パシン:Пашин
セルゲイ
生年月日
性別
国籍 不明
学歴 不明
考察 大統領国法総局部長をつとめる。


バスカコフ:Баскаков
В
生年月日
性別
国籍 不明
学歴 不明
考察 連邦漁業委員会副議長をつとめる。同委員会は、96年8月15日付大統領令によって、連邦委員会から国家委員会に名称変更される。


パストゥホフ:Пастухов
ボリス、Н.
生年月日 1933.01.01
性別
国籍 不明
学歴 大学卒
考察 モスクワ市生まれ。バウマン(名称)モスクワ工業大学卒。58年からコムソモールの活動に従事し、モスクワ市バウマン地区委員会第2書記(58〜59年)、同第1書記(59〜61年)、モスクワ市委員会第2書記(61〜62年)、同第1書記(62〜64年)を経て、64〜77年全ソ・コムソモール中央委員会書記、77〜82年同第1書記。59〜91年ソ連共産党員(78〜86年中央委員)。82〜86年ソ連出版・印刷・書籍販売国家委員会議長。83〜87年ソ連・シリア友好協会会長。86年から外交畑に移り、86〜89年デンマーク駐在ソ連大使、89〜92年アフガニスタン駐在ソ連大使、92年2月22日、外務省次官に就任、グルジア・アブハジア紛争問題を担当。96年2月3日、第1外務次官に昇任。98年9月25日付で、同月22日に新設された独立国家共同体(CIS)問題相に任命。


ハスヌリン:Хаснулин
М
生年月日
性別
国籍 不明
学歴 不明
考察 タタールスタン共和国副首相をつとめる。


ハズブラートフ:Хасвулатов
ルスラン、И.
生年月日 1942.11.24
性別
国籍 チェチェン人
学歴 博士
考察 グローズヌィ(北カフカスの現チェチェン共和国の首都)生まれ。44年スターリンによる弾圧の過程で一家もカザフスタン北部に追放されたため、そこで育つ。父親は流刑中に消息を絶ち、母親はコルホーズで働く。65年モスクワ国立大学で経済学を専攻し、研究所勤務を経て、経済学博士、教授となる。92年ロシア科学アカデミー会員。14歳からアルマアタで働き始める。その後モスクワ大学のコムソモール組織書記(65〜67年)、70年から2年間コムソモール中央委員会機関に勤務。72年から究生活。ペレストロイカの時期から活発に政治活動を始め、新聞各紙に企業や組合の権力強化を訴える論文を寄稿した。90年ロシア最高会議代議員に選出される。第1回人代大でエリツィンにより最高会議副議長に任命され、91年10月、エリツィンの大統領就任にともなって議長代理となり、第5回人代大で正式に議長に選出される。91年8月のクーデターでは終始エリツィンと行動を共にするが、最高会議議長就任直後から保守勢力の先頭に立つようになる。92年3月現在、人民代議員大会憲法委員会副議長。安全保障評議会非常任メンバー。93年9月騒乱で、全ての職から解任される。94年2月の下院恩赦決議まで「マトロスカヤ・チシナ」監獄で過ごす。釈放後、いったん政界を引退し、故郷のチェチェンに戻って本を執筆したが、ドゥダエフ大統領との確執もあってチェチェンには長くおれず、以前のようにモスクワの大学で教鞭を取るが、チェチェン情勢の緊迫化とともに再び政治活動を開始。94年ドゥダエフ大統領派と反ドゥダエフ派の対立が内戦化すると、「国民信頼政府」のマモダエフ、元大統領警護隊長ラバザノフ、「暫定評議会」のアフトゥルハノフ議長らの反ドゥダエフ派の側に立って行動し、エリツィンに武器や資金援助を要請。しかし95年夏頃から「民族合意委員会」のアフトゥフハノフ議長(前暫定ひょぎかい議長)や「民族復興政府」のハジエフ首相らを「無能」呼ばわりし、同年9月「チェチェン危機打開のためドゥダエフに協力する容易がある」と語り、11月にはザヴガエフ首相の「民族復興政府」、ドゥダエフ派、連邦当局の3者代表による和平交渉再開を提案。94年秋に創設されたチェチェンの政治運動「共和国解放民族同盟」議長。95年12月、チェチェン共和国元首選挙に立候補するが、後に撤回。66〜91年ソ連共産党員。妻と1男1女。


バタガエフ:Батагаев
アレクセイ、Н.
生年月日 1950.01.18
性別
国籍 ブリャト人
学歴 大学卒
考察 イルクーツク農業大学、ノボシビルスク党高等学校卒業。72〜73年地区ソフホーズ畜産技手、73〜74年ウスチオルダブリャート自治管区執行委員会農業局畜産技手として働く。74〜83年コムソモールraikom第2書記、第1書記、okrugkom第1書記を務める。83〜86年ソフホーズ支配人。86〜90年地区ソビエト執行委員会議長。90年4月〜92年ウスチオルダ・ブリャート自治管区ソビエト執行委員会議長。91年12月26日、ウスチオルダ・ブリャート自治管区行政長官に就任。93年12月選挙で連邦会議代議員に当選。無所属。連邦議会予算委員会委員。第2期連邦会議予算、財政・外貨・金融規制、通貨発行、税政、関税規制委員会委員。我が家ロシアメンバー。96年11月17日に実施されたウスチオルダ・ブリヤート自治管区行政長官選挙で落選。


バタノフ:Батанов
ゲンナディー、Н.
生年月日
性別
国籍 不明
学歴 不明
考察 司法省次官を経て、98年5月14日、同省第1次官に昇任。


パタノフ:Патанов
ゲンナディー、Н.
生年月日
性別
国籍 不明
学歴 不明
考察 97年8月、司法省次官に就任。


バチェリコフ:Бачериков
ヴィクトル
生年月日
性別
国籍 不明
学歴 不明
考察 コストロマ州行政副長官をつとめる。


ハチャトゥリャン:Хачатурян
ボリス、Г.
生年月日 1944.01.01
性別
国籍 ロシア人
学歴 中/高卒
考察 アムール州ブラゴヴェシェンスク市の建築学校を卒業。そこで、仕上げ工として、住宅建築コンビナートで働く。63年から92年ソヴィエト軍勤務。兵卒から陸軍中佐までの道を歩む。92年コムソモリクス-ナ-アムーレ市の中等学校で歴史の教師。94年3月コムソモリスク市共産党からハバロフスク地方議会議員に当選。ハバロフスク地方議会副議長。地域間関係、地方自治組織及び社会組織相互関係常任委員会委員長。ハバロフスク地方規約見直しの際には、地方行政長官組織全権。確固たる信念を持った共産主義者。「私は、高い壇上からロシアの共産主義者は死に絶えてしまった、と叫ばれていたときに、ハバロフスク地方に共産党を再建した人間の一人であった。」97年12月に実施されたハバロフスク地方議会議員選挙でコムソモリスク・ナ・アムーレの第21選挙区から立候補したが、得票率15.43%で第2位。98年3月に実施された同地方議会再選挙に有権者集団の推薦を受けて、第10選挙区からさらに立候補するが、落選。


ハチャトゥロフ:Хачатуров
ユーリー、Н.
生年月日
性別
国籍 不明
学歴 不明
考察 独占禁止政策・新経済機構支援国家委員会(連邦省と同等の地位)第1副議長を務める。同委員会は、97年3月17日付ロシア連邦行政機関の機構改革に関する大統領令によって独占禁止政策国家委員会に再編される。同国家委員会は、98年9月22日付大統領令第1142号により廃止。


バチュシキン:Батюшкин
アナトリー、С.
生年月日
性別
国籍 不明
学歴 不明
考察 96年10月、通信省次官に就任。


バツィン:Бацын
ウラジーミル
生年月日
性別
国籍 不明
学歴 不明
考察 94年12月〜96年8月、教育省次官をつとめる。


バトゥーリン:Батурин
ユーリー、М.
生年月日
性別
国籍 不明
学歴 不明
考察 93年6月、大統領補佐官に就任(94年1月6日より国家安全保障担当)。94年3月12日より大統領直属人事政策評議会最高軍人職・最高軍人専門称号委員会議長。96年7月25日、ロシア連邦国防評議会が設置され、評議会書記に任命される。国家安全保障担当の大統領補佐官職を維持したまま、97年9月、国防評議会書記を解任される。高位の国家公務員としては初めて宇宙ステーション「ミール」への宇宙飛行が98年8月に決定。98年2月、大統領府の機構の改善措置に関する大統領令に基づき、大統領府の一連の部局の改革が実施され、いくつかの部が廃止されると共に大統領府職員が大幅に削減され、これに関連して同月12日大統領補佐官職から解任。同年8月13日、有人宇宙船「ソユーズTM28」に搭乗し、バイコヌール宇宙基地から軌道ステーション「ミール」へ向けて打ち上げ成功。


バトカエフ:Баткаев
ラフィク、А.
生年月日
性別
国籍 不明
学歴 不明
考察 労働省次官を努める。


バドマエフ:Бадмаев
サナル、А.
生年月日 1948.01.04
性別
国籍 カルムク人
学歴 大学卒
考察 カルムク自治共和国の文部大臣、連邦教育省次官を務める。共産党員。90年5月、第1回人民代議員大会で民族会議メンバーに選出される。


パトルシェフ:Патрушев
ニコライ、П.
生年月日 1951.07.01
性別
国籍 不明
学歴 不明
考察 レニングラード市出身。妻と息子2人。レニングラード造船大学卒業後、75年以降主にレニングラードでKGBに勤務。連邦保安局のカレリア地方組織からモスクワに転勤。中将。連邦保安局の人事部門から98年6月、大統領府監督総局長に就任。


パナリン:Панарин
ニコライ、В.
生年月日 1936.02.20
性別
国籍 不明
学歴 不明
考察 トゥーラ州内務局局長。95年12月国家会議代議員選挙で、トゥーラ州シチョキノ選挙区から当選。議員グループ「人民に権力を」所属。第2期国家会議安全保障委員会委員。


パニキン:Панькин
ヴャチェスラフ
生年月日
性別
国籍 不明
学歴 不明
考察 94年7月、大統領直属青少年問題評議会議長に就任。


パニン:Панин
ヴィクトル、Е.
生年月日 1951.10.07
性別
国籍 不明
学歴 不明
考察 株式会社「シブエネルゴマシ」職工長。95年12月第2期国家会議代議員選挙で比例区から当選。ロシア連邦共産党会派所属。第2期国家会議労働・社会政策委員会委員。


パノフ:Панов
アンドレイ、М.
生年月日
性別
国籍 不明
学歴 不明
考察 家庭問題委員会副議長をつとめる。94年8月18日より住民社会保護次官。96年10月、社会・労働発展省次官就任。


パノフ:Панов
アレクサンドル、Н.
生年月日 1944.07.06
性別
国籍 ロシア人
学歴 博士
考察 68年ソ連外務省付属国立モスクワ国際関係大学卒。ソ連外務省に入り、一貫して外交畑を歩む。68〜71年及び83〜88年の7年半にわたり駐日ロシア大使館勤務を経験する。77〜82年ニューヨークの国連代表部勤務。88年からソ連外務省太平洋・南東アジア局長、ロシア外務省アジア太平洋局長、アジア太平洋担当外務次官などを歴任。92〜93年韓国大使。94年外務次官に就任。モスクワ国際関係大学で「近代日本史」の講師を務めた経験を有し、96年1月、「日本の外交とソ日及びポスト冷戦期の露日関係の推移」と題する論文で博士号を取得。96年7月30日、チジョフ大使の後任として駐日特命全権大使に決定、同年9月7日正式に任命される。


ハバロフ:Хабаров
ウラジーミル、В.
生年月日 1951.02.11
性別
国籍 不明
学歴 不明
考察 96年3月21日、ネネツ自治管区行政長官に任命される。第2期ロシア上院議員。同年12月13日に実施されたネネツ自治管区知事選挙の決選投票でで落選。


バビチェフ:Бабичев
ウラジーミル、С.
生年月日 1939.01.11
性別
国籍 ロシア人
学歴 博士候補
考察 カルムイク自治共和国(現カルムイキア共和国)サルバ地区の農村で生まれる。妻と娘2人。62年ヴォルゴルラード鉱業技師大学、73年ソ連共産党中央委員会付属通信制高等党学校、81年同党中央委員会付属社会科学大学卒。歴史学博士候補。56年からカルムイク自治共和国で働き、コルホーズ員、修理建設局の現場監督、同自治共和国公益事業省次官、「カルムイクストロイ」トラスト部長などを経て、66年からエリスタ市人民代議委員ソヴィエト執行委員会副議長、69年から同自治共和国公益事業相、74年から副首相、77年からソ連共産党自治共和国委員会書記。81年から隣のアストラハン州に移って同州党委員会書記、85年から同第2書記。82年からソ連石油・ガス工業省次官。83年よりグラヴチュメン・ガスプロム産業労組連合の長をつとめる。86年ソ連共産党中央委員会インスペクター。87年以降ソ連共産党中央委員会総務・法務部長。66年〜91年ソ連共産党員(90年7月から中央委員)。90〜93年ロシア人民代議員。その後「ガスプロム」傘下の株式会社「ガスマシ」副社長。94年11月15日、クワソフの後を受けて政府官房長官(閣僚)就任。96年2月から社会政治運動「我が家はロシア」執行委員会議長。96年8月15日、議会・政党・社会運動との相互活動を担当する連邦副首相に任命される(政府官房長官は留任)。97年3月17日、副首相職解任。同年4月8日付首相命令でロシア連邦と諸外国間の貿易・経済及び科学・技術協力における政府間委員会ロシア側議長(スロバキア、チェコ担当)に任命される。「我が家ロシア」幹部会副議長。98年5月31日、チュクチ自治管区で実施されたロシア下院補欠選挙で57%以上の得票率で当選。


バビチェフ:Бабичев
イーゴリ、В.
生年月日 1960.01.01
性別
国籍 不明
学歴 不明
考察 ヒムキ地区行政府第1副長官。民主ロシア<民主的選択>副議長。95年12月第2期国家会議代議員選挙でヤブリンスキー連合より比例区から当選。「ヤブロコ」会派所属。第2期国家会議地方自治問題委員会委員。


ハビブーリン:Хабибуллин
ハサン、Х.
生年月日 1953.08.08
性別
国籍 タルタル人
学歴 大学卒
考察 労働者として工場勤務をした後、71〜73年従軍。74〜81年大学で学び、炭坑技師となり、87年から修理工場の代表となる。工場の初級党組織のメンバーにも選出される。90年5月、第1回人民代議員大会で共和国会議メンバーに選出される。


バビン:Бабин
ニコライ、А.
生年月日
性別
国籍 不明
学歴 不明
考察 94年4月、ヤマロ・ネネツ自治管区国家会議(ドゥーマ)議長に選出される。第2期ロシア上院議員。第2期連邦会議規則・議会手続委員会委員。第2期連邦会議北部・少数民族問題委員会委員。


バブーリン:Бабурин
セルゲイ、Н.
生年月日 1959.01.31
性別
国籍 ロシア人
学歴 博士候補
考察 カザフ共和国セミパラチンスク生まれ。妻と子供3人。81年にオムスク国立大学法学部卒業後、81〜83年まで軍役にあり、アフガニスタンで前線に従軍。後、大学に戻り、83〜86年レニングラード国立大学大学院で学ぶ。86年からオムスク国立法学部講師、副学部長を経て、88年学部長、助教授。89年3月のソ連人民代議員選挙に立候補したが、選挙区集会の段階でふるい落とされる。90年5月、第1回人民代議員大会で共和国会議メンバーに選出される。同年、ロシア最高会議立法委員会委員。議会内会派「ロシア」リーダー。激しい反エリツィン的言動で知られる。91年7月、最高会議議長の座をハズブラートフと争って敗れる。全ロシア民族連合理事会議長。92年10月から「救国戦線」共同議長。81〜91年ソ連共産党員。最高会議立法委員会小委員会議長、同委員会副議長(93年6月15日辞任)。93年12月の選挙で第1期国家会議代議員に選出される。小選挙区から選出される。第1期国家会議社会団体・宗教組織問題委員会委員。下院ではどの会派、議員グループにも属さなかった。「ロシア全国民同盟」党リーダー。95年、ルイシコフ元ソ連首相らと選挙連合「人民に権力を」を結成して12月の第2期下院選挙に臨む。オムスク州ツェントラリヌイ(中央)選挙区から当選。「人民に権力を」会派所属。96年1月18日、国家会議(下院)副議長に就任。第2期下院評議会員。95年1月よりビール愛好党員。「ソユーズ」国民運動連絡会議員。97年11月に明らかになった民営化の歴史に関する著作をめぐるロシア上層部でのスキャンダルで一部閣僚が解任された事件で、この著作の「作者」のひとりであるとされる。


バフティヤロワ:Бахтиярова
リュドミラ、К.
生年月日 1940.10.19
性別
国籍 タルタル人
学歴 大学卒
考察 医療学校で学び、看護婦として経験を積んだ後、医科大学を卒業。地方の病院の主任医師として働く。90年5月、第1回人民代議員大会で民族会議メンバーに選出される。93年9月まで最高会議環境・天然資源の合理的利用問題委員会書記。