listに戻る

Copyright (C) 1998 by Slavic Research Center,Hokkaido University.
All rights reserved.

現代ロシア演劇における言葉と身体


楯岡求美


 1991 年末にソ連が崩壊して以降、渾沌と混乱が続くロシアでは、文化論の地平においてさまざまな自己認識の試みが盛んになった。とりわけポストモダンとして現代ロシアの文化状況の不透明さを分析しようという傾向が強い。実は、過剰にレトリカルで記号が氾濫していたソヴィエト文化自体がポストモダンであり、後進性ゆえに、社会主義同様、ポストモダンでさえも実はロシアから起きたのだという言説まで現われるほど、ポストモダンの意識は現在のロシア文化においてかなりの説得力を持って論じられている。
 少なくとも、物価から言葉、情報にいたるまでハイパーインフレーションを起こし、リアリティーの失われた現代ロシア社会にあって、人々はいかに自己を位置付け、認識するのかという問題に直面していることは確かである。とりわけ、あくまで現実的な存在を主張する「身体」が表現の重要な要素である演劇にとっては、リアルさを欠く文化状況において、どのようにアイデンティティを獲得するのか、が重要な問題として浮かび上がる。
そこで本論では、文学を過度に重視するロシア社会の特質を踏まえながら、3人の演出家
を例にとり、演劇の身体性をめぐる状況を考察したい。


1 真空としてのロシア
 演劇におけるポストモダンを論じる前に、まず前提となるロシア的ポストモダンの特徴について、とくにこれまで論議の中心となってきた文学に留意しつつ簡単にまとめておきたい。ロシアにおいてポストモダン的状況が論じられる際、あらゆる価値体系が混在し、価値が相対化されてしまうカオス的状況とともに、そもそもすべての価値を等価に吸収してしまう「真空」、すなわち虚無的なロシアというイメージが強力に立ち現われてくることがしばしば指摘されている。人類の壮大なユートピアとしてイメージされたソヴィエトという体制自体が、リアルな内実を伴わない、理想的な未来をイメージしたシミュラークル(模造現実)であって、このような「未来の後」、つまりポストソヴィエトにおいては、もはやよりどころとなるリアリティーなどはなく、結局さまざまな芸術創作活動が、ソヴィエトというユートピアの廃墟の上にシミュラークルを組み合わせて現実の変わりとなる新しいバーチャルリアリティを作りつづける言語もしくはイメージのゲームと化しているというのである1


 ロシアでは伝統的に文学が社会および哲学諸思想の土台に置かれてきた。文学が他の芸術ジャンルと比べて特異な位置を占めていることは、従来のさまざまな議論同様、このポストモダンの論議の中でも顕著である。ロシア文学の特異性は、芸術の一ジャンルというよりも、ロシアもしくはソヴィエトという多民族国家を統合するイデオロギーとして機能している2ということだろう。ロシア文学の担い手はさまざまであり、実際、アブハズ人作家のイスカンデル、朝鮮系作家アナトーリー・キムなど、ロシア民族以外の出自の文学者が、自らが属する民族文化や地域性よりもロシア文学をアイデンティティの拠り所としてあげている。ただしここでは、文学のもつこのような政治イデオロギーとしての機能については触れず、文学がロシアにおいて精神的なアイデンティティを提供する機能を担っていることを確認するにとどめる。
 アイデンティティと密接に結びついている文学のジャンルにおいては冒頭で概観したようなバーチャルなポスト・モダン的社会状況がどのように表現されているのだろうか。人気を二分する新しい世代の作家二人の作品は、対照的な作風ながら、現実をまったくの虚構であると認識する方向性を共有している。ペプシコーラ世代を意味する『ジェネレーションP』などを発表した作家ペレーヴィンの登場人物は、現実は空虚でからっぽであり、あるかのように見える世界はコンピューター・ゲームのように実は「すべて誰かに書かれた虚構であった」ことを悟る。ペレーヴィンと双璧をなす作家ソローキンの小説『青い脂身』では、現在のみならず、過去や未来の「歴史」も、地理的な距離も自在に書き換えられ、物語が語られる設定そのものの時空間自体が虚構化、つまりバーチャルなものにされてしまう。ソローキンの完全な虚構は現実というものの反射を一切拒否し、批評家アレクサンドル・ゲニスがいうように「現実と無関係に決して覚めることのない悪夢を見つづけるかのよう」3である。文学は現実以上に虚構性、つまりバーチャルな世界を徹底することで、あいまいで虚無的な現実を切り離し、独立した世界を構築しようとしているといえるだろう。


2 ロシア演劇におけるポストモダン
 このように真空となってブラックホールのようにあらゆる概念や価値体系をのみこみ、すべてを同列に並べ、相対化し、無力化してしまう現代ロシアの文化状況にあって、演劇にはどのようなテーマや表現が可能であろうか。文学をはじめ他の諸芸術ジャンルと比較した際、演劇があくまで観客の眼前で行われる身体表現であるということは演劇の最大の特徴でもあり、バーチャルな現実との関係においては最大の弱点ともなる。文学は、一切が虚構であると宣言し、現実を離れて言語表現だけで構成された世界を新たに構築してしまうことができるが、いかに人々を取り巻く社会が虚無的になり、リアリティーが失われていこうと、演劇において演じる役者の身体は舞台に現前してしまい、身体と虚構のような外界との折り合いをつける必要にせまられる。以下、三人の演出家の演出作品を取り上げ、この問題に対する三者三様のまったく異なるアプローチの仕方を検証することにしたい。


2−@ リュビーモフ『カラマーゾフの兄弟』:完全な虚構・演技者としての身体
 ユーリー・リュビーモフはモスクワ・タガンカ劇場を率い、モスクワ芸術座を教科書とする自然主義的な演技および演出が正統とされつづけたソ連において、メイエルホリドなどに代表される非自然主義的表現を追求したロシア・アヴァンギャルド演劇やブレヒトの演劇観を継承し、70年代にソ連の反体制演劇の代名詞として西側にもひろく知られた演出家である。日常らしさ、本物らしさというイリュージョンを拒否し、見世物や民衆芸能の伝統的表現手法を積極的に取り入れ、客席に照明をあてるなどして挑発し、観客に意識改革をせまる演出手法を確立した。しかし、1997 年に初演されたドストエフスキー作品『カラマーゾフの兄弟』4はそれまでのリュビーモフの芝居とははっきりと異なった傾向を示している。芝居はブレヒト的なソングや民衆演劇的な道化芝居を随所で用いて、クロノジカルではない筋の展開を見せる。しかし、異化手続きが欠落していることにより、観客は芝居が虚構であることを思い知らされたり、挑発されることがない。逆に舞台上の虚構は綿密に幾重にも張り巡らされ、破れることがない。観客は芝居のカーニバル的な虚構世界にどっぷりとつかり、最後までそれを楽しむことができる。
 ロシア正教の典礼音楽のような歌が歌われたり、「カラマーゾフの力」という短いが作品のキーワードとなるフレーズが舞台上の人物全員によって声を限りに叫ぶように歌われて
舞台上は祝祭性が色濃く演出されている。とりわけ、この「カラマーゾフの力」というフレーズは入れ替わり立ち代り自在に演じられるエピソードの随所で歌われ、この劇場を揺るがすかのようなリズムはブレヒト的なソングによる切断ではなく、発話すべてにリズムを作り出して逆に芝居を突き動かす動力とも、複雑に組みあわされた多数のエピソードの求心力ともなっている。カラマーゾフの父と子が(原作に準じて)シラーの『群盗』になぞらえられて劇中劇のように演じられたり、また、記憶がフラッシュバックするようにランダムにエピソードが演じられたりするが、それらは互いに対立して観客に衝撃(ショック)を与えるような構成ではなく、まるで見世物小屋ののぞきからくりか万華鏡のように自在に演じられる。劇の大枠は裁判仕立てになっていて、裁判の進行の合間に各種のエピソードが演じられる構成になっており、最前列には観客から選ばれた陪審員が芝居の開始とともに舞台袖から導き入れられる趣向になっている。これは明らかにサーカスや民衆演劇における観客との掛け合いをふまえているし、俳優が舞台から客席に降りて退場したりという客席と舞台との境界を排除する仕掛けもあるが、いずれもいずれも観客に芝居が虚構であると気づかせるというより、劇場全体をカラマーゾフのカーニバル的祝祭の雰囲気に組み入れ、劇場を外の現実から切り離し、純粋に演劇的な虚構世界を構築することに寄与している。ソヴィエト時代の『三人姉妹』の演出にあたって、リュビーモフがモスクワに憧れを抱く登場人物のセリフをふまえ、劇場の壁を開いて観客に現実のモスクワをみせつけていた5のとは非常に対照的である。
 劇世界を外界から切り離し、さらに入れ子のように重層化された劇的虚構空間を確立するスタイルにより、俳優は『カラマーゾフ』の役柄を演じるだけではなく、劇中の登場人物自体が常時カーニバル的な役柄や劇中劇、回想シーン、といった異なるレベルの虚構を行き来しながら複合的に演じいることになる。ブレヒトのような「俳優が自分を見せる」という俳優個人の身体性と役柄の虚構性という二項対立的構造ではなく、演じる行為を複数のレベルの虚構で包み込むことにより、俳優個人の存在は外界に置きかれて隠され、身体性もまたメタレベルで演じる行為者として、虚構世界の要素に還元されている。


3−A ヴァシリエフ『石の客』:言葉による世界認識
 アナトーリー・ヴァシリエフは、共同体ユートピアとしてのソ連という幻想が崩壊した時期に、人間の心理・感情を表現する心理主義的演劇という正統派ロシア演劇の伝統を拒否し、感情移入が不可能な哲学書や芸術論集、そして聖書世界の再創造を試みたトーマス・マンの長編小説『ヨゼフとその兄弟たち』などのテクストを忠実に演劇化するというこれまでにない演劇手法を打ち出した。国家や民族の全体という集団と神との関係ではなく、個人と神との直接的な垂直関係を求めた6のである。舞台上での動きはほとんどなく、聖書の朗誦と聖歌の無伴奏合唱、そしてトーマス・マンのテクストを忠実に対話する登場人物の声、三つの独立した旋律がポリフォニックに劇世界を構成する。ヴァシリエフによれば精
神の中心は体の真中にあり、それを言語化して口から外に出すことが必要であり、個人が存在するよりどころとなる言葉は、発話者の体のうちにあった。
 1998 年の春にドン・ジュアンの伝承を題材にしたプーシキンの戯曲『石の客』7を演出するに当たって、ヴァリシエフは舞台上に二組のドン・ジュアン主従とドンナ・アンナを登場させ、それぞれが座る位置をときどき変えるというだけの『ヨゼフ』以上に極めてシンプルなミザンセーヌを提示した。登場人物は基本的には椅子に座ったまま順番にセリフを発する。発話がほとんど唯一の演劇的行為であり、それがとりもなおさず「生きること」そのものとなる。ミニマムな言語行使でありながら、個々の言葉に空虚さはなく、発話者のアイデンティティへの確信を誇示してさえいる。
 誇り高く響く言葉がときにエクスタシーを感じさせるほどの質感のある発話であるが、発話者にとって重要なのは相手(他者、もしくは他の自我)との関係ではない。重視されるのは、発話者が言葉の一つ一つと結ぶ関係であり、発話者が確固とした確信をもって言葉を発することができるという自信である。
 虚無化した社会・世界を一切拒否し、いったん捨象してしまう。そのうえで、言葉を手探りで探り当て、ひとつひとつ拾い集めて言葉と身体の関係を繋ぎなおして新たに世界を構築する。このような方法でアイデンティティを確認する際、よりどころになるのは、プーシキンの言葉、つまり、ロシア文学の言葉であって、神でも現実が呼応するなにものかでもない。
 『ヨセフとその兄弟たち』上演における試みは、自己の内面を言語化することにより、疎外された内面を再獲得するものであった。『石の客』では、喪失した外界を文学という言語表現の世界で置き換えてしまい、純粋に言葉との関係のなかに個人のアイデンティティを再獲得しようとしている。それは特権的な文学中心主義のロシアならではの手法である。
劇団と個人的な繋がりをもつごく限られた観客だけを招くという上演するスタイルにも、あくまで限定的な関係を構築しようとする姿勢があらわれているといえるかもしれない。


2−B ポグレブニチコ『桜の園』1997 年:極小化される個と純化される孤独
 演技を重層化することによって虚構世界をある意味で現実から切り離して構築しようとするリュビーモフも、現実の一切を最初に切り捨て、文学の伝統によりどころを求めるヴァシリエフも、身体表現としての演劇が成立するために、個人と外界との関係にある種の制限としての境界を設定していることに変わりはない。このような方法に対して、ユーリー・ポグレブニチコは空虚で認識できない現実を、それでもそのまま厳密に認識しようとしているという意味で、非常に際立った存在である。
 ポグレブニチコの劇世界は非常に単調で無感情に近く、静かで、動きも極めて控えめである。言葉がひとつずつ丁寧に発話されるのはヴァシリエフとおなじだが、それはつぶやきであり、また、幾重にも丁寧に異化され、意味やコンテクストをずらされる。たとえば、古いサンダルを履いた役者が「ブーツがぎゅうぎゅうなって仕方がない」こぼしたり、マッチを指して「あなたがここを発ったとき私はまだこんなだった」と言って立ちあがるとひどく背が高かったりする8。言葉に合わせて行われる視覚的、身体的表現が非常にプリミティヴであるが故に、言葉のもつ意味が無力化されていく。つまり、言葉が意味も体系も確実に剥奪されるための発話であり、行為なのである。
 表現される時空間も、もはや広がりや長さといった尺度を持たない。芝居はすべてが捨象されていくプロセスの確認である。劇中で示される出来事は語りなおされるべき過去の記憶であるが、記憶は極めて不確かで、おぼつかない。1989 年に初演されて以来、繰り返し改定され、上演されつづけている『かもめ』9では、とつとつとした発話は他者への発話ではなく、自分が自分に語り聞かせるものだが、言葉はもはやなにも意味せず、自分自身にさえ届くことなく消失していく。トレープレフとニーナとの愛の記憶は、不意に現われるシェイクスピアやシーザーといった創作者たちに、若手作家トレープレフによって書きあげれらたテクストであるかのように観賞されてしまう。『桜の園』では、もはや自ら語る力さえも失われていく。ラネーフスカヤをはじめ、死者をも思わせる無気力な登場人物たちは、他者が語る自分の過去の物語を、観客に背を向け、観客と共に耳を傾ける。桜の園が売却されるとともに登場人物たちはもはや姿を消し、朱色のドレスを着た役柄のない人々が順番に役を入れ替わってさまざまに場面を演じてみせる。それは、桜の園を手に入れた代償にローパーヒンが失ってしまったものを演じて見せるかのようである。ついには記憶さえ他者によって語られるしかなく、「我思う故に我あり」という近代的な自我はもはや存在し得ない。しかも、他者の語る記憶もまた、幾通りにも演じられ、語りなおされてしまうという不安定さだけではなく、途中でセリフが途切れてしまったり、役がすり替わってしまったり、いずれも最後まできちんと演じられることもない。
 ロシアの映画監督ソクーロフは「エレジー」という題を冠して撮影した一連のシリーズでロシアが失ってしまったものを執拗に悔悟しつづける記憶を描いているが、ポグレブニチコの芝居においては記憶さえも薄れ、失ったものがあったかどうかということさえ曖昧である。戯曲そのものが書かれた時系列さえも入れ替わったかのように、それはまるで身体機能も記憶も徐々に剥ぎ取られていくベケット的世界の後に書かれたチェーホフのようである。
 言葉を奪われたポグレブニチコの自我は、それ自体も限りなく無に近づくのだが、しかし、それでもすべてを剥ぎ取られ、削り取られながら、消失できずに舞台上に身体としてありつづけるが故に、かすかに残る残骸のような個としての存在が漂う。それが、バーチャルなものを剥ぎ取った広大な虚無の宇宙に漂うミニマムな自我の孤独さなのである。

結論
 以上概観したように、ソ連という巨大な物語の崩壊した後のロシアにおいて、あらゆる価値観が相対化され、世界はリアリティーを失ってしまったなかで、演劇もまた、他の芸術ジャンルと同様、国家など全体に組織される存在としてではなく、個人がどのように自己を認識するのか、という問題がクローズアップされている。とりわけ身体を表現手段とする演劇は、その手法自体に虚無的な社会との矛盾を抱え込んでしまう。矛盾を解消し、人間としてのアイデンティティを回復するために、それぞれ、劇的虚構を重層化することで社会からの自立性を維持しようとする方法、カオス的な現実を積極的に拒否し、文学の伝統によりどころを求める方法、逆に一切の自己保全を回避して、真摯に虚無を除きこもうとする方法など、個人と社会との関係をさまざまな方法で認識し、確定しようとする試みが続けられている。かつての教師としての演劇は姿を消したが、孤独な人間としての不安や生きること自体の問題を共有しうる場として、ロシア演劇はポストモダン的状況においても、また、その未来においても有効な時空間を提供していくだろう。


1 望月哲男「空虚とポストモダン文芸ペレーヴィンの作品を中心に」、『現代ロシア文化』
国書刊行会、2000 年、p.301‐330.参照。
2 ロシア文学の多民族性については、沼野充義「ロシア文学の境界どこからどこまでが
ロシア文学なのか」前掲書、p.37-77.参照。
3 Генис, А. Страшный сон. О романе Владимира Сорокина "Голубое сало",http://www.svoboda.org/programs/otb/1999/obt.03.shtml
4 1999 年6 月来日公演。第二回シアターオリンピックス(静岡芸術劇場)参加作品。
5 『三人姉妹』の演出については、岩田貴「タガンカ劇場の『三人姉妹』モスクワ演劇
レポート1」、≪НОМЕР 20≫、1989 年、p.2-6.を参照。
6 拙稿「ヴァシリエフ演出『ヨゼフとその兄弟たち』−利賀国際演劇フェスティヴァル参加作品」≪НОМЕР 63≫、1993 年、p.6-12.参照。
7 1998 年3 月、モスクワ初演。(於:ドラマ芸術学校のスタジオ)
8 『桜の園』の演出については岩田貴「現代ロシア演劇主流の消滅」、『現代ロシア文化』、p.184-188.参照。
9 『かもめ』の演出詳細については、拙稿「ポグレブニチコ演出チェーホフの『かもめ』
について」『SLAVISTIKA XII』東京大学大学院人文社会系研究科スラヴ語スラヴ文学研究室年報、1998 年、p.238-243.参照。