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●アンドレイ・ドミートリエフ

 

アンドレイ・ドミートリエフ『閉じた本』

中村 唯史

1.作者について
 1956年生。少年時代をプスコフで過ごす。モスクワ大学文学部と国立映画大学シナリオ科で学ぶ。ドミートリエフは、自分の作品のなかで過去の文学作品を想起することが多く、また文学セミナー・シンポジウム等の場面をやや唐突に作中に挿入する傾向があるが、経歴から見ても、過去のロシア文学が彼の自己形成に果たした役割は小さくないだろうと思われる。映画『アリサと古本屋』(Алиса и букинист)・『黒いヴェール』(Черная вуаль)・『検察官』(Ревизор)のシナリオを執筆。
 最初の短編『凪』を1983年に書いて以後、1995年までに7作の中短編を発表し、これらはすべて彼の最初の単行本『河の流転』に収録された。4年近くのブランクを置いて発表された『閉じた本』はドミートリエフの8作目に当たり、これまでで最も長い作品である。現在までに筆者が確認したドミートリエフの作品・エッセイは以下の通りである。

   『凪』(Штиль, 初出不明)
   『歩み』(Шаги, Знамя, No.5, 1987.)
   『ゴルベフ』(Голубев, 初出不明, 1988)
   『失われしものの物語』(Повесть о потерянном, Дружба народов, No.1, 1991)
   『無産者エリストラートフ』(Пролетарий Елистратов, Дружба народов, No.12, 1991)
   『ヴォスコボーエフとエリザベータ』(Воскобоев и Елизавета, Дружба народов, No.7, 1992)
   『河の流転』(Поворот реки, Знамя, No.8, 1995)
        ――以上は『河の流転』(Поворот реки, ВАГРИУС, 1998, 初版5000部)に収録。
   『戦争と私たち』(Война и мы, Знамя, No.4, 1996エッセイ)
『閉じた本』(Закрытая книга,Знамя, No.4, 1999)

2.作品の紹介
 舞台は、地方都市フノフ。市民から敬愛され、さまざまな伝説を残した学校教師B.B.・その子セラフィム・孫イオナの三世代をめぐる、年代としては1910年代から現在にいたるまでの物語である。上の三人によって直接間接にその運命を左右されてきた話者「私」が無為にまかせて書いたノートという体裁をとっているので、記述の時間的順序はしばしば前後に錯綜している。けれども、話者の関心がおおむね<父→子→孫>の順に移り、また「意識の流れ」による叙述ではない(「私」は独学で文学を志している船員で、いつか誰かが読むだろうことを想定してノートを書いているという設定)ため、三世代にわたる物語を読者が理解することは、それほど難しくはない。
 ここでは、作品の舞台となっている街フノフについて若干コメントした後で、主要な登場人物(B.B.・セラフィム・イオナ・話者)に即して、叙述の順序には必ずしもこだわらずに、物語を整理してみる。

(1)フノフ(Хнов)
 作者が創出した架空の街である。『閉じた本』にかぎらず、ドミートリエフの作品の多くは、このフノフの街を舞台としている。名称はхны(すすり泣きの擬声語・また俗語で「無関心・無視」)から派生して創られたものだろう。フノフは停滞した「灰色の」典型的なロシアの地方都市という設定だが、この設定は、その名称によってもシンボリカルに裏打ちされている。
 架空の街と上に述べたが、1)ドミートリエフの作中人物がフノフとレニングラード・ノヴゴロド・モスクワとの間を汽車や、とりわけバスで、しばしば往来する、2)郊外に湖があり、さらに水路で海につながっている、3)『閉じた本』の作中人物プレトニョーフのモデルであるトゥイニャーノフの出身地である等から、明らかに作者は、自分が育ったプスコフを念頭に置いて、フノフの街を造形している。
 ドミートリエフの作品の舞台となる街には、他にプィタヴィノ(Пытавино)があるが、これもプスコフ県西部の街プィタロヴォ(Пыталово)を意識しての命名だろう。

(2)B.B.
 19世紀末にフノフで生まれ、'70年代半ばに亡くなるまで、生涯の大半を平凡な学校教師として過ごしたB.B.は、しかし教え子達の崇拝を集め、その魅力的な地理の授業(だが教え子たちは、その魅力をひとに説明することがどうしてもできない)と彼の一生をめぐる無数の風説によって、生前から既に街の伝説の人だった。作中に紹介されている「B.B.伝説」は、a)彼の学校時代の友人たちに関するもの、b)彼自身の生涯に関するもの、の2つに大別される。

a) B.B.の友人たちをめぐる伝説
 フノフにおけるB.B.の学校時代の友人には、1910年代にペテルブルグでノヴォルジェフスキイとともに文学研究の新たな潮流を確立したプレトニョーフ、プレトニョーフを介して文学に触れ、'40年代の末に冒険小説『航海士たち』を書いたスヴィショーフ、アカデミー会員になったが大戦後まもなく収容所で死んだ医学者ジーリなど、後に著名人となった者が少なくない(ペテルブルグで地理学を学んでいたB.B.自身も、プレトニョーフの影響で1910年代の若い文学者の集まりに顔を出し、アフマートワやマンデリシタームとの交流もあったようだが、しかし自身が創作や批評活動に身を投じることはなかった)。「B.B.伝説」の少なからぬ部分を占めているのは、本人をめぐるもの以上に、これら彼の友人・知人に関する挿話である。
 ノヴォルジェフスキイのプロトタイプはシクロフスキイである。

 「ミューズの寵児、思索者、三文文士(呼びたいように呼ぶが良い)らが、書いているときに何を考えていたか、着想を得たときに誰に恋していたか、書きながら何を念頭に置いていたか、冗談に託して誰を罵倒していたか、主張することで誰に反対していたか、誰と論争していたか、誰に取り入ろうとしていたか――は、友よ、私たちには少しも重要なことではない。これらはみな風のそよぎのようなもの、伝記作家、歴史家、心理学者、そして誰よりも、有閑読者男女の関心事に過ぎないのだ。私と君にとって重要なのは、文学的製品それ自体であり、その製品がどんな布地でできているか、どのような型紙によって裁断され、どんな糸と針で縫われているのかということだ。」

…ジーリが愉快そうに言った。「そりゃ僕たち医者は、たしかに網膜乖離(отслойка сетчатки)については口にするがね」
「あり得ることだね。医者の場合には、何だってあり得るからね。だが世界を認識し記述する方法としての文学は、これはотслоениеなのさ。僕はこの用語にはこだわりたいね、特許を取ろうかと思うくらいだ」
「むださ」論争にノヴォルジェフスキイが口を入れた。「だって、良心に誓って言うが、文学はотслоениеじゃなくてослоениеなのだからね…」(…)
 ノヴォルジェフスキイは強く言い張った。「このослоениеとは、認識するとともに言葉の織物を作り出すという、たがいに分かちがたい同時的な行為なのだよ。文学や作家は、事物の本質を認識しつつ、その事物の層を一つ一つはぎ取っていき、同時にそれを一層ずつ積み重ねることによって、言葉の織物を織り上げていくのだ。一層ずつはぎ取ると同時に、一層ずつ積み重ねていく。これがつまりослоениеということさ…」

 最初の引用が『散文の理論』序文の有名な一節の、ослоениеがостранениеの、それぞれもじりであることは一見して明らかだろう。
 一方、ノヴォルジェフスキイの文学的盟友プレトニョーフのプロトタイプは、トゥイニャーノフである。

…たとえどんな文学的製品であっても、その出来映えという観点から検討することが、今や完全に可能になったのである。――確かにこれは重要な一歩だった。だがプレトニョーフは、この一歩が十分なものではなく、これによって得られるものが今のところわずかであること、ノヴォルジェフスキイによって発見された文学的計算尺や裁縫道具の陰に、尺や糸や針よりも重要な何かが隠されているということを感じていた。…ノヴォルジェフスキイに欠けていたのは、運動に対する感覚、文学のたえまなく発展するという本質への理解、文学的計算尺や裁縫道具の留まることない向上と摩耗に対する理解だった。…プレトニョーフによれば文学は、たえず、だが不均等に、リズムを激しく変えながら、展開していく。生気のない、懶惰な、外見には完全な停滞にも似た動きの後で、荒々しい躍動と跳躍のときが不意にやって来るのだ。プレトニョーフは、自分自身にも他の人々にも正しく理解できるようにとの配慮から、以前から知られている「ジャンル」「シュジェート」といった単語を用いはしたが、しかし彼においては、それらの用語は、全く新しい意味を帯びていたのである。

 ノヴォルジェフスキイとプレトニョーフの関係は、ロシア・フォルマリズム初期の共時的アプローチを代表したシクロフスキイと、'20年代後半から『文学的進化』ほかで文学史モデルの形成をめざしたトゥイニャーノフとの関係を、露骨に示唆している。ただし、ослоениеの定義や、ここでは引用を省くがプレトニョーフの歴史モデルについての記述など、作中人物たちの文学理論が、そのプロトタイプのものに比べ、なにか人生論的な基調へと微妙に塗り替えられている感は否めない。
 「何百万人もの市民が子供の頃から暗誦している」ほどの成功を収めたというスヴィショーフの冒険小説『航海士たち』のあらすじ(少年たちが川岸で黄色い革ジャケツを着た水死人を発見する。彼らは死者の鞄に、半ばふやけた地図と濡れて半ば読めなくなった書き付けとが入っているのに気づく。それらは、ユカギロフ提督ひきいる南極探検隊の謎の失踪について何か重要なことを伝えようとしたものらしい。少年たちは、幾多の困難を乗り越えた末に、探検隊を滅ぼした悪党どもを打倒する)が、カヴェーリン『二人の艦長』Два Капитанаの簡潔な再話であるという指摘もある(Обозрение С.К., No.55,1999)。医者ジーリの挿話がカヴェリーンの兄弟で微生物学者だったジリベルの生涯に基づいている(Е. Ермолин: Закладка, Новый мир, No.9, 1999)ことなどを考えれば、B.B.の友人・知人をめぐる伝説は、そのほとんどが、フォルマリストとその周辺の著作・人間関係に基づいていると言える。

b)B.B.自身をめぐる伝説
 B.B.自身の生涯をめぐる伝説もまた、文学的な記憶や想起に満ちている。
1)革命の前夜、ブロークを訪ねようと冬のネヴァ河畔を友人たちと歩いていたB.B.は、その途中、はてしなく続く文学談義に嫌気がさして、友人たちから一人離れ、凍結したネヴァ河を海に向かって歩み、やがて眠りこんでしまう。彼を救ったのは、「太陽が見たくて」北極圏から南下してきたラップ人女性マーアレトだった。二人は彼女の故郷に赴き、そこで数年を幸せに過ごす。幸福を壊したのは、ボリシェヴィキの手を逃れて、かつての担当区に逃げ込んできた収税吏だった。彼から革命の勃発を知り、甦ったロシアの記憶に苛まれたB.B.は、マーアレトと別れ、帰国する。(「文明」-「自然」)
2)国内戦後、カフカースで文盲撲滅事業に参加していたB.B.は、「雲より高い人里離れた村」の娘ローザ・ラスーロヴナの美しさの虜となり、彼女を浚って馬に乗せ、山を駆け降りる。ローザの兄弟はその後を追い、祖父伝来の銃で撃ってきたが、B.B.は街まで逃げのび、ローザと結婚したという。ローザの兄弟たちは二人が幸せに暮らしていることを知り、後にB.B.と和解した…もっとも、この件に関しては、兄弟たちが山を駆け下りるB.B.を捕らえ、ローザとの結婚を強いたという正反対の説も流布している。(コーカサス神話とそのパロディ)
3)第2次大戦後(おそらくコスモポリタニズム批判の時期を念頭に置いている)の出来事として次のような挿話もある(アフマートワの『レクイエム』をめぐる実話・ブルガーコフ『巨匠とマルガリータ』))

 ローザ・ラスーロヴナは上着を脱ぎ、手製のノート、整理帳、古い封筒の山に埋もれて、暖炉のすぐ近くに座っていた。それらが贈呈の署名の付いたタイプ原稿や詩の自筆草稿であることにB.B.は気づいた――やがてそれらは炎の中にただよい、燃え上がっては一瞬にして燃えつきて、もはやどこにも存在しなくなった…「そんなことはないわ!」ローザ・ラスーロヴナは夫に向かって、そう言った。彼女は、これまでなかったことだが、夫の酩酊を咎めようとしなかった。そして彼に、自分はすべての詩を覚えていると請け合ったのである。彼がようやく口を利き、しかし妻の言葉を信じられないでいるのを見てとると、彼女は記憶だけをたよりに、詩を暗誦し始めた。

 いずれの挿話も、a)の場合と同様、文学的記憶の露骨なまでの想起である。
 B.B.の生涯については、他に1)第2次大戦に出征したが帰還した、2)母親に死なれ、父親セラフィムにも見捨てられた孫イオナを自分の家に引き取って養育した、3)1974年に病死したが、死の床でマーアレトに対する良心の呵責を感じていた等の情報が、断片的に読者に伝えられている。

(3)セラフィム(Серафим)
 B.B.の息子セラフィム(Серафим)は1932年に生まれたが、初等教育を他の街で受け、戦争中は疎開地を転々としていたため、概して父親との関係はよそよそしい。セラフィムは将来を嘱望され、天文学を学ぶためにレニングラード大学に入るが、2年目に自殺未遂事件を起こす。

 注射と包帯で手当てを受け、ぐっすり眠ったあとで、彼は、自分は或る不条理に苦しんでいたのだと医師たちに語った。彼セラフィムは、宇宙の全貌・規模・刻一刻変わる輪郭をはっきりと完全に想像できるようになった結果、私たちの銀河系の規模を知覚し、その輪郭を脳裏に思い描くことができなくなってしまったのだ。なぜなら銀河は宇宙に比べてあまりに小さすぎるから…セラフィムは、ほかならぬこの感覚的な不条理にひどく苦しんだのだった。宇宙に関する人間の知識がたとえどれほどの量になろうとも、それは限りなくゼロに等しい、――しかも永遠に。このことを理解したとき、セラフィムは、人間がいかなる質的知識にも到達できないのは予め定められたことであり、それゆえ――病室で彼が表現したところによれば――知識量の増大は人間の尊厳を踏みにじる欺瞞である、人生に生きる意味はない、という結論に達したのであった。

 両親の努力と療養の結果、セラフィムは気力を取り戻し、卒業論文を提出する。論文の質の高さは誰もが認めるところだったが、自殺未遂事件が響いたのか、「学術活動に不向き」という理由で、研究者への道は閉ざされてしまう。心からの理解者である妻と故郷フノフに帰ったセラフィムは、かつて父親が勤めていた学校の教師となるが、妻は最初の子供の出産で死んでしまう。セラフィムは、亡き妻の希望どおり、生まれてきた子供に「イオン」と命名しようとするが、「化学用語を名前とした前例がない」という理由で、戸籍係に受理されない。妥協の結果として「イオナ」(=ヨナ)と名付けられた子供と、セラフィムは共に暮らそうとはしなかった。
 その後、変わり者で孤独癖はあるが悪くない教師として平穏に暮らしていたセラフィムの運命は、1974年に激変する。亡父B.B.の回想文を依頼された彼は、代わりに「疲弊している非黒土地帯の生産性を回復するために、この地域の土壌をしばらく休ませる必要がある。その間、この地域の農民は、労働力の不足しているシベリア等に移住しているべきだ」という主旨の論文を書き、警察の尋問を受ける。逮捕は免れたものの、セラフィムは「狂人」の烙印を押され、学校を追放されてしまう。その後、街のプラネタリウムの説明係になるが、このプラネタリウムを訪れる者と言えば、暗闇での逢い引きに来る若者たちだけだった。
 90年代。セラフィムは企業家となったイオナから家を与えられるが、二人の関係は冷えきったままだ。だがイオナが経済的に破綻して姿を消し、彼を追うマフィアの影を自分の周囲にも感じ取ったセラフィムは、息子の外套を着こみ、彼の持ち船に乗って湖上に出、彼をイオナと見誤ったマフィアの銃撃を浴びる。彼は、息子の身代わりになるという、自分のもくろみ通りに死んでいく。
 セラフィムの思考(宇宙と銀河に関する引用部)や性格(厭人癖と自然への愛着)は、具体的なプロトタイプを指摘できるかどうかは別にして、「雪どけ」期以降の文学的主人公のある種の型を忠実に踏襲しているように思われる。自分の意見を公の場で発表した結果として社会から疎外されるという彼の経歴も、この時期の長編にしばしば見かけられたパターンである。

(4)イオナ(Иона)
 父親セラフィムではなく、祖父B.B.に育てられたイオナは、成人後、全国的に著名なチーズ技師となり、かつて「私」の恋人だったマリーナと結婚する。90年代に入ると、イオナは企業連合<Деликат>の総帥・フノフ随一のニューリッチにのし上がる。購入した豪邸で暮らし、街の期待を一身に集めて、企業経営に明け暮れる日々のなかで、イオナはしかし、すべての業務を放擲したいという誘惑に駆られている。イオナは、休暇で帰省していた「私」を招き、二人で航海に出ようと持ちかける。

 「航海に出るときにはね、もうこうした仕事は僕にはどうでも良いことになる。仕事はスカクーニンかポルズーンコフに任せてしまおう。それともマリーナに任せるのが一番いいかもしれない。で、僕たちは最初、河口に向かって進むんだ。あそこの支流は――覚えてるかい――狭くて葦が生い茂っている。荷船で、あそこを座礁しないで通り過ぎるのは、誰にでもできる芸当じゃないが、僕は君なら大丈夫だと思うんだな…支流の辺りに二、三日停泊して、釣りや狩猟をしたっていい。それに飽きたら、いよいよ湖へ、それから大海原へと進んでいくのさ、船長!」

 だが船の完成する前に<Деликат>は破綻し、イオナは妻マリーナと共に姿をくらます。イオナはセラフィムに会いにフノフに現れるが、その後の彼の消息は杳としてわからない。
 イオナの人間像を創造するに当たって、ドミートリエフは明らかに、これを類型に当てはめることを意図している。彼の経歴、願望、言動のすべては、'90年代の戯画的な紋切型である。常に冷静沈着、部下に接するときの視線は「鋼鉄のよう」、上に引用した彼の夢想にしても、陳腐と言えばあまりに陳腐ではないだろうか。イオナに関する叙述を追っていると、「社会主義リアリズム」文学の「肯定的人物像」が'90年代に姿を現し、ニューリッチとして生き破綻したというような、奇妙な印象を受けるのである。

(5)話者「私」
 この物語の話者である「私」の人生は、B.B.・セラフィム・イオナ3人の人生と、直接・間接に交差してきたのだが、作中では、そのことは少しずつ断片的に明らかになっていく。
 「私」は長く海軍に勤務した後、今ではインチキ商社に雇われていて、ハンブルグへの貨物輸送船の船長をしている。「私」が海軍に入ったのは母親の差し金だった。B.B.の教え子で熱烈な崇拝者の一人だった彼女は、子供の頃スヴィショーフの『航海士たち』によってかき立てられた海への憧れを大人になっても忘れられず、本人には内緒で、「私」を海軍に登録したのである。
 こうして早くから艦隊に勤務するようになった「私」は、しかしマリーナという娘と交際していて、フノフに帰省するたび、実家をほとんど留守にしたまま、彼女とのデートに明け暮れる。最初に彼女と関係を持ったのは、セラフィムが説明係をしているプラネタリウムの暗闇の中でだった。マリーナは、自分をマリーナ・ムニシェクの末裔と信じるエキセントリックな女の子だが、「私」の母親も二人の交際を認めるようになる。
 「私」はやがて、マリーナがイオナと結婚したことを知る。退役した「私」は、露独航路の貨物船に乗り組み、今やニューリッチとなったイオナ・マリーナ夫婦との交友も復活する。
 イオナ達が行方をくらませた時には、「私」はハンブルグの港で足止めを食らっていた。会社間の支払いトラブルのために、出港を禁じられたのだ。「私」が手記を書き始めたのは、この予期せぬ余暇を利用してのことだった。クリスマスの近づいたある日、ハンブルグの街をぶらついていた「私」は、マリーナに似た女性を見かけ、後を追いかけるが、見失ってしまう。

…作り話など何一つない、ほとんどすべてが憶測で真実であるこの本を、そろそろ閉じるときだろう。そろそろ故郷に戻るべきだ。だが故郷に通じる道は、今のところ、ない。今でも春になると緩んだ川の氷が鉄橋の土台を砕き、禁猟の島カチャイの上空でさまざまな鳥たちが羽音を響かせているあの地へと、私が戻るのはいつの日のことだろう。

 『閉じた本』における話者の機能を一言で定義することは難しい。母親、マリーナ、イオナと同等の作中人物である一方で、彼はこの物語の"作者"でもある。ただし、この作者は、自分自身についても含め、一切の叙述に自分の評価を交えようとせず、ただフノフの街の三世代とその周辺に関する情報を集め、それらの年代記風の記述に専念している(記述の錯綜は、話者の技量不足として読者に意識される)。作中人物であると同時に、古典的で客観的な記述をめざす作者でもあるという「私」のこの位相は、既に述べたように彼が比較的古風な志向を持つ文学的アマチュアであるという設定によって、たしかに作中で十分な動機づけをなされてはいる。「B.B.伝説」において特に著しい文学的記憶の想起も、この設定によって一応は説明がつく。しかし『閉じた本』の読後感は、なにか奇妙に曖昧なものである。その最大の理由は、「話者」が『閉じた本』における様々な物語を一つに束ねるのではなく、むしろこれを拡散させる機能を果たしている点に求められよう。読者がこの作品で出会うのは、20世紀の「現実」の年代記ではなく、むしろ文学的clicheの果てしない羅列なのである。

3.考察――「神話」を閉じる試み
 ドミートリエフは「20世紀末におけるロシア・リアリズム文学の伝統の継承者」であるというのが、批評家たちのほぼ一致した見解だ。具体的な引用は省くが、初期の短編から現在にいたるまで、彼が古典的な意味での風景・情景描写に確かな技量を示していることは事実である。
 マルチェンコはドミートリエフに「停滞の時代」の文学の強い影響を見ている(Алла Марченко: От чего так легко зарыдать…, Новый мир, 1999, No.1)が、これも的確な指摘だろう。'80年代に書かれた『凪』『歩み』『ゴルベフ』は、題材から言っても構成から言っても、'70-'80年代文学の「幻滅」を主題とした型を踏襲している。またもう少しさかのぼって、カザコフの世代の影響を見ることもできるかもしれない。『閉じた本』に即して言えば、B.B.のラップランド生活の場面における空間や空の描写には、カザコフの北方を舞台にした諸短編を思わせるところがある。
 ドミートリエフが、過去の文学との関係において、「断絶」よりも「継承」から出発した作家であることは、まちがいない。だが、技術的な面以外において、彼は本当に「伝統の継承者」なのだろうか。

 批評家が一致してドミートリエフの特徴としてもう1つ指摘しているのは、過去の文学作品への彼の頻繁な言及である。『閉じた本』におけるフォルマリストほかの文学的神話・記憶の想起は既に見たとおりだが、『歩み』における民話「雪の女王」に始まり、『ヴォスコボーエフとエリザベータ』における『哀れなリーザ』・アンネンスキイ、『河の流転』における『魔の山』・民話「蛇の女王」など、引用・想起への志向はドミートリエフにおいて著しい。
 ドミートリエフの文学、とりわけ、文学的想起が駆使されている『閉じた本』に対する評価は、彼のこの志向をどう解釈するかで大きく違ってくるだろう。彼の引用癖の中に「古き良き時代」への郷愁を見れば、ドミートリフは過去の文学の「継承者」ということになる(Алла Марченко: там же)。一方、ポスト・モダニズム的なメタ・テキスト創出の試みを想定することもできる(Вл. Новиков: Филологический роман, Новый мир, No.10, 1999)。だが『閉じた本』において行われた試みは、おそらく、このどちらにも当てはまらない。
 『閉じた本』における文学的神話・記憶の引用は、これを過去の文学の「継承」を見なすには、あまりにも露骨で陳腐である。それらは高い文学的素養を持った読者でなければ理解できないようなものではない。『散文の理論』序文、「原稿は燃えないものだ」、『レクイエム』の記憶の経緯などは、多少の読書経験を持っているロシア人なら、誰もが知っている事柄だ。ところがドミートリエフは、これら読者にとっての常識を、わざわざ作中人物たちの言動として長々と再話してみせるのである。B.B.が「文明」を捨て(友人達の批評談義に嫌気がさし)、「自然」(ラップランド、コーカサス)に赴き、やがて帰ってくるという経緯も、あまりと言えばあまりに型どおりではないだろうか。プロトタイプの露骨すぎる示唆、想起される文学的神話のあまりの図式性、しかもそれらが作中人物の履歴として叙述されるという陳腐さ。
 一方、『閉じた本』をメタ・テキスト創出の試みと見なすことも困難である。メタ・テキストにおいては、引用されるテキストは前者に対して「開いて」いる。引用・想記される対象はメタ・テキスト全体を規定し、その基底として機能するのである。メタ・テキストにおいて過去の文学的神話や記憶は、未だ完結せず、なお生産性を保つ。ところが『閉じた本』においては、文学的神話や記憶は完全にclicheと化している。それぞれが「閉じ」、完結して、作品にはめ込まれているだけである。『閉じた本』Закрытая книгаという題名は、自分の兄弟のジリベルをモデルとしたカヴェーリンの長編の『開いた本』Открытая книгаという題名の明らかなもじりであるにもかかわらず、ジリベルをプロトタイプとするジーリの物語は、『閉じた本』の中でごく副次的な挿話でしかない。フォルマリストやアフマートワの想起もやはりB.B.をめぐる一挿話に過ぎず、『閉じた本』の構造を少しも規定してはいない。セラフィムやイオナといった、「名前のシンボリカ」を通しての聖書の想起もまた、それはただそれだけのことである。イオナの運命がヨナ記のテキストと何らかの有機的な関係を切り結んでいるわけではない。
 『閉じた本』は、「継承」の試みでも、またメタ・テキスト創出の試みでもない。ここにあるのは、既に「閉じた」・clicheとしての文学的神話の羅列である。おそらくドミートリエフが意図しているのは、「閉じた」神話を読者に顕示することそれ自体だ。では、clicheとしての神話を露骨に想起することによって、ドミートリエフはいったい何をめざしているのか。
 ノヴィコフは『閉じた本』に、「人文学的小説」=メタ・テキスト創出の、動機付けのない・破綻した試みを見、これを「文学的素養を持った限られた読者層相手の退嬰的・閉鎖的なゲーム」と呼んでいる(Вл. Новиков: там же)。もしもドミートリエフがメタ・テキストを志向したのなら、この評は適切だろう。けれども彼がめざしたのは、おそらく別のことなのである。

 この点で注目されるのは、彼のエッセイ『戦争と私たち』Война и мыだ。これは、1995年に発表されたマカーニン『コーカサスの捕虜』(Кавказский пленный, Новый мир, No.4, 1995)と、この作品をめぐって起きた論争とを、1年後に回顧して書かれた小文である。
 『コーカサスの捕虜』は、ロシア人兵士ルバーヒンが、捕虜とした山岳民ゲリラに同性愛的な好意を抱くが、行軍するうちに敵の襲撃を受け、奪取されないためにこの美貌の捕虜を絞殺するという内容である。絞殺の後でコーカサスの山脈を眺めながら、帰郷することも可能なのに自分でもなぜか解らないままにこの地での兵役を続けているルバーヒンは、「もう何年になるだろう!」とつぶやこうとする。だが、代わりに口を衝いたのは「もう何世紀になるだろう!」という「まるで陰から跳びだしてきたよう」な言葉だった。そして彼は「意識の奥底に長いことうち捨てられていたこの静かな思想に、いま初めて思いを馳せ始め」る…
 マカーニンの『コーカサスの捕虜』は、ちょうどロシア軍のチェチェン侵攻の前後に発表されたこともあって、多少の論議を引き起こした。この作品の文学性の高さについては一致して評価したうえで、その文学性が何に由来するのかが、論争の焦点となったのである。たとえば「文学新聞」の「論争」欄では、この作品の高い文学性は「書かれたものではなく、過去と現在のチェチェン戦争においてロシア人兵士達が実際に流してきた血」という「現実」に由来するというバシンスキイの見解と、それを主にロシア文学におけるコーカサス神話の伝統に連なり、その基盤の上で新たな文学的生産を行った点に求めるラトゥイニナの見解とが、同じページに並載された(Литературная газета, 7 июня, No.23, 1995, c.4)。
 これに対し、『戦争と私たち』は、後者と同様、文学的神話との強い関わりに『コーカサスの捕虜』の意義を認めてはいるが、しかしそのことについて独特の評価をしている。

 マカーニンの『コーカサスの捕虜』は、幻影・神話・私たちの意識の中の忌まわしい脱時間的なコーカサス神話に終止符を打とうとする確信的な試みである…

 マカーニンのテキストに対する評価としては、おそらくこれは強引に過ぎる。確かに『コーカサスの捕虜』においても、「コーカサス神話」への想起は露骨である。けれどもマカーニンは、神話を想起した上で、これを「ずらす」ことによってテキストを獲得している。言い換えれば、『コーカサスの捕虜』において「コーカサス神話」はなお「開いて」いるのである。マカーニンは、神話を転位したのであって、これに終止符を打ったのではない。
 おそらくドミートリエフの上のような強引な解釈は、期せずして、むしろ彼自身の抱負を示唆しているのである。文学的神話をclicheとして顕示することで、神話そのものに終止符を打つこと。

 なぜ「文学的神話」に終止符を打たなければならないのか。『戦争と私たち』の中で、ドミートリエフは文学的神話の起源を「現実」からの逃避に求め、これを「お伽話」と言い換えたうえで、次のような二項対立を示している。

 日々の現実の生活とは、パンの調達、下着の洗濯、通りのゴミ、警察、民警…一般に無価値とされている物事の総体である。一方、お伽話とは何かと言えば、それは山脈であり、比喩であり、高潔であり、狡猾さ、弾丸、馬、英雄的な行為、裏切り、献身、自由――そして何よりも「美」なのである。

 この二項対立の前提になっているのは、ひとは「文学的神話」という幻影に終止符を打つことによって、「現実」に直面するという確信である。ここではドミートリエフは、「神話」=clicheのそとに「現実」があることを疑っていない。
 1992年の『ヴォスコボーエフとエリザベータ』までのドミートリエフの作品は、この図式の上に成り立っている。作中人物は「こことは違う」世界への憧れを抱くが、その憧れは必ず挫折し、後には逮捕や死といった寒々とした「現実」が広がっている。そしてこのとき、「こことは違う」「お伽話の世界」の役割を担っているのが、多くの場合「文学的神話」なのである(空、海といったпросторがこの役割を果たすこともある)。『ヴォスコボーエフとエリザベータ』までのドミートリエフは、幻影の滅亡=「幻滅」を主題としている点で、明らかに「停滞の時代」の文学のある種の型の圏内にいた。「幻影」が滅んだ後には、荒涼とした、しかし確固とした「現実」が残されていた。
 ところが『閉じた本』には、もはやこの図式は当てはまらない。「B.B.伝説」において種々の「文学的神話」がclicheとして「閉じた」後に読者が出会うのは、「現実」ではなく、セラフィム=「停滞の時代」のclicheである。セラフィムの後に現れるのは、今度はイオナという現代ロシアのclicheだ。『閉じた本』にあるのはもはや「幻滅」の図式ではない。読者は話者と共に、一つの神話を逃れてもまた別の神話へ、一つのclicheを逃れてもまた別のclicheへとはまり込んでいくのである。幻影、神話、cliche、そして本。ロシアの20世紀という一つの本を「閉じた」話者に、「だが故郷に通じる道は、今のところ、ない。」

 「現代におけるロシア・リアリズム文学の継承者」というドミートリエフに対する一般的な評価は、『閉じた本』に対しては既に有効ではない。「幻滅」ではなく、神話=clicheの限りない連鎖をこそ主題としたこの作品は、必ずしも成功作とは言えないだろうが、しかし、ロシア・ソ連文学の「継承」から出発したドミートリエフが、cliche・コードを逃れられない現代の人間のあり方そのものを意識的に対象とした最初の試みとしては、注目に値するのである。ポスト・モダニズム作家としてのドミートリエフの成功は、なお今後に待たなければならないだろう。