| 1934 |
プラハに生まれる。 |
| 1950-1954 |
プラハの工芸大学で学ぶ。 |
| 1954-1958 |
プラハの演劇映画アカデミーで人形劇を専攻。 |
| 1957-1964 |
さまざまな劇場で人形劇の仕事にたずさわる。 |
| 1964 |
最初の映画『シュヴァルツヴァルト氏とエトガル氏の最後のトリック』。 |
| 1970 |
〈チェコスロヴァキアのシュルレアリスト・グループ〉に参加。映画『納骨堂』をめぐって当局側とトラブルが起こり、サウンドトラックの一部が差し替えられる。 |
| 1973-1979 |
映画『レオナルドの日記』をめぐる論争の結果、映画の制作を禁止される。映画スタジオで特殊効果の考案などを手がけ、さまざまな造形芸術の分野で創作活動を行なう。 |
| 1979 |
古典文学の翻案にかぎって映画制作が認められ、ウォルポールの『オトラント城奇譚』を制作。 |
| 1982 |
映画『対話の可能性』が国際的な映画祭で賞をとるが、チェコスロヴァキアでは上映禁止となる。チェコスロヴァキア共産党中央委員会イデオロギー委員会で敬遠すべきものの見本として上映される。 |
| 1990 |
ビロード革命ののちに、『ボヘミアにおけるスターリン主義の終焉』を制作。シュヴァンクマイエルにとってチェコスロヴァキアで最初に一般公開された映画となる。 |