スラブ研究センターニュース 季刊 2003 年冬号 No. 92

 

日の出ずる島にて

パナヨット・カラギョゾフ(カレル大学 / チェコ /
センター 2002 年度外国人研究員として滞在中)

筆者 旅の途中で (1)

旅はいつでもかけがえのない楽しみだ。 いろんなところを旅してきた。 山、海、母国、 異国、そのいずれにも捨てがたい魅力がある。 山が自分の力と意志を試す冒険の機会に遭遇する場であるとすれば、海は無為を楽しむところだ—浜辺に寝そべり、泳ぎ、ビールを飲みながら、海の幸に舌鼓を打つ。 だが、海洋はまったくの別世界だ。 我が祖国ブルガリアは海洋に面していない。 だから、果てしなく広がる大海原に畏敬の念を禁じえない。 それはときに恐怖ですらある。 実をいえば、映画のスクリーン上でようやく海洋を目の当たりにした時、私は 10 歳になっていた。 両親とともにブルガリアのありとあらゆる山頂を「制覇」した。 そのなかには 2,925 メートルのムサラ山も含まれる。 学生時代にはそれまで訪れたことのなかった大平原と沿岸部をくまなく歩いた。 スラヴ系諸国の大半を旅したが、「社会主義」の枠をこえて気ままに旅行することは叶わなかった。

ポスト共産主義時代への「期待の地平線」がようやく現実に広がったのは、「鉄のカーテン」が幕引きとなってからのことだ。 ヨーロッパ各国のさまざまなセミナー、学会、会議に参加するようになっていた。 運命の扉はアメリカにさえ開かれていたのは思いがけないことであった。 ダンテ風に「人生の羈旅半にあたりて」 (山川丙三郎訳『神曲 (上) —地獄—』岩波文庫、1952 年、13 頁)、私の混ざり合った感情は、次の対句によって表現されるであろうか。

目の前に世界が広がれど、
時間はあの頃のまま・・・

1999 年当時の私にとって、興味深い時間と世界が目の前に広がっていようとは思いもよらぬことであった。 「縁」あって私はスラブ研究センター (以下、SRC) の研究員に選ばれ、2002 年の夏、2 ヵ月足らずの間、ヨーロッパとアメリカを行き来し、日本の東端に到着した。

バルカン半島 (バルカンは山を意味する) から日本列島にやってきたのち、まずここでもブルガリアと同様に酸乳が概してうまいことに気付いた。 その後、思いがけないことであったが、馴染みのある、山の多い地形であるということがわかった。 統計によって、私の食にかんする視覚的印象が正しかったことが裏付けられた。 札幌のヨーグルトはブルガリアの乳酸菌で発酵させたものだという。 また、この国では 76% の地域で陽は山から昇る! 南西部の山地 (これは国土の 29% を占めている) が国の東部に面している黒海から遠くに位置しているブルガリアとは異なり、日本では海洋と山地とが近接している。 それらは対称的な地理関係を成しているわけではないが、独特な統一感をつくりだしている。 これは日本の山があたかも海から飛び出しているかのようであることと関係しているのだろう。 山は海から生え、海は山を「抱擁」しているのだ。

山のフォルムは、丸みがかった高い勾配をもち、表面は葦や竹のような植物で覆われた円錐島というに相応しい。 麓と頂上、山と山、陸と海とが、竹のような筋の多い根のようなもので、つながれているかのようである。 これらはすべて、台風が吹いても日本の大地が周りの水に流されてしまわぬように、繋ぎ止める頑丈な「網」をなしている。

日の丸に描かれた真っ赤な太陽は、世界で最も早く日が昇るという日本の位置を象徴している。 島と山は、この地域の核心を表象している。 この日の昇る国は、同時に、地理学的には列島であり、社会的には群島でもあるという側面ももっている。 「集団主義的平等社会」という日本にまつわる神話に反して、階層、職業、文化ごとに円錐島があり、その分化の度合いは日本の山以上に険しい様相さえ呈している。 しかし、「竹状の伝統の根」によって、日本列島のように分化した日本の各社会層 (социум) は融合され、国民という一体性が醸成されている。 私を魅了してやまないのが、日本流の公共性である。 トイレや公園から市の交通機関、温泉、コンサートホール、大学にいたるまで、公共の場をつくろう、よりよくしようとする心意気がありありと窺われるのだ。 これら公共利用を目的とする場所では、資産状況、知的資質の差にかかわりなく、誰もが等しく国に扱われていると実感することができる。 日本人は小さなものよりも大きなものを重視する (姓が名の前にくる、年が日付の前にくる、など) のが原則だが、実生活においては、小さいものが大事にされ、重用されるようである。 例えば、赤ん坊、自転車、軽乗用車、軽トラックなど…。

北海道は日本列島を構成する島の 1 つである。 2 番目の大きさをもつ、最東に位置する島である。 ここでは太陽がどこよりも早く昇り、その照りつきも強い。 地元を愛する人々は、この島はほとんどすべてにおいて豊かで恵まれた土地だ、北海道ほど素晴らしい自然と心地よい気候に恵まれた場所は、日本にはないと確信している。 夏の北海道は、光の都であり、秋には花の都となる。

北海道の中心は札幌である。 北海道全土と同様に、この最大の都市も独特の個性をもっている。 ここには、将来の世代のために保存されている開拓村、農場、レンガ造りの家などとともに、テレビ塔、キタラ・コンサートホールが併存している。 質の高い展覧会やコンサートがしばしば行われるので、札幌の住民は、島から出ることなく、世界水準の文化に触れる機会に恵まれている! 自分らしさを損なわずに異質なものから良質な部分を抜き取る才のおかげで、21 世紀初頭においても、満開の桜のよく似合うこの国には、姿を変えながらも、不変なものが残っている。

筆者 旅の途中で (2)

それは食についても同じことがいえる。 札幌の住民は、今でも食べ物への感謝の念を強く抱いている。 だから、ここでは料理は信仰の対象にさえなりうる。 無数の居酒屋が並ぶ通りには、中華レストラン、マクドナルド、イタリアン風のピザ屋、ロシア・レストラン、「コーシカ」の看板もみえる。 しかし、数ある道内の飲食店のなかでも、私の意識にもっとも鮮明に刻まれたのは、「ビール園」である。 日本人の料理へのあくなき好奇心はよく知られているが、日本酒と日本料理なしには宴は始まらない! 感心するだけではなく、たくさん食べても全く太らない日本人を羨ましく思う。

札幌の中心に位置する学問の島が北大である。 多くの有名な大学を訪ねたが、これほど写真撮影する人の多い大学は見たことがない! 休日には郊外、あるいは北海道外からの人々の大半が北大で記念撮影するのである。 子連れの人たちは、幼い頃から我が子に高度な知識を尊ぶ心を植えつけようとしているのであろうか。 私はソフィア大学で記念撮影したのはポーランドの女流詩人だけであったのを思い出し、悲しくなった。

この札幌の大学に特別な地位が与えられているということは、大学の下に掘られたトンネルをとってみてもわかる。 市の行政は、北大の敷地内を整備するためには支出を惜しまない。

日本における学問と教師への崇拝ぶりは驚嘆に値する。 学者は多くの国で尊敬されている (残念ながら、これは当たり前ではない) が、ここでの尊敬ぶりは、聖者にたいするそれに匹敵する。 知り合いの外国出身の女性研究者が私に語ってくれたところによれば、あるとき彼女にうるさくつきまとっていたチンピラたち (彼女にはそうみえた) も、彼女が北大の教授であることがわかると、地面にひれ伏さんばかりにお辞儀しながら非礼をわび、…逃げていったとか。 竹状の根によって分化した日本列島と社会層が一つに束ねられているとすれば、知識という 1 本の細い絹糸が個々の市民を精神的につなぐ紐帯となっている。 私の誤認かもしれないが、日本人は喜んで人助けし、質問に答えるのは好きだが、質問するのは好きではない。 彼らは読むことが好きだが、聞くのはあまり好きではない。 生半可な知識で知ったかぶりするのは嫌がられるらしい。 そんなわけで、どうしてももっと知りたいという方は、当てにならないことも多いが、インターネットにでも尋ねた方がよいだろう。

インターネットは、しかしながら、自己目的にはなりえない。 北大におけるそれは書物を駆逐しているのではなく、むしろ書物を身近なものにしている。 大学図書館は見事にコンピュータ化され、文献の蓄積量も桁外れに膨大である。 学内に 1 部しかない資料の場合、その保管場所は中央書庫であるとは限らず (これは私の知る多くの大学と違うところである)、潜在的に読者がいそうな学部の図書室に置かれていることがある。 私は札幌に持参もしくは郵送した書籍のほとんど全部を SRC あるいは北大図書館において「発見」してしまったことを白状しよう。 2001 年にスラヴ諸国で出版された書物が札幌にあり、活用されているのは私には信じがたいことである。 いつだったか、コテリニコフ氏が北大に寄贈した本が早々とカタログに登録されているのをみて、「SRC 図書室の兎内さんが勤務を終えたら、何をなすべきか?」という問題に思い煩うことはなくなった。

図書館と SRC との関わりは深いが、位置的に隣接している結果でも、管理区分上、従属しているからでもない。 図書館に納入する文献の選定過程において深まってきたのである。 SRC には百科事典や便覧の類の文献が置かれている。 その考え方は非常に理にかなっている。 多様な学問的関心にしたがって、どの先生も利用する専門書を自分で所有しているからだ。 また、具体的な事実は戦略的に再点検する必要があるからだ。

だが、SRC もまた円錐島を髣髴させる。 最下階に図書室、その上に行政管理者、そして大学院生のフロア、最上階に研究者がいる。 この日本の配列は、よく知られた「権力ピラミッド」とはまったくの別物である。 これはある種の知の塊である。 「万人に対する奉仕者」たるセンター長の執務室は 2 階にあり、教授たちには秘書がつかず、研究室の掃除も自分でやっている有様だ。

札幌におけるスラヴ学は、現代に立脚した視点をもっている。 すなわち、19 世紀半ばの水準で停滞したまま、言語学、文学研究、民俗学の 3 要素を含む、「純粋言語研究」の類とは異なり、現実に即しつつ、多彩な角度からディシプリンの枠を越えて、一体としてのスラヴ社会を考察しようとする視点をもっている。

SRC の組織は「文句なしに」模範的なものである。 セミナー、シンポジウム、会議に招聘する研究者の選定において、判断基準となるのは研究者の質であり、数ではない。 各国から選りすぐりの専門家たちが招かれ、彼らの報告を聴講することになる。 V. パウノフスキー氏の報告を目当てに東京から来たブルガリア学専攻の女性は、私がカレル大学からきたチェコ人ならぬブルガリア人だと知ったとき、彼女は間が悪かった。 1 日早く札幌に到着する必要があったであろうから。 私事になるが、つい最近、ブルガリアの「学術」会議は、ある日本文学専攻の研究者の教授就任を見送ったことを思い出し、恥ずかしくなった。 その理由は、「応募者はソ連で教育を受けていることと、そもそも日本研究にかんするポストは助教授で十分であること」というものであった…。

北海道で受けた印象を比較的に検討するにしたがって、時間と空間にたいする私の悲観的な態度は変わってしまった。 逆説的だが、この世界でもっとも早く一日が始まるこの地で、既に「時間はあの頃のまま…」という感覚は消えてしまっていた。

期限つきとはいえ、ブルガリア人より 7 時間、西欧人より 9 時間、アメリカ人より半日以上も早く朝を日本人とともに迎える私は幸運である。

2002 年の聖ドミトリーの日、札幌にて。

(ロシア語から山本健三〈スラブ社会文化論専修〉訳)


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