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革命後のモダン・ダンスの波    -ニコライ・フォレッゲル(1892-1939)の芸術-

村山 久美子

00. はじめに

 ロシアの舞踊芸術と言えば、『白鳥の湖』に代表されるような、クラシック舞踊の語彙を基盤にしたクラシック・バレエが有名であり、クラシック舞踊を用いないモダン・ダンスは、ソ連崩壊まで存在しなかったと思われがちである。実際、1930年代半ばからソ連崩壊までは、クラシック舞踊を変形させて例えば内股の動きを入れることさえ困難であったほどに、クラシック舞踊が神聖視され、それを用いないモダン・ダンスを上演することなど全く不可能であった。現在、ロシア・バレエがモダン・ダンスにおいて欧米よりも遅れていると言われるのは、そのためである。
 しかし、1917年の革命を経て30年代初めに至るまでのアヴァンギャルド芸術の時代には、舞踊界でも様々なスタジオや私立の舞踊学校が設立され、新時代にふさわしい新しいダンスを求めて、実験的な創作が盛んに行われていたのである。20年代には、1904年から1913年までしばしばロシアで公演を行ったイサドラ・ダンカン(1)の学校や(設立1921年)、その弟子達のスタジオ(チェルネツカヤ、ルキン、マイヤなど)、音楽のリズムや感情のイメージをいかに速くマスターするかを研究して、即興のダンス創作法を教えたジャック・ダルクローズの研究所、いかなるステップも拒否し、ほとんど不動で、心理体験をミミックで表現するドラム・バレートのジャンルを生み出したシャルムィトワのスタジオ等々が現れた。(2)
それらの中で最も際立っていたのが、カシヤン・ゴレイゾフスキー(1892-1970)とニコライ・フォレッゲルの創作だった。
 ゴレイゾフスキーは、クラシック舞踊を基盤とし、官能的で瑞々しい感性にあふれる小品を創作した。彼は、モスクワのボリショイ劇場と自ら率いる小劇場で創作を行っていたが、スターリン時代に片田舎の劇場に左遷されてしまった。とはいえ、60年代にはボリショイ劇場に戻って傑作を生んだこともあって、90年代にはボリショイ劇場で彼の作品の復元が行われ、彼が今世紀のロシア・ソビエトの最も優れた振付家の一人であることは再確認されている。
しかしフォレッゲルに関しては、十月革命後、メイエルホリドが唱えた「演劇の十月」に匹敵する「ダンスの十月」を唱えてダンスの革命のリーダーとなり、身体表現と大衆娯楽をベースにした、工業化時代にふさわしい精度の高い芸術を作り上げたにもかかわらず、その創作活動は、未だ十分に明らかにされていない。おそらくその理由の一つは、フォレゲッルが、ロシアの舞踊界のレパートリーとして後世に作品を残してゆくような大劇場で作品を作らなかったためである。そしてさらに、彼がメイエルホリド同様身体の動きに注目し、心理描写よりもダンスのフォルムの追究に力を注ぎ、しかも、独立した小品のつなぎ合わせであるディヴェルティスメントを作ることが多かったため、伝統的にこのような作品の傾向をきらってきたロシア・ソビエト・バレエの人々が、これまで、その作品を復元する必要性を感じなかったからではないかと考えられる。
 しかし、世界でダンスの形態が多様化してフォルムのみの追究も盛んに行われている現在、フォレッゲルの創作の研究は、かなり重要性を帯びてきているように思われる。実際、アメリカでは70年代に、フォレッゲル自身の論文と彼を高く評価した論文(3)が出ており、1983年には、メイエルホリドの『堂々たるコキュ』に続いて、フォレッゲルのダンス『馬たちとの友好関係』の第一部が復元されている。(4)ロシア・ソビエトでは、70年代前半と80年代半ば以降にフォレッゲルへの関心が高まっているが、特に1988年に書かれた論文は(5)、彼の芸術を、音楽舞台芸術の歴史的遺産であるとまで評している。

01. 新しい演劇の探索
 
 では、フォレッゲルの創作活動を、年代を追って見てゆこう。
 フォレッゲルは、ロシアの長い舞踊史の中でも、非常に稀な経歴をもつ振付家である。というのも、彼は、舞踊教育も音楽教育も受けずに、独学でパントマイムやダンスを研究して振付家になったからである。出身はキエフ大学法学部で、中世フランスの定期市の見世物について論文を書いて学位を取得している。
 卒業後まず、1916年に、キエフからモスクワに出て行き、タイーロフのカーメルヌイ劇場に入って、タイーロフの弟子として働いた。
 1917年2月にこの劇場が資金難で閉鎖されると、活動の場をペトログラードに移し、ラベルやドビュッシーなど同時代の音楽でダンスの創作を開始する。
 そして1917年の革命の後、モスクワの自宅を使って、いよいよ作品を発表し始める。プログラムは『四つの仮面の劇場』というシリーズで、文学と、中世フランスの宮廷で行われたファルスと、17~18世紀のコンメディア・デラルテをベースにした風刺作品であった。この試みはある程度評判を得たが、当時の観客が古典復古主義に関心を失ったこともあり、間もなく劇場は閉鎖される。
 この後すぐ、若い詩人、戯曲作家、文芸評論家ウラジーミル・マッスの協力を得て、社会の新しいタイプを登場人物のベースにした風刺劇場を創設する。当時は、赤軍や地方の住民に向けて、ソビエト政権につくプロパガンダの作品を上演することが奨励されていたため、フォレッゲルとマッスも、アジプロ演劇を開始し、地方巡業を行う。政治的ユーモアを含んだこの時期の作品は、身体運動よりも意味に重点を置いたものであり、舞踊芸術の探索というよりも、新しい演劇の探索と言えるものだった。


02. マストフォル

 1921年、再びモスクワに戻ると、風刺劇場の弟子達をメンバーとして、とうとう劇団マストフォル(Мастерская Фореггера)を結成する。このグループの活動こそが、フォレッゲルを世界的に有名にすることになる。
 1922年にフォレッゲルは、マストフォルの方向性を示すマニフェスト(6)を発表している。そこで彼は、メイエルホリドのビオメハニカに賛同し、かつ、「作品の正確さ、シンプルさが必要であること、機械に学ぶべきであること、アカデミックにならないようにすること」を強調している。フォレッゲルは、未来の芸術はダンスと映画であると考えており、チャップリンの演技がこのマニフェストのモデルとなった。(7)
 マニフェストを作品で実現させるべく、フォレッゲルが考案したダンサーのトレーニング・メソッドが、「ТАФИЯТРЕНАЖ」(8)である。このメソッドの基本は、「ダンサーの身体を楽器として使うこと、ダンサーの意志によりコントロールされるメカニズムとして使うこと」である。つまり、「ダンサーの身体を機械と考え、意志通りに動かせる筋肉を機械の操縦者と考えるならば、情熱が機械を動かす燃料となる」(9)という考え方を基にしたものである。
 具体的には、この訓練には400のエクササイズがあり、脚だけ、腕だけでなく、体全体が均一に発達してゆくように、そして、強度の高い踊りを生み出すことができるように、筋力や跳躍力、攻撃性をつける訓練、パートナーの重さを負荷した上での動きなどの訓練が含まれている。(10)マストフォルのダンサー達の写真を見ると、その無駄のないポーズや柔軟性から、優れた訓練が行われていたことがうかがえる。
 「ТАФИЯТРЕНАЖ」の成果が最も発揮される有名な「メカニック・ダンス」や「機械ダンス」が登場するのは1922年秋のことだが、初期の作品から、舞台評によると、「フォレッゲルのアーティスト達の動きはアクロバティックだ」、「作品は鋭く多様な、思いもかけぬ手法で演出され、風刺小唄(チャストゥーシカ)やダンスが豊富である」と書かれている。(11)マストフォルでは、このように身体の動きを特に重視しながら、ネップ時代の風俗の風刺劇や、同時代の劇場のパロディー、公演当日の事件を取り上げるバラエティーショーなどが行われた。それらは、同時代のアヴァンギャルド芸術の種々の要素を取り込んだものだった。
 具体的には、レパートリーは三つのジャンルに分けられる。
 まず、左翼芸術家の活動をもじった20分ほどの寸劇で「シアトリカル・パレード」と呼ばれるもの。例えば、メイエルホリドのビオメハニカのパロディーでメイエルホリドの作品と同題の『夜明け』や、当時グランド・オペラの芸術監督になることをもくろんでいたネミローヴィチ=ダンチェンコをからかう『どんな賢者にもオペレッタは一つで十分』(オストロフスキー作『どんな賢人にもぬかりはある』のパロディー)等々である。これらは観客の爆笑を買う種のものだったが、その根底にあるテーマは、新時代にふさわしい新しい芸術を求めて進路を模索していた左翼芸術家のもがきを映し出しながら、革命劇場の進路を見出そうとしたものだった。
 第二のジャンルは、前述のジャンルよりも際立っていたレパートリーで、「パレード」と呼ばれるキャバレー・スタイルの芝居だった。ここでは、音楽にジャズが用いられ、同時代人がコンメディア・デラルテの登場人物に重ね合わせられて登場した。最も頻繁に登場させられたのは、皮のジャケットを着てブリーフケースをもった女性コミュニストやネップマン、革命に自分を従わせたシンボリスト、ベールイやブローク、イマジニストのエセーニンやシェルシェネーヴィチ、そしてイサドラ・ダンカンだった。個人の身体と魂の完全なる表現を目指したダンカンの踊りは、フォレッゲルの目指すものとは対局にあったのである。
 このジャンルの劇では、アクロバット、コーラス・ライン、コサック・ダンスが頻繁に用いられた。ちなみに、フォレッゲルの作品では、通常、ケイクウォーク、シミー、フォックストロット等々、当時流行していたありとあらゆるダンスが用いられた。
 「パレード」では、通常の芝居の構造、流れが故意に避けられ、突然の中断やリズムの転換(シンコペーション)が頻繁に現れた。それにより、観客には多量のショックが与えられ、観客の方は、大爆笑でそれに答えたのだった。これらの辛辣な芝居は、スピーディーかつ時事的で、サディスティックなまでにイリュージョンを避けており、一種の同時代のサーヴェイの意味合いをもっていたと言える。
 フォレッゲルが協力者に恵まれていたことも、マストフォルの成功の大きな要因であった。脚本は、エイゼンシテインの映画の協力者となるウラジーミル・マッス、衣裳はセルゲイ・エイゼンシテイン、美術はやはり、映画でもエイゼンシテインの相棒となるセルゲイ・ユトケーヴィチが担当していた。
 

03. 『馬との友好関係』の大成功

 さて、フォレッゲルの名声を一気に高めることになるのが、「パレード」のジャンルの最高傑作『馬との友好関係』である(初演1921年12月31日~1922年1月1日)。マストフォルと親密な関係にあったアドヴァイザー、マヤコフスキーの詩を下敷きにした作品で、詩と同じ題名になっている。詩の内容は、通りで倒れた辻馬車の馬を囲んで人々が驚き喜ぶ中、一人の詩人だけが馬の目に涙を見、詩人との心の結び付きに励まされて、馬はうれしそうに駆け去るというものである。一方、二幕仕立てのマストフォルの芝居では、まず、第一幕は、最初に馬のマスクを被った俳優を登場させて、馬の様子に対する反応を、社会の様々なタイプの人間の風刺として、コミカルに辛辣に表現する。そして同時に、公演当日のニュースについての話し合いを進める。
 第二幕では、馬が回復し、コミカルなダンスや歌による、西欧風の風刺キャバレーのショーが展開される。ここでもダンカンは風刺の対象となり、赤い半透明のベールの中で、ダンカンが一人の男に弄ばれながら、ショパンのノクターンを踊る場面などが登場する。この曲は、革命4周年記念の際に、ダンカンがレーニンの前で踊ったものである。この場面では、ダンカンの腕の上げ下げがプロレタリアートの力の安定、不安定を示すことを、司会者が説明した。
 『馬との友好関係』で特に評判になったのは、西欧のキャバレーのパロディーである第二幕だった。まず、当時非常に斬新な音楽として響いたジャズが使われ(12)、同時代のリズムを提供したのだった。さらに、ユトケーヴィチのウルバニズム的な動く舞台装置が衝撃的だった。動くステップ台や踏み車、吊されたり床に取り付けられたトランポリン、光るネオンサインや映画のポスター、回り舞台、宙を飛ぶライト等々。これらは、舞台裏で全て手仕事で行われていたにもかかわらず、高度に機械化された印象を与えたのだった。加えて、エイゼンシテインが製作した斬新な衣裳も、強烈な印象を与えた(図1、2、3)。特に女性の衣裳は、フープをカラフルなリボンや紙テープで吊しただけのスカートで、ダンサーのボディラインを露にする奇抜なものだった。衣裳の場合も、資金不足で布地を用意できないゆえのアイデアだったにもかかわらず、人々を驚嘆させてしまった。
 『馬との友好関係』はセンセーショナルなヒットとなったが、その反面、対立者達からは、「西欧音楽のプロパガンダ」「衣裳がハレンチ」といった攻撃を受けることになった。
 1922年春初演の『子供のひったくり』でも、斬新な演出が話題を呼んだ。ここでは、映画のプロジェクターからの光のように見えるスポットライトの前に、急速に回転するディスクを置き、それによって明滅する光で、行動のテンポとシーンの変化が「狂気のギャロップ」(13)のようになった。1922年の「エルミタージュ」の評は、「動きを愛し熱狂的騒ぎに親しんで、フォレッゲルは、言葉が舞台芸術の単なる補助的役割でしかないことを知った」と書き、その演出については、「彼は、熱狂し酔いしれる町の声を描いている。それが、新しいサウンドと動きを誕生させているのだ」という印象を述べている。(14)こうしてフォレッゲルは、自分の目指してきた「身体表現による大衆娯楽」の一つの形態を成功させたのだった。

04. メカニック・ダンスと機械ダンス

 フォレッゲルの身体表現の探索はさらに続けられ、精度を高めていった。
 1922年秋、彼は、レパートリーの第三のジャンルであり、彼を世界的に有名にした「メカニック・ダンス」と「機械ダンス」のシリーズを発表して絶賛される。
 「メカニック・ダンス」は、機械が生きた存在として描かれたもので、例えば、『パストラル』という作品では、No. 1とNo.2と呼ばれるダンサーが、愛し合う機械の役を踊った。幾何学模様のメーキャップで、音楽はミニマルなピアノ曲を用いていた。フォレッゲルの創作について書かれた1988年の記事では、この踊りが現在のブレイク・ダンスによく似たものだったと述べられている。(15)
 「機械ダンス」は、人間の内面は一切見せずに、機械の動きを身体で表現したものである。例えば、『列車』という作品では、駅での人間の小さなエピソードの後、ダンサー達が一列に並び、反り返った金属板の上でタップ・ダンスを踊る。列車が速度を速めるシーンでは、ダンスのステップが次第に激しくなり、レールの継ぎ目では、ステップがシンコペーションになる。そうこうするうちに、やがて舞台は暗くなり、助監督がダンサー達に火のついたタバコをわたすことで小さな明かりのラインが現れ、夜汽車のイメージが出来上がった。この作品について、ニューヨーク・タイムズ紙には、「でこぼこのロシアの線路を走る夜汽車のイメージ。幻想的だ」という評が掲載された。(16)
 『トランスミッション』という作品では、3メートル離れて立つ二人の男性のそばを、女性達がベルトコンベアのように細かい歩みで動き、『ノコギリ』では、体の非常に柔らかい女性ダンサーの腕と脚をつかんで、弓形に体を曲げたポーズで揺らすという動きが行われた。「機械ダンス」の音楽には、フォレッゲルの提案で、ホイッスルやメタル、壊れたガラス等を使った騒々しい擬声音が使われた。
 「芸術は生産と結びつく」という当時の人々を捕らえた理念を、フォレッゲルの作品は見事に具現し、しかも、鍛え抜かれたダンサーの動きが美しかったため、「メカニック・ダンス」と「機械ダンス」は、絶大な支持を得た。1923年には、これらの作品の規模をさらに大きくした工場の生産プロセスを描く作品を発表し、複数のグループがギア、レバー、モーターなどの動きのダンスを同時に見せた。このスケールの大きなダイナミックな作品により、フォレッゲルの「機械ダンス」はさらに大きな称賛を得た。
 R.ミラーはフォレッゲルの作品を見て、1926年に次のように分析している。
 「それは、新しい機械の神をダンスで祝福するかのようだった。彼らの身体は、精密に組み立てられた機器になった。彼らはもはや動くのではなく、機能していた。フォレッゲルが達成したものは、生き物の映画化であり、ダンスによる人間のメカニズムの分析である。それらは、心理、機械、サイコ・テクニックの徹底的な研究によって行われた。この新しいダンスは、人間のオーガニズムの最も普遍的な動き、個々人のではなくユニヴァーサルなリズムを表現しようとしているのだ」(17)
 このように、フォレッゲルの「メカニック・ダンス」と「機械ダンス」は国内外で高く評価された。にもかかわらず、1923/24年のシーズンになると、彼の芸術は厳しい非難の嵐に会うことになる。その理由の一つには、常に財政難のマストフォルの資金集めのために、彼がネップマン達の好みに合わせたエロティックな作品も上演していたことが挙げられるが、それ以上に、教育人民委員ルナチャルスキーが、1923年に芸術の古典への回帰を訴えたことが大きく影響していると考えられる。
 非難の嵐に追い打ちをかけるように、1924年末には、1922年にアルバート通りに入手した常設劇場が、客席から発生した原因不明の火災により焼失し、再開の許可が下りずに、結局、マストフォルは解散に追い込まれてしまった。

05. フォレッゲルの作品の消滅とその後のロシア舞踊界の進路

 フォレッゲルはマストフォル解散後、ペトログラードを本拠に、細々とモスクワでの実験を続け、その後、1929年から30年代初めまで、当時のウクライナの首都であったハリコフに新設されたオペラ・バレエ劇場で、首席バレエマスターとして働く。ここで彼は、1930年に、最後に名を残すことになった作品であるフォーキンのパロディ三部作――『黒鳥』(『瀕死の白鳥』のパロディー)『ポロヴェツの踊り』『アラゴンのホタ』を発表する。
地方の小さなオペラ・バレエ劇場で、フォレッゲルがその活動の晩年にフォーキンの作品のパロディーを創作したことには、深い意味があるように思われる。
 19世紀まで、物語にいわばしがみついていた舞踊芸術は、20世紀に入り、意味よりもフォルムを重視する傾向と、意味や心理表現を第一に考える傾向に分かれて発展してゆく。20世紀初頭のロシア・ソビエトにおいて、前者のダンスへ向かったのが、正にフォレッゲルであり、後者へ向かったのが、魂と身体表現の一致を求めたフォーキンだった。(18)そして、フォーキンの創作法が継承され、フォレッゲルの創作が闇に葬られることにより、ロシアは、世界で唯一、専ら意味性を重んじるダンス形態だけが発展してきた国となったのである。
 フォレッゲルが創作したフォーキン作品のパロディーは、活動を断ち切られた彼の、社会や運命への必死の抵抗だったのではないか‥‥。『瀕死の白鳥』のパロディー『黒鳥』は、左の翼を折られて舞台に登場し、フォーキンの白鳥が顔を床に伏せて息絶えるのに対して、仰向けに倒れて死んでゆくというものだった。

 


<註>

(1) イサダラ・ダンカン(1878-1927)アメリカのダンサー。古代ギリシャの精神への回帰を唱え、裸足で即興的に、自由な動きで踊った。ロシアでも、フォーキン、スタニスラフスキー、ベヌアなど同時代の芸術家達の大きな関心を集めた。1922年に詩人エセーニンと結婚し、ソ連の市民権を得た。
(2) この時代のソ連舞踊界についてはСуриц, Е. Хореографическое искусство двадцатых годов. М., 1979.に詳しく述べられている。
(3) Gorden, M. Foregger and the dance of machines // The drama review. 1975. -No.1. -march.
(4) Gordon, M. Reconstructing the Russians // The drama review. 1984. -Vol.8. -No.3.
(5) Чепалов, А. О Фореггере и не только о нем… // Музыкальная жизнь. 1988. -№8.
(6) Зрелща. 1922. -№7. стр. 10.
(7) フォレッゲルはチャップリンの演技について「チャップリンの演技は正確で、彼はジェスチャーのための装飾的なジェスチャーを行わない。彼の仕事では、意図と行動が常に明確だ。演技は具体的で、彼は物事に的確に反応する。(中略)体全体が完全なメカニズムとして機能している」と述べている(Leach, R. Revolutionary Theatre. London. 1994. p. 121.)
(8) 「ТАФИЯТРЕНАЖ」の意味は明らかにされていない。
(9) Foregger, N. Experiments in the art of dance // The drama review. 1975. -march. p. 75.
(10) Foregger, N. Experiments in the art of dance // The drama review. 1975. -march. に、この訓練の目的と特徴が詳しく述べられている。
(11) Маркоф, П. Новейшие театральные течения. М., 1924. стр. 52.
(12) ソ連に初めてジャズ・オーケストラが現れたのは1922年。パリから帰国したワレンチン・パルナフが率いた。
(13) Известия. 1922. 23/04.
(14) Gorden, M. Foregger and the dance of machines // The drama review. 1975. -No.1. -march. p. 71. (Эрмитаж. №5. 1922.より転載)
(15) Чепалов, А. О Фореггере и не только о нем… // Музыкальная жизнь. 1988. -№8. стр. 26.
(16) Зрелща. 1923. -№68. стр. 15. (New York times より転載された記事)
(17) Gorden, M. Foregger and the dance of machines // The drama review. 1975. -No.1. -march. p. 72. (Fulop-Miller, R. The mind and face of Bolshevism. New York. 1927. からの転載)
(18) フォーキンの創作については、拙稿『20世紀バレエの扉を開けた振付家ミハイル・フォーキン』(ロシア文化研究 1999年 第6号)を参照されたい。

<主要参考文献>

1) Leach, R. Revolitionary theatre. London, 1994.
2) Gordon, M. Reconstructing the Russians // The drama review. 1984. -Vol.8. -No.3.
3) Gorden, M. Foregger and the dance of machines // The drama review. 1975. -No.1. -march. 
4) Foregger, N. Experiments in the art of dance // The drama review. 1975. -march.
5) Шереметьевская, Н. Н. Фореггер // Театр. 1972. -№5. 
6) Шереметьевская, Н. Танец на эстраде. -М., 1985. 
7) Чепалов, А. Черный лебедь Н. Фореггера. // Советский балет. 1984. -№3. 
8)  Чепалов, А. О Фореггере и не только о нем… // Музыкальная жизнь. 1988. -№8. 
9) Суриц, Е. Хореографическое искусство двадцатых годов. М., 1979. 
10) ロシア・アヴァンギャルド・テアトル Ⅰ/Ⅱ. 東京. 1988, 1989. 
11) 田之倉 稔著 イタリアのアヴァンギャルド. 東京. 1981.