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ユーリー・マムレーエフ『永遠の家』――〈他者〉をめぐる90 年代のディスクールの一断面

番場俊


0.90 年代のマムレーエフ
 ユーリー・マムレーエフ(Юрий Витальевич Мамлеев、1931-)が非公式文学の世界で作家活動を始めたのは1950 年代であり、60 年代には作品が地下出版のかたちで広まってすでに一部の熱狂的な支持を受けていた1。1988 年に海外で初めて出版されて彼の代表作とみなされている長編『遊民たちШатуны』も、執筆は1966-68 年にまで溯る2。ミハイル・エプシテインによる文学史の図式では、マムレーエフの名は、ユーリー・クズネツォフ、アナトーリー・キムらと並んで、文学の「神話創造」段階の代表として登場する。ボリス・グロイスやイーゴリ・スミルノフは、彼をアンドレイ・ビートフ、サーシャ・ソコロフ、ドミートリー・プリゴフ、ウラジーミル・ソローキンといったポストモダン作家たちに影響を与えた世代の一人として位置づけている3。要するに、彼はどちらかといえば60-70 年代の作家なのであり、作品の刊行の遅れこそあったものの、本来はブレジネフ体制下
のソ連非公式文学というコンテクストのなかで評価されねばならないのである。
 しかし、本稿の筆者の関心を惹くのは、むしろ一つの言説的な事件としての「90 年代のマムレーエフ」である。そこで彼の名は、明示的にあるいは暗黙のうちに、ロシア90 年代の言説的な事件であったミハイル・バフチン再評価との関連において言及されていたように思われる。バフチン批判の急先鋒であるグロイスによる言及はその好例だが、より重要なのはミハイル・ルイクリンによるマムレーエフ評価であろう。バフチンのラブレー論を、スターリン期の大テロルにおける「集団的身体」の経験という外傷的な出来事に由来する「自家治療的なテクスト」であるとした著名な論文において、ルイクリンは、そうしたテロルの理想化の対極に位置するものとして、共同的身体の恐怖の深みに降りていったマムレーエフのデモニズムをとりあげる。彼によれば、マムレーエフは共同的身体の逸脱する生理学に忠実なあまり文学の規範を大幅に踏み外してしまった作家なのであり、その点で、同じく共同的世界における現実原則の歪曲に直面しながらもあくまで視覚的な距離を維持しようとしたカバコフとも、文学的典礼を理想的に遂行したブロツキーとも異なる、稀有な存在なのだ4。グロイスとルイクリンにおいて、マムレーエフはバフチン的ディスクールの裏面として現れている。だが、両者はもっとずっとナイーヴなかたちで結びつけられることもある。実際、腹や尻や性器といった「身体的下層」が絶えず強調され、猥らな汗を流しながら身体が交合し寸断され、ゴーゴリとドストエフスキーの伝統への言及が繰り返される彼のテクストを読みながら、バフチンの「グロテスク・リアリズム」論を想起しないでいることは難しい5。いずれにせよ、90 年代の風景において、マムレーエフが多かれ少なかれバフチン的な磁場において語られていたことは否定できないのである。
 マムレーエフの短編集『永遠の家』を中心にとりあげる本稿もまた、作品そのものの評価のみならず、彼をめぐる言葉がバフチンをめぐる言葉とともに織り成した90 年代のディスクールの一断片に焦点をあてることになろう。「バフチン的な磁場」と言ったが、問題は「バフチン学」の内部にとどまらない。「バフチン問題」は、ロシアのポスト・コミュニズム的ディスクールにおける特権的な徴候の一つと言えるような面をもっていた。
そこで賭けられていたのは「共同的身体」(ルイクリン)、あるいは「他者」(グロイス)の言説的な地位であった。マイナーな作家でしかないマムレーエフだが、彼の作品は、〈他者〉をめぐる90 年代のディスクールの屈折のあり方を鮮やかに指し示す指標となっているのである。

1.『永遠の家』から
 短編集『永遠の家Вечный дом』は、1991 年に「芸術文学」社から刊行された。この書物の性格が簡潔に示されている作者序文を引用しよう。

この作品集には、亡命前の60 年代に書かれた短編(「無からの声」ほか)と、出国後、おもにアメリカ合衆国で書かれた「チャーリー」と中編「永遠の家」が収められている。
 […]いくつかの私の作品は西側の文学界ですらショックをひきおこした。しかしながら、それがゴーゴリやドストエフスキーの伝統に結びついており、人間の魂の暗く謎めいた深淵を記述し、あたかもこの隠れた深淵から出てきたかのようなキャラクターやタイプを創造していることも強調された。散文における主人公のこうした描写法には、私が精神医学の教授の家族に生まれ、この学問をよく知っていたという事情が影響していたかもしれない。実際、精神病理学の事例や素材が露骨に利用されている作品もある(例えば、中編「永遠の家」や長編『遊民たち』など)。
 私は「典型的な人々」や「平均的な人々」等々を描かなかった。逆に私がいつも記述していたのは例外的な状況に置かれた例外的な人々であって、そこで精神医学の知識を利用していたのである。しかしながら私の目的は狂気を芸術的に描き出すことではまったくなかった。こうした記述はすべて、人間の魂の過激な隠れた側面や、存在の悲劇や、形而上学における未知の探究を示すための手段にすぎなかった。作家たちが心理状態や、宗教に関わる状態を解明するためにすら、しばしば犯罪の事例を利用してきた(『罪と罰』を思い出そう)のと同様に、私も形而上学の領域に属する諸状況を描写するために精神病理学の事例を利用したのである6


 しばしば「怪物的」と称される彼の特徴は、この作品集でも遺憾なく発揮されている。
そこでは少女の限度を知らぬ性欲や食人の描写が、魂の神秘に関する形而上学的なお喋りと隣り合わされ、性は死と分かち難く結びつけられる(「永遠の家」)。さしたるわけもなく突然グレゴリー・ドゥットからクレックへと変容してしまった不運な男に、救済と同時に死をもたらすのはおぞましいミュータント奇形である(「チャーリー」)。人格分裂や反復強迫といった精神病理が直截に語られる一方で(「一夫多妻」、「愛の物語」)、巨大なねずみによる宇宙創設神話が語られる(「ねずみ」)。いささかのユーモアも欠けてはいない。
チェスに強いというだけで自分が偉人だと思い上がったものの、町のトーナメントで負け続けて自暴自棄になった男が、それまで馬鹿にしていた娘との一夜で辛うじて自尊心を取り戻す話(「えらい男」)。キツネから人間へと変身した婦人に去勢された二人の男は、その後突然知的になって爆発物の研究にいそしむ(「教師」)。更に「永遠の家」や「馬鹿のエリョーマと死」に見られるフォークロアとの結びつきもまた、マムレーエフの作品の大きな特徴の一つに挙げられるだろう7
 「重要人物」からは、ルイクリンがマムレーエフの特徴として挙げた共同住宅に対するオブセッションや「高次機能の指令に服従しない肛門視覚」8という現象の片鱗がうかがわれて興味深い。主人公のネポモーエフは、共同住宅の便器に座るたびに奇妙な幻覚に襲われる。彼は一人の少女を「なぜか自分の娘とみなしていた」のだが、その少女が彼の眼の前に現れるのは、決まってトイレでの幻覚時だ。「ネポモーエフがそこにいるとき、彼はいつも自分の眼の前の一点に、緊張した、それでいてかなり放心しているようでもある眼を向けていた。眼に見えぬもの――彼はそれをそう呼んでいた――は、しばしば隊伍を作り、しるし徴を帯びながら、彼のもとを通り過ぎて別の空間に消えていった。[…]ときには全意識が尻に集中してしまい、顔には直感的な期待だけが残っていることもあった」(128-129)。ある夏の日曜の朝、事件は起こる。あまりにも強烈な幻覚のために便器の上で寝入ってしまったネポモーエフは、ドアを激しく叩く音で目を覚ます。トイレを出て共同廊下を自分の部屋に向かう彼を迎えたのは、それまで付き合いのなかった住人たちによる「栄光あれ、栄光あれ」という異様な唱和だった。部屋で呆然としている彼のもとに信心深い婦人がやってきて言う。「お知らせがあります。あなたはあの世の重要人物なのです……」共同住宅のトイレで突然神が誕生したのだ。彼は窓をぴったり閉ざし、部屋のなかに閉じこもる。神秘にうたれた住人たちは彼の家のまわりで踊りだし、全身血まみれの魔女が現われて大騒ぎになる。起こったことの意味が理解できない彼は、明け方に家を出て、そばにあった巨大な汚物槽の中に潜り込み、もうけっしてここから出まいと決心する。
 「ねずみ」とともに宇宙創設神話のサイクルを形成する「無からの声」は、オドエフスキーの「生ける死者」(1844年)やドストエフスキーの「おかしな男の夢」(1877年)を連想させる陰鬱なメニッペアである。「もうだいぶ昔で、近づき難い頃の話なのだが、私が存在していない今なら、すべてを順序立てて話すことができる」(96)。ある夏の朝、暴飲暴食のあと街に出た「私」は、大きなアパートの裏で、太った汚らしい男が寝そべっているのを見つける。ひどいなりをして、唸り声をあげながら地面を転がっているこの男は、自分が「天使」であると告げる。単に天使であるばかりか「銀河を超越する意識метагалактическое сознание」であり、ほとんど絶対者を観照するほどの存在だと言うのだ。二人のあいだで「すべての被造物の機構」に関する対話がはじまる。天使は言う。〈絶
対〉に飽いた神は、その正反対である絶対の零、〈無〉を志向するようになった。いまや自己の無化だけが絶対者の唯一の活動である。しかしながら、存在の充溢から無への移行は急激には進まない。神は徐々に、順を追って、霊のより低い段階へと自己を疎外している。それは「神の自殺」なのだ。しかし、神によって疎外された低次の被造物それぞれは、逆に、無のために苦しみ、再び上昇を、絶対を志向している。「こうして、被造物のなかには二つの大いなる対立する力が作用している。一つの力は造物主の真なる秘密であり、おのれの破滅へと向かう。もう一つは生きものたちの嘆息であり、欠乏から生じるその志向は上方へと向かい、より高次の存在を目指す」(98)。進化論は奇怪な妄想にすぎない。実際にはまず人間ができて、その後、猿、南京虫、シラミ、ウジへと退化しているのだ。神の自殺願望と被造物の向こう見ずな渇望のあいだに調和はあり得ず、相対的な均衡があるだけだ。この秘密を見抜いた天使は、退化という神の法則に参与することを決意している。彼は秘儀により退化の階梯を一段一段下りて、いまここまで辿りついたのである。
 この話を聞いた主人公の心臓の動悸は高まり、汗が吹き出てくる。彼はそれを知っていた。幼少期からヒステリックなサディストだった彼は、神に対して狂おしい悪意を抱いていた。神がある以上、際限ないエゴイズムはけっして安静を得ることがないからだ。そこで神に復讐する手段として彼が思いついたのが、「絶対の零」になることだった。絶対の零では、神も人も蛆虫もすべてが等しくなる。無のなかで人と神の合一がなされるのだ。
そこで彼は、忌まわしい〈無〉に接近すべく、精神薄弱者を装って矯正施設に入り、人前
で平気で放尿し、言葉をすべて忘れたふりをし、忌まわしい嘘をついて母親を遠ざけてき
たのである。
 語り手の身の上話を聞いた天使は、彼に下等動物になる奥義を告げようと約束する。ただし一つ注意がある。自然の反進化論的な人間の退化の場合と、主体的-オカルト的な退化の道は異なる。高等生物の退化は悪臭を放ち急速で、悪いことに、時々人間であったときの意識の残りが蘇ってくるのだ……だが主人公は秘儀を実行する。退化が始まる。痛みもなく骨が折れ、魂が分解し、世界が崩れ落ちる。
 気がつくと、奇妙な部屋のなかで、少し太った昔の女友達と二人でいる。彼は女友達の肉を食べ、テーブルに座って彼女の霊とトランプをする。
 突然壁が崩れ、彼は再び退化していく。めちゃめちゃに壊れたあの世の空間、立ち騒ぐ生き物たち、無から生まれ、たちどころに無に戻るデーモンたち、存在しないものを探して空虚のなかに潜っていく霊たち、自分の影に向かってわめいている嬰児たち。突然、語り手の意識のなかですべてのものが停止する、彼は叫び、下へ下へと落ちていく。そこは地上だった。
 そこからは彼は地上の生と彼岸の生を繰り返す。第一の地上の生で、彼は精神病院のまわりを走り回る犬であり、再び彼岸を経由した第二の地上の生では鳥になっている。彼岸の描写は次第に黙示録的な色彩を強めていく。第三の地上の生は、何度も何度も殺されては蘇って、死人の血を吸い続けるシラミだった。再び死後の世界へ。しかし、今度はすべてが違っていた。人間どもがどこに行ったのか分からない。

 私が見たのはカオスであり、多様で多元的な運動だった。私に終わりが急速に訪れようとしていた。
 すさまじい号泣が、神の創造した宇宙に響き渡っていた。そして私は、我らの唯一
の神、絶対者そのものである神の代役たちの歪んだ顔を見た。「分身たちだ、神の分身たちだ」――それが私のほうに突進してきたとき、私は金切り声をあげて思った。
 だがこれは分身たちというよりは、むしろ代役たち、絶対者の代役たちだった。この世界の複数性の吸血鬼たちなのだ。揺れ動き、回転する複数の世界、われわれの世
界とまったく同じ複数の世界を私は見た。そこにも同じく神の顔が見えた。彼らは多数だった、多数の唯一なる神たち、同じく身を捩っている多くの絶対者たち。
 その後、それらは受肉し始めた。受肉して荒々しい地の象徴になっていったのだ。
それはみな同じだが、一つ残らず刻一刻と変化してゆく記号だった。豚の哄笑する鼻面が自分の絶対的な知を噛み砕いているかと思うと、頼みもしない恩人たちの群れが
金切り声をあげて私のまわりを飛びまわる[…]
 もはや、絶対者と彼の分身たちの差異を見分けることはできなかった。その後、彼らは、互いに浸透しようするかのようにいっせいに絡まり合いはじめた。だがそれは不可能なことでもあった。内に閉ざされて痙攣するだけ……(114)


 この恐ろしい光景を見た男は笑い、絶対の無の冷気に浸される。再びやってきたのは、第四の地上の生ではない。天上の世界とそれに相応する[地上の]世界は一つに融合してしまった。彼は(いわゆる)地上で、サーカスのインド象の糞となる。「無からの声」は、象の糞による一人称物語だったのだ……


2.共同的身体とできそこないの神
『永遠の家』、その中でもとりわけ「重要人物」や「無からの声」といった作品に描かれた、この異様な身体は何なのだろう。ここにはバフチンの言う「グロテスク・リアリズム」のすべての特徴が揃っているようにも見える。「無からの声」には、バフチンが『ドストエフスキーの詩学の諸問題』においてメニッペアの特徴として列挙した「構想の比類なき奇抜さ」が、「イデーの試練」が、「最後の問い」への剥き出しの志向があり、「身体的下層」への強調が、死と食事の思いがけない隣接が、「狂気」がある。宇宙的な哄笑すら欠けてはいない(「すべてが消え去った。私も長い間存在しなかった。そのあと私は笑いはじめた」(113))9
 だが、マムレーエフの身体をカーニヴァルの寸断された身体と同一視することはできないだろう。そこには決定的なもの、カーニヴァルの「肯定する原理」が欠けている。カーニヴァルにおいて立ち現れてくる「父祖伝来の身体」は、死ぬことによって再生の祝祭を言祝ぐ。それに対して、マムレーエフの怪物たちは実は死ぬことさえないのだ。ルイクリンは述べている。「おのれのうちに死を完全に内面化しているために、これらの身体は死を欲しないし、実際、通常の意味においては死ぬことができない。それはいわば、徹底してタナトスに貫かれていることによって不死なのである」。それは広場の民衆の身体ではなく、都市化の外傷を被った共同的身体である。バフチンの「グロテスクな身体」論が1930 年代のテロルの反映だという、文献学的にあやしいルイクリンの主張に対する真っ当な批判を、ここで展開する必要はないだろう。あくまでディスクールの屈折に照準しようとする本稿では、ルイクリンが、「バフチン的」なディスクールへの対抗戦略のなかで、
マムレーエフのコミュナル共同的身体を、20 世紀ロシアの都市住民の生を少なからず規定した
コミュナル共同住宅に結びつけたことの意味を考えるほうが重要なのだ。「これらの身体にカーニヴァル的なところはまったくない。陽気な気分をあたりに漲らせる身体的下層としてそれを思い描くことはいかなる場合にもできない。それはしょちゅう壁や間仕切りや覆いにぶつかっている都市の身体である」。「超越者」に関するマムレーエフの形而上学は、共同住宅の卑猥な雰囲気のなかで考えられねばならない。「マムレーエフの生理学的怪物たちは、サド侯爵の場合のように超神сверхбожие に苦しんでいるのではなく、できそこないの神недобожие に苦しんでおり、そのため、その個々の部分は神そのものよりも神々しいものとなる。それは自分自身を燃料とする内燃身体であると言えよう。これらの身体は、いたる所でけしからぬと見えるほど、超越的なものに対してまったく無関心であり、おのれのすべての運動を完全に無垢なものとする」10。ちなみにルイクリンは、冒頭で触れたように、同じく共同住宅を作品の重要なテーマとしたカバコフとマムレーエフを比較しているが、グロイスはそのカバコフとの対談のなかで、1920 年代末のバフチンによる対話主義、ポリフォニー小説論の定式化と、ソ連当局による共同住宅の精力的な形成が同時代的現象であったことに注目している。バフチンの理論化の基盤となったドストエフスキーの作品を念頭に置いて、共同住宅が創り出した美的空間は19 世紀ロシア文学のなかに純粋に文学的な前史をもっていたと言うのだ11。いかにも彼らしい無闇矢鱈な発言だが、20 世紀の文化史を根底的に見直そうとした90 年代的ディスクールの特徴を、極端なかたちで示す
ものではあるだろう。

3.ユーリー・マムレーエフと他者のいない世界
 マムレーエフ的な共同的身体/共同住宅という鏡にバフチンを映してみるルイクリンとグロイスの戦略は、90 年代の「バフチン」像に対する批判において相補的な関係にある。ルイクリンがそこに見ようとしているのは、寸断された民衆の身体部位から言語的象徴化の作用によって取り集められた幻覚的な身体の理想像であり、グロイスはこれとは逆に、ポリフォニー小説における全一的な人格の礼儀正しい対話の底に、自分自身の肉にしゃぶりつく猥褻な共同的身体の交歓が透けて見える可能性を示唆している。いずれにおいても問題となっているのは、バフチンのテクストにおいて、怪物的な複数性がイメージの作用によって昇華され、価値転倒される瞬間なのだ。成功のほどは別にして、彼らはともに、バフチンにおけるイメージを批判しようとしている。だが、どのようなイメージだろうか。
われわれはそれを、バフチンにおける、あるいはバフチンをめぐるディスクールにおける〈他者〉のイメージと名指してみたいのだ。グロイスは書いている。

「他者」に到達し得ないという張りつめた経験、自らの個人性の限界を破壊して対話に向かおうとする志向、そればかりか、独特なやり方で身体を接近させ、異なる言語を混ぜ合わせて、そこから統一された「グロテスクな言語的身体」を形成しようとする志向――これはバフチンのみならず、モダニズム期の他の理論家たちにも特徴的なものだ。だが、ソローキンや、他の多くの「新しいポストユートピア文学」の作家たちにおいて、これに取って代わっているのは、個人はそもそもの初めから非人称的で超個人的な原理のうちに溶解しているという感覚である。しかしこの原理は、同時に、意識的な個人に対立し、それを破壊してしまいかねないような下意識的なものではない。個人の意識は、個人の文体と同じく、他者に対して内側から類縁関係にあって、作者やイデオローグの側からのいかなる理論的・現実的暴力も必要ないのだ。12

 ここには、バフチンのテクストが孕む潜在的な危険が鮮やかに指摘されている。対話主義、ポリフォニー小説論は、それが向かい合う二人の人物の会話をモデルとしていることもあって、私の「顔」=「人格」に向けられた「顔」=「人格」としての、まとまりをもった〈他者〉というイメージを容易に招き寄せてしまう。別の論文でルイクリンも指摘しているように、作者の全能性の消去は、それが〈声たち〉の地位そのものへの問いを伴わない限り、発話の主体=「声-意識」(バフチン)の作者性を逆に強化してしまうのである13。同様のパラドクスは彼のカーニヴァル論に関しても指摘できる。カーニヴァルの民衆の身体は、たしかに飲み込み、排泄し、穴に入り込み、殺し、八つ裂きにされ、そして不断に更新する身体である。だがその身体は、一貫して、カーニヴァル的な笑いから引き離された近代の閉ざされた身体に対置され、不幸な意識にとっての〈他者〉としてノスタルジックに投影されている。カーニヴァルに対するまなざしが憧憬に満ちたものであればあるほど、あり得ぬ〈他者〉の幻覚的なイメージがますます整えられていくのだ。
 90 年代のロシアにおけるバフチン受容において、事態はもっと悪化していたと言うべきかもしれない。80 年代の英語圏における受容において、論議の中心になったのはバフチンの小説論であり、なかでも異言語混淆とカーニヴァルの二つの概念であった。初期の哲学的著作がまだ英訳されていなかったこと、紹介の不備といった事情もあるが、そこではバフチンの言う多数性を「人格」の用語によらずに思考する可能性があったと言ってよい。それとは逆に、90 年代ロシアのバフチン再発見において議論が集中したのは初期の哲学的断片であり、バフチンの体系に言語学の用語が導入される以前の「私と他者」のカテゴリーであった。バフチンの他者другой は、そこでたちまち〈他者〉Другой と大文字で表記されるようになり、もっとも「マルクス主義的」な20 年代のヴォローシノフ、メドヴェージェフ名義の著作さえ、容易に「私と他者」の問題の一変形へと翻訳されてしまったのである。こうした〈他者〉の実体化は、日本の言説空間において柄谷行人の『探究
Ⅰ』が辿った運命と似ていなくもない。
 無から世界を新たに創造するデミウルゴスに自らをなぞらえたアヴァンギャルド芸術家たちの志向を、全体主義のそれと重ね合わせることから20 世紀ロシア文化史の見直しを開始したグロイスが、モダニズムの特徴として〈他者〉への志向を挙げていることにやや違和感を感じるかもしれない。だが、〈私〉の強調と〈他者〉への志向は、見た目ほど齟齬するものではない。〈私〉と〈他者〉は双子であり、両者の全一性はたがいに相補的であらざるを得ない。それどころか、ドゥルーズによれば、〈他者〉の現存は〈私〉の安定した知覚の条件なのである。作家ミシェル・トゥルニエに関する論考のなかで、彼は書いている。

哲学の諸理論の誤りは、他者を、あるときは特定の対象へ、またときには別の主体へと還元してしまう点にある。[…]しかしながら、他者は、私の知覚野のなかの対象でも、私を知覚する主体でもない。他者とはまず知覚野の構造であり、この構造なしでは知覚野全体が現にあるようなかたちでは機能しなくなるのだ。[…]したがって、絶対的な構造としてのアプリオリな他者は諸々の他者たちの相対性を確立して、この
構造をそれぞれの領野の内部で現勢化する事項とする。14


 イメージとしての〈他者〉が招き寄せられるのは、〈私〉の知覚野を安定させ、先天的な諸範疇の構成と応用を可能にする「構造としての他者」のためである。この構造が安定している限り、他者が客体とされようが、別の主体として顕揚されようが、大きな違いはない。それは「まなざし」に先行し、それを可能にしている条件なのだ。ならば、こうした構図を破壊する倒錯とはなにか。ここでドゥルーズの回答は、意外にも「独我論」なのである。

 「ロビンソン」というフィクションの意味は何か? ロビンソン的なものとは何か?他者のいない世界である。トゥルニエの推測によれば、ロビンソンは、大いなる苦しみを通して大いなる健康を発見し、それを克服して、ついには、他者が存在しているときに物事が組織される時とは違ったやり方で物事が組織されるに至る。類似性のないイメージ、あるいは普段は抑圧されている分身が解放される。この分身は更に普段は囚われている純粋な要素を解放する。世界は他者の不在によって乱されるわけではない。反対に、他者の存在によって隠されていたのは世界の栄光に満ちた分身であることが分かるのだ。これがロビンソンの発見であり、表層の、要素的彼岸の、「別のあり方をした他者the “otherwise-Other”, de l’Autre qu’autrui」の発見なのだ。15


 マムレーエフの世界は他者のいない世界である。第一に、あからさまに言及される独我論、自己愛、オナニズムの主題がある。『遊民たち』における「形而上学」サークルの一員であるイズヴィツキーは、奔放な性遍歴の末、性的快楽の最上の対象として自らの身体を見出す。「自我宗教религия Я」に接近する彼において、形而上学的な独我論は性的な独我論に行きつくのだ。彼岸への興味からひたすら冷酷極まりない殺人を続け、ついには「この世でもっとも霊的な」「形而上学」サークルをも毒牙にかけようとする怪物フョードルを驚愕させ、ためらわせた唯一のものは、鏡の前で自己愛に沈潜するイズヴィツキー姿である。「彼は自分が見たものに驚愕した。半ば古び、半ば未来のものでもある事物で愚かしく汚れた部屋の隅、すべてを引き込もうとするかのような巨大な鏡、その前に、ぼろぼろに破れたヴォルテール風肱掛椅子、そしてそこに座っているのは――鏡に映った自分を恍惚としたポーズで眺めているイズヴィツキーだった。フョードルは身がすくんだ」16
 だが問題はそれだけではない。「無からの声」の最後からの引用を読み返してみよう。「だがこれは分身たちというよりは、むしろ代役たち、絶対者の代役たちだった。この世界の複数性の吸血鬼たちなのだ。揺れ動き、回転する複数の世界、われわれの世界とまったく同じ複数の世界を私は見た。そこにも同じく神の顔が見えた。彼らは多数だった、多数の唯一なる神たち、同じく身を捩っている多くの絶対者たち」。徹底化された独我論は、ついには他者の構造を破壊してしまうことによって、シミュラークルたちの立ち騒ぐ多数性の世界を出現させるのだ。他者の存在によって隠されていた分身たちが事物から解放される。そこでは「もはや、絶対者と彼の分身たちの差異を見分けることはできない」。分身たちдвойники ではなく代役たちдублеры だという語り手の訂正は、19 世紀小説が〈他者〉の視線の内面化によって生み出したあれら夥しい分身たちとの構造的な差異を指示するために導入された強引な区別と言ってよいだろう。ここではすでに、同一性
と差異によって配分されるイメージが入り込む余地はない。
 だがここで話をやめてしまうわけにはいかない。90 年代の〈他者〉のディスクールの輪郭をなぞってきたわれわれは、ここからバフチン/ドストエフスキー的な〈他者〉の地位をあらためて問い直さなければならないだろう。例えば、ドストエフスキーに対するマムレーエフの敬意のこもった言及を文字通りにとってみたらどうか。「無からの声」が、ドストエフスキーの「おかしな男の夢」なしにはあり得なかったテクストであることは明らかだ。だが、自殺を企てた「おかしな男」が奇妙な宇宙飛行の果てに遭遇したのは、どこにもない場所としてのユートピアよりはむしろ「別の地球」であり、その分身であって、いうなれば反復の試練だったのである。


 だが私はなぜか、私の全存在でもって、これは私たちの太陽とまったく同じ太陽であり、その反復повторение であり、分身двойник だということが分かったのだ。
[…]「はたして宇宙にこのような反復があり得るのだろうか、自然法則とはこういうものなのだろうか?[…]どうして、何のためにこのような反復があり得るのだろうか? 私が愛し、愛することができるのは、私が見捨ててきた地球だけだ。17


 ドストエフスキー的な反復の世界は、マムレーエフの「他者のいない世界」と、どのように異なるものであったのか。またそうしたドストエフスキー的世界を思考しながら、〈他者〉の地位に関して揺れを示しつづけるバフチンのテクストは、はたしてルイクリンやグロイスの言うような単純な図式に収まるものなのか。しばしばあまりに性急に「終わり」を口にする誘惑に勝てないわれわれは、19 世紀と20 世紀の関係をどのように思考すべきなのか――マムレーエフのまわりに一連の90 年代的ディスクールの断片を組織してみることによって最終的に浮かび上がってくる問題は、おそらくこのようなものであると思われる。


1 マムレーエフに関してはすでに亀山郁夫氏による紹介がある。作家の経歴、主要著作リ
スト等はそちらを参照されたい。「転生に躓いたホムンクルスたち――ユーリー・マム
レーエフ『黒い鏡』の世界」、『現代文芸研究のフロンティア(I)』北海道大学スラブ
研究センター研究報告シリーズNo. 70、2000 年、pp. 1-6.
2 Мамлеев, Ю., Шатуны, Париж-Нью-Йорк, Третья волна, 1988.
3 Epstein, M. N., “After the Future: On the New Consciousness in Literature”, After the Future: The Paradoxes of Postmodernism and Contemporary Russian Culture, trans. by A. Miller-Pogacar, The Univ. of Massachusetts Press, 1995, pp. 82-83.; Гройс, Б., Утопия и обмен, М., Знак, 1993, с. 91.;Смирнов, И. П., “Эволюция чудовищности: Мамлеев и др.”, Новое литературное обозрение,№ 3, 1993. с. 303-307.
4 Рыклин, М., “Тела террора”, Террорологики, Тарту, Эйдос, 1992.
5 Нефагина, Г. Л., Русская проза второй половины 80-х - начала 90-х годов XX века, Минск,
Экономпресс, 1998, с. 211.
6 Мамлеев, Ю., Вечный дом. Повесть и рассказы, М., Художественная литература, 1991, с. 5-6. 以下、『永遠の家』からの引用は本文中に頁数のみ記す。
7 マムレーエフ的テーマの百科全書とも言うべき『遊民たち』には登場人物が去勢派
скопцы のもとを訪れる場面がある(Мамлеев, Ю., Шатуны. Роман, М., Терра, 1996, с. 115-
119)。またこの作品の主な舞台となる町について、別の登場人物は、そこでは「ロシアの
昔ながらの蒙昧な民衆の反啓蒙主義」と「インテリの神秘主義」が混ざり合って、「大い
なる総合」が果たされるであろうと言う(там же, с. 78)。
8 Рыклин, “Тела террора”, с. 48.
9 Бахтин, М. М., Проблемы поэтики Достоевского, Изд. 4-е, М., Совет. Россия, 1979, с.131 и.след.
10 Рыклин, “Тела террора”, с. 49.
11 Кабаков, И. и Гройс, Б.. Диалоги, М., Ad Marginem, 1999, с. 94-95.
12 Гройс, Утопия и обмен, с. 93.
13 ルイクリン「言語文化における意識」拙訳、『ミハイル・バフチンの時空』(せりか書
房、1997 年、211-212 頁。
14 Deleuze, G., “Michel Tournier and the World without Others”, The Logic of Sense, trans. by M.Lester with Ch. Stivale, Columbia Univ. Press, 1990, p. 307.
15 Ibid, pp. 318-319.
16 Мамлеев, Шатуны, с. 202.
17 Достоевский, Ф. М., Полн. собр. соч. в 30 т., Л., Наука, 1983 т. 25, с. 111.