは、彼に代わってキプチャク草原における実権を握り、やがて「ノガイ=オルダ」といわれる国家を興すに至る。このノガイ=オルダは以後、17世紀はじめまで中央ユーラシアの歴史に大きな役割を果たした。叙事詩「エディゲ」では、エディゲの幼少時代、トクタミシュと彼との対立、ティムールとの同盟、エディゲと彼の息子との葛藤、エディゲの死などが謡われる。この作品は、カラカルパクのみならず、カザフやウズベク、カザン=タタール、バシュコルト(バシュキール)、クリミア=タタールなど、西シベリアからクリミア半島にいたる広範な地域に伝えられており、中央ユーラシアのテュルク系諸民族の代表的作品となっている。
 会議の開会式はヌクスの中心にあるベルダク名称国立音楽ホールで、カラカルパクスタン共和国大臣会議議長やウズベキスタン科学アカデミー言語文学研究所所長などの挨拶で幕を開けた。ホールのほとんどの席はヌクス市民によって埋められていて、人々の関心の高さを示していた。報告はフォークロアセッションと歴史セッションとの二つに分かれて行われた。主な論題は、叙事詩「エディゲ」の起源・伝播に関する問題、叙事詩の表現様式や類型・ジャンルに関する問題、エディゲに関する歴史学上の問題などである。ほとんどすべての報告は、叙事詩「エディゲ」を題材としたものか歴史上のエディゲを扱うものであったが、私は、エディゲの興したノガイ=オルダの衰退期や彼の子孫たちにも注目すべきであると考え、あえてノガイ=オルダ末期のエディゲの子孫、オルマンベト=ビー(-1597)が表れる叙事詩作品と彼の時代との関係についての報告を行った。カラカルパクの民族形成に深く関わる時代を取り上げたこともあり、聴衆の反応もおおむね好評であったようで、私は胸をなでおろした。報告者はカラカルパク人とウズベク人が多く、カザフ人など中央アジア諸国の研究者が大部分を占めたが、私の他にもトルコやドイツなど海外からの研究者も参加していた。報告集には、ロシアやバシュコルトなどから寄せられた数多くの論文が収録されていたが、実際にヌクスを訪ねた人は多くはなかったようである。また報告に用いられた言語は、カラカルパク語、ウズベク語、カザフ語などのテュルク語がほとんどで、これにロシア語が多少使われる程度と、国際会議をうたうものの現地に重点が置かれたものとなった。私は不得手なカラカルパク語で報告したのだが、聴衆のほとんどが現地の人々であったため、より多くの人に聞いてもらえ、結果的によかったと思った。

叙事詩「エディゲ」を語るジュラウ

 私を含め、カラカルパクスタン国外からの招待者は国賓級の扱いを受けた。移動はパトカーの先導付きで、宿泊はカラカルパクスタン大統領(カラカルパクスタンにも大統領はいるのである!)公邸敷地内にある迎賓館、食事はカラカルパクスタン料理のフルコースである。ところが実際にはこれらは必ずしも快適とはいえぬものであった。宿泊した部屋は地下から蚊が湧いて出るらしく、なかなか眠ることができない。灯をつけて何匹か殺すがしばらくするとまた現れる。これを何度も繰り返したが、結局ほとんど眠ることができなかった。はたいた蚊の数も200を越えたところで数えるのを止めてしまったが、相当なものであったはずである。またカラカルパク料理は基本的に他の中央アジア料理と大きな違いはなく、決して不味くはないのだが、毎日毎日、羊の水煮とピラフ、カバブ(焼き串肉)のみが繰り返されるのである。その上、毎食何本ものウォッカやコニャックを空けなくてはならない(もちろん私一人でではないが。念のため。)極めつけは、遠来の客人に供される「水煮の羊の耳」で、沖縄料理のミミガーと似て乙な味であると思ったのも束の間、口の中に凝縮した動物園の臭いが充満する。拍手喝采を盛大に受けたが、これは「勇気」を称讃したものであったのだろうか。目の前にスエード状の羊の耳が半分、生々しくいつまでも横たわっていた。
 さて、報告の他にもいくつかの関連行事が行われた。その最たるものは、カラカルパクスタン領内にある遺跡見学である。カラカルパクスタンには、ホラズム地方を中心に数多くの古代遺跡が遺されている。それらのうち、ミズダフカン遺跡、シュルプク=カラ遺跡、エルリク=カラ遺跡、トプラク=カラ遺跡、アクシャハン遺跡を訪ねた。中でも紀元前から遺されるトプラク=カラ遺跡は砦や城塞からなる都市遺跡で、規模が大きく保存状態も良いため多くの観光客が訪れるスポットとなっている。またアクシャハン遺跡は現在も発掘が続けられ、私が訪ねた時もオーストラリアの考古学者を中心に作業が行われていた。さらに関連行事として、フォークロア=アンサンブルや舞踊、現代歌謡などの民俗コンサートも行われた。もちろん、ジュラウ(叙事詩語り)による叙事詩「エディゲ」の一部の吟誦も行われた。とりわけ目を引いたのは、エセムラト=ジュラウという著名な語り手の孫が祖父に倣いジュラウとして叙事詩を語っていたことである。この青年ジュラウが弦楽器コブズを伴いながら「エディゲ」を語る様は、祖父の才能を正しく引き継いでいることを示していた。もっとも彼は、現地では現代カラカルパクポップスの歌い手としても知られているようで、コブズ片手に叙事詩語り特有の「だみ声」で三人組ユニットのリードボーカルとしてもステージに立った。これには多少面食らったが、伝統的な叙事詩語りが新しいかたちで現代に溶け込んでいることに安堵したのも事実である。
 今回の会議に対する現地の反響は大きかった。会議については、テレビで特別番組が放映されたほかに、ラジオや新聞、雑誌でも大々的に報道された。これは、カラカルパクスタンで二回目の国際会議であり、また日頃大きな行事が開催されることが少ないためもあろう。拙いながらもカラカルパク語を話したためか、私もテレビとラジオ、新聞の取材をいくつか受けた。また外国人がカラカルパクの民族文化を研究していることが珍しいのか、国立ヌクス大学で学生たちを前に一言話すよう依頼された。彼らよりも些か詳しいのは事実であるが、大勢の学生の前でカラカルパクの文化について話すのは少々照れくさいものであった。しかし、話を聞く彼らの真剣な表情は今でも忘れることができない。
今回の会議では自分の考えを開陳できた上、多くの研究者と意見や情報を交換することができ、たいへん有意義であった。前回の訪問では見えなかったカラカルパクスタンの現実も見ることができた。きっとまたこの地を訪ねたいと思ったのは、沙漠の夜空に広がる「天の川」の光を浴びたからでも、大学で女子学生たちの猛烈なサイン攻めに遭ったからでもなく、独自の文化を誇りながらひたむきに、そしてしたたかに生きる人々の姿に心打たれたからかもしれない。


スラブ研究センターニュース No88 目次