スラブ研究センターニュース 季刊 2002 年秋号 No. 91

 

アメリカ東海岸図書館訪問記

梶 雅範 (東京工業大学)

議会図書館ジェファソン館入り口 (ワシントン DC)

8 月 4 日から 21 日に学会出席のためにアメリカ東海岸に滞在した。 ワシントン DC のジョージタウン大学で 8 月 5 日から 8 日に開かれた化学哲学 (科学哲学ではない) のサマー・シンポジウムに参加し、8 月 18 日から 20 日までボストンで開かれたアメリカ化学会年会の化学史分科会に参加した。 その間の時間を列車 (Amtrak) で移動しながら、フィラデルフィアとニューヨークに滞在した。 それほど珍しい場所ではなかろうが、ロシア科学史研究という観点から訪れた人は少ないだろうからここに報告する。

滞在中、訪れたのは、ワシントンの議会図書館 (Library of Congress) とフィラデルフィアの化学史センター (Chemical Heritage Foundation)、ニューヨークのコロンビア大学図書館稀覯書・マニュスクリプト部門 (Rare Books and Manuscript Library)、ボストン (ケンブリッジ) の MIT にある科学史技術史研究所 (Dibner Institute) それにハーヴァード大学図書館である。 どこでも、とくに紹介状がなくともパスポートだけで、読者登録ができ利用できた。

議会図書館は、時代を追って図書館が拡張するにつれて建てられていった三つの建物、ジェファソン館(the Thomas Jefferson Building、1897 年開館)、アダムス館(the John Adams Building、1939 年完成)、マディソン館(the James Madison Memorial Building、1980 年完成) とワシントンに続く三人の大統領の名前がついたビルからなり、それらが地下の通路でつながっている。 読者登録にはもっとも新しいマディソン館に行く。 ここで、写真入りの入館証のカードをつくってもらえる。 バスポートをもって、登録用のパソコン端末に自分のデータを入力するだけだ。 入館証用の写真も用意する必要はなく、その場でデジタルカメラで撮ってくれてそれが入館証に入れられる。 最初の写真が疲れた顔で気に入らないと言ったら、もう一度撮ってくれた。 入館証発行のオフィスには読者の相談所もあって、どの閲覧室 (reading room) に行くべきかアドヴァイスしてくれる。 テーマを話すと、5 時に閉室になるヨーロッパ部門閲覧室 (European reading room) にまず行くべきだと助言された (さまざまな部門に分かれた閲覧室は、その閲覧室ごとに開館時間が異なる。 もっとも長くあいている主閲覧室 (Main reading room) は午前 8 時半から午後 9 時半まで。 詳しくは http://www.loc.gov/rr/hours.html)。

入館するのに空港のようなエックス線によるチェックがある。 またパソコンは持ち込めるが、最初に館内の警察が管理している事務室で登録をして登録書をもっていなければならない。 カバンなどは、館の入り口付近のクロークに預けなければならない。 まず言われたとおり、ヨーロッパ部門閲覧室にいく。 ここは、フランス・ドイツ・ロシアからの文献を扱っていて、ロシア語を話す図書館員もいる。 こぢんまりとしていて人は少なく、ここからだと本の請求書を書くことなくパソコン上で本を請求できる (他の大きな reading room では手書きの請求書)。 議会図書館はかつてはすべて開架式だったそうだ。 それがいつであったか盗難事件があってから基本的に閉架式になったとのこと。 European reading room は開室時間が 5 時までと短く土曜日は開いていないが、やや長く滞在するなら、ここで仕事をするのがもっとも快適だと思う。 建物としてもこの閲覧室のあるジェファソン館がもっとも美しく、主閲覧室もこの館内にある。 主閲覧室は土曜日も開いているので、ヨーロッパ部門閲覧室で借りた図書を前日の金曜日に言っておけば、主閲覧室の棚に置いておいてくれて、土曜日もそこで仕事が続けられる。 日曜日は全館閉館である。

コピーも簡単で、各閲覧室にはコピー機とコピーカードの発行機がある。 カード発行機でまず一枚カードを購入する (カードのみは 60 セント)。 これはプラスチックカードで、ある金額まで入金でき (22 ドルまで)、使い切るとまたこの機械でカードに入金できる。 コピーは一枚 20 セント。 ついさきごろまでは 10 セントだったそうで、ワシントンの知り合いは、コピーする人が減ってよいことだと言っていた。 たしかに、訪れたときにはコピー機前に行列がなく待たされるということはなかった。

マイクロフィルム用には、使いやすいリーダー・プリンターが入っていた。 よく見るとキャノンで日本製だ。 こちらは、一枚が 25 セントで、コピーと同じカードが使える。 1869 年から発行の始まったロシア化学会誌を見たのだが、議会図書館でもオリジナルはなく、マイクロフィルムであった。 聞くと、オリジナルの利用者が少ないので、原本をばらばらにしてマイクロ化した後、オリジナルは廃棄してしまったそうだ。 たしかにマイクロフィルムはきれいであるが、オリジナルの廃棄は残念だ。 大学図書館を含めアメリカでもロシア化学会誌がほとんどないのに驚く (日本には存在しない)。 後述するハーヴァード大学の図書館でさえ、あるのは 20 世紀に入ってからの巻のみだ。

化学史センター (フィラデルフィア)

次に訪れたのは、フィラデルフィアの化学史センター (Chemical Heritage Foundations) である。 センターは、アメリカの独立宣言が採択された独立記念館 (Independence Hall) がある合衆国の誕生の地とでもいうべき町のど真ん中、独立記念館から徒歩 5 分という場所にある。 もともと銀行だった建物を改装して使っている。 アメリカ化学会とアメリカ化学工学会の後援で作られた組織だが、その積極的な資金集めと広報活動、研究活動・化学教育支援活動さらに は化学工業界との交流などで運営に成功している。 図書・雑誌は基本的にはさまざまな機関・団体・個人からの寄贈書から成り立っている。 それがこの蔵書の内容の短所であり、長所である。 また実験機器や機材、化学関係の絵画 (主として 17 世紀以降の錬金術師たちを描いたもの) も収集している。 さらに研究活動の一環としてオーラル・ヒストリーとしてアメリカを中心とした化学者たちのインタヴューを行い、文章に起こしたものも所蔵されていて、そのコピーも申し込むことができ、日本にも郵送してくれる。 19 世紀や 20 世紀前半の古い雑誌や図書は、主としてアメリカ化学会のニューヨーク支部が運営していた The Chemists' Club 所蔵のものである。 同支部は、ニューヨークがすでにアメリカ化学研究や化学工業の中心でなくなったための収入減と事務所の賃貸料の高騰のために、ほとんどの図書を寄贈・売却してしまったそうだ。 この化学史センターには、同所から 1988 年に三万冊の本が寄贈された。 そうした文献の中にロシア化学会誌があった。 ロシア化学会誌は、1869 年に発刊が始まったが、ここに所蔵されているのは 1899 年以降のものである。 つまりはアメリカ化学会のニューヨーク支部に所蔵されていたのがそうであったということだろう。 ただ、1917 年の革命以降のものはそろっているようだった (ロシア化学会誌は 1930 年まではこの名称で発刊されていた。 正確に言うと 1870 年代にロシア物理学会と合同したので、ロシア物理学・化学会誌といい、現在は一般化学雑誌 (Журнал общей химии) の名称で発刊が続けられている)。

化学史センター所蔵のロシア化学会誌

あらかじめ、e-mail で訪問を知らせてあったので、出向くと調べたいと考えたテーマの関係文献が用意されていた。 ロシア化学史関係の文献は残念ながらほとんどなかった。 図書についてすでにすべてデータが電算化されているが、雑誌についてはまだ電算化が終わっていない。 そこで、雑誌の所蔵されている書庫に案内してくれ、自由に見ることができるように取りはからってくれた。 その書庫の中でロシア化学会誌も見つけた。

1990 年代半ばにここに移ってきたとき (センターの成立は 1982 年)、書庫は今後 20 年はもつと考えられていたが、寄贈が順調なためもう手狭になりつつあるそうだ。

帰りがけに独立記念館の前を通ると、5 年前に初めてきたときには、まったくアクセスが自由だった記念館のまわりが、フェンスで囲っていて、パトロールの警官が常駐しているという厳しい警戒ぶりで、閉館する午後 5 時以降は建物には近づけなかった。 これも 9 月 11 日のテロの影響だろう。

コロンビア大学図書館 (ニューヨーク)

次に訪れたのは、ニューヨークのコロンビア大学図書館である。 大学は 19 世紀にはマンハッタン島でも郊外だったろうが (アッパー・マンハッタンと呼ばれる)、現在は完全な町中で、黒人街として有名なハーレムにも近く、地下鉄で簡単にいくことができる。 1 番の地下鉄で 113th St. まで行けばよい (同方向の 2 番、3 番は行かないので注意)。 地上に出れば、大学の門はすぐにわかる。 中央の広場の右手が図書館だ。 東工大の建築科の先生の話によれば、典型的な都市型のコロンビア大学の建物は、地下が高度に利用されていて、すべての建物が地下道で結ばれているそうだ。

図書館の入り口の左手の information office で仮入館の手続きをして、一日入館券をもらう。 入り口から左に折れ、突き当たりを右に行くと右手にエレベータがある。 rare book and manuscript library は六階。 まずロッカールームで荷物をしまい、使うノート、筆記用具、パソコンなどをもって、入館し使用の手続きをする。 information office でもらった資料によれば、コロンビア大学と関係をもたない研究者は、あらかじめ手紙や e-mail で訪問の意志を伝えておく必要があるようだ。 私は、訪問前にそもそも目的のヴェルナツキー関係の文書が閲覧可能なのか、訪問できる日に開館しているのか確かめたかったので、e-mail で問い合わせて返事をもらってあった。

同図書室のサイトは、http://www.columbia.edu/cu/lweb/indiv/rare/

e-mail の一般のアドレスは、rarebooks@libraries.cul.columbia.edu

とくにロシア関係の学芸員 (the Bakhmeteff Curator) として Tanya Chebotarev さんという方が責任者で、ロシア関係のコレクションであれば、彼女に問い合わせるのがよいだろう (tc241@columbia.edu)。

英語では、ロシア語の опись にあたるものが registration と呼ばれている (ただロシアと違い、注文すればこの registration のコピーも可能である)。 これを見て請求する。 箱(box)に入った文書は、一度に四箱まで請求できる。 マイクロフィルムも同数である。 カウンターに向かって左側が、box 閲覧のための閲覧室、右手がマイクロフィルムの閲覧室である。 閲覧室といってもまわりはガラスの壁で囲っているだけなので、両方の閲覧室全体が見渡せて開放的な雰囲気だ。

閲覧したのは、George Vernadsky Papers と呼ばれるもので、ロシア出身で革命後、プラハを経てアメリカに渡り、イェール大学でロシア史を講じたゲオルギー (ジョージ)・ヴェルナツキー (1887–1973) が生前から寄贈し、死後遺贈されたものが中心の文書である。 234 箱に収められ、簡単だが 30 ページあまりの目録がつくられている。 そのなかには両親をはじめとして親族との手紙もよく保存されている。 私の関心はゲオルギーの父親で地球化学者であったヴラジーミル・ヴェルナツキーの手紙にあった。 ヴラジーミル・ヴェルナツキーのゲオルギー宛の手紙は、マイクロフィルム化されており、その通覧は容易だった。 さらにマイクロフィルム・リーダーで見ながら必要とあれば、その場で印刷もできた。 図書館に入っていたリーダー・プリンターは、議会図書館と同じく日本製でキャノン製品であった。 おおらかで何枚印刷したかを後で申告して支払いをする。 一枚いくらだったか記録するのを忘れてしまったが、議会図書館とたいしてかわらなかったという印象がある。

訪れることができるのは、1 日半だけだったので、とりあえず、見たい手紙を二つに限定した。 まず 1940 年にニューヨーク・タイムズの原爆プロジェクトについての記事をゲオルギーが見つけ、それを父に郵送したのが、ソ連の原爆プロジェクトの起原の一つだという説がある。 これに関係する手紙がないかと探した。 その手紙は比較的簡単に見つけることができた。 ウランとニューヨーク・タイムズに言及する 1940 年 7 月 5 日付のヴラジーミル・ヴェルナツキーの息子宛葉書が見つかった。 ただ、ゲオルギーがニューヨーク・タイムズの記事を見つけて父親に送ったというのは、正確でないように思う。 ゲオルギーは、このときに限らず父親の頼みで比較的定期的に、ニューヨーク・タイムズを父親に送っており、その中から父親のヴェルナツキー自身がその記事を見つけたのではないだろうか。

もう一つは、今年初めにスラブ研究センターで開かれた冬のシンポジウムで、ゲオルギー・ヴェルナツキーについて、ロシアの高名な歴史家でおられるボルホヴィチノフ氏(Н.Н. Болховитинов) が発表された論文の末尾に、1999 年のアメリカ滞在で、この Vernadsky papers を閲覧した際、終わりの方の箱 (boxes 228-230) で偶然に父ヴェルナツキーが妻の死を伝える手紙を見つけたことが出てくる [Н.Н. Болховитинов, Жизньность Г.В. Вернадского /1887-1973/ и его архив, Slavic Research Center Occasional Papers No. 82, p.60]。 その手紙は、妻の死のショックのためか、判別困難な字体になっていたという。 しかし、一週間後にふたたびその手紙を見つけようとしても探し出すことができなかったというのだ。 それ以上何も確定的なことは述べられておらず、さらにこのコレクションの研究を進める必要があるし、十分に研究されていくだろうと確信していると述べる結語に導く一つのエピソードのように語られている。 この手紙を見つけたいものだと思った。 しかし、これらの箱の中ではなく、マイクロ化された手紙の中から、妻の死を伝えるヴラジーミル・ヴェルナツキーの息子夫婦宛の手紙を見つけた。 それは 1943 年 2 月 4 日朝と記された手紙で、「2 月 2 日から 3 日にかけての夜中、1 時 15 分前おまえたちの母でわが愛しのナターシャが亡くなった。」と書き出されている手紙で、2 月 1 日に病気になって、まったく思いがけず亡くなってしまったことや、56 年 4 ヵ月も一緒に過ごした妻がいなくなって一人になってしまったことは強調されているが、今後の研究のためにアメリカに渡りたいことや、最近書いた論文などに触れたきわめて冷静な文面のものだ。 しかも、判読困難な手紙などでなく、タイプで打ってある。 この手紙のほかに、さらに手書きの手紙を書いたとは考えがたいので、ボルホヴィチノフ先生の論文は、その書きぶりから今後の研究の刺激のために書かれたちょっとした「遊び心」による記述だと思われる。 よく読むとなにも断定的なことは書かれていない (なお最近、ボルホヴィチノフ氏の経歴・業績目録が発刊された。 業績表は 2001 年まであって末尾にスラブ研究センターニュース掲載のエッセイが掲げられている (Болховитинов Н.Н. Материалы к биобиблиографии ученых. М.: Наука, 2002)。

ヴラジーミル・ヴェルナツキーは、その晩年には全部でないが、かなりの手紙をタイプで書いている。 本人が打ったのか、秘書のような人が打ったのかわからないが、外国人研究者としてありがたいことだ。

最後にボストンを訪れて、ボストンのチャールズ川の対岸のケンブリッジにあるマサチューセッツ工科大学 (MIT) とハーヴァード大学を訪れた。 MIT とハーヴァードはそのキャンパスを歩いただけで、その雰囲気の違いがわかる。 まず、MIT はその象徴のような円柱と丸天井の建物を除けば、すべて新しい近代的なしかしとくに特徴のない建物群なのに対して、ハーヴァードの建物は、みな 19 世紀的な古典様式の建物だ。 MIT にはその東のはずれに 世界的な科学史・技術史の研究センターであるディブナー研究所 (The Dibner Institute for the History of Science and Technology) がある。 ここには大学院生、ポストドク、有名な研究者などが滞在して研究に専念するための施設だ。 立派な科学史の図書館 (Burndy Libriary) もあるが、ロシア科学となれば、この図書館には関係図書はなにもないに等しい。 主としてルネサンス期から 20 世紀初頭までの欧米の科学史・技術史のコレクションが中心で、一部にはアジアやアラビアなどの科学史関係書もあるらしい。

ハーヴァード大学のワイドナー図書館

アメリカでロシア科学史をやるのであれば、図書館はハーヴァードのものがよい。 その中央図書館がワイドナー図書館 (Widener Library) である。 タイタニックの事故で亡くなった若いハーヴァードの卒業生の母親の寄付で建物はできたそうだ。

Michael Gordin というハーヴァード出身のメンデレーエフ研究者に大学を案内してもらった。 さきごろメンデレーエフについて画期的な伝記研究で Ph.D. をとり [Michael Dan Gordin, “The Ordered Society and Its Enemies: D. I. Mendeleev and the Russian Empire, 1861-1905, Ph.D. thesis,” The Department of the History of Science, Harvard University, April 2001]、現在はハーヴァードの junior fellow という研究専念のポストドクのポストにあり、来年の秋からはプリン ストン大学の科学史の助教授に就職が決まっているという。 しかもまだ弱冠 27 歳の俊才だ。 そんな輝かしい経歴にもかからわず、まったく尊大なところがなく、研究が楽しくてしょうがないという様子で気さくに何でも話してくれた。 彼の言によれば、ハーヴァードの図書館は、議会図書館、レーニン図書館 に続いて世界で第三番目に蔵書が多いという。 だから、ハーヴァードにある文献をすべて見てから、それでもない文献をロシアに見に行くそうだ。 学位論文を書くうちに、一回について二ヶ月から最長半年、ロシアに滞在して資料を集めたとのこと。

ハーヴァード大学のマイケル・ゴードンとともに

もちろん、ハーヴァードの図書館はワイドナー図書館だけではない。 各学部の図書館や専門図書館がキャンパス中に点在している。 その点は東大の図書館などと似ている。 たとえば、ワイドナー図書館の隣には稀覯書を収める Houghton Library というのがあり、ここでメンデレーエフの印刷された卒業論文の原本を見た。 また化学科の図書室にも行った。 これらはパスポートをもって登録するだけで利用はできる。 ただ、そうした一般の閲覧者は非常に多くの制限がある。 まずそこを訪れたり、滞在したことのある研究者が異口同音に宝の山と表現している書庫には入れない。 閲覧請求するのだが、一日十冊までしか請求できない。 また、さすがに巨大な図書館でも近頃ではすべてを収蔵できないので、何十キロも離れた郊外の収蔵庫 (Depository) にかなりの本が収納されていて、そこにある本の請求をすると受け取りは翌日以降となる。 したがって、ハーヴァードの図書館を存分に利用しようとするなら、客員研究員なりになってハーヴァードに所属する必要がある。

そうしたつてがなくても、ある程度準備していけば、それなりに利用できる手段はあるようだ。 それはつい最近、改訂更新されたハーヴァード大学図書館のオンラインの図書検索システム (The Harvard Online Library Information System (HOLLIS) と呼ばれ、http://www.harvard.edu/libraries/ から入るとよい)がきわめて充実したものだからである。 その文献の詳しい書誌情報、大学での所蔵状況、現在の利用可能性などきわめて詳細な情報を提供してくれる。 もちろん、日本からもアクセスできるので、これで十分に検索してなにを見るべきかよく決めてから、図書館に行くなら、つてがなくてもある程度の研究活動はできるだろう。

アメリカでは一般に大学図書館や大学構内のあらゆる場所に高速のコンピュータ端末があり、高度に情報化されている印象を受けた。 ロシアとは違って短期間の滞在でも、その日数なりの成果が上げられる。 学ぶことの多かったアメリカ訪問だった。


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