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2. 改革の結果

こうして行われた改革、特に負担金納化、つまり国有領地の直営農場の廃止はいかなる結果をもたらしたのだろうか。ドルジーニンは述べている。「長期間に渡って引き延ばされたこの改革は、その欠点の全てにもかかわらず、農民経営に肯定的な影響を与えた。占有者の恣意の消滅、農民分与地の若干の増大、封建的負担の減少、そして最後に、自分自身の経営遂行におけるより大きな自立性。以上全てが、多数の小生産者の状態に反映しないはずがなかった。農民義務検査と賦役を貨幣地代で代替したこととの有益な結果は、キエフ県の客観的な指標に明確に表れている」 (67) 。そしてドルジーニンは、「客観的な指標」として、キエフ県およびヴォルィニ県の国有地農民1人当たりの播種量の増加、キエフ県およびポドリヤ県の国有地農民1人当たりの役畜数の増加を示す表をあげ、またどの県でも、果樹や野菜の栽培が発展したことを示す数字をあげている (68) 。さらに彼は、キエフ県チギリニ郡のスボートフ ≪Суботов≫での市場向け果樹栽培・野菜栽培の発展、同県キエフ郡のトリポリエ ≪Три-полье≫およびジュコフツィ≪Жуковцы≫での養蚕業発展、同県同郡のスタイキ≪Стайки≫の養蜂業の発展、同県チェルカスィ郡のロモヴァトエ≪Ломоватое≫の蕎麦、ライ麦、西瓜、玉葱の栽培と販売の発展、といった例を具体的にあげる (69) 。そして彼は、「右岸ウクライナの農村生活における新たな肯定的現象は、国有領地賃貸制度の破滅的な影響と結びついた農民経営の破壊をくい止めた」と主張する (70)
しかしながら、彼のあげる根拠にはいくつか問題がある。まず第一に、登録農奴1人当たりの穀物播種量や役畜保有数の増大の原因は、負担の金納化に限られない。同時に行われた種々の勧農策もまた、これらの「新たな肯定的な現象」を引き起こす上で、一定の役割を果たした可能性がある。たとえば1845年のキエフ県だけでも、役畜購入のため、貧農に863ルーブリが貸し出されており、これによって農民の所有する役畜数が増大したことは、疑いえない (71) 。したがって、これらの現象の原因を、負担金納化だけに限定してしまうのは、問題があろう。次に、果樹の栽培は、19世紀末には右岸ウクライナの名物の一つとなるものであり (72) 、国有地農民のみならず、当の「改革」の恩恵を被らなかった領主地農民もまたこれを行っていた可能性がある。したがってこれまた、負担の金納化のみによって発展したとは言いがたい。第三に、ドルジーニンがあげている五つの集落のうち、キエフ郡のトリポリエ、ジュコフツィ、スタイキは、いずれも旧正教修道院領内にあり (73) 、「国有地農民の改革」前から既に賦役ではなく貢租の形で、封建的義務を果たしていた集落である。したがって「農民義務検査」の影響はともかく、「賦役を貨幣地代で代替したこと」の影響を被るはずがないのである。また、これらの五つの集落は、全てドニエプル川、すなわち「この、それに沿った辺りで、一般に人民の生活が発展している自然の道」 (74) の沿岸にあり、しかもそのうちスボートフ、トリポリエ、ロモヴァトエの三つは、以前から商業の中心地であった (75) 。それ故、これらの集落で「国有地農民の改革」後、市場向けの生産がなされたとしても、それは必ずしも負担の金納化による発展を意味するとは限らない。というのは、ドルジーニンは、これらの集落において、負担の金納化以前に、市場向けの生産が行われていなかったということを証明してはいないからである。以上のように、ここでドルジーニンがあげているデータは、負担の金納化による国有農村の状態の改善の証拠としては、必ずしも説得的ではない。
また、負担の金納化、そしてこれと不可分な農場解体により、農民は負担軽減および分与地拡大という恩恵を得たのであるが、少なくとも分与地の拡大はそれほど大きいものではなかった。ドルジーニンによれば、改革の結果、右岸ウクライナの国有地農民の負担の合計は、キエフ県で8.6%、ポドリヤ県で25.3%、最大のヴォルィニ県で26.3%減少し (76) 、総分与地面積はキエフ県で4.9%、ヴォルィニ県で10.6%、最大のポドリヤ県で26.2%増大している (77)
しかし、問題は、この改革が、右岸ウクライナにおけるプロシア型資本主義の発展とどのように結びついていたのか、ということである。この点は、領地台帳の改革が領主領地におけるプロシア型資本主義の発展に積極的な意味を持っていたことを考えると、重要な意味を持つ。
そこで以下では、国有地農民の改革並びに領地台帳改革実施後の、国有地農民の状況と領主地農民の状況とを比較する。前述したように、「キセリョフの改革」以前に両者がおかれていた状況は、ほとんど同じであった。したがってこのような比較を行うことによって、国有地農民の改革と、領地台帳の改革のいずれが、プロシア型農業資本主義発展の上で、より大きな役割を果たしたのかを考えることができる。ただし入手しえた資料の制約上、主な分析対象とする時代を1860年代以降としたい。実際には国有地農民の改革や領地台帳改革の後、1861-63年の農奴解放という改革が行われ、国有領地にもそれが一部適用されたので、1860年代以降の資料の検討では、キセリョフの改革や領地台帳改革の影響だけを純粋に取り出すということはできない。しかし、農奴解放並びにそれに続く1866-67年の国有地農民の改革によっても、右岸ウクライナの農業構造の大枠は変わらなかったと思われるのである。右岸ウクライナでは、1861年2月19日の法律の「キエフ地方規定」により、領地台帳で農民地とされていた土地の全てが、農民に分与地として与えられた。さらにポーランド反乱後の1863年に、元領主地農民は全ていわゆる「農民=土地所有者」とされ、またその義務償却金は20%減額された (78) 。したがって、農奴解放の前後を通じて、領主地農民の分与地面積には、それほど大きな違いは生じなかった、と考えられる。少なくとも、農業構造を変革するほどの違いはなかったであろう。また、1867年には、右岸ウクライナの国有地農民にも、彼らが用益している土地の所有権が与えられることになり、次いで1874年までに、土地不足の国有地農民などに対する追加的土地分与が行われた (79) 。しかし、これも農業構造を変化させるほどのものではなかったと思われる。
まず第一に、領主地農民と国有地農民の男子1人当たりの分与地面積を比較してみよう。1863年の農奴解放直後、旧領主地農民の男子1人当たりの分与地面積は、キエフで 2.6デシャチナ、ポドリヤで 2.4デシャチナ、ヴォルィニで 3.9デシャチナであった。これに対して1866-67年の改革後、旧国有地農民の登録農奴男子1人当たりの分与地面積は、キエフで 3.9デシャチナ、ポドリヤで 3.7デシャチナ、ヴォルィニで 5.5デシャチナであった (80) 。ポドリヤ県では、負担金納化と農場の解体の結果、国有地農民の分与地面積が25%ほど増えたはずだが、それでもキエフ県の国有地農民に劣っている。これはポドリヤ県の国有地農民が負担金納化の前には、全く僅かな土地しか与えられていなかったためであろう。やや時代は下るが、さらに詳しい郡別のデータをキエフ県についてあげると、〈表2〉のようになる。

これらの資料による限り、確かに旧国有地農民の分与地面積は旧領主地農民の分与地に比べて、かなり広い。しかし土地不足には変わりない。男子1人当たり5デシャチナの土地が無くては、家族が食べてゆくのも困難なのである (81) 。それ故、「キセリョフの改革」後の国有地農民の状態は、少なくとも分与地面積に関しては、確かに領主地農民よりはましだったが、十分な状態にはほど遠かったのである。ただし、ドルジーニンによれば、人口密度の低いポレシエ地帯に属する「ヴォルィニ県の(国有地)農民は、農民義務検査と金納化との後、農場解体によって残された予備地の賃借権を広く行使した」 (82) という。したがって、同県の国有地農民は、自らの農業経営だけで生計を立てることができたかもしれない。しかし、人口密度の高い森林ステップ地帯のポドリヤとキエフでは、それは不可能だったのである。
ところで、この土地不足による生活苦という問題は、右岸ウクライナの領主地農民の場合、農奴解放の前後を通じて、主に領主農場での雇用労働という方法で、解決されていた。雇用労働には二つの種類があった。一部の領主地農民は、領地経営の中核となる恒常的な労働者として、自分の住む領地の領主によって雇用されていた (83) 。バラボイによれば、このような労働は「強制的労働であると同時に資本主義的雇用による労働でもあ」った (84) 。こうして雇用される領主地農民は、「各種の仕事の正しい方法を身につけており、経営の全体をよく理解して」いた (85)
また、1830-40年代に普及しはじめた甜菜の栽培が必要とする労働力は、播種面積1デシャチナあたり130-140 労働日であって、穀物の40-70 労働日をはるかに上回っていたので (86) 、農繁期の日雇い・季節雇いの雇用労働力需要は莫大であった。このため、サマーリンによれば、近隣の領主の農奴や逃亡農奴までが雇用された (87) が、農奴解放前ですら右岸ウクライナの甜菜農場の「日雇いの働き手は、領主地農民のなかから得られた」 (88) のであり、特に地元の領主地農民が重要であった。「大領地の甜菜・砂糖の生産高、そして小封地の甜菜プランテーションの大きさは、多くの場合、地元人口次第」だったのである (89) 。農奴解放後も甜菜農場の労働者の大部分は地元の農民であった (90)
このため、キエフ県内で、甜菜栽培が最も発展していたチェルカスィ、チギリニ、カネフの3郡では、農奴解放の直後から、甜菜糖業が分与地面積の少ない農民の生活を保障しているとまで言われていた (91) 。砂糖工場の雇用創出力はごく限られたものであった (92) ので、これは甜菜栽培のためである。
おそらくはそのためであろう、キエフ県の農民は、農奴解放の前後を通じてそれほど出稼ぎには行かなかった (93) 。また、農民的家内工業、即ちクスターリ工業もそれほど発展しなかった。右岸ウクライナのクスターリ工業については、1885年のキエフ県の数字をあげることしかできないが、それによれば、当時の旧国有地農民で全農戸の0.76%、旧領主地農民で0.65%がクスターリ工業に携わっているに過ぎなかったのである (94)
これに対して国有地農民は、近隣の領主農場での雇用のみならず、かなり出稼ぎも行っていたようである。右岸ウクライナ農民の出稼ぎについては、十分な資料が手に入る訳ではないのだが、キエフ県の1846年と1885年 (95) のパスポートの交付件数をあげて、領主地農民と国有地農民との比較をしてみよう。
1846年には、領主地農民の出稼ぎは396 件、国有地農民のそれは474 件であった。1845年の男女合計の人口は、領主地農民が1,006,004 人であるのに対して、国有地農民は150,596 人であったので (96) 、総数では6分の1以下の国有地農民が、出稼ぎ者の数では半分以上を占めていたことになる。ただし、パスポートを取得せずに勝手に出稼ぎに行く者は、領主地農民の方が多かったという (97) ので、この数字は若干割り引いて考えた方が良い。しかし、たとえそうだとしても、矢張り農奴解放前のこの時点で出稼ぎに向かう傾向は、国有地農民の方が強かった、と考えられる。
次に1885年の数字を見よう。だが、これはパスポート交付数のみで、それ以外の証明書の記録はない。また、1885年の調査は、国有地農民と領主地農民とを区別しておらず、ただ郷別に両者を合わせて記載しているだけである。そこで、次の方法で、国有地農民と領主地農民のそれぞれについて、出稼ぎ者数を推計する。
まず、『キエフ県の農民の分与地保有に関する資料』(1907年) (98) を用いて、この時期のキエフ県内の全ての郷について、それらが国有地農民の集落のみから構成されているのか、あるいは領主地農民の集落のみから構成されているのか、それとも両方が混ざっているのかを確認する。この最後の、領主地農民と国有地農民の両方が混ざって住んでいる郷を、以下では混住郷と呼ぶことにしよう。次に同じ資料から、各郷の世帯数をとる。これで全県の全ての郷について、それらが国有地農民の郷なのか、領主地農民の郷なのか、混住郷なのかが判るし、また各郷の相対的な人口比も判る。以上のデータに、1885年の郷別出稼ぎ者数のデータを加えたのが〈表3〉である。1907年の郷別家族数を1885年の出稼ぎ者数と比較するのは確かに問題があるが、国有地農民と領主地農民との相対的な関係を検討するにはこれで十分であると考える。
〈表3〉が示すところによれば、国有地農民の郷は、家族数ではわずか1割に過ぎないが、6倍の家族数を擁する領主地農民郷とほぼ同数の出稼ぎ者を出している。〈表3〉のデータをさらに各郡別に示したのが〈表4〉である。ここでも領主地農民郷よりは混住郷、また混住郷よりは国有地農民郷で、出稼ぎ者が相対的に多い。
さらに、1907年と1885年という時期の違いを無視して、また、一つの家族からは1人しか出稼ぎに行かないと仮定したうえで、出稼ぎ者のいる農民家族が農民家族全体の中で占めている比重を、各郡別かつ郷の種類別に推計したのが〈表5〉である。なお、1877年の調査においては、キエフ県の国有地農民と領主地農民との間で、農戸1戸あたりの男子農民数にはほとんど差はなかった (99)
〈表5〉から判るように、分与地面積やクスターリ営業については、国有地農民と領主地農民との間にそれほど大きな差はないのに、出稼ぎはほとんどどの郡でも、国有地農民が圧倒的に多く、次いで混住郷の農民が多い。 資料は〈表3〉〈表4〉と同じ。表中「−」となっているのは当該郡中に混住郷、または国有地農民郷が存在しないことを示す。
出稼ぎ頻度のこの違いの最も主要な原因は地理的なものである。つまり、キエフ県の国有地農民は、南部の県境のズヴェニゴロトカ、ウマニ両郡、東南部のチェルカスィ、チギリニ両郡、キエフ郡のキエフ市周辺に集中しているが、以上のうち南部と東南部の4郡の国有地農民郷は、出稼ぎ労働力需要が非常に大きいヘルソン県に面しており、キエフ市周辺でも出稼ぎ労働力需要は非常に大きかったのである。なお、1880年代には、キエフ県の出稼ぎ者の多くはステップ地帯のヘルソン県での農業労働に従事していた (100)
しかしながら、次の二つの事実も重要であろう。その一つは、甜菜農場での労働力需要が非常に大きいチギリニ郡からも、甜菜農場での労働力需要が年間最大になる(101) 5 月を目前にした4月及びまさに 5月という時期に、出稼ぎに向かう農民が年間最多になる (102) ということである。もう一つは、〈表4〉に見られる通り標本数が極端に少ない郷グループを含む、ラドムィスリ、ワシリコフ、タラシチャの 3郡、及び国有地農民の中にかなりの数の旧屯田兵が入っている (103) ウマニ郡を除くと、他の八つの郡の全てで、出稼ぎ者の相対的な数の多さについては、国有地農民郷、混住郷、領主地農民郷という序列が常に当てはまるという事実である。ベルディチェフ、スクヴィラ、リポヴェツといったドニエプル川から遠い、経済活動がそれほど盛んではない郡 (104) でもそうなのである。
なお、ポドリヤ県とヴォルィニ県の出稼ぎの詳細は不明であるが、次のような数字をあげることができる。即ち、1890年代には、毎年、県外に出稼ぎに行く農民の数は、国有地農民と領主地農民との合計で、キエフ県で約112,000 人、ポドリヤ県で約38,000人、ヴォルィニ県で約1,200 人だったという。また、1891年に出稼ぎに出た農民に交付されたパスポート等の証明書の数は、キエフ県で108,285 通、ポドリヤ県で101,490 通であった (105) 。それゆえ、当時は、キエフ県の出稼ぎ者のほとんどが県外に赴いたのに対し、ポドリヤ県の出稼ぎ者の約6割が県内で出稼ぎを行ったものと思われる。ポドリヤ県の県内出稼ぎについては、詳細は不明だが、同県にはステップ地帯のバルト郡など農業構造がヘルソン県に類似した地域があり、ここで出稼ぎを行っていた可能性がある。例えば、時代はさかのぼるが、匿名の著者エス・ヴェが農奴解放直前のバルト郡で体験したところによれば、そこでの農作業には、多くの出稼ぎ農民が参加していたという (106)
また、ポドリヤ県に近いキエフ県のベルディチェフ、スクヴィラ、リポヴェツといった郡でも、国有地農民の方が領主地農民よりも出稼ぎに向かう傾向が強かったことから、ポドリヤ県でも、同じ傾向が見られたと考えられる。先に引用したエス・ヴェの体験でも、雇用された出稼ぎ農民は全員国有地農民であり、農奴解放前のポドリヤ県バルト郡でも出稼ぎ者のかなりの部分が国有地農民であることを暗示している (107) 。また、ヴォルィニ県での出稼ぎの極端な少なさは、同県の比較的豊富な土地が、国有地農民の労働力を吸収していたことを示すものであろう。
以上から、国有地農民は地理的要因を除いても、一般に、領主地農民に比べて出稼ぎに向かう傾向が相対的に強かったのではないか、と考えられる。農奴解放直前の右岸ウクライナでは、おそらく甜菜の栽培を中核とした「規則正しい輪作経営では…偶然賃仕事をすることになった単純労働者、特に国有地農民が彼ら(領主地農民)と肩を並べるのは難し」かった、「彼ら(国有地農民)は農場のそばにいる者(領主地農民)に比べると、概して農作業の実行について経験不足であり、また下手であった」 (108) 、などという指摘もある。これによれば、右岸ウクライナの農業雇用労働力としては、領主地農民が中心であり、国有地農民はあまり重要視されなかったのである。
なぜこのような差異が生じたのか。その原因は、右岸ウクライナ資本主義農業の発展の中にあるのではないかと思われる。領主地農民の場合、1830年代以降の、甜菜を中心とする商品農業の発展の中で、大量の雇用労働力を必要としていた領主経営が、領主地農民の労働力供給を、かなり吸収してしまっていた。甜菜の栽培は、播種面積1デシャチナあたり、穀物の40-70 労働日をはるかに上回る130-140 労働日を必要とするという労働集約的なものだった。そのため領主地農民は、自らの住居近くの、いつも賦役を果たしているその同じ領地での労働に、賃金を支払ってもらうことができたのである。また、少なからぬ領主地農民が、領主農場の専従労働者となっていた点も見逃せない (109) 。更に、領主による経済外的強制が、領主地農民の出稼ぎを妨げたこともありえたろう。彼らは、農奴解放までは、領主の許可無く領地を離れることができなかった (110) のである。こうして、既に農奴解放の直前に、領主地農民は右岸ウクライナの農業雇用労働力の根幹部分を形成するに至ったのである
これに対して国有地農民の場合、その住居の近くには、もし、甜菜栽培が行われていれば莫大な労働力需要を作りだしたであろう領主農場がなかった。国有地農民の改革以前には、旧正教修道院領を除けば、どの国有領地にも農場地があったが、その農場地はまさに国有地農民の改革で、解体され消滅していたのである。
農場地は分割されて農民分与地とされたが、この土地分配は、おそらくポーランド人領主階級のサボタージュを避けるために、拙速を旨とするものとされた。そのため、分割後の耕地混在の惨状は目を覆わしむるものがあり、伝統的な三圃制以外の農法の実施は、直ちには考えられなかった。それ故、甜菜の栽培を中核とした「規則正しい輪作経営」など、実行不能だったろう。そもそも甜菜栽培は、多額の資本投下を必要とするものであり、小規模な農民経営のもとでは、非常に困難であった。土地分配が平等に行われたことも、生産手段と労働力との分離を前提とする、資本主義的な甜菜栽培の実施を一層困難にした。
従って、国有地農民の負担を少しばかり軽くし、彼らにかつての農場地を分配した改革そのものが、恐らく当時最も労働集約的な農産物であった甜菜の導入を妨げ、農業人口が過剰であった右岸ウクライナにおいて、彼らが農業労働者として生きる道を狭めたのである。その結果、地元甜菜農場での労働をもともと強制されなかった国有地農民は、ますます地元労働市場から離れ、出稼ぎに向かう傾向を相対的に強めたのであろう。

結 論

1840年代の右岸ウクライナでは、国有領地では負担の金納化、領主領地では領地台帳改革という二つの改革が行われる。これらの改革の実施前には、国有領地と領主領地の状態は、旧正教修道院領を除けば、それほど異なるものではなかったはずである。どちらの領地も農民分与地と農場直営地とに分かたれ、農民は賦役を課されており、農業生産は市場向けに行われていた。そして領主領地では雇用労働が始まっていた。国有領地で雇用労働が実施されていたことを物語る資料は現在提示できないが、国有領地においてだけ、雇用労働が行われなかった、と断定する理由はない。
このように極めて類似した状態にあった二種類の領地の運命は、改革の実施後一変する。領地台帳改革の結果、領主領地は事実上農民地の奪取を是認され、ますます市場向け生産を拡大する。領主地農民は分与地を削減される一方、賦役負担を軽減され、雇用労働を行うようになり、その境遇は次第に農業労働者に類似したものになってゆく。19世紀末の右岸ウクライナの大規模な資本主義的農業生産は、このような状態の直接の延長線上にある。言わば右岸ウクライナの資本制的農業は、市場向けの農奴制農業生産から、小商品生産をへずして、直接に発展したのである。
これに対して国有地農民の改革は、農民の状況を改善したものだと言われている。しかしながら、改革後も彼らの経営面積はヴォルィニ県を除けば僅かであって、彼らは、自らの経営だけで生活の全てを賄うことなどできなかった。しかも、もし改革が行われなかったならば労働集約的な甜菜の栽培によって、彼らに身近な雇用先を提供したであろう国有領地内の農場地は、農民分与地として分割され、消滅した。つまり、改革後の国有地農民は少しばかりの土地を分配してもらったことにより、有望な賃金稼得先を失ったのである。だからこそ彼らは領主地農民に比べて、なお一層出稼ぎに向かうことになったのであろう。
国有地農民の改革は、国有地農民の経営を自立したものにすることにも、彼らのもとでの小規模な商品生産を発展させることにも失敗した。しかもそれと同時に、領主地農民に対する領地台帳改革が強化したような、甜菜栽培を中心としたプロシア型農業資本主義の発展を否定してしまった。このプロシア型農業資本主義こそ、この地域の過剰な農業人口を吸収できるおそらく当時唯一の手段であったのである。それ故、少なくとも右岸ウクライナにおいては国有地農民の改革は、資本制的生産に対して通常考えられるような肯定的な意義を持ちはしなかったのである (111)


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