スラブ研究センターニュース 季刊 2004年冬号 No.96 index

プリドニエストル・モルドワ共和国の秋


松里公孝(センター)


 プリドニエストル・モルドワ共和国(PMR)は、非承認国家の中でもとりわけ困難な状況の中で国づくりを進めてきた。第一に、PMRは、アブハジアやナゴルノ・カラバフのようなディアスポラ(域外同胞)を持たない。世界中のアルメニア資本がステパナケルトに投資する、CIS中のアブハジア人が故郷に仕送りする、といったことはなく、域内にある産業力だけで生きていかなければならないのである。また、ディアスポラがないということは、域外に代弁者を持たないということである。実際、PMRを苦しめているのは、経済的な封鎖もさることながら、情報戦における封鎖である。第二に、アブハジア、ナゴルノ・カラバフ、南オセチアが、ソ連体制下の自治共和国の継承者であるのに対し、PMRは、ソ連崩壊時の住民投票によって「下から」形成された国家であり、戦間期にソヴェト・ウクライナの一部であったモルドワ自治共和国を国家性の起源としている。実際、PMRの領域は、戦間期のモルドワ自治共和国の領域とほとんど重なる。唯一の例外は、ドニエストル右岸にあるベンデールィ市であり、この市が紛争時の最大の激戦地になったのは、その位置の戦略的な不利さだけからではなく、PMR帰属の法的正当性を欠いていたからでもあった。

 PMRの民族構成は、モルドワ人が4割、残りをロシア人とウクライナ人が折半する。この3民族の言語が国家語とされており(ちなみに、モルドワの唯一の国家語はルーマニア語である)、大学の授業も3ヵ国語で行われている。実態的にはロシア語が優勢なのは明らかなので、ちょっと偽善的な感じもするが、厳しい財政状況の中で3言語主義を形式なりとも実施することは容易なことではなかろう。紛争後のナゴルノ・カラバフやアブハジアでは、アゼルバイジャン人、グルジア人は事実上住めなくなってしまったが、PMRではむしろ、3民族融和のシンボルとして、モルドワ人を引き立てる傾向がある。「プリドニエストル紛争は民族紛争ではなかった。PMR在住のモルドワ人は共に銃を取って戦ったし、PMRに侵入したモルドワ人は、モルドワ人、非モルドワ人の区別なく殺した」というのがPMRの公式イデオロギーなのである。プリドニエストル紛争の初期、ドゥボッサールィの橋上で射殺された3人の青年がたまたまロシア人、ウクライナ人、モルドワ人であったことがプリドニエストル地域主義の象徴として宣伝されている。

 PMRでの仕事に一定の時間をとるために、断腸の思いでナゴルノ・カラバフ訪問を諦めてキエフに飛来したのは10月12日、日曜のことだった。そもそも日本にモルドワの在外公館がないためにモルドワのヴィザすら持っていないので、月曜にはヴィザ取得のための手続きを始める。アルセナリナにある古い建物の中庭に面した、ごく質素なモルドワのウクライナ代表部に行くと、若い領事さんから、「モルドワ文部省に電話し、いずれかの大学を紹介してもらい、その大学の招待状を持って来なさい」などと言われる。出張があと十日間しか残っていないのに、そんな悠長なことをしていられるはずがない。そこで、キエフの日本大使館から申し入れをしてもらうと同時に、キシナウ留学中の北大院生・志田恭子さんの受入教官であるイオン・ヴァルタ氏から、モルドワ外務省を通じて働きかけてもらう。その結果、翌日にはヴィザがとれた。訪問の狙いがプリドニエストルであることを領事には話していないので、若干の後ろめたさを感じながらヴィザを受け取る。

 キシナウ行きの汽車は、朝、キエフを発ち、夜10時ごろにキシナウに着く。ウクライナ領の最後で旅券審査を受けた後、モルドワ側の旅券審査を受けるまでにかなり距離がある。言うまでもなく、そこがPMR領である。キシナウ駅ではヴァルタ氏と志田さんがホームで出迎えてくれる。その夜はヴァルタ氏が予約してくれた安ホテルに泊まったのだが、ホテルまで車で送る道々、また部屋に入ってからも、まあ、ヴァルタ氏のしゃべること、しゃべること、おかげで親ルーマニア民族主義者の主張の基本線は理解できた。

 翌朝、チラスポリ行きのバスに乗る。キシナウ・チラスポリ間は、バスでわずか2時間の距離である。バス・ターミナルでは、タクシーの運転手が「10ドルでチラスポリまで運ぶから」とまとわりついてくるが、そのときは、外国人はモルドワ・PMR間の境界線を越える際に法外な通行料を取られるなどという風評を信じていたので、より安全と考えられるバスで行くことに固執する。実際には、境界線では旅券を提示させられるだけである。境界線のまちといえばベンデールィであるが、そこからチラスポリに向かうドニエストル川にかかる橋の入り口は、ロシア軍が物々しいありさまで警護している。PMRでは外国人登録制度が厳格に施行されており、チラスポリで最も代表的な中級ホテル「友好」に泊まったにもかかわらず、登録のためには自らOVIRに出向かなければならない。OVIRの帰り道に、PMR大統領府のオフィスに寄り、調査への協力を乞う手紙を提出する。

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ドニエストル川

 私自身の調査以外に、PMR訪問の目的は、スラブ研究センターで2004年1月に開催される国際シンポジウムでの報告者を選抜することであった。事前に志田さんがプリドニエストル大学のめぼしい政治学者・歴史家をリストアップしてくれていたので(プリドニエストル大学といえば地方大学のような印象があるが、1990年代の初めに民族主義に嫌気がさしてキシナウからPMRに移住した学者が多いために、意外に人材豊富である)、それに基づいて研究室を片端から訪問する。ところが、まさにそのとき、大学では「スラブ教育学国際学会」(かつては教育大であったプリドニエストル大学の生存戦略のひとつで、ロシア南部・ウクライナ・ベラルーシの教育学者を結集する学会)が開催されている最中で、うまく人と会うことができない。PMR大統領府も無能の極みで、私の手紙にまともに回答することができない。ところが、文献を探す中で、大学の廊下で偶然、大学付属「マスコミ研究センター」のブラゴダーツキフ女史と知り合う。そしてこの人が、PMR滞在中の私の後見人となったのである。面白い偶然だが、ブラゴダーツキフ女史は、キシナウでの私の後見人であるヴァルタ氏と、モスクワのスラブ学研究所で同窓だった。「彼はいまや親ルーマニア民族主義の代表的論客ですよ」と私が言うと、「院生時代はおとなしい感じだったのに、そんなこと信じられない。まあ、私も自分がこんな分離主義者になるとは思わなかったけれど」と言って笑っている。

 大統領府が調査に協力してくれなかったのは、それが閉鎖的だからと言うよりも、その組織構造に問題があるためである。現に、最高会議議長、副議長、チラスポリ市長、プリドニエストル大学学長などの錚々たるエリートと驚くほど簡単に会え、しかもたっぷり時間をとってくれる。むしろ、西側の研究者が来たということが、PMRが国際的に認知されている証拠とされるのだろう。モルドワを刺激することを恐れる私が「撮るな、撮るな」と叫んでいるのに面談風景を勝手にカメラに撮られ、夜のニュースで流される。

 脱共産主義諸国の大統領制のほとんどが準大統領制であるのに対し、PMRの政治体制は純粋大統領制である。つまり、スミルノフは首相機能を兼ねるのである。人口70万人、5郡2市しかない政治単位で大統領と首相を分けるのは無駄であると考えられたためでもあろう。また、エスノ・ナショナリズムをとらないPMRにおいては、モルドワよりも生活水準が高い、給料・年金の遅配がないということが権力の正当化根拠となっているので、大統領が日常行政に直接責任を負わなければならないという事情もある。もともとは工場長であったスミルノフ個人の好みとしても、政治問題よりも日常行政に忙殺されていた方が落ち着けるのだろう。マスコミ向けの立ち回りは、マラクーツァ最高会議議長の役割である。大統領府には、政治問題を分析する顧問も部局も置かれていない。こんなことで、経済はだめでも情報戦には長けたモルドワに対抗できるのかと思う。タタルスタンで仕事をすれば、議会・政府はもとより、カザニ大学、タタルスタン・アカデミー、カザニ市庁など、どこに居ようと影のようにシャイミーエフの影響力を感じるが、PMRでは、こちらが質問しない限りスミルノフの話題すら出ない。これは多元主義の観点からは望ましいことだろうが、多元主義は必ずしも至高の価値ではない。私がこうしたことを指摘すると、PMRのイデオローグたちは、「全くその通りだが、大衆が彼に投票するのだから仕方ないじゃないか」などと答える。当然、スミルノフは、自分によく似た、経営者としては有能でも政治は語れない人物を部下として重用することになる。激務の中で親切に時間をとってくれた人を批評したくないが、チラスポリ市長から私が受けた印象も同様であった。

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ベンデルィ市庁舎  これは絵葉書なので修正してあるが、実物は弾痕生々しい

 名目賃金を比べればPMRの水準はモルドワの倍以上だが、物価も違うので、PMRの生活水準が倍以上であるということはないだろう。それでもなお、冶金をはじめとして国際競争力のある諸企業をかかえたPMRの方が暮らし向きがよいのは事実である。これは、封鎖というハンディを考えれば驚くべきことである。モルドワ側は「旧モルドワの工業力の40%を抱えた地域を占拠して分離しやがって、ずるい」と言う。PMR側は、「じゃあ、あんた方の側にあった60%はいったいどこに行ったの?」と嘲笑する。道路の整備状況・清掃状況もキシナウよりもチラスポリの方がいい。同じことは、バクーとステパナケルトを比べても言えるそうだ。「こんなことならかつての親国家に併呑された方がいい」という感想を市民に持たせないように、為政者は必死なのである。アルメニア人、ベラルーシ人、そしてPMR市民のように、勝てるはずのない戦争に勝ち、耐えられるはずのない封鎖に耐えた国民には、何ともいえない規律がある。約束の時間の10分前には来て、立って私を待っているような行動様式である。おそらく、高度成長期の日本人もこんな感じではなかったか。しかし、真面目が過ぎて、若干ユーモアに欠ける感があるのも共通している。やはり、仕事を一歩離れれば、ウクライナ人のような、いい加減な民族の方が私の肌には合う。

 面談した指導者たちの中で一番印象的だったのは、35歳のシェフチューク最高会議副議長だった。シェフチュークを首領とするニューリーダーたちは、2000年の議会選挙を前にして「刷新」というブロックを作り、最大会派となった。かつてヤヴリンスキーが主張していたような(チェックやボン方式ではない)オークション方式の企業私有化を推進している。2003年4月には土地私有化を要求する住民投票を実現したが、PMR地方指導者の暗黙の抵抗とモルドワからの反対宣伝(モルドワ自体では土地はすでに私有化されているのだが)により、不成立であった。シェフチュークが悔やむのは、政治闘争と内戦を指導した1992-1996年の最高会議は止むを得ないにせよ、1996-2000年の最高会議も市場経済の育成を怠ったことである。

 モルドワのルチンスキー大統領時代に比較的安定していたPMRの立場は、プーチン政権下で極度に苦しくなった。国内の分離主義と戦うためには国外の分離主義を応援することはできないと考えたのか、モルドワでのヴォローニン擬似共産政権の成立を見て、彼を非NATO陣営にとりこむことができると考えたのか、あるいは逆にOSCEと仲良くしたいと考えたのか、2001年12月の大統領選挙では、プーチンはヴォローニンと一緒になって野党候補を応援したのである。こんにち、CISで、「PMRは密輸業者が支配している」などというイメージを抱く人が多いのは、この選挙に際してRTRなどのロシアのテレビが行った猛烈なキャンペーンの結果である。ロシア内でPMRと取引する企業には露骨な圧力がかけられた。ロシアとの取引の減少分は西側への製品輸出の増大によって補うことができたが、おそらく21世紀の最初の3年間はPMRにとって内戦中に匹敵するくらい苦しい時代であっただろう。

 こうして、国際社会から、PMRをモルドワ領に戻すための連邦国家形成の圧力がかけられ、2002年以来の交渉プロセスが始まった。しかし、単一国家をめざすモルドワと国家連合をめざすPMRとの間で折り合いがつくはずがない。動機からいっても、債務で首が回らなくなったモルドワにとっては、この交渉はOSCEへのリップサーヴィスにすぎないし、PMRにとっては、モルドワとの合同は、国際承認を得るための方便にしかすぎないのである。それでも、PMR側は国家の三権と大学を代表するメンバーを交渉委員会に派遣したが、モルドワにはそこまでの熱意もない。交渉はあっという間に頓挫してしまった。そのような交渉であっても、PMR最高会議には市民の抗議が絶えなかったそうである。「爪に灯をともすような思いをして、国際債務なしで経済再建してきたのに、モルドワが借りまくった金を私たちの税金で返そうというのか?」というのである。問題は、最悪の場合でも「台湾の道」を選ぼうと考えているPMRには、モルドワに期待するものが何もないことである。ヴォローニンへのPMR側の不信はすさまじく、スミルノフ大統領が、「スネグルは不倶戴天の敵であったが、少なくとも調印したことは実行した。ヴォローニンにはそれさえない」と漏らすほどである。

 プリドニエストル紛争は、モルドワ、PMRのいずれかが強硬だったからではなく、むしろモルドワが自己規定できず、二足のわらじを脱げないところから起こった紛争である。1990年、親ルーマニア民族主義の高揚に酔って、モルドワ最高会議は、モロトフ・リッペントロップ協定の無効を宣言した。つまり、第2次世界大戦後のモルドワ共和国は、ルーマニア領内に形成された違法国家であり、発生に遡って無効としたのである。言うまでもなく、これはリトアニアの真似である。これはそれなりに筋の通った主張だが、論理的には、この時点でPMRとは別れなければならなくなる。ドニエストル左岸は、戦間期どころか歴史上一度もルーマニアに帰属していたことがないからである。実際、PMR側は、これをルーマニアとの合同宣言、PMR領への主権放棄宣言とみなし、共和国を形成したのである。当時、リトアニアに対してさえ、「モロトフ・リッペントロップ協定無効、原状回復なんてカッコいいこと言うのなら、ヴィルニュスはポーランドに返せよ」という正論が向けられた。リトアニアには、このような正論にはびくともしない力関係があったが、それをモルドワが真似してはだめである。

 土曜日には、ベンデールィ市にある、「ベンデールィの悲劇」博物館に行った。プリドニエストル紛争はPMR領が戦場となり、非戦闘員の死者は圧倒的にPMR側が多いため、両国間で記憶の重さは対称ではない。モルドワ側にとっては、この武力衝突は、忘れられるものなら忘れたい、独立当初の不名誉な失敗にすぎない。PMRは、(とてもここでは書けないような猟奇行為・残虐行為の被害者も含め)犠牲者の実数・実名、その社会性別構成、死体と廃墟の写真を繰り返し公表している。

 シェフチューク最高会議副議長は、非承認国家問題とは、1975年ヘルシンキ宣言(国境線不変更原則)と国連人権規約の間に矛盾があるということだと言った。どう考えても国連人権規約の方が上位法なのに、ヘルシンキ宣言の方が優先されている、と。シェフチュークがあげた例だが、国際人身売買の被害者となった女性(周知の通り、多くの場合未成年である)を更正させる法整備がPMRでも進んでいるが、国際機関のこれら事業への援助金は、モルドワに全て吸い取られてPMRにはビタ1文入ってこない。教育振興をめざす日本政府の援助も同様である。かく言うシェフチュークも、OSCEのブラックリストに載っているために、東スラブ3国以外には行くことすらできない。キエフの日本大使館でも、学者ならまだいいが、政治家を国際シンポジウムに呼ぶことだけはやめた方がいいと助言された。しかし、その国際シンポの責任者として言わせてもらうならば、学者を呼ぶことも必ずしも容易ではなかった。「チェチェンの野盗がヨーロッパを自由に旅行し、最高指導者と会い、市民の前で演説できるのに、PMRの指導者は国の外に出ることもできない」とは、チラスポリ市議会議長の弁である。

 非承認国家問題を概観して痛感するのは、外交の世界は保守的であり、新しい有能な友人を得るために、古くからの友人の顔を潰すようなことは絶対にしないということである。そのことは、世界が最後の最後までゴルバチョフを支持したことにも示されている。こうした論理は、新しい有能な友人を得るためならばあらゆることが許される学問の世界に住む者にとっては理解が難しい。大切なことは、外交の世界に生きる者と学問の世界に生きる者とが、お互いの論理と面子を尊重して折り合ってゆくことではないだろうか。

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