1997年点検評価報告書
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百瀬宏
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百瀬宏 報告

 1995−96の2年間にわたり、スラブ研究センターの客員を委嘱され、センターの活動をつぶさに見聞することができた。その間たまたまセンターは創立 40周年を迎え、その記念行事にも参加する機会をえた私は、創立間もない頃に、まだ法学部附属スラブ研究施設であった頃に勤務していた者として、センター の驚異的な発展ぶりに感慨なきをえなかったし、自分の勤務当時は「夢のまた夢」でしかなかったことが見事に実現されているのを見るにつけても、当事者のな みなみならない努カが偲ばれたのであった。しかし、こうした賛辞は、センターの活動を見聞した誰でもが寄せうることであって、この稿の執筆を依頼されてい る私がとくに求められていることでもないであろう。また、正直のところ、上記の感銘を深くするほどに、いくつかのの不安も感じたことは事実である。した がって以下では、この点を率直に中し上げて、「学外専門家の評価」の責をふさぎたいと思う。

1.研究活動に参加して
 この2年間、スラブ研究セシターの研究活動に参加して、研究発表および討論にあたっての研究者の意欲的な姿勢に、まことに目をみはる思いがした。いわゆ る国際的な学会でも、規定に反してペーパーをろくに用意してこない発表者が多いし、国内の学会となるとレジユメすら出してこない場合があったりして組織者 泣かせの場面が少なくないが、本研究センターの場合には、あの何十本という報告の殆どが事前に見事にそろい、予定討論者の発言要旨すら配布できる余裕が あって大いに学ぶところがあった。こうしたことも研究環境の整備に当たられる方々の献身的な活動があってのことであろうが、発表者自身の自覚によるところ も多いことは間違いない。また内外の研究者が、所属をこえて率直に討論しあう雰囲気が強まっていることにも感動した。短い期間関係した者の誤認であればお 許し願いたいが、以上の点は、この2年間の内にもみるみる発展していっているように思われた。もう十数年も前のことになるが、自分の関わっているある学会 (地域を対象とする学会ではなかったが)で、他学会から明らかにお招きしたつもりの(!)長老が東欧研究のイロハを間違えた認識を示されたので私が質問し たところ、たちまち居心地の悪い雰囲気になったことがあった。意見は率直に闘わし、人間関係は明朗であるという「国際性」を伸ばしていく魁に本センターは なって欲しいと思う。
 もう一つ、これは自分自身の関心事と関連して考えさせられたことがある。それは、地域研究のあり方についてである。スラブ研究センターは、いうまでもな く、スラブ地域を対象とした総合的な地域研究機関である。その場合、対象がロシアに限らず、「スラブ・ユーラシア」に含まれるロシア以外の諸国や諸民族で あることや、そのことに十分の関心が払われなければならないことについては、これまでにも指摘されてきたし、限られた規模の範囲で努力も払われてきたの で、その方向が今後も追求されることを望むにつきている。私がとくに指摘したいと思うのは、「総合的」という点に関連したいわゆる学際性という事柄につい てである。
スラブ研究センターは、地域文化、国際関係、生産環境、社会体制、民族環境の5部門からなっており、部門のそれぞれが学際的な研究体制になっている。ここ には、いわば総合性の中に専門性を追求しなければならないという学際研究体制のあり方について、苦心を重ねた結果が現れており、この点は、私事にわたるが 「国際関係学」という分野で学際性の問題に直面してきた私には敬意を表して余りあるものがある。問題は、いかにしたら現実に学際性を機能させうるかであろ う。一つの例を挙げると、ロシアの市場経済化をめぐる討議について、部会の終了後、文学関係の研究者からの「ロシアが市場経済に適応しえないという主張 は、歴史や文化の分野の研究成果に注目するならば、もう少し別の議論になるのではないか。ロシアが19世紀末から20世紀初頭にかけて社会・文化の諸面で 西欧諸国に迫りつつあった事例をまったく考慮に入れなくてよいのか」という批判を耳にした。ここでは、私は、この議論の是非を問題にしているのではない。 それぞれのディシプリンに立った研究者間にもっと積極的な学び合いがあってよいのではないか、という間題提起の事例を示したつもりである。
 私は、門外漢ながら、しばしば文学関係の部会に出席した。そこでの研究発表は、どちらかというと談論風発的なかたちで行なわれることが多く、結論も留保 されている感があったが、いったん討論に入ると、報告者は知識の大変な深さと広がりの中で議論していることが判明するのであった。こういうディシプリンご との学風の相違をこえて学び合いが行なわれる必要がとくに文科系の広領域学の場合には要求されていると思われる。重点領域関係での会合の時であったと記憶 するが、文学や芸術学の領域が、風土や文化の探究という点で社会科学に貢献するという謙虚な提言がなされていた。この提言には、自分の直面する国際関係の 問題にも引きつけて思い当たる点が大いにあったが、素人の度胸を発揮していうと、権力や商品交換や社会組織を仲立ちとする人間関係を追求する社会科学諸分 野は、同じ社会の中での人間の感性的な部分を論じる分野からも学びうる点が多いのではないか。文学はまったくの一例にすぎないのであるが、それでは、そう した異分野間の学び合いを可能にする要因は何なのか。小規模な組織であれば、適切なコーディネーターが存在することが決定的な意味をもつのであり、そのこ とは、「スラブ研究施設」時代の私の見聞から証言できるが、現在のスラブ研究センターのような大規模な組織の場合、それは何なのだろうか。

2.文献・資料の収集・整理・利用について
 現センターがかつて法学部附属施設であった時代に、アメリカの著名なソ連研究者が来訪した時、スラ研の蔵書を一望して(当時は、一望が可能なほど蔵書量 も少なかったのである)。「いや、立派なものですよ。スラブ関係の研究所をもたないアメリカの州立大学に匹敵するほどの蔵書量です」と評したことがあっ た。今から考えると苦笑ものであるが、その当時においても、スラ研の文献・資料の収集・整理・利用をどのように行なうかという問題は、研究施設の将来にわ たる事柄として専任研究員が常に念頭におき、討議を重ねていたことであった。その当時の体験を思い出話風に語ることが浦島太郎の愛嬌になれば幸いである。
まず、文献・資科の収集という点であるが、1966年にスラ研からブルガリアの首都ソフィアで開かれた第1回バルカン学会に派遣された時、普段は現地の書 店には出ない貴重な書物が会場で販売されていた。それらをアメリカのバルカン研究者が精力的に買いまくっているのに刺激されて、なけなしの財布をはたいて 若干の本を買ったことではあった。バルカン研究もやろうなどという柄にもない野望はその後空しくついえたが、後年、それを使って勤め先の大学院生が育って くれた。今にして考えると、アメリカのあの学者は図書購入の公的使命を帯びていたに相違ない。現在のスラブ研究センターが個人や公的機関の蔵書を丸ごと 買ってしまうような、昔の夢物語を実行する規模に発展していることは同慶の至りであるが、専任の研究員が派遺された先で偶然「出会った」文献を手持ちのお 金で買い、これを立て替え払いのかたちでスラ研の蔵書にするといった便宜は、今でも利かないようである。これは、スラブ研究の発展にとって結構ゆゆしい問 題であると思われるのだが如何であろうか。
 ところで、そのような文献の収集や整理に当たる司書のポストの件であるが、私が研究の必要上頻繋に訪れるフィンランドのヘルシンキ大学には、帝政ロシア の出版物のコレクションがある。これも古い話になるが、1966年にかの地を初めて訪れた時、マリア・ウィドナス女史という大変な文献学の権威が、司書と して勤務し、このコレクションの生字引のような役割を果たしていた。同大学の図書館員には、2種類の職種があり、同氏は「上級図書館員」の地位を占めてい た。「上級図書館員」は、同大の図書館で収書・参考などの業務にあたるとともに助教授(ドセンティ)の資格でスラブ文献学の講義を行なっていた。その時私 が反射的にイメージを重ね合わせた秋月孝子氏はまさにそのような国際的専門家になられたが、こうした状況に対応した正式な制度は依然確立していない。
そして、ラースト・バット・ナット・リーストということになるが、大学全体の中でのスラブ研究センターの位置づけと関連して、その図書の管理が如何にある べきか、という問題が、本センターがまだ法学部の附属施設であった、私の勤務当時に存在した。それが、全学の図書業務の中央図書館への集中化という間題で あった。あの当時のスラ研の地位の特徴は、二重構造をなしていたといえるであろう。その第1は、法学部の附属施設でありながら、法学部本来の学問的要請と して生まれたわけではない、という特殊性であって、法学部の決定にスラ研が自動的に倣う立場にはないという特殊性であった。これは当時として重要な問題で あったが、現在の状況とは無関係なのでこれ以上は立ち入らない。第2は、第1の問題という幕をはずすと現れてくる、もっと本質的な問題であって、このよう な地域研究の図書の管理を全学の図書管理体制の中でどのように位置づけるかは、現在でも、依然として、というか、規模が大きくなっており、かつ全国的、国 際的意味が格段に強まっている点から、いよいよ重大な意味をもつといえよう。スラブ研究といった領域での文献資料の発注・整理が特別な専門技能を要求する ことは、すでに上記の外国の有数図書館の例によって読者の理解されるところと思われるし、今やこの分野で国際的な責任を分担してしまっている本センターの 立場からも当然配慮されるべき事柄であるが、図書の排架のありかたにしても、現在のように一定のコーナーにスラブ研究関係図書が集められていることの意義 は測り知れないほど大きい。
北海道大学のように大学図書館を開架式にしていることの教育研究上のメリットは、きわめて大きいといえるであろう。いかにインターネットの時代であって も、文献や資料を直接手にして、読む意思を固めるということは、分野によっては、学習や研究の上で決定的な意味をもつプロセスである。ましてや、スラブ研 究のように対象が限定されており、かつコレクションが巨大な意味をもつ分野の場合、限られた文献の山の中を「宝探し」できるということは、研究の効率上も 大変なプラスである。「アーカイヴ・ラット」という言葉があるが、現今の世界の有数のスラブ学者は、皆、「アーカイヴ・ラット」をやって育ってきたのであ る。一体、地域研究のような広領域の学問分野が必要とする書籍は、政治、経済、法律、社会、文化関係諸科学など既成のディシプリンに帰属して分類され、排 架される。諸学の全領域に散らばったスラブ学関係の文献を、図書館の各階層を駆け上り、駆け下りして探しまわるのでは、鼠の駆除には役だっても、開架式の メリットなど皆無になろうというものである。

3.専任研究者のセンター運営業務について
 これも研究施設時代の古い話になって恐縮だが、赴任に先だって「研究所は学生がいないからいいですよ」などとやっかみ半分にいわれながら赴任してみる と、「授業をもっている教官は休暇があるが、研究員が休みをとる理由はない」という原則で運営されていることを知らされて、まず襟を正させられたことを記 憶している。実際、日常的な運営というものは、その頃からある程度の全国機関的性格をもっていた関係もあり、決して暇なものではなかったが、今回見聞した 専任者の非研究面での多忙さというものは、実に想像を絶したものであった。研究補助的役割の方々、事務職員の方々の健闘にもかかわらず、「こんなことま で」と思わされるような事務的仕事に専任者が関わっているのは一驚であった。これはもう一にかかってポストの間題だと痛感した。「専任研究員とは、ほかの 人に研究させる職種のことだ」といういつわらざる感慨をもらす研究員があったのも無理からぬことと思った。私が関わり合うことの多い北欧の国際関係がらみ の研究機関の話だが、別段、授業をやっているわけでもないという理由で矢鱈と業績を出すことを要求され、「仕事の中味が薄くなる」という悲鳴を聞かされた ことがあるが、それとて研究活動の面での話であった。現下の状況では難しいのかも知れないが、国の関係当局の理解を切に望みたい次第である。
 そして、このこととも関連して想起するのは、本センターが事実上の組織中枢として科学研究費の重点領域に関わったことである。これは、スラ研が全国のス ラブ研究機関として飛躍的に発展するために、適切で必要な英断であったと思う。そのことにつけても、私は、科研費運営のあり方についての一考を要望せざる をえない。かつて科学研究費に応募する側を支配した「モノ取り主義」には抵抗を感じていた私ではあるが、今度は、「納税者への義務」といった大義名分が、 矢鱈と機械的に「業績」を要求する傾向は如何なものか、というのが、私の正直な印象である。はたから見ていて、短期の期間にまとまった「成果」を次々要求 するというのは、自然科学を基準にして足並みを揃えようとする「合理的」な発想があるからではないか。「学なり難し」とはいわないが、社会科学や人文科学 でそう簡単に「成果」が出てくれば、まず疑う気になっても無理はあるまい。地震予知の問題はよく知らないが、社会科学や人文科学では、研究計画そのものを 一つの試行錯誤の過程と見なすくらいの対応が必要ではないか。重点領域研究にかかわる期間は限られているので特に問題はないにしても、これが長く続いたと したならば、スラブ研究センターがシンク・タンクによく見られるような調査機関なみになってしまうのではないか、という憂慮を感じたのは私だけであろう か。

4.スラブ研究センターの国際的意義について
スラブ研究センターが国際的に認知されている現況については、多言を要しないであろう。社研などといったところで諸外国では何のことか判らないだろうし、 東京大学といったところで、「ああ、日本の首都のね」ぐらいの認識ではないか。だが、掛け値のないところ、北海道大学のスラブ研究センターといえば、専門 研究者の間では国際的に認知されているのである。このあたりのことになると、私のように北欧の一角からスラブ世界を見ているにすぎない者の出る幕ではない と思うものの、どこの外国でも、北大のスラブ研究センターといえば、その道の人なら、すぐ判ってしまう面をもっている。これは、北大の専任ではない者の証 言として、信じてくださってよい。それと、もう一つ、1996年度の第1回の国際シンボジウムの際に、中部欧州からきた研究者たちが、自国政府の立場にこ だわらずに、客観的な意見を述べていたことである。普通、ある国の研究者がわが国に呼ばれる場含、その国の公的立場を代弁してやまないことに閉口すること が多いが、上記の場合には、参加者は、自国への批判をすら口にしたのであった。これは、本センターの国際的信用にもつながる素晴らしいことである。こうし たことが生じた理由は、もちろん、参加者その人々が良心的な人々であったということに求められるであろう。従って、スラ研の人事的判断が正しかったという ことにもなるであろう。しかし、逆に、スラブ研究センターそのものが、政治にたいして距離をおくという、良い意味での日本の学問の伝統を生かしながら活動 してきた実績の、客観的現れとはいえないであろうか。

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