ブレジネフ政治局と政治局小委員会
- 対アフガンと対ポーランド外交政策決定構造の比較 -

金  成 浩


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はじめに

ソ連外交がどのように決定されていたのか、その政策決定過程に踏み込んで議論することは従来、資料的制約もあって困難であった。外務省を初めとして、軍・党国際部・KGBなど外交にたずさわる機関が複数あったのは確かだが、政策がどのような形で一元化されていったのかはまだ定かではない。
本稿では、ソ連崩壊後、資料的に比較的アクセス可能となったソ連軍のアフガン侵攻(1979年)とポーランドでの戒厳令実施(1981年)をめぐるソ連指導部の動きを取り上げ、比較しながら、ソ連の外交政策決定の特色を考察してみたい。その際、@集団指導体制といわれるブレジネフ時代の政治局内で、どのようにリーダー間のコンセンサスが形成されていたのか ? A官僚機構間(とくに外交政策に影響をもっているとみられる外務省・KGB・軍・党国際部等)の意思統一はどのようになされていたのか? 以上の2点に留意しながら、これらの事例研究をこころみる。この時期、つまり、70年代後半から80年代前半は、ブレジネフの健康問題が重大な問題になってきていた時期でもあるため、書記長のリーダーシップの低下を政治局の他のリーダーたちがどのように補完したかという問題も分析する必要があるだろう。
外交の政策決定過程における最近の研究では、横手慎二氏の1994年の報告がある。氏は政治局の組織的妥協のために「小委員会制度」が存在したとし、その例として「中国委員会」(1920年代)、「モンゴル委員会」(30年代)、ポーランド問題を討議した「スースロフ委員会」(80年代)の存在を指摘した (1) 。また、96年には富田武氏が30年代のスターリン時代の国内政策決定過程を研究、アルヒーフの調査によって、30年代のソ連政治局の国内問題に関する「小委員会」の存在とその機能について述べている (2)
本稿でも、ブレジネフ政治局内における外交政策に対するコンセンサスの形成、担当組織間の外交政策の一元化のために、この「小委員会」制度が有効な機能をはたしていたのではないかとみている。最近刊行されたゴルバチョフの回想録の中にも、以下のように「小委員会」制度について言及している箇所がある。「結局のところ、特定の問題に関する解決を見出だすために、常任委員会、臨時委員会合わせて二十以上が設置され、結論をまとめた。政治局はそれを承認するだけだった。中国委員会 《комиссия по Китаю》、ポーランド委員会《комиссия по Польше》、アフガニスタン委員会 《комиссия по Афганистану》、その他、国内問題、国際問題の委員会があった。こうした委員会はすべて中央委員会で開催することが義務付けられていた。中央委員会以外で開かれることはなかった。その活動をすべてチェルネンコの監督下におくためだった。突き詰めていうと、こうした委員会は政治局、書記局の職務を代行しはじめた。時間の経過とともに政治局会議はますます生産性の低い会議になっていった」 (3) 。ゴルバチョフは政治局委員会(小委員会)について具体的な内容までは言及していないが、アフガン委員会とポーランド委員会についてはその他の資料からその内容が明らかになりつつある。
それでは、アフガン、ポーランドの二つのケースをめぐる政治局の動きを概観、そこにおける政治局委員会(小委員会)の役割を考察することによって、ブレジネフ時代末期のソ連外交政策の特色の一面を論じてみたい。

1. アフガン問題における政策決定過程 (4)

(1)介入決定までのソ連政治局の動向

79年12月のソ連軍のアフガニスタン介入にいたるまでで重要な事件は、79年3月のヘラートにおける暴動および79年9月のアミンによるタラキ排除の二つの事件である。79年3月、当時のアフガンのタラキ政権に反対する動きがアフガンのヘラート市でおこった。この事件は、当時政権を握っていたアフガン人民民主党(PDPA)の統治能力に対するソ連指導部の不安を増大させた。79年3月17日から19日にかけて、ソ連指導部は政治局会議において混迷するアフガン情勢の分析を行っている。この時の政治局の議論の様子は、各政治局員の立場を描くのに有効なので、詳細に見ていきたい (5)

3月17日の会議では、ブレジネフ不在の中、キリレンコが議長を務め審議が行われた。この中で、グロムイコ(外相)は、ヘラート駐在アフガン政府第十七軍崩壊の報告を現地のゴレロフ軍事顧問団長および代理大使アレクセーエフから受けたとし以下のように述べた。「いかなる場合でも、アフガンを失うことはできない。60年間我々は、アフガンと平和友好関係の中にあった。もし、今アフガンが失われ、ソ連から離れるならば、我々の外交政策に大きな打撃をもたらす」。
次に、ウスチノフ(国防相)は、アフガン指導部はソ連からの対応を期待していると述べ、アンドロポフ(KGB議長)も反乱勢力へのソ連側からの攻撃がアフガン側の要望だと続けた。これに対しキリレンコは、「もし、そこに軍を送るならば、我軍は誰に対して戦うのか。反乱勢力に対してか。彼等には、多くの宗教的ファンダメンタリスト、すなわち、ムスリムが含まれており、その中には一般人も多数含まれているではないか。これでは、我々はまさに、人民に対して戦争することになる」と反論した。また、コスイギン(首相)は、ソ連軍介入に関してよりもまずアフガンへの軍備の供給を遅らさないことが先決だとし、アフガンでの状況を正確に把握するため、政治決定のための草案となる報告書を外務省・軍・KGBに準備させることを提案した。さらに、コスイギンはアフガン政府自身がアフガン軍によって問題を解決すべきだと主張した。しかし、ウスチノフは軍派遣を再び主張、ソ連軍を送る場合にソ連軍とアフガン軍は混成すべきでないとし、すでに、アフガンにおける軍事行動に関して二つのオプションがあるとしてその具体的内容を述べた。続けて、アンドロポフは「我々は侵略者のレッテルを確実に張られることを念頭に置きながら、政治決定を行う必要がある。しかし、そのようなレッテルが張られようとも、アフガンを失うことはできない」とした。ここで再び、コスイギンは、軍を派遣するならば、世界の世論を納得させるだけの理由が必要だとした。これらの議論のやり取りを受けて、グロムイコは、「状況が悪化した場合に、我々は何をするか討議しなければならない。今日、アフガンの状況は我々の多くにとって不透明である。唯一はっきりしているのは、我々はアフガンを敵に譲り渡すことはできないということである。我々はこれをどう達成するか考えなければならない。多分、我々は軍を介入させる必要はないだろう」と述べている。
この17日の会議で注目すべきことは、ソ連軍のアフガン介入に関して肯定的なウスチノフ、アンドロポフと否定的なキリレンコ、コスイギンの対立があったことである。この意見の流れを見て、当初アフガン介入に関して曖昧な意見であったグロムイコは、アフガンを手放せないと言明しながらも、介入の必要性については否定している。また、この日は同時に、対アフガン政策を提言する政治文書の準備を、グロムイコ・アンドロポフ・ウスチノフ・ポノマリョフに任せることが決定された。
翌18日の会議では、コスイギンがタラキとの電話会談の内容を報告、ソ連の援助がなければ政権維持できないというタラキの言葉を報告した。また、アフガン軍制服着用のソ連軍タジク人戦車搭乗員を派遣してほしいというタラキの要請に、コスイギンは、ソ連軍人の参戦を隠し通すことは不可能ですぐに国際世論の非難にさらされるとし断っている。また、ウスチノフは、PDPAナンバー2のアミンとの会談の模様を報告した。ここでウスチノフは、アミンからヘラートへのソ連軍配備の要請があったとし、アフガン革命の運命はソ連に全面依存しているとして、再度介入を臭わせる発言を行った。しかし、アンドロポフは、ソ連軍の派遣について真剣に考慮したと前置き、アフガン革命はレーニンの教示するタイプのものではなく、ソ連側の銃剣によってのみアフガンでの状況を打開できるとしても、そのようなリスクを犯すことはできないとして、介入に前向きだった前日の姿勢から態度を変えた。これを受けて、グロムイコは、アンドロポフの意見を完全に支持すると前置き、アフガンではソ連軍は侵略者になるだろうし、誰に対して一体戦うのかと介入に対して疑問を呈した。さらに、近年のデタント、軍縮の努力が無駄になること、中国にも「すばらしいプレゼント」になること、さらには介入によって、すべての非同盟国諸国が反対にまわり、深刻な結果が予想されることを介入否定の理由として挙げた。また、さらに、グロムイコは、軍を送るには法律的な観点からも正当化されなければならないとし、国連憲章の規定を挙げた。国連憲章では、当該国が侵略にさらされ援助を求める場合にのみ軍を派遣できるので、したがって、アフガンはこのケースに当てはまらないとグロムイコは述べている。これらの議論の流れを受けて、キリレンコは、昨日はアフガンへの軍派遣に議論が傾いたが、今日は軍派遣否定の立場に我々はあるとして、総括を行った。このため、介入に肯定的だったウスチノフも「軍派遣はただ排除するのみだ」として、最後には介入否定の方向に姿勢を転換した。
そして19日の会議では、ブレジネフが参加、前日18日の不介入方針を正しいものとして承認した。その後、グロムイコは、軍事介入のリスクを負うことはプラスよりもマイナスの方が多いとし、再び、西側諸国との関係悪化の可能性とチALTU交渉で達成してきたデタントの流れを無駄にしてしまうことを不介入の理由に挙げた。最後に、ウスチノフは他の政治局員と同様に軍派遣の考えをもっていないことを強調するものの、ソ連・アフガン国境で軍事演習を行うことを要求している。
以上、17日から19日の政治局の議論の流れを概観したが、注目すべきことは、ブレジネフは自分の不在中に開かれた前日の政治局の議論を追認したのみであったこと、またアンドロポフは共産主義理論に照し合わせてアフガンでの革命の状況を判断、軍事介入のみでしかこの状況は鎮圧することはできないと認識していたにもかかわらず、軍派遣は容認できないとしたこと、またグロムイコは介入否定の理由にデタント政策への影響をあげていることである。さらに、ウスチノフは介入に賛成であったものの、政治局全体の議論が不介入の方針に向くにつれてその立場を変えたことである。また、アフガン四月革命の「成果」を守りアフガンを敵に渡すことはできないという認識は共通して政治局員にあったものの、介入に関してはソ連の国益が計算され介入はソ連にとってプラスよりもマイナスが多いと判断されたことも重要であろう。
4月1日にはアフガン情勢の詳細な分析とその対応策が、グロムイコ・ウスチノフ・アンドロポフ・ポノマリョフ(党国際部長)の4人によって政治局に報告されている (6) 。ここでは、ソ連軍不介入方針の決定は正しかったとされ、その理由として、「…反政府反対活動の内部的性質のため、アフガニスタン反革命の鎮圧にソ連軍を使用することは、ソ連の国際的権威をひどく傷付け、軍縮プロセスを後退させることは明らかである。加えて、ソ連軍の使用は、タラキ政権の弱点を露呈させ、さらに高いレベルでの反政府攻撃を招き、国内においても国外においても反革命の範囲を拡大させることになるだろう…」と述べられている。
続く6月28日には、先の4名が再度政治局へアフガン情勢の分析と提言を行った (7) 。ここでは、アフガン情勢がますます悪化していることが報告され、アフガン側にソ連側から「対反革命闘争の強化と人民の権利強化」に関する提言を行うとされた。さらにバグラム空港のソ連飛行中隊の防御に飛行整備技術員の服装に扮したパラシュート部隊を派遣、またソ連大使館の警備のために、大使館サービススタッフとしてKGB特殊部隊を、特別重要政府施設の警備のためにGRU特殊部隊を配備することも提言されている。これはソ連正規軍の派遣ではなく、アフガン内にいるソ連人もしくはソ連大使館の防衛目的に限定されたものであった。
さらに、7月19、20日にはポノマリョフがアフガンを訪問しタラキおよびアミンと会談、この時アフガン側からソ連正規軍2個師団の派遣要請がなされたが、ポノマリョフは断っている (8)
この時点までのソ連側のスタンスは、3月に決定された軍事介入否定の政治局方針の延長上にあるものだった。そのようなソ連のスタンスを変えた事件が、79年9月のアミンによるタラキ排除であった。これはPDPAナンバー2のアミンがタラキに対する不信から反旗を翻した事件であるが、タラキに代わって政権についたアミンに対して、ソ連指導部は信頼をおかなかったようである。
9月15日に、グロムイコ・ウスチノフ・ツヴィグーン(KGB副議長)により政治局に出された提案書は、アミンによるタラキ排除事件の詳細を分析、アミンの政治的姿勢を見極めるためにアミンとの接触は続けるべきとしている (9) 。さらに、グロムイコは、9月15日に電文をカブール駐在のソ連代表たち(ソ連大使・KGB代表・軍事顧問長)に打ち、アミンとの接触を続けるよう命令している (10)
この後の9月20日の政治局会議で、ブレジネフは、アフガンでのソ連の立場を維持しそこでの影響力を確保するためにさらなる行動を取る必要があると述べた。さらに、彼はアフガン政策がデリケートで難しいものになると予想した (11)
10月29日にはグロムイコ・アンドロポフ・ウスチノフ・ポノマリョフの4人によって党中央委員会へ報告書が書かれている。この報告書では、アミンと米国との接触について言及、西側に傾斜しようとする「バランス外交」をアミンが実施しようとしていると指摘された。さらに、ソ連がアミンを信頼せず関係を持つことを望んでいないことをアフガン側に悟られないことが大切であるとし、アミンの態度の変化に対してソ連側から追加的措置が必要とする提案を行っている (12)
アミンが自主的な外交政策をとりはじめ米国との接近も考慮しはじめたことや、アフガン国内情勢がいっそうの悪化に向かっていくにともない、さらにはチALT II条約の米国議会での批准が疑問視されることと合わさり、ソ連指導部はアフガン不介入の立場から軍事介入の立場へとそのスタンスを移行し始める。10月29日から12月初めまでの一カ月程の政治局の動きは不明であるが、12月4日にはアンドロポフとオガルコフ参謀総長により、すでに6月に提案されていた政府重要施設の防衛のためのGRU派遣が再度提案され、6日には承認されている (13) 。また日付は定かではないが、12月初旬には、アンドロポフからブレジネフにメモが渡された。ここでは、アミンが秘密に米国側と接触し始めていること、ソ連の政策を非難する秘密会議をアフガン側が開いていること、このままでは、春には反政府勢力からの攻撃が活発化して、1978年のアフガン四月革命の成果を失いかねないこと、さらに、アミンが自分の立場保持のために西側に急接近しかねないため、アフガンでのソ連の立場が脅威にさらされる可能性が報告された。また、PDPAの内部紛争から国外に亡命していたカルマルとサルワリにKGBが接触し、カルマルらが反アミン旗揚げを意図しており、ソ連に軍事を含む最大限の援助を要請しているとも報告された。また、このメモで、アンドロポフは、すでにカブールにソ連側から二つの部隊を派遣(12月4日に提案された部隊派遣によるものと推測される)しているので、カルマルとサルワリの計画を成功させる能力は十分にあるが、予期せぬ出来事に備えてソ連・アフガン国境に軍を配備しておくべきと提案している (14)
79年12月8日、スースロフ・グロムイコ・ウスチノフ・アンドロポフの4人によって侵攻について事前討議された。この事前討議の内容は公式資料からは判明していないものの、ロシアの研究者リャホフスキーは以下のように述べている (15) 。「12月8日、ブレジネフの執務室で党中央委員会政治局のごく限られたメンバーが参加して会議が行われた。参加したのは、アンドロポフ、グロムイコ、スースロフ、ウスチノフであった。彼等は長い間アフガンとアフガンを取り巻く状況を審議し、ソ連軍介入によるプラスとマイナスの要因をすべて拾い上げた。アンドロポフとウスチノフは介入の必要性の論拠として、以下の内容をあげた。米国CIAがソ連南部の共和国を含む『新大オスマン帝国』を創ろうとしていること、ソ連南部の防空システムが完全でないため、米国のパーシングミサイルがアフガンに配備された場合バイコヌール宇宙基地を含む多くの重要施設が危機にさらされること、パキスタンやイラクによってアフガンのウラン産地が利用される可能性があること、アフガン北部での反対運動の発生やパキスタンにこの地域が併合される可能性があることなどである」。
続く12月12日に、グロムイコ・アンドロポフ・ウスチノフの3人にアフガン問題を一任する決定が行われ、この時介入決定の決議もなされたとみられる (16) 。判明している公式文書には結論のみ記され意見交換の状況は記載されていないが、この会議に参加した党国際部第一代理ウリヤノフスキーはこの時の模様を以下のように回想している。「グロムイコがその会議の議長を務めた。長テーブルの上座に座るグロムイコの横にウスチノフがいた。アンドロポフは後ろの壁に沿って側面に座った。10人−11人の中央委員会の顧問たちは反対側の壁に沿って距離をおいて並んでいた。何人かの顧問たちからの30分の報告の後、グロムイコから何度か促されて、ブレジネフが足を引きずって入ってきた。ブレジネフがそこにいる全員を抱擁するためよろよろ歩くので、グロムイコはブレジネフの手を掴んで支えた。何度かブレジネフはつまづきかけ、その時グロムイコはブレジネフを席に座らせるのを手伝い、アミンがどれだけ悪く、どれだけ冒険主義者で、どれだけ予測不可能な男かを示す新しい情報をブレジネフに耳打ちした。ブレジネフは、突然立ち上がり、机の上を握りこぶしで叩き、『汚い男』と小声でいった。そして、その部屋を出た」 (17)
次に、判明しているのは、12月26日、別荘において、軍事介入実施に対する最終的確認がブレジネフ・ウスチノフ・グロムイコ・チェルネンコ・アンドロポフの間で決定されたことである。別荘で会議が開かれたことは、ブレジネフの健康問題と関連していたとみられる (18)
この26日の介入実施確認を受けて、12月27日にソ連はアフガンに軍事介入を行った。この27日には、関係各機関へ行うソ連軍介入の説明の草案が中央委員会名で決定されている (19) 。この時、東側諸国駐在ソ連大使館・その他のソ連大使館・駐ニューヨークソ連(国連)代表・TAチチ通信・ソ連共産党各組織・非社会主義諸国共産党労働者党の以上六種類の機関に向けての説明が決定されているが、それぞれ説明の調子には差異がある。とくに、ソ連共産党各組織への説明では、介入決定理由として、@アミン政権の腐敗と統治能力の低下、A78年12月のソ連・アフガン条約によるカルマルからの軍事援助要請が挙げられている。また、介入決定に際しては、ソ連中央アジア各共和国と国境を接し、中国とも近接しているアフガンの喪失がソ連の安全保障を脅かす可能性をもつと判断されたともしている。また、帝国主義諸国とそのマスコミから予想される否定的反応および友好国からの不理解も同様に考慮されたが、アフガン情勢の急転回が介入を止めなかったとも説明されている。
その後、12月31日には、アンドロポフ・グロムイコ・ウスチノフ・ポノマリョフ名による「1979年12月27日−28日のアフガンでの出来事に関して」という報告書が政治局に提出された。ここでも、アミン政権の腐敗と米国接近が指摘され、介入の理由として、「…四月革命の成果とわが国の安全保障上の利益が危険な状態にさらされる極めて複雑な状況の中で、前アフガニスタン政権が要請した以上の、さらなる追加的軍事援助をアフガニスタンに供与する必要性が生じた。…」と記されている (20)
9月20日の政治局会議以降の資料に述べられている理由をまとめると、@四月革命の成果の喪失、Aアミン政権の腐敗と統治能力の低下、Bアミンの米国接近によるアフガンでのソ連の立場喪失の可能性、C78年12月のソ連・アフガン条約にもとづくカルマルからの軍事援助の要請、Dソ連中央アジア各共和国および中国と近接するアフガンの喪失がソ連の安全保障を脅かす可能性、E「帝国主義諸国」からの否定的反応および友好国からの不理解も考慮されたが、それをも越えるアフガン情勢の急転回。以上六つの理由であった。
次に判明しているのは、介入から約3週間後の80年1月17日の政治局会議の模様である。この会議では、引き続きアンドロポフ、グロムイコ、ウスチノフ、ポノマリョフを成員とする政治局委員会(以下、中央委員会との混同を避けるため政治局小委員会とする。小委員会の詳細は次節参照)を継続することをブレジネフが提案している (21)
つづく1月27日にはこの4名によって政治局会議へ報告書が送られているが、この報告書は、アフガンを取り巻く国際的非難についてふれ、とくに米国・中国が反ソの方向でパワーバランスを変更しようとしていることを指摘した (22)
1月31日から2月1日にかけて、アンドロポフはカブールを訪問、カルマルを初めとするアフガン指導部と会談を行った。この模様をアンドロポフは2月7日のソ連政治局会議で報告、アフガン情勢は安定に向かっているとしたが、ウスチノフはアフガン安定化のためには一年ないし一年半は必要で、それまでは軍の撤退はありえないとした。それに続いて、ブレジネフとグロムイコも撤退は時期尚早とする意見を述べている (23)
以上が現段階で判明している介入をめぐるソ連政治局の動きであるが、それでは、政治局小委員会は一体どのような役割を演じていたのか次にみていきたい。

(2)政治局アフガニスタン委員会

政治局内で小委員会が組織されていたことを示す公式文書としては、介入の前日すなわち79年12月26日に別荘で開かれた会議の議事録があげられる (24) 。その文書は以下のようになっている。(なお、資料本文中の下線は筆者による)

79年12月12日付 NoП176/125 опに関して

1979年12月26日(別荘において−Л.И.ブレジネフ、Д.Ф.ウスチノフ、А.А.グロムイコ、К.У.チェルネンコ同志が出席)ウスチノフ・グロムイコ・アンドロポフ同志は、1979年12月12日付ソ連共産党中央委員会決議NoП176/125の実施方法について報告した。
ブレジネフ同志は一連の希望を述べ、その際、近いうちに同志たちによって予定されている行動の計画を承認した。
中央委員会政治局委員会は、自己の活動の一歩一歩を綿密に考慮しながら、報告された計画の方針と内容で活動することが適当と認められる。決定が必要な問題に関しては、適宜、党中央委員会に付すること。


79年12月27日

К.チェルネンコ

以上の資料からは政治局小委員会の存在を示す事以外確認できないが、政治局小委員会(別名:アフガン委員会)が形成された時期について、当時の外務次官であったゲオルギー・コルニエンコの証言がある。彼はヘラート暴動が起こった79年3月の段階ではまだアフガン委員会は非公式のものだったとしている (25) 。12月26日の段階ではその存在が上記資料から確認されているので、アフガン委員会が公式化されたのは79年3月から12月26日の間ということになる。さらに、ブレジネフは、80年1月17日の政治局会議において、アフガン委員会の成立時期を「数ヵ月前」と述べていることから (26) 、アフガン情勢が急転回を見せた79年9月から11月までの間に公式化したのではないかとみられる。
次に、アフガン委員会の構成についてであるが、これも80年1月27日の政治局会議の議事録から確認できる。ここで、ブレジネフは、アフガンの情勢がまだ日々の観察や政策の擦り合わせを要求しないものになっていないとし、アンドロポフ・グロムイコ・ウスチノフ・ポノマリョフの4人の以前のメンバーのままで政治局小委員会を継続させることにすると述べている。また、前述のように、他にも政治局に提出されたアフガン問題に関する添付文書に、アンドロポフ・グロムイコ・ウスチノフ・ポノマリョフの連名となっているものが複数確認されており、このメンバーがアフガン問題の政策決定に中心的役割を担っていたことは確実である。また、コルニエンコは、アフガン委員会は政治局内に設けられていたとし、その参加者として、グロムイコ・アンドロポフ・ウスチノフ、そこに時々ポノマリョフが加わっていたと述べているが (27) 、これも先の資料の内容と矛盾しない。
次に、アフガン委員会はどのような役割を担っていたのであろうか。これも先のブレジネフの発言により推定できる。アフガンの情勢がまだ日々の観察や政策の擦り合わせを要求しないものになっていないとしアフガン委員会を継続させると彼が述べたことは、情報の収集と関係各機関(この場合、外務省・KGB・軍・党国際部)の政策調整がアフガン委員会の機能であったことを意味している。また、この4人の名による政治局会議への添付文書では、アフガン情勢に対する綿密な分析と対アフガン政策についての提言が記されており、これをもとに政治局の定例会議が行われていたことがうかがえる。事実、会議では報告書が事前に配布されているらしく、会議の議論は、この報告書をふまえた上で進行している。
アフガン委員会については、上記以外にも幾つかの資料がある。その一つにアフガン駐在軍事顧問長ゴレロフの証言がある。ゴレロフは政治局アフガン委員会で報告するため、1979年8月半ばにアフガン駐在代表イワノフとともにモスクワに召還された時の模様をこう語った。「政治局員のグロムイコ、アンドロポフ、ウスチノフ、そして参謀総長オガルコフおよび外務第一次官コルニエンコが出席していた。[アフガニスタン]国内と軍の状況についての私の簡潔率直な報告の後、質問が矢継ぎ早に飛んだ。基本的にそれらはグロムイコとアンドロポフからのものだった。その時は、わが軍の介入については直接的な議題とはならなかった」 (28) 。ここには、この会議の参加者にポノマリョフの名があがっていないが、これはポノマリョフの会議への参加が時々であったとするコルニエンコの証言 (29) と矛盾しない。
以上、アフガン介入にいたる政治局の動きとアフガン委員会について見てきたが、次に、1981年のポーランドの戒厳令導入に対するソ連政治局の動向を追ってみる。その上で両ケースの比較に移りたい。


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