遅れてきた中年のカメネツ・ポドリスキー市滞在記

松村 岳志 (秋田経済法科大学)

佐野学先生の『露西亜経済史研究』や荒畑寒村先生の『自伝』に親しんで、ソ連に憧れ、早大露文科の門を叩いて幾星霜。 いざあこがれの「労働者の祖国」にやってきた時には、既にソ連は崩壊していた。 以下私が人口 10 万ばかりのウクライナの地方都市カメネツ・ポドリスキーで感じたことを述べてみたい。

郊外の要塞

同市訪問の目的は同市の文書館の文書、とくに松里公孝氏が発見した大量のインヴェンターリ (領地台帳) の閲覧であった。 しかし、なにしろ私にとってはヘソの緒切って初めての大陸渡航である。 したがって、私はさっさと文書の写真撮影をすませ、あとは一目散の随徳寺。 こんな田舎町は離れてゆっくりキエフで物見遊山と決め込んでいた。 だが、私を待ち受けていたのは予想だにしない運命であった。

まず文書館である。 建物の正面は旧参謀本部を彷彿させる重厚な作りであったが、裏にまわると壁が相当に剥落しており、半ば廃墟と呼んでもおかしくないような有り様であった。

廃墟と言えば街そのものが廃墟の集積に近い。 広告の看板が少ないだけに余計建物の酷さが目につくのである。 同市の新市街はソ連時代に作られた団地が立ち並ぶ近代都市であるが、どの棟も壁などは相当長い期間手入れを怠っているようである。 町並みの所々には屋根が落ち壁が崩れた本物の廃墟があり、狐狸の住処となっていた。 旧大陸をはじめて訪れた私にとっては、この光景は驚嘆すべきものであった。 20 年前に訪れたメキシコ合州国の地方都市プエブラのスラム街もここまで悲惨ではなかったと記憶する。 若年のみぎり、はじめて北米より帰国した際にも、北米の家屋の外見上の清潔さと本邦の家屋の外見上の不潔さとの対比に驚いたが、あの時と全く同じ感想を持った。 これはおそらく、経済水準が異なる国々の間の国境を越えた時に誰しも感じることなのであろう。 人はある一定の経済水準で暮らすようになるまでは、家屋の外装に気をつかわないのであるまいか。 10 年ほど前にあるスウェーデン人が、東欧からの移民は家屋の外装に気をつかわなくて困る、と若干の差別感情を匂わせながら語っていたのを思い出す。

スモトレチ川にかかる橋のたもとから
旧シナゴーグをのぞむ

なお、畏友松里公孝氏が既に本ニューズレター (75 号) に書かれているように、スモトレチ川の川中島にある旧市街は美しい。 特に朝が良い。 スモトレチ川にたちこめる霧の中から、朝の陽光を浴びて薔薇色に輝く寺院の鐘楼、楼閣や尖塔そして旧市街の町並みが、ゆっくりと姿を現す光景は圧巻である。 川中島の周囲は耶馬渓か『指輪物語』のイセンガルドを彷彿させる深さ 20 丈ばかりの断崖絶壁である。 そしてこの絶壁にかかる橋は三つしかない。 川そのものは大して水もないが、川の両岸の谷まで含めると川幅は優に 30 丈はあり、通常の架橋戦車による架橋は困難である。 したがって、一旦危急の際には橋さえ落としてしまえば、旧市街への進入は不可能になる。 さらに橋の上を掃射するのに恰好の位置には、鉄砲狭間を穿ち、数丈の厚さの石壁を持つ櫓が聳えている。 その一つにはかの大帝ピョートルがくぐったという門が現存している。 野砲の一個中隊が夜っぴて火を吹いても、この都市を陥落させるのは容易なことではあるまい。 加えて旧市街に立ち並ぶ 17 世紀から 20 世紀にかけての中層低層の家屋群は、いずれも一尺あるいは二尺の煉瓦の壁を備えており、剣付き鉄砲や小銃弾くらいでは貫通しそうにない。 しかも多くの家屋は地下室を備えており、なかには地下道で連結された家屋もあるという。

ウクライナの多層建築物がいずれもこのような造りであるならば、かの大祖国戦争に際して、この地域がキャッとも言わずに独軍の手中に帰したことは理解しがたい。 なんとなれば、家々の窓の一つ一つに狙撃兵を配すのみで容易に都市を要害に仕立てることができるからである。 このような要害を陥落させるためには野砲か臼砲で全ての家屋を破壊し、地下室を塞ぎ、守備隊を全滅させる必要がある。 もしこのような都市に旧日本海軍陸戦隊か八路軍の一個中隊が籠城しておれば、彼らはおそらく数週間にわたって文字通り最後の一兵に至るまで戦ったであろう。

既出の城塞の内部
大祖国戦争を戦いぬいた
76 ミリ野砲はいまだに健在!

ところがカメネツの旧市街は全壊していないのである。 かなりの部分は独軍の砲爆撃によって、おそらく 105 ミリ野砲によって破壊されたということであるが、古い建築物も相当に残っているのである。 十八世紀にポトツキー伯爵家が建立せしめたという加特力寺院も、ポトツキー家の屋敷も残っていて現に使用されている。 また、橋の一つのすぐ対岸にあって、橋への進入を外側から防ぐ役割を有する十六世紀の古い城砦は全く無傷である。 独軍のソ連侵攻の際に、ブレストの古い城に立てこもったカーゲーベー特殊部隊が相当激しい抵抗力を示して立派に散華したことを考えると、このような城砦を無傷のままで独軍の手に渡してしまったソ連軍の戦意を疑わざるをえない。 かの大元帥スターリンは、戦後独軍の虜囚たる身から解放された自軍の敗兵を懲罰のためそのままシベリアに送ったというが、これも実にうべなうべしである。 戦争直前の赤軍のモラールの低さは異常なものであったと考えざるをえない。

もっとも、これは文化の違いかもしれない。 私が案内を乞うた現地人某氏は、かの大スターリンが先次大戦に際して発した「一歩も退くな!」、という命令を、未だに愚劣なものであると考えていた。 「一歩も退くな!」。 私の知る限りでは、旧陸海軍においては、こんな命令はごくありふれたものであったし、将兵はふつう撤退あるいは「転進」を命じられないかぎり、一歩も退かずにその場を死守したものである。 それ故にこそ我々は、ミッドウェイでも、ガダルカナルでもサイパンでも、多数の同胞を失ったのである。 「一歩も退くな!」が愚劣な命令であったということになると、私の祖国は顛狂院のごときものということになろう。 ウクライナ人が愚劣なものと見る「一歩も退くな!」、という命令を発したスターリンは、やはり松岡外相の見立て通り、アジア人であったのであろう。

ところで、家屋そのものの外装はともかく輪郭は立派なものであるが、厠のひどさには閉口した。 食事を控えた読者はここで一時本稿を読むのを中断されることを勧告する。 私は今回のウクライナ訪問に際し、尊敬する探検家ヘディンが、中央アジア探検に際してマルコ・ポーロの『東方見聞録』を持参したという故事にならって、案内書として荒畑寒村先生の自伝を熟読したが、その中で特に興味を引いた部分があった。 それは、モスクワのホテル・ルクスのコミンテルン関係者を含む客たちが、冬の寒さの中での排便に際して、臀部を冷たい便座に触れさせるのをいやがって、便座の上にクツで乗ったため、或いは便座に大便が付着し或いは便座が破損し、ついに大便用便器の便座が全て除去されてしまったという部分であった。 日本の快適な暖房便座に座してこの部分を読んだ際には、私はただ幾分かの面白みを感じたのみであったが、実際に当地に来て厠に入ってみたら恐れ入谷の鬼子母神。 大学や駅の厠は荒畑先生が書いた通りの状況であり、文書館の厠は更に陰惨な状況を呈していた。 私も旧世代のロシア史家の例にもれず、日雇い、貿易商の手代、守衛、給仕と様々な職を転々とし、ロサンゼルス、シカゴ、プエブラ、歌舞伎町、さらには××と流れ流れて、多少は世間を知っていたつもりであったが、ここにきて私の前に新しい世界が開けた感がある。 ともかく、ここの厠は絵にも描けない物凄さである。

まず、便所の床に直接便座がついている。 あるいは、コンクリの床に丸い穴があいているのである。 したがって、我々は股引きと下着を膝まで下ろした後、床に尻をついて、この穴に臀部をはめ込んで排便するようになっているのである。 しかしながら、寒村先生が書いておられる通り、人は臀部を冷たい便座に触れさせるのをいやがって、所謂「ウンコ座り」の態勢で、しかも、糞便をどこに落下させるか必ずしもきちんと考えずに排便するのである。 そのため、この穴の周辺には大量の便が落ち、付着している。 そのため、排便に際しては細心の注意を払わないと、衣服や靴や臀部が他人の便に触れる恐れがあるのである。

このような惨状の原因は、要するに、自分の後に便所を利用する他人への思いやりが欠如していることにつきるが、このような公共精神の欠如は或いはスラヴ人或いは東スラヴ人に独特のものなのかもしれない。 メキシコの貧民窟では、アパート全体で一か所しか厠がないという事例もしばしば経験したが、そのたった一つの貧民窟の厠の方が、文書館の厠よりも遙に清潔であった。 また、メキシコでは公園に煙草の吸殻など捨てると大騒ぎになったものだが、ここでは、吸殻の投げ捨てなど誰でもやっていた。

ところで私は、同市に到着後わずか三日目にもう空き巣氏の訪問を受け、文書撮影のために持ち込んだ最新型のデジタル写真機と編集用の帳面型個人用電脳、更には日本円数万円を盗まれてしまった。

早速に被害届けを出すために民警屯所に赴いた。 ここではじめて私は火器を携帯した人間にであった。 申し遅れたがウクライナでは滅多に銃器を見ない。 20 年前に訪れたメキシコの地方都市では、一寸したスーパーの前にもベルギー製の自動小銃 (FAL) を重そうに抱えた兵隊さんを見かけたものだし、農民組合に加入している農家なら、大体どこでも「地主との武闘のため」と称しつつ、実際にはウサギの密猟のために、米軍払い下げの M1 ライフルかウェンチェスター銃を大切そうに仕舞い込んでいたものである。 しかし、ここでは警官以外の人間が銃を持っているのは一度として見なかった。砲はよく見かけたが、それは台座の上に鎮座ましました T34 中戦車か SU100 突撃砲にくっついている奴であって、実用品ではなかった。

カメネツ文書館オレグ・カチコフスキー氏、
および同オリガ・シブニコ氏と

いずれにせよ私がウクライナにて初めて銃を見たのは民警屯所を訪れた時である。 分厚い防弾鎧を着込んで物憂げに突っ立った守衛殿が、銃床を切り詰めてさぞかし集弾率の悪そうな突撃銃 AK47 をぶら下げていたのである。 使い込まれた武骨な銃口はてらてら光っていかにも不気味であったが、面白いことに槓棹は引いていなかった。 これではすわ敵襲となっても物の役には立たない。 AK47 の槓棹の重さには定評があるのである。 これなら短銃か機関短銃を持っていたほうがはるかに効果的であろう。 ついでながらソ連の白兵戦用火器は機関短銃 PPSH41 にしてもトカレフの短銃にしても、現代でも使用に耐えるばかりか、極めて安価な非常に素晴らしい兵器である。 いずれにせよ、守衛殿の突撃銃は虚仮威しに過ぎなかった。 銃を滅多に見ないことといい、守衛殿が虚仮威しの銃を下げていることといい、この街の治安の良さを証明するものであると言っても過言ではあるまい。

自動小銃の話に終始しても仕方がないので話を先に進める。 ともかく私は、民警屯所で、自らの仕事を犠牲にして通訳の大役を引き受けてくださった畏友松里公孝氏を介して被害届けを出した。 申し遅れたが、私はウクライナ語はイエス、ノーも知らないし、ロシア語も完了体と不完了体の区別がまだよく判らない (私がロシア語の勉強を始めてからまだ 20 年ほどしかたっていないのである) ので、自分一人ではバスにも乗れないし、タバコも買えないのである。 そんな有り様なので、若い刑事さんは、松里氏がしばらくしたらキエフに赴くことになっており、私は一人この街に取り残されるのだ、という予定を知ると、「このオッサンほんまに日本まで一人で帰れるんかいな」と心配してくれた。 もちろん、このエッセイを書いているのであるから私は確かに日本に帰れたのである。 もっとも刑事さんの言った通り、一人ではなかったが。

その後、カメネツ大学歴史学部のヴァジェノフ教授に教えを乞うた際にも、言葉では非常に困った。 私は青年時代に、1830-31 年の右岸ウクライナにおけるポーランド反乱を扱った同教授の得業士論文要約を、当時のレーニン図書館を通じて借り受けそれこそ舐めるように読み全訳を作成したので、教授のお元気そうな、ただし身体強大にして容貌魁偉なるお姿を望見した時には、万感胸に迫り思わず目頭が熱くなるのを覚えた。 私の感激には伝染作用があったものと見え、教授は私を学生諸君に紹介したい、と宣った。 そこで小生は髪をなでつけ、不精髭をそり、買ったばかりの眼鏡をよく磨いて、約束の日時に教授を再度訪問した。 すると待っていたのは 100 人になんなんとする学生諸君であった。 どうも小生はスピーチをすることになっていたようであった。

それからの小半時は、世界で最もロシア語のできないロシア史家たる私の面目躍如たるものがあった。 私は演壇に引っ張りだされるや否や、落ちつきはらって問うたのである“?No hay alguin quien habla español?” (スペイン語出来る人誰かいませんか)。 すると、水之江滝子似の娘さんが手を上げてくれた。 彼女の通訳のお陰でなんとか時間を潰すことができた。 それにしても日本人のロシア史家がウクライナに来てスペイン語で話をするようになったとは、まさに国際化の時代を象徴するような出来事である。 もっとも私には日本社会のデラシネ化としか思えないが。

なお、小生らが講堂に入るや否や、学生諸君が新兵よろしく起立したのには驚いた。 学生の教師に対する態度は、アメリカでもメキシコでも全く友人同様のものであったし、日本では給仕か奴僕に対するようなものであるが、ここはまるで古き良き昭和時代のようである。 日本とは全く違った世界である。

フメリニツキー工科大学での講義

全く違った世界であると言えば、建築物の内装資材などは規格化されておらず、現場の職人があちこちいじくってはめこんでしまうようである。 レムの『エデン』やニーヴン&パーネルの『神の目の小さな塵』といった空想科学小説が現実になっているのである。

また、若者の服装など見ると、男はあくまで男らしく、女はあくまで女らしい。 男子は頭髪を短く刈り込み、ベルトをきりっと締めて街を闊歩し、女子は繊維製品が不足しているのではないかと思われるような、いささか大げさに言えば、1920 年代の『ウィアードテールズ』や『アンノウン』誌の表紙を飾っていた豊満痩身の美女たちそっくりの恰好をしているのである。 かつて半村良は空想科学小説というものを、人間の精神の可能性を測るものとして捉えようとしたが、旧ソ連諸国こそ人間の精神の可能性が測られる舞台になっているのではあるまいか。

なお、これは旧ソ連諸国の長所の一つであろうが、学生自治会などいう学外暴力団体の手先機関は存在していない模様で、その限りでは教員たちの自治はしっかりしているように思われた。 これはカメネツ大学でのスピーチの後、一週間ほどして訪れたフメリニツキー工科大学でも同様であった。 なお、カメネツ大学歴史学部は、アルヒーフが徒歩 1 分の位置にあるという地の利を生かして、キエフ大学よりも学士院会員が多い、と自負していた。 ただし、教員の俸給はキエフ大学の半額だということである。

また、週末に訪れた市場では、さらに違った意味で、この国の特殊性を知ることができた。 市場の匂いはメキシコの田舎街の市場と同じであった。 食べ物の匂いや汚物の匂いが混ざったあの独特の匂いである。 赤ん坊を抱えた乞食、老婆の乞食、これも懐かしい光景であった。 もっともみんな白人なので、少々たじろいだ。 旧ソ連とはおそらく、世界中で最も貧しい白人が居住している地域ではあるまいか。 そういう国だったからこそ、開発独裁実現のために社会主義革命を起こす必要があったわけである。 ソレルが言うように、この革命のための偉大な神話がマルクス主義であった。 マルクス主義の重要性は、まさにこの神話であるという事実のうちにある。 そして、旧ソ連諸国が、開発が十分進まぬうちに早くも 1980 年代に民主化を進めて折角の一党独裁体制を潰してしまった以上、21 世紀初めには再び第三世界に復帰したのはサルでも判る道理である。 また、社会主義体制を止めたのだから、社会福祉は駄目になるのに決まっている。 なぜなら、少なくとも 1980 年代までは、地球上の大部分の人々にとって、社会主義とは自由や平等や解放のことではなくて、学校や病院にロハで行けるようになるということだったからである。 そうでなければ皇道派の青年将校たちがソ連に注目するなどということはありえなかったであろう。 「社会主義=ロハの病院と学校」という、この重要な事実を知らなかったのは、一部の先進資本主義国の自称マルクス主義者であって、彼らは、マルクス主義を「人間の解放」とか言うものへの道しるべだと本気で思い込んでいたのである。 ともかく、ソ連が崩壊したということは、要するに国民が無料の教育や医療から解放されるということである。 こんなことを本気で喜ぶのは××か変態である。 だからこそ、私が短い滞在期間中に小声で旧ソ連国家を歌えば、しばしばそれに唱和する声が、大方は年老いた婦人の声であったが、いずこからともなく聞かれたのである。

なお、市場の中ではスリや置き引きが多いということであった。 これはメキシコでは全く経験しなかったことである。 メキシコでは、通勤のバスや地下鉄においては銃を持った者も含めて物取りや強盗がよく出没するということであったし、実際私も大枚 100 ペソの入った財布をバスの中で掏られたが、メキシコの市場では特に物取りが多いということはなかった。 理由は単純である。 市場は安心して買い物ができるところでなくてはならないので、市場関係者が治安に気を配っている上に、市場に大金を持ってくる人はいないからである。

カメネツ文書館職員オリガ・シブニコ氏の
御家族のみなさんと

ところが、この街の市場ではスリや置き引きが多い。 しかし、この国でもやはり市場関係者は市場内での窃盗を歓迎しないはずであるし、人々がそれほど多額の現金をもって市場にやってきているとも思えない。 とすれば、このことが示唆しているのは、犯罪者が危険を省みずに窃盗を行うし、また、得られる現金がたとえ小額であっても窃盗を行うということである。 換言すれば、犯罪者がコスト・パフォーマンスやリスクをきちんと考えずに仕事をしているということである。 彼らが窃盗を行うのは、それによって生計をたてることができるからではなく、単にそれが可能だからである。 つまり、窃盗が生計手段として確立していないのである。 したがって、盗んでも意味のないようなものが盗まれることもあり、非常に始末が悪い。私の友人もよく物が盗まれるとこぼしていた。 銃が自由に手に入らないのが救いである。 なお、某氏によれば、一部の腐敗した役人に支払う賄賂の金額も相場が定まっていないということで、まことに始末が悪い。 腐敗するならしても良いが、相場を定めてから腐敗してもらいたいものである。 少なくとも 20 年前のメキシコの警官は公僕としての意識をちゃんと持っていて、賄賂にいくら払うことになっているかはきちんと説明してくれたし、賄賂を支払うとちゃんと「ありがとう」を言ってくれたものである。

もっとも生計の手段として確立していないのは、窃盗と収賄のみではない。 ホテルが酷いのである。少なくとも 20 年前のメキシコの田舎街よりははるかに酷い。 人口 8 千のイスーカル・デ・マタモロスでも、人口 1 万 5 千のセラヤでも、メキシコのホテルは大体どこでも水もお湯もよく出た。 トイレの水もきちんと流れた。 しかし、人口 10 万のこの街で最も良いと言われる某ホテルではまともにお湯が流れないということである。 ホテル業のみならず、観光業そのものも確立していない。 カメネツ・ポドリスキー市には、例の城砦や各種教会を初めとする観光資源が確実に存在しているのに残念である。 夏などにはポーランド人の観光客がバスを連ねてかつてのレチ・ポスポリタの栄光に涙するためにやってくるということであるが、みやげものを売っている店も大して見かけないし、売っている品物も、今一つである。

ついでながら、市場でも、街路でも、立ち話をする人はメキシコよりずっと少ない。 立ち話はするが、一時間も二時間も立ちっぱなしで、話だけしているということがないのである。 つまり、だいぶ個人主義的な感じである。メキシコの場合、日本から来た学者がいるなどということになると、訪問者が絶えず、パーティーへの招待はひきもきらないのであるが、ここではそういうことはなく、落ちついて仕事に励むことができた。 約束や提案が必ず実行されるのもメキシコとは大違いであり、この意味ではビジネスはやりやすい土地柄と言えよう。 人は、夕方には家族だんらんの時間を迎えるが、その楽しみ方は節度あるものであって、近所迷惑になるほど騒ぐことはない。 もっとも、たいがいの家の壁は厚いし、窓は二重なので、騒音はそれほど気にならない。東京や神奈川に住んだことのある身としては、ありがたい静かな夜を迎えることができた。

以上のような美しくも不思議な街で私は一ヵ月を過ごし、数々の貴重な資料を筆写することができた。 この場を借りて、この美しい街に私を導き、切符の手配から通訳、そして警察との折衝まで全部引き受けてくださった北大スラブ研究センターの松里公孝教授、文書館での仕事で様々な便宜をはかって下さった上、宿泊先まで紹介してくれた文書館の職員の皆様、そして、出張資金を提供した秋田経済法科大学に心よりの感謝を捧げたい。


スラブ研究センターニュース No89 目次