スラブ研究センターニュース 季刊 2002 年夏号 No.90

 

わが愛しのモスコーフスキー

岩下明裕 (センター)

1996 年 8 月 29 日   黒龍江省   綏芬河

ロシア・中国国境付近の概略図

意外に思われるかもしれないが、私と極東ロシアのつきあいは古くない。 中国黒龍江省から国境を越え沿海地方に足を踏み入れたのは 6 年前のことである。 沿海へのゲートウエーたる綏芬河を初めて訪問したのは前年の 95 年夏、中国の切符販売はまだ電算化されておらず、入手が困難な時代であった。

今では誰もがバスや鉄道で往来できる綏芬河とパグラニチヌィの国境だが、当時、第三国の人間がここからロシアへ入国できるのかどうか、確たる情報は乏しかった。 時折、通関不能になるという怪情報も飛び交った。 私は、かの秋野豊氏も折り紙をつけていた旧ソ連地域個人特殊旅行手配の最高峰 M 旅行社と相談しながら、ロシア側への入国を計画した。 ウラジオストクのホテルも M 旅行社を通じて予約した。

いまではどこでもある国際電話 (写真は黒河)

ハルビンからの夜行列車で早朝、綏芬河についた私は、国境越えを翌日に控えて気が変わった。 せっかくここまで来たのだから、急いでウラジオに向かう必要もない。 明日はゆっくりパグラニチヌィを散策して、ぜひウスリースクに泊まろう。 私はウラジオでのホテル一泊分をキャンセルできないかと思い、M 旅行社のウラジオでのロシア側カウンターパートにあたる S 社に国際電話をかけた。 日本まで 1 分 100 円程度で国際電話がかけられるようなカード式公衆電話は、まだ存在しない。

「公用」なる看板を掲げた店から電話をかける。 雑音が多く、声が小さく、聞こえない。 先方に話が伝わるまで (と私が思うまで) 9 分もかかった。 ロシアまで 1 分 33 元。 好奇心で集まってきた中国人の見守るなか、隣街へのこの電話に 3500 円 (270 元) も請求された。

1996 年 9 月 1 日   ウラジオストク   S 社

前夜なんとかホテルにたどり着いた私は、早朝 S 社に向かった。 S 社のボスの名前はセルゲイ・モスコーフスキー。 丸顔でギョロ眼。 みるからに一癖ありそうな人物である。 電話でキャンセルを頼んだはずだとホテルの未使用証明書を要求する私に対して彼は不機嫌きわまりない顔をして言い放った。
「これにサインしろ」。
紙にはこう書かれてあった。 「私は S 社に対するあらゆる請求権を放棄します」。

ホテルの部屋に戻り、パンフレットをみると一泊は 40 ドルにも満たなかった。 M 旅行社に一泊 15000 円くらい払った記憶がよみがえった(1)

1998 年 7 月 14 日   パグラニチヌィ   車中

次にウラジオを訪れたのは、宮本信生大使を団長とする NIRA 代表団の一員としてである(2)。 このときはウラジオストクからバスをかりきり、ウスリースクを経由し 4 時間半かけて綏芬河との国境に向かった。 パグラニチヌィから綏芬河にバスをチャーターして第三国人が入国するという、容易ではないこの手配を担ったのも M 旅行社であった。 ウラジオでの手配は当然 S 社となったが、このときにはモスコーフスキーが現れなかったので私は知らなかった。

1999 年 6 月 24 日   ウラジオストク S 社

パグラニチヌィ、ポルタフカ (綏芬河の南 50 キロにある東寧との国境点) など、沿海地方の対中国国境点の制覇に意欲をもやしていた私が次に狙った場所は、かの有名なハサン地区であった。 ここには中朝露三国国境点があり、1997 年に最後まで中露間でもめた 300 ヘクタールも存在する。 だがロシア側のガードは低くない。 同年 11 月に NHK のクルーがここから北朝鮮にむけて TV 中継を行い、直後、国境警備隊に拘束された。 許可なしに入るにはリスクがある。

M 旅行社に相談してみる。 モスコーフスキーの顔がちらついたが他に手段はない。 安全に入境するためには国境警備隊への車の事前登録も必要だ。 S 社の車代はやすくなかったが、その分、ウラジオストクで懇意にしている研究所にたのんで安いホテルを予約して節約した。 出発前日、運転手との顔合わせのため事務所を訪れた私に対し、ホテルを自分に頼まないモスコーフスキーは不機嫌だった。 相変わらず早口で人の話をあまりきかない。 「旅行中の食事代はおまえと運転手はそれぞれ自分の分を払う! いいな」。

悪路で真っ黒になった車を帰り道の河で洗う運転手

ウラジオとウスリースクを結ぶ幹線に位置するラズドリノエから南へおよそ 200 キロ。 ハサン村への道はなかなかの悪路であった。 25 日の夜、クラスキノでただ一つのホテルの部屋で食事をとりながら、運転手の労をウオッカでねぎらう。 運転手は私の顔を覚えていた。 NIRA 代表団のバスを運転していたのは彼であった。

翌 26 日、ハサンでの仕事は予想外に早く終わった。 もちろん、警備隊の労をねぎらうべく持参したおみやげのおかげである(3)。 運転手は帰りは泊まらずいっきにウラジオまで帰らないかと提案してきた。 道は悪いが 8 時間あれば戻れるという。 望むところであったが、モスコーフスキーの顔がよぎった。 「今日の分は事前に払ってあるのだから、ウラジオまで帰るのであれば今夜のホテル代は当然、そっちでもつのだろう」。 私は運転手に尋ねた。

途中、立ち寄った食堂でボスに電話をかけた運転手がこたえた。 「ダー。さあ飯を食おう」。 昼食後、白い領収書を受け取る彼に私は微笑んだ。 「モスコーフスキー、ごちそうさん」。

長旅を終え、ようやく市内に入ったとき運転手の携帯が鳴った。 モスコーフスキーから話があるという。 「ホテル代はあなたが払うんでしたよね?」珍しく丁寧にゆっくりとした声だった。 私は叫んだ。 「よし。明日、今日のホテル代の未使用証明書をもってこい」。 「・・・」。 ひとこと運転手と相談したモスコーフスキーは早口に戻っていた。 「運転手が払う」。

電話がきれて私は尋ねた。
「モスコーフスキーは何だって?」
「俺に金をもっているかってさ」
僕らは笑った。

1999 年 7 月 23 日   黒龍江省 虎頭

逆にダリネの丘からは虎頭がみえる

1 ヶ月がすぎ、ハサン地区を今度は中国側からせめてみた。 ロシアの厳しい入境管理と対照的に中国側の国境は実に開放的だ。 中朝露三国の図們江国境点の入り口で検問らしきものに出会ったが、旅行社による入境料の徴収であった(4)。 今では中国側からの道路もかなり整備され、三国国境点は完全に観光地と化し、日本人も含め数多くの旅行者が訪れるようになったときく。

実は、このときにはウスリー河の中露国境点における取材も計画していた。 珍宝島まで行きたかったが機が熟せず、その 100 キロ手前の虎林市虎頭鎮で断念した。 虎頭は、かつて珍宝島を所管していたロシア側ダリネレチェンスク (旧イマン) から、河をはさみ、わずか数キロの地点にあり、船上からはダリネの街がうっすらとみえる。 旧日本軍の要塞跡を見学した後、河岸のレストランで川魚を友人にごちそうになった。 店の名前はカチューシャ。 出てきた主人をみて驚いた。 顔がモスコーフスキーにそっくりだったからだ。 おばあさんがロシア人だという主人は、わざわざ私のためにモスクワ郊外の夕べをカラオケで熱唱してくれた。 ロシア語が聞こえてきそうな顔だったが、中国語におりまぜ、ときおり「カーッ P」とやるその姿はまぎれもなく中国人であった。

2001 年 9 月 1 日   ウラジオストク   ダーチャ

2 年後、ダリネレチェンスクに調査にいくべくウラジオストクの空港に着いた私を待っていたのは運転手だった。 思いがけもなく、市内にむかう途中にある彼のダーチャで夕食とすこしばかりのウオッカをご馳走になる。 今回の旅も彼と一緒にいきたかったが、モスコーフスキーが法外な値段をふっかけてきたので車の借り上げを断念していた。 だから、彼との再会は嬉しかった。 ハサンと違い、ダリネレンチェンスクではシベリア鉄道の幹線が 24 時間動いているから、わざわざ車をチャーターする必要はない。 しかし、宿の確保は別である。 ホテルだけはモスコーフスキーに頼んでおいた。 ホテルの名前はツェントラーリナヤ、M 旅行社に私は 3200 円払っていた。

熱唱! 虎頭の「モスコーフスキー」

運転手は別れ際、モスコーフスキーから手紙を預かっているといって私に手渡した。 堅く封が閉じられた手紙をそのままダリネのホテルの受付で渡せということらしい。 4 日の朝 8 時 30 分、夜行列車で駅についた私は、寒さに震えながら 1 軒しかないそのホテルをやっとの思いで探し当てた。 封筒を開けた受付のおばさんが突然、笑い出した。 中身はルーブリ紙幣だった。

9 月 6 日、帰国のためウラジオの空港へ向かう車中で、私は運転手に尋ねた。
「ところであの手紙のなかに何が入っていたと思う」
「さあ?」
「お金、しかも 200 ルーブリ!」(5)
僕らは大声で笑った。

ところで私の中露国境の旅も終わろうとしている。 モスコーフスキーがいなかったら、私の旅には多くの困難が待ちかまえていただろう(6)。 ありがとう、モスコーフスキー。永遠に。


1 M 旅行社の名誉のために述べておけば、この金額の格差は、ビザ取得のために必要なホテルの予約を日本人向けに仕切っていた S 社が法外にふっかけたことが原因である。 だが日本人旅行者は M 旅行社がぼっているものと思い、苦情は M 旅行社へと向かうことになる。 M 旅行社は S 社に度重なるクレームをつけ、ホテルの値段は半額程度へと急落した。 モスコーフスキーはその理由を「ホテルのオーナーが変わったため」と説明したが、S 社にクレームをつけなかった日本の同業他社のホテル代はしばらく据え置かれたままだったという。
2 旅の成果については、拙稿「相互不信が妥協の原動力? 中露国境交渉の舞台裏」『世界週報』1998 年 9 月 22 日号を参照。
3 もっとも、労をねぎらうには 1 本では不足だったらしく、帰り際さらに 2 本を要求された。
4 拙稿「図們江の『夢』の彼方」『山口県立大学国際文化学部紀要』第 6 号、2000 年を参照。
旅の成果は拙稿「ダマンスキー事件 30 年」『スラブ研究センターニュース』第 79 号、1999 年を参照。 なお 2 年後の昨夏、念願のウスリー河全域の調査に成功した (拙稿「中露河川国境の挑戦」『ロシア極東地域情勢の研究』日本国際問題研究所、2002 年を参照)。 中国の確実にすすむ「改革・開放」のたまものである。
5 このときは 1 ルーブリ = 4 円くらい。
6 金銭的問題をのぞけば、たしかに M 旅行社におけるモスコーフスキーの熱心な仕事ぶりに対する評価は高い。 「面倒な手配」「特に気を使う VIP」に関わる仕事はウラジオの他のパートナーには頼めないという。

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