岩下 明裕 (いわした あきひろ)

A)個人研究活動 (うち主要学術研究業績一覧 B)共同研究活動
C)受賞など D)学歴と職歴
E)「私のスラブ研究センター点検評価」 F)専任研究員セミナーでの外部コメンテーターのコメント集


A) 個人研究活動

1. 研究主題: ロシア外交、中露関係

2. 研究領域

1995 年に博士論文「ソビエト対外関係理論の研究」を提出したことで、修士課程以来、取り組んできた「ソビエト国際法」研究が一つの画期をむかえた。 もっとも本論文に手をくわえて公刊できたのが (『「ソビエト外交パラダイム」の研究―社会主義・主権・国際法』 国際書院)、1999 年 7 月であったため、そこまでは「ソビエト国際法」理論の分析が私の研究の柱であったことにかわりはない。 率直にいって、本研究の日本での学界での評価は分かれていると考えている。 その理由は大きく 2 点、第 1 に「ソビエト国際法」を理解できる先行研究者がほぼ皆無であることと、第 2 に本研究が歴史学と政治学と国際法学の三領域にまたがる複合的分析をおこなっていることによるものと推察される。

しかしながら、本研究の類書の刊行は当分見込めないこと、さらにソ連邦 70 年の年月をカバーした本研究の動態的方法論は新世紀のような激動の時代にはむしろ適合しうると思われること、などから本研究の真価は、数十年の時期を経た後にはじめて理解されうると私は確信している。

もっとも本研究の一部はロシア語などでもすでに公刊され、ロシアの国際法学界では一定の評価をうけており、また金容九 (ソウル大学教授) など数少ない海外の「ソビエト国際法学者」の著書においても私の仕事は先行研究として位置づけられていることを付記しておこう。

さて「ソビエト国際法」研究が一段落したことで、私はソビエト以後のロシア国際法研究にも関心を広げつつあるが、そのなかでも、とくに CIS なる旧ソビエト国家の空間に焦点を絞り、分析を展開している。 私は 1997 年の第 40 回ロシア国際法協会年次大会 (前身はソビエト国際法協会) で報告した機会を利用して、ロシア、ベラルーシ、ウクライナで国際法学者たちの対 CIS 理解をアンケート調査し、整理を行ったことがある。 この調査の成果はロシア語と日本語で刊行されたが、これを契機に私は国際法の領域のみならず、個別諸国や民族問題の固有性にとらわれない CIS という空間のまとまりに対する総合的研究をおこなう必要を痛感した。 この問題意識は、後の 1998・1999 年度の日本国際問題研究所の CIS プロジェクトヘと発展していく (これに関しては 3 で後述する)。

ところで、私が携わる、おそらくはもっともポピュラーな研究領域は中国とロシアの関係にかかわる分析であろう。 1990 年代前半に九州北部の福岡という中国にちかい場所にいたことが、本研究を思い立ち展開する契機となったが、その後、山口県立大学国際文化学部在任中には中露関係の動向追跡をモスクワ・北京関係のみならず、中国東北地方および極東ロシアを中心にめくばりしつつ、中露国境をほぼ全般的にカバーするかたちですすめてきた。 とくに中露の国境画定交渉にかかわる分析はその現地でのルポとともに、日本語・ロシア語・中国語・英語で公刊されており、世界的に追随を許さないレベルに達したと (単なる私の独りよがりかもしれないが) 自負している。 その代表的な論文が「中露『戦略的パートナーシップ』と国境交渉」 (伊東孝之・林忠行編 『ポスト冷戦時代のロシア外交』 有信堂、1999 年) である。

とはいえ、たしかに現時点においては類似の研究は限られているものの、このテーマが近年、内外の数多くの研究者が注目するアクチュアルなものであり、また中露の国境が今後より開放的になり、国境交渉に関する資料がでてくる状況が生まれれば、前述した『「ソビエト外交パラダイム」の研究』のケースとは異なり、私のこれまでの研究はきわめて短期間に乗り越えられる可能性も少なくない。 従って、私は、ソ連崩壊以後、この 10 年の中露関係の激変や国境地域の動向を、後追い的な結果論的なものではなく、同時代史的な分析として早急にまとめる必要を強く理解している。

いうまでもなく、私は、2001 年 10 月にスラブ研究センターに着任したばかりであり、スラブ研究センター自体を本拠として行ったまとまった研究は、当然、存在しない。 しかしながら、上述した中露関係の研究は、1995-1997 年度にスラブ研究センターが中心となって組織した文部省科学研究費重点研究「スラブ・ユーラシアの変動」のなかで展開したものであり、もしスラブ研究センターのプロジェクトがなかったならば、少なくとも私の中露関係に関する研究がこの水準にまでは進展しなかったことに疑いはない。 なお、本研究は現在、私がもっとも時間と労力を割いているものであり、詳しく後述したい。

3. 現在進行中の研究

1) 中露関係の研究

2 で述べたように、私にとって、近年、また現在においてもっとも主眼となっているのが、当該研究テーマである。 中露関係を国境地域を軸に分析するという発想は、1993 年以来、私が直観していたものであるが、その指向を後押ししたのが、重点研究「スラブ・ユーラシアの変動」のプロジェクトで出会った秋野豊の仕事であった。 秋野豊の業績に関しては、アカデミズム的な手続き上の観点から、学界では評価が割れるのが常であったが、私は秋野豊のもつ斬新かつ懐の深い取材力に感銘を受けることが多く、その手法を学びとることにつとめていた。

もとより、私の研究スタイルは、凡百の資料をデスクワークとして、裏読み、あるいは 斜め読みすることがベースであり、現地調査に関しては、ときおり思いついた「偶発的な」ものを行う程度のものであるため、先人たちの業績には比するべくもないが、このデスクワークとフィールドワークの不断の反復によって、中露 4300 キロの国境地域の現況を客観的に分析し得たことは特筆に値すると確信している。 実際、中露国境に関する研究は、中国人「移民」に関するものに集中しており、国境画定交渉、つまり領土問題に関する具体的かつ詳細な分析は皆無といってよい。 例えば、多くの論者たちは、沿海地方のハサン地区やアムール河とウスリー河の合流点の 2 島 (ボリショイ・ウスリースキー島とタラバーロフ島) に対する言及をおこなってきたが、その現地の状況を丹念に取材したものさえ少ない (精々、ハバロフスクから船にのってボリショイ・ウスリースキー島のダーチャを訪れたという類の「ルポ」)。

私は、1999 年に図們江近辺の中朝露三国国境を中国およびロシアの双方から取材調査をし、1997 年夏まで中露国境交渉で最大の懸案であったハサン地区の係争地を、また 2000 年夏には中朝蒙三国国境に近いアルグン河の中露間の係争地ボリショイ島 (多くの人が名前はしっているが、具体的にはしらない島) を取材調査し、アカデミズムの手法に依拠しつつ、新奇なルポルタージュを公開した。 さらに 2001 年夏にはウスリー河流域を調査した際、ダマンスキーはもとよりかつての中露の係争地にアクセスしたが、ウスリー河の係争地がダマンスキーだけではなく 50 の島嶼に及んでおり、またその画定交渉の渦中において、主要航路で島嶼の帰属を決めるという国際法上の原則を変えて、政治的な判断で係争の島々を交換した形跡もあることを発見した (この問題に関しては、近日中に論文が公刊される)。 ウスリー河の領土問題は、そのほとんどが存在すらも外部には知られておらず、それゆえ、学界において議論されることさえなかったのであるが、全貌がほぼ判明した今、私の中露国境交渉研究も新たな段階にさしかかったといえよう。

にもかかわらず、2 で述べたように、私の中露関係研究は今後の学界の研究進展によっては乗り越えられる可能性が十分にある。 もっとも私のこの 10 年の現地における綿密な取材の記録は、その同時代性によって余人には反復できないという利点をもちえており、記録すべき価値が高い。 かかる観点から、私は 2002 年末をめどに、この 10 年の中露国境交渉の記録を、アカデミックな手法での検討を前提としながらも、国境地域の現場写真を満載したルポルタージュとして、角川書店から『中露国境 4000 キロ』(仮題) として刊行することを決意した。

2) CIS 研究

CIS 研究に関しては、2 で言及したように、私の研究生活における最初の 10 年の蓄積を前提としたものであるが、内外の研究状況を総攬するとき、CIS 諸国の個別研究か、あるいは民族論的な視座にたつ研究が隆盛しており、旧ソビエト空間全体を見通すようなものが少ないという認識がそもそもの発端であった。 多民族を有し、かつ多様化しつつある旧ソ連空間をひとつとして論じるという、ある意味で挑戦的な研究をアカデミズムの一般住人が忌避したがるのは当然であろう。 にもかかわらず、個別分野や領域の研究水準を高めることが、全体像の説得的な把握に必ずしもつながらないこともまた私たちは経験している (たとえば、1920 年前後のソビエト政権の研究のみでソ連邦の 70 年全体を理解することはできない)。

CIS は、現状においてロシアが「再統合」のための原動力としてその利用可能性をアピールする一方で、客観的には、ともすれば旧ソ連構成共和国の「離婚」のための過渡的な装置として「冷ややか」にみられることも多い。 だが、CIS の存在が、旧ソ連空間の「ユーゴ化」に阻止した役割の大きさ、たとえ旧ソ連構成諸国の完全なる独立を後押しするものであったとしても、それを平和的なプロセスに導きつつあること、あるいは構成国が相互に必要とする領域においては「統合」的な推進力にもなっている点など、多角的にみた場合、CIS の成立と軌跡の研究から引き出されうる肯定的評価も少なくない。

それゆえ、私はソ連崩壊以後の CIS 全体のプロセスを学術的に記述し、分析することが、今後起こりうる様々な国家や地域の瓦解にとって、必要不可欠な教訓を引き出す材料と判断し、当該、研究をすすめる決意を行った。私は、2 で述べたように「ソビエト国際法」の知見をもとにとりあえずの分析をすすめようとしたが、CIS なる対象の広さと深さを考慮するとき、個人として対応すべきものではないと判断し、研究機関におけるプロジェクトとすべきことを模索した。 幸いにも日本国際問題研究所に同じように CIS 研究を志す同僚たちがおり、また周囲の理解も重なって 1998 年からの 2 年間のプロジェクトヘと結実した。 本研究はその後、スラブ研究センターのプロジェクトとして継承され、2003 年をめどにこのプロジェクトの成果は日本における初めての CIS に関する総合的研究として国際書院から出版される予定である。

3) ロシアとアジア

私は、上記以外に中露関係のレッスンをもとに日露の国境交渉に対する提言 (業績目録参照) に関する論文を書いている。 またロシアの対アジア外交は日露や中露関係の文脈だけでとらえるには不十分であるとの見地から、近年は中央アジアにおけるロシア外交の分析も手がけている。 現在、インドやパキスタンなどロシアの対南アジア外交の勉強も始めており、そう遠くない将来、アジアにおけるロシア、ロシアにおけるアジアという観点から、斬新なプロジェクトを考案する計画である。

4. 主要学術研究業績一覧

1) 著作

(1) 単著

(3) 編著

2) 学術論文

(1) 単著

3) その他の業績

(2) 書評論文

(4) その他


B) 共同研究活動

1. 共同研究の企画と運営 (代表者として)

1) 科研費などの研究プロジェクト

(1) 基盤研究 (C) 「ポスト冷戦時代の中露関係と東北アジア―多様化する国境地域協力」 (平成 13-14 年度): 但し、平成 13 年度は前任の山口県立大学で行っていたため、スラブ研究センターでの主宰は、平成 14 年度以降となる。

2) 学会などでのパネル組織

なし

3) その他の共同研究活動の企画と組織

なし

2. 共同研究への分担者としての参加

現在、基盤研究 (A) 「ロシアの世界経済との統合に関する総合的研究」 (田畑伸一郎代表)に分担者として参加中。 おもにプロジェクトのなかの CIS 研究を推進する役割を担っている。

C) 受賞など

なし


D) 学歴と職歴

学歴: 1962 年生まれ、1987 年九州大学法学部卒、1989 年北九州大学大学院法学研究科修士課程修了、1992 年九州大学大学院法学研究科博士後期課程単位取得退学、1995 年法学博士
職歴: 1992 年九州大学法学部助手、1994 年山口県立大学国際文化学部助教授、2001 年北海道大学スラブ研究センター助教授


E) 「私のスラブ研究センター点検評価」

赴任したばかりなので、センター内部の事情に疎いが、これまで外から関わってきたものとして若干、感じていることを指摘しておきたい。

1) 大学院教育について

長年、教育にかかわってきたものからみて、教育と研究は有機的に結びついたものだと理解している。 逆説的ではあるが、私にとってロシア研究とは無縁の環境にいたことが大きなプラスになった。 つまり、東南アジアや韓国・中国問題を指向する学生の卒論の面倒をみることで、その地域の一般書・研究書をたくさん読むことになり、私のロシア外交研究をアジアの文脈で拡大させ、深化させる一助となった。 私がロシア外交をみるのに、中国や韓国、そして最近はインドの資料をみるようになったのも学生への教育が私に教育的効果をもたらしたおかげである。

このことをセンターにあてはめた場合、大学院教育は教師の側への教育的効果が十分に高いと思われる。 とくに大学院レベルでの指導は教師にもしかるべき対応がもとめられるからである。 すでに私は学生の論文にコメントするため、サンフランシスコ講和会議と日米関係の研究 (大学院生のテーマは、サンフランシスコ講和会議におけるソ連の対応) や 19 世紀のヨーロッパ国際法理論の分析 (大学院生のテーマは、帝政ロシア期の国際法とアイグン条約) といった幅の広い文献を深くフォローする必要にせまられ、またいうまでもなく当該テーマに関するロシア語の直接的資料にも以前より詳しくなった。 わずか赴任 3 ヶ月の時点でこれである。 研究する側が自らの専門領域に閉じこもらずに、より深みと幅をつけるためのプレッシャーとしても大学院教育の意義は大きい。

2) センター・スタッフの長所と短所

センターは確かにいろいろなリソースがストックされ、また絶えずフォローが生まれるため、この環境は常駐するスタッフが研究する際、きわめて有利なものといえる。 たとえば、本人がセンターにいるという事実だけで、いろいろな情報をつかえるため、研究出力は向上して当然である。 それゆえ、センターのスタッフはそのことを十分、自覚したうえでセンター外の研究者と協力をし、交流をすすめる必要があると実感する。 この意味でセンターは自らが一種の「サービス機関」であることを絶えず確認しつづけた方がよい。 もちろん、メンバーの多様性こそが組織の活力である以上、これは私自身が自らにのみ課しつづけようと思うテーマに過ぎない。

他方、センター外にいるものが意外と見落としがちな点は、センターのスタッフが自分たちの好きな研究を思うがままにできるわけでは決してないということであろう。 これはほぼ自分で研究テーマを「自己決定」しえた学部や大学院の研究者と違い (今後その自由度は確実に狭められていくであろう。 また言うまでもなく、「自己決定」の度合は所属大学によって違いが大きい)、 いろいろなプロジェクトに絶えず追い回され、フォンド獲得のため、ともすれば現状分析に偏りがちなセンターの状況では、そもそもスタッフが当初に志していた研究を地道に継続することが難しいと思われる。 前段でいったことを逆から言えば、情報流通の有利さがディレッタンティズムを生み、一つの骨太く着実な研究の創造が阻害される。 例えば、私が前任校の学部にとどまっていれば、毎年講義を続けることで 10 年後には「国際関係論」のダイナミックな単著を書くことが可能であったろうし、また、研究領域を中露からアジア全体に拡大することもなく、中露のみの研究に時間と労力をしぼって専門外のことには手を出さずに、中露関係の本格的研究書をだすこともできたろう。 しかし、センターの環境ではこの種の試みを継続することは容易ではない (実際に申請者はその試みをセンターに移る際にほぼ断念した)。 こう考えると、センターへの人材供給には一種の相性やタイミングが重要であろう。

若くてスマートな人材は常に魅力的であるが、それだけでセンターに来た場合、スタッフとしてセンターでの幅の広い仕事を期待されることで (また内外からのプレッシャーも大きい) 記憶には残っても記録として残る研究を出せなくなることも予想される (もっとも、センターの活動と相性のよい人もいるし、幅をみせながら骨太の著作も書ける人も存在する)。

このようにセンターとセンター外の研究者協力には様々な課題が多いと承知しているが、お互いの特性をいかしながら、平等かつオープンなかたちでそれぞれの長所を相互に補いあいながら、新しい共同研究のスタイルを考える時期に来ていると感じる。


F) 専任研究員セミナーでの外部コメンテーターのコメント集

着任後間もないため、2001 年までに実施された専任研究員セミナーはない。


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