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3. 1930年代の朝鮮人政策

(1)移民の流入と国境保全をめぐる議論

20年代なかばから30年代はじめにかけて、朝鮮人移民の是非について、さまざまな議論が交わされている。
ある論者は、朝鮮人は勤勉な農民であり、朝鮮人たちが極東の経済発展に寄与するならば、地元民の利益と極東の植民計画を犠牲にしない限り受け入れるべきであると考えていた。しかし彼はまた、以下のように警告を発している。
 「外国人が過剰に住み着くことは、自らの領土内で彼らを客人として温かく受け入れる国に、時には脅威を与えるというのは周知の事実である。大量の移民は、いやおうなしに敵対的国々の陰謀の道具となり、そして帝国主義的強奪の道具の一つとなるがために、危険なのである。だからこそ我が地方の党組織は、外国人による植民措置の政治的意味を理解しなければならない」(69)
なかには、朝鮮からの移民は日本の植民地政策の一環として組織的に行われており、このままでは極東が日本に併合されかねないと危惧する者もいた(70)
他方、朝鮮人移民のマイナス面だけを強調する、あからさまな黄禍論者もいた。1930年、ベリデニノフという人物が小冊子『極東地方における米作ム数字、事実および観察』を出版しているが、この本の内容は、彼を酷評したクルチェーエフの書評を通して知ることができる。  
「ベリデニノフの著書は『黄色い危険』という陰険な考えがすべて基調になっている。『米作は朝鮮人の流入を促進する』とか『平和的な侵略者の膨大な一群』が沿海州の南部に押し寄せてくる……などと指摘しつつ、著者は、朝鮮人移民がポシエット地区から組織的にロシア人を『追い出し』『排除』するという情景を描き出している。それらの朝鮮人は『閉鎖的で』『ロシア人女性と結婚せず』、そして(おお、ひどい!)国境地域を『ソビエト朝鮮』に変えてしまった、というのだ」(強調は原文)。
ベリデニノフは、ロシア人が「国は朝鮮人に甘い」と考えていて、朝鮮人に対して「隠された敵意」を抱いていると述べ、「誰のためにこれらすべての広大な米作農場と巨大な潅漑設備が造られているのか。それには国民の多額の金が費されているのだ」。「米作をロシア人大衆が修得しないうちは、水田面積を増やせばそれは平和的な侵略者ム朝鮮からの米作農民ムの流入を増大させるだけだ」などと書いている。  そしてこの本は「我々がもし、米作の成功が[極東]地方とソ連に実際に利益をもたらすことを望むのならば……我々の巨大な農場と強力な潅漑設備が、おもにロシア人労働者によって建設され、利用されるようにしなければならない」という結論で締めくくられていた。
クルチェーエフは、このような「民族問題における偏向」と徹底的に闘わなければならない、と警鐘を鳴らしている。
「あたかもロシア人が朝鮮人に敵意を抱いているかのような主張は、貧農・中農大衆に対する中傷である。農村のクラーク・富裕農上層部が朝鮮人に好意を持っていないことは我々も否定しないが、それは階級的対立の結果なのである! 著者自身が言っているように、朝鮮人に不満を抱いているのは余分な土地を奪われてしまった人々であり、したがって農民階級全体ではない」(強調は原文)。
クルチェーエフは、日本の帝国主義者と朝鮮の地主に追われ、金も農具も持たず極東にやって来た朝鮮人はプロレタリアートであり、彼らはそこに第二の祖国を見い出している。したがって民族平等を掲げ、全世界のプロレタリアートに一定の責任を負うべきソ連は、朝鮮人移民を受け入れないわけにはいかないと述べている(71)
確かにソビエトの国家理念からすれば、日本に抑圧された朝鮮人が、労働と安息の場を求めてロシア極東に移住して来るのを拒絶はできないはずであった。しかし現実には、当局の政策は移住を制限する方向へと着実に向かっていた。

(2)移民制限と北方への移住政策

1925年に北京で結ばれた日ソ基本条約は、両国関係を一時的に好転させた。リトヴィノフ外務人民委員は「北京条約の締結以来、1931年末に至るまで、我々と日本とのあいだには最良の友好的関係が存在しており……我々は日本に対して非常に信頼を持って接し、極東の国境をほとんど防衛していなかった」と述べている(72)。しかし朝鮮人の流入に関しては、すでにそれ以前から懸念が表明されていた。
チチェーリン外務人民委員が主宰した同人民委員部の審議会は1926年1月「中国人と朝鮮人のソ連領への流入を阻止するため、あらゆる可能な措置をとる」ことを決定した。審議会は、中国人と朝鮮人の極東への入植を「非常に危険」であると見なし、「まず第一に内陸諸県からの植民を行うことが不可欠」であり、「朝鮮人の移住の調整は別個に問題にしなければならない」としていた。
一方、地元では1929年8月、朝鮮人移民の問題を検討した極東地方執行委員会幹部会が「地方への外国籍朝鮮人の無断流入、および彼らによる土地と国家財産の勝手な占拠との闘いを強化する」ことが必要であるとの決定を下した。それに基づいて、ハンカ湖から豆満江河口に至る国境地帯の警備強化、違法入国した朝鮮人を追放するための合同国家政治保安部の権限拡大、外国籍朝鮮人の北方への移住などの一連の具体策がとられることになった(73)
極東地方への朝鮮人の移住を制限した最初の措置は、1929年10月18日の規則である。当局は、これによって朝鮮人の入国を親戚訪問、恒常的商業活動、農業移民に限り、またすでに入国している朝鮮人については、その在留資格の合法性を審査することにした。しかしこの規則は30年には適用されなかった。そののち極東地方執行委員会は1931年9月10日、朝鮮人労働者に対し、以後は当局が特別に募集した者のみに入国を許すことを決定した。さらに12月20日には入国目的を親戚訪問と商業活動に限定し、農業移民を禁止した(74)
この時期までは、朝鮮人は母国と満州、ソ連を比較的自由に往来していたが、これらの措置によってロシア極東への移住は禁止された。クージンによれば、1932年、外国人の再登録が実施され、その2年後には全住民に国内旅券が発行され、これを機に多くの朝鮮人がソ連国籍を取得した(75)
このように移住を制限し朝鮮人の帰化を奨励する一方、20年代なかばから、極東南部の土地なしの朝鮮人を強制的に北方へ移住させる政策が検討されはじめていた。
全ロ中央執行委員会は1926年12月6日、朝鮮人への土地分与について特別な方法を定めた。それは、対朝鮮国境からハバロフスク市までの地域で今後朝鮮人移民に土地の分与を禁じ、そこに住む土地なしの朝鮮人をハバロフスク管区(ハバロフスク市以北)等へ移住させ、朝鮮人が占有していた土地にロシア共和国の他地域からの移民を直ちに入植させるというものであった(76)
1927年2月、極東地方執行委員会幹部会は入植地の決定を極東地方土地管理局に命じ、また極東移民局にはソ連欧州部からの移民をウラジオストク管区に強制的に入植させる計画を立てるよう命じた。調査の結果、入植地としてハバロフスク管区のクル・ダルギ地区とビジャン・ビラ地区、およびアムール管区のウルミ地区が選ばれた(77)
この移住計画はその後何度か変更され、最終的には8万7759人をハバロフスク管区のクル・ダルギ地区とシンダ地区に移すことになった。1929年には1229人が移住したが、その後の計画では30年に5000人、31年に約2万人、32年と33年にはそれぞれ3万人前後を移住させるものと決められた(78)
しかし、1930年12月28日付の極東地方執行委員会幹部会議事録(79) によれば、10月1日現在、「強制的な方法」による者431人を含め、30年に移住したのは1342人にすぎなかった。執行委幹部会はこの移住計画が失敗した原因について、移民局や極東の諸官庁を非難しているが、なかでも「出発地の地区ソビエトおよび経済組織が、執行委の移住に関する諸指令を速やかに理解させるための断固とした措置をとらず……反対にあからさまな抵抗を許し」たからだと指摘している。その結果この抵抗は「旧ウラジオストク管区における大衆的現象となった」。これは、当局の移住政策に対してかなり大規模な反対運動があったことを暗示している。 
このような状況を打開するため、執行委幹部会は以下のことを決定した。
  1. 出発地のすべての地区執行委員会は、朝鮮人の移住の政治的・経済的重要性と必要性について、またソビエト・経済組織とそれらの指導者およびすべてのソビエト活動分子が、時宜をえて移住計画を完全に遂行する責任を負うことについて、広範な説明を速やかに行うこと。
    朝鮮人およびロシア人のソビエト活動家の一部に見られる移住に対する否定的な態度を、速やかに、完全に変えさせること。そのさい、朝鮮人の移住に関する執行委の指令に従わず、実際にそれを遂行しようとしないすべての組織の指導者およびその活動家は、解雇、告訴も厭わない。
  2. 移住に反対するクラークの宣伝と断固として闘い、責任者を明らかにし、その責任を厳しく追及すること。
  3. 1931年に移住者の出発が予定されている地区では、朝鮮人移住者に対する土地の賃貸を完全に停止すること。それらの地区では、米作、漁労、林業を含むすべての経済組織および協同組合組織に対し、31年に移住することになっている土地なしの朝鮮人農家から、自己の生産現場で朝鮮人労働者を雇用することを厳禁すること。
  4. 旧ウラジオストク管区の領域にあるすべての地区執行委員会に対し、土地なしの朝鮮人農家によって組織されたコルホーズに勤労利用のため土地を提供することを直ちに停止し、また古参農民のコルホーズで土地なしの朝鮮人農家を受け入れ、彼らに勤労利用のため土地を提供することを止めるよう命ずる。
  5. [極東]地方国民教育部および「出版事業部 《Книжное Дело》」は、シンダ地区、クル・ダルギ地区の住みやすさをわかりやすく説明した朝鮮語パンフレットを早急に発行すること。『先鋒』紙(80) に、すでにこれらの地区に定住した朝鮮人移民の手紙、記事、彼らとの対話を定期的に掲載すること。移住させる[朝鮮人]大衆に対して、移住の対象になっている朝鮮人が古参農民のコルホーズへ入っても、移住義務は免除されないということを広く説明すること。
また、朝鮮人が「解放」した土地にはソ連欧州部からの移民を直ちに入植させること、朝鮮人による新たな定住を防ぐためロシア人移民の入植計画を立てることが命じられていたほか、移住先での土地や住宅の準備、その他の必要な対策が細かく指示されていた。
以上から明らかなように、この移住計画は土地なしの朝鮮人を対象とし、彼らの生活手段を奪うことによって、計画に従うことを強いたものであった。土地なしの朝鮮人農民は、小作や賃労働を禁じられたばかりか、コルホーズを組織しても土地の提供を拒否された。
朝鮮人を移住させたのは、彼らの土地問題を解決するためでもあった。しかし幹部会は、それが「大きな政治的意味」を持っていることを繰り返し強調している。事実「ソビエト政権に完全な忠誠と自らの献身を表明した者」は、この移住から除外された(81)。朝鮮人が立ち退いたあとには、ソ連欧州部からの移民を入植させ、朝鮮人移民の新たな流入を防ぐよう命じていることからもわかるように、朝鮮人の移住は沿海州の土地不足が主要な原因ではなく、むしろ国境沿いの地域をロシア人で堅めるために行われたのであった。
幹部会は移住計画が抵抗にあったことを認めているが、朝鮮人たちが移住を拒んだのは無理もなかった。移住先は農業に適さない寒冷地で、生活環境も劣悪だったのである。朝鮮人の主要な作物である米は、ハバロフスク以北では育たなかった。住宅が不足し、狭い家屋に5、6家族が押し込まれた。また不十分な医療サービスのため、子供の死亡率が上がっていた。このような条件下で移住させられた人々は、自らを流刑囚のように感じていたという(82)
1927年に開催された第2回極東地方ソビエト大会では、すでに北方への移住問題が朝鮮人代議員によってとりあげられているが、彼らはそこで次のような点を指摘している。
第一に、移住先の環境である。ウラジオストク管区の代議員は、北方に移住して行った朝鮮人がほとんど戻って来ざるをえないのは、与えられた土地が沼地かうっそうたる森で、道もないようなところだからで、移住させる前にその土地が開拓可能かを考慮すべきだと主張している。
第二に、移住後の待遇である。ハバロフスク管区にはウラジオストク管区の朝鮮人だけでなく、ロシア欧州部からの移民もやって来たが、彼らが土地だけでなくクレジットや機械類をも支給されているのに、朝鮮人は何も与えられていなかった。ハバロフスク管区の代議員は、朝鮮人も欧州部からの移民と同じ待遇で扱われるべきだと述べている(83)
北方への朝鮮人移住政策がうまくいかなかったのは、政策そのものの奥に潜む差別と、条件の悪さが原因だった。しかしこれが失敗すると、今度は強制的手段に訴えることを当局はためらわなかったのである。

(3)朝鮮人民族地区および村ソビエト

1932年初頭の極東地方の民族構成は、ロシア人103万3000人(全人口の58.2%)、ウクライナ人36万5000人(20.6%)、朝鮮人19万人(10.7%)、ベラルーシ人6万人、中国人5万人、ユダヤ人1万3000人、先住民は6万3000人であった(84)。また極東地方執行委員会が実施した少数民族関連の調査によると、35年には極東の朝鮮人人口は20万4000人に達している(85)
20年代後半から30年代前半、少数民族居住地域における「土着化 《коренизация》」政策の一環として、極東でもユダヤ人自治州をはじめ、民族管区、民族地区、民族村ソビエトが多数創設された。これは少数民族を地元の幹部に登用しその能力を利用するとともに、彼らの民族的欲求を満たすことを狙った措置であった。そのためには、少数民族自身の言語によって行政に参加できる環境を整える必要があった(86)
1927年8月、全ロ中央執行委員会幹部会は極東地方執行委員会に対し、民族行政単位(村ソビエト、地区執行委員会)を朝鮮人に与え、事務作業を朝鮮語に移行すること、また住民が民族的に混合している地区では、ソビエトおよび執行委員会に十分な数の朝鮮人代表を確保することを命じている(87)。ナムによれば翌28年には、ポシエット地区に「純粋な朝鮮人地区執行委員会」が創設されたことが、ロシア民族問題人民委員部に報告されている(88)。また別の資料でも、「朝鮮人民族地区」としてポシエット地区が挙げられている(89)
全ロ中央執行委員会が1935年に作成した表によれば、極東地方全体で、上記の朝鮮人地区のほか、ロシア人、中国人との混合地区が28あった。朝鮮人地区では住民の90%を朝鮮人が占めていたが、混合地区ではロシア人が多数派で、そのほかは中国人と先住民である。村ソビエトは、朝鮮人のみのものが152、ロシア人、中国人との混合ソビエトが100あった(90)
ポシエット地区では、26年にはすでに業務の一部が朝鮮語によって行われていた。アノーソフは、この「経験は肯定的な結果を生んだ。それというのも、朝鮮人農民は地区執行委員会で、自分の必要や緊急の問題について、今は自分の母語で、通訳の助けを借りずに書くことができるからである。また村ソビエトの職員も、上級機関の指示と命令を母語で受け取るので、それらをよりよく実行するようになった」と述べている(91)
以下の表は、ウラジオストク管区の各地区執行委員会に占める朝鮮人の数を示したものであるが、ここから、執行委員会の「朝鮮化」が、少なくとも数字のうえでは徐々に進んでいく様子がうかがえる。

ウラジオストク管区における地区執行委員会の構成(92)

a : 地区住民全体に占める朝鮮人の割合(%)   b : 地区執行委員会委員の数
c : うち朝鮮人の数   d : 朝鮮人が執行委に占める割合(%)

 


しかし1931年2月に開かれた極東地方党委員会・統制委員会合同総会は、民族問題に関する決議のなかで、ソビエト機構を土着化するという党の指令が守られず、その実行が遅れていると指摘し、その例としてポシエット地区を挙げている(93)
そのほかの地区では、朝鮮人職員はさらに不足していた。1930年、ウラジオストク管区執行委員会は14の地区執行委員会と四つの市ソビエトに対し、少数民族のあいだの活動について報告するように求めたが、回答があったのは三つの地区執行委と二つの市ソビエトのみであった。しかもそれらの回答によれば、たとえばミハイロフカ地区では「朝鮮人職員がいないので、朝鮮人住民に対する特別な活動は行われなかったし、[現在も]行われていない」という状況であった。また各地区の執行委員会の朝鮮人事務員はむしろ減少しており、朝鮮人村ソビエトは朝鮮語で業務を行うことができずにいた(94)
ウラジオストク管区の民族ソビエトおよび民族地区執行委員会に関する活動状況報告のなかでも、同様の問題点が指摘されている。それによれば、朝鮮人民族ソビエトおよび執行委員会における活動は「朝鮮人住民の文化的レベルの低さ、散村的生活形態、また村や地区中央における熟練したソビエト活動家の不足」のため、管区全体から遅れをとっていた。また、朝鮮人の代表は管区執行委員会に3人、地区執行委員会に45人、市ソビエトに51人、村ソビエトに78人いたが、実際の活動への彼らの参加度は低かった。また市ソビエトは朝鮮人や中国人の取り込みをはかったが、彼らはロシア語を知らないことを理由に、しばらくすると会議に顔を出さなくなった(95)
極東の朝鮮人居住地域における「土着化」は、表面的にはそれなりに進んだものの、しばしば実態を伴わないものであったとみられる。ポシエット地区以外では、地区執行委員会はおろか朝鮮人と名のつく村ソビエトにおいてさえ、朝鮮語はあまり使われておらず、朝鮮人の幹部への実質的な登用は困難であった。

4. 強制移住

(1)1930年代の国内・国際情勢

ソ連の30年代は、まさに追放の時代として幕を開けた。その最初の犠牲者は、「クラーク」の烙印を押された人々であった。彼らはロシア北部、シベリア、ウラル、カザフスタンなどへ移住させられ、移動の自由を奪われていた。その数は、強制収容所や監獄に入れられていた者を除いても、1932年1月には140万にのぼっていたという(96)
一つの民族全体に対敵協力の罪をきせ、まるごと追放した初期のケースとして、朝鮮人の強制移住はのちのちの「見本」となったに違いない。なぜなら、第二次大戦期には多くの民族が朝鮮人と同様の運命をたどったからである。40年代、「国家的作戦に従って」強制的に移住させられた人々は301万1108人、「自発的に」移住した人も含めると、その数は322万6340人に達した。それらの民族としては、チェチェン人、イングーシ人、カラチャイ人、バルカル人、カルムイク人、クリミア・タタール人、ギリシャ人、ドイツ人、メスヘチア・トルコ人、クルド人のほか、エストニア人、ラトヴィア人、リトアニア人などが知られている(97)
しかし、このような悲劇を体験したのは少数民族だけではなかった。1920年春、おもにロシア人からなる北カフカスのコサックは、ソビエト政権に抵抗したため土地を取り上げられ、強制移住させられている。またそのほかにも20年代には「諸民族の発展を妨げる」という理由で、中央アジアや北カフカスからロシア人が追放された(98)。また、第二次大戦期に国境地域から「危険分子」として追放された人々のなかにも、ロシア人が含まれていた(99)
さまざまな口実を用いて、早くは20年代にはじまった追放措置は、30〜40年代には国内のいたるところで行われていた。体制側にとっては朝鮮人の強制移住も、そのような多くの強制移住の一つにすぎなかったのである。
また30年代は大粛清の時代でもあった。朝鮮人も例外ではなく、ソ連全土で数多くの党員、非党員が犠牲になっている。極東における弾圧の典型的な例は、アファナーシー・キムの逮捕であろう。彼はポシエット地区の党委員会書記および機械トラクター・ステーション政治部長を務めた熱心な活動家であったが、36年秋、内務人民委員部によって逮捕され、1938年に銃殺刑を宣告された。彼の罪は「29年以来日本の諜報員であり、関東軍参謀の命により反ソ暴動を準備した極東地方朝鮮人蜂起センターの指導者、組織者の一人であった」ことにあった(100)
対外関係に目を向ければ、30年代は日本が積極的な大陸侵略に乗り出し、日ソ関係が極めて緊張した時期である。1931年9月、柳条湖事件勃発とともに関東軍は満州を占領、引き続き32年3月には、極東地方と長い国境を接する「満州国」が樹立された。
1935年3月、日ソ間で中東鉄道売却協定が締結され、ソ連はその全線を満州国に譲渡・売却し譲歩の姿勢を見せたが、36年に組閣した広田内閣は「帝国国防指針」を改訂、膨大な軍備拡張計画を立て、そのなかで米国と並びソ連を主要仮想敵国とした。それからまもなく日独防共協定が締結され、37年7月には蘆溝橋において日本軍が中国軍に攻撃を開始、日本は中国との全面戦争に突入した。
極東地方に住む全朝鮮人の追放という悲劇は、まさにこのような緊張のさなかに起こった。また1938年7月には張鼓峰事件が勃発、極東における日ソの軍事衝突は現実化し、翌年、日ソ関係はさらにノモンハン事件へと悪化していったのである。

(2)国境地域からの移住−8月21日の党・政府決定

 1937年8月21日、政府・党中央委員会の極秘決定により、国境地域からの朝鮮人追放が命じられた。以下はその全文である。

ソ連人民委員会議・全連邦共産党中央委員会決定第1428-326号 極秘
1937年8月21日


極東地方国境地区の朝鮮人住民の移住について

ソ連人民委員会議および全連邦共産党中央委員会は決定する。

極東地方への日本のスパイ活動の浸透を阻止するため、以下の措置をとること。

  1. 全連邦共産党極東地方委員会、極東地方執行委員会および内務人民委員部極東地方管理局に対し、極東地方の国境地区、すなわちポシエット、モロトフ、グロデコヴォ、ハンカ、ホロリ、チェルニゴフカ、スパッスク、シュマコフ、ポストゥイシェフ、ビキン、ヴャゼムスキー、ハバロフスク、スイフン、キーロフスキー、カリーニン、ラゾ、スヴォボードヌィ、ブラゴヴェシチェンスク、タムボフカ、ミハイロフカ、アルハラ、スターリン、ブリュッヘロヴォ各地区の朝鮮人住民すべてを、[カザフ・ソビエト社会主義共和国の]南カザフスタン州、アラル海とバルハシュ[湖周辺]地区、およびウズベク・ソビエト社会主義共和国へ移住させることを命ずる。  移住は、ポシエット地区およびグロデコヴォに隣接する諸地区から開始すること。
  2. 直ちに移住に着手し、1938年1月1日までに完了すること。
  3. 移住を要する朝鮮人には、移住のさいに財産、家財道具および家禽の携行を許可すること。
  4. 移住させられる者には、彼らの残した動産、不動産および播種地に相当する金額を補償すること。
  5. 移住させられる朝鮮人が希望により国外へ出ようとする場合は、簡略化した国境通過手続きを容認し、出国を妨害しないこと。
  6. ソ連内務人民委員部は、移住のさい朝鮮人側から起こりうる違法行為および騒動に対処する措置をとること。
  7. カザフ・ソビエト社会主義共和国およびウズベク・ソビエト社会主義共和国の人民委員会議に対し、直ちに受け入れ定住地区・地点を決定し、移住者が新しい場所で生活に順応することができるよう対策を立て、必要な援助を行うよう命ずる。
  8. 交通人民委員部に対し、極東地方執行委員会の申請に応じて、極東地方からカザフ・ソビエト社会主義共和国およびウズベク・ソビエト社会主義共和国へ移住させる朝鮮人とその財産を運搬するため、車両を適時配車するよう命ずる。
  9. 全連邦共産党極東地方委員会および極東地方執行委員会に対し、移住を要する世帯数と人数を3日以内に報告するよう命ずる。
  10. 移住の進行状況、移住実施地区から送り出された人数、居住地区に到着した人数、および出国した者の人数を、10日ごとに電報で報告すること。
  11. 朝鮮人の移住が実施されている地区の国境警備を強化するため、国境警備隊の兵力を3000名増員すること。
  12. ソ連内務人民委員部に対し、朝鮮人が明け渡した住居に国境警備兵を住まわせることを許可する。

ソ連人民委員会議議長.モロトフ

全連邦共産党中央委員会書記.スターリン(101)
この決定による移住は、二回に分けて行われた。第一波の移住は9月9日から23日にかけてポシエット地区などから(102)、第二波の移住は9月24日から10月3日のあいだに行われた。この結果、移住開始から10月3日までに、約7万8000人が追放された(103)
9月3日に作成された第一波の列車運行予定表によれば、各列車には朝鮮人を乗せるための有蓋車、貨物用の有蓋車、および無蓋車のほか、客車、衛生車、炊事車が1両づつあった。移住者用の有蓋車は、1列車あたり50〜60両のものが大半を占めていた(104)。朝鮮師範大学の教員や学生、朝鮮劇場の劇団員など、一部の朝鮮人は客車で移動したが、彼らはまとまって同じ列車に乗ったと証言しているから(105)、客車には朝鮮人を監視するために同乗した監督司令官や民警が乗っていたと考えるのが妥当であろう(106)
一つの列車で運ばれた人数は、1000人以下のこともあれば2000人を超える場合もあったが、その多くは1400〜1600人であった。また一車両には平均して26〜30人、5〜7家族が乗せられていた(107)
この決定では、移住は38年1月1日までに終了するとされているが、実際にははるかに急いで強行された。エジョフ内務人民委員とリュシコフ内務人民委員部極東管理局長とのあいだでは、移住に要する期間についてやりとりがあった。エジョフは8月27日、リュシコフに電報で「朝鮮人の移住作戦は10月前半に終了することが望ましい」と述べ、この期間内にできるだろうか、と尋ねている。
これに対しリュシコフは翌28日、当初は2カ月間、すなわち11月1日までに実行する計画であったと述べているが、この電報を受けて、1カ月半以内に、またポシエット地区およびグロデコヴォ地区近辺からは1カ月以内に行うと回答している(108)。実際ここで言われているとおり、国境地域からの移住は10月上旬に終了している。
第4項で言及されている補償は、実際にはきちんと行われなかった。「極東地方の国家機関に供出された資産、播種地、家畜に対する朝鮮人移住者への負債に関する資料」によれば、接収したコルホーズおよび個人の財産に対する支払いは、極東ではほとんどなされていない。未払分については、移住先で清算するための債権や引換証が発行され、あるいは現地で現物支給することが決められたが、これらは部分的にしか償却されなかった(109)。また地区執行委員会が、朝鮮人が残した財産の売却によって得られた金を着服するケースさえ見られた(110)
ソ連人民委員会議は9月8日、公的機関の職員あるいは企業の労働者として働いていた朝鮮人移住者に対し、2週間分の「退職手当」と、移住の最中には家族全員に一人あたり5ルーブルの「日当」を支払うことを決めている。しかし最近行われたアンケート調査によれば、この「日当」を受け取る権利があることを知っていたのは、全体の1%にすぎなかった(111)
第5項では朝鮮人の国外出国を妨害しないと述べられているが、赤軍、内務人民委員部、軍需産業の関係者には、この項目は適用されないことになっていた(112)。また実際には、第11項の内容から推察されるように、一般の朝鮮人のなかでも、国外脱出によって強制移住を逃れた者はほとんどいなかった(113)
内務人民委員部は「秩序維持」に非常な注意を払っている。エジョフはリュシコフに、朝鮮人が「自分勝手に個々人あるいは集団で極東地方のほかの地区へ行く可能性を排除する措置」をとり、集合地点および乗車地点に「内務人民委員部と民警の作戦要員を配置」し、また「各列車に監督司令官を置き、列車内の秩序維持のため民警の一団を配置」すること、移動中に「朝鮮人の合流と列車からの脱落を防止する措置」をとることを命じた(114)
エジョフの「日本のスパイ」に対する疑惑の念は極めて強い。彼の命令によって「反ソ的行動をとり、スパイとして外国と関係を持っている疑いのある朝鮮人」を逮捕することが決められた(115)。奇異にさえ感じるが、エジョフは朝鮮人を中央アジアに追いやったあともなお「日本人が中東諸国を通じて、朝鮮人の新たな居住地区において彼らと関係を持とうとする可能性を考慮し」、アルマアタとタシュケントの内務人民委員部に諜報活動を強化するよう命じている(116)

(3)全極東地方からの移住-9月28日の政府決定

8月21日の党・政府決定が出されてから約1ヵ月後、今度は極東地方全域を対象とした移住命令が出された。以下はその抜粋である。


ソ連人民委員会議決定第1647-377号 極秘
1937年9月28日 モスクワ、クレムリン
極東地方からの朝鮮人の移住について
ソ連人民委員会議は[以下のことを]決定する。
  1. 極東地方の全領域から、残っているすべての朝鮮人を移住させる。移住は1937年10月中に、第一波の移住のさい定められた方式に従って行う。
  2. 第一波と同様に、すなわちカザフ・ソビエト社会主義共和国(アクチュビンスク州、西カザフスタン州、カラガンダ州、南カザフスタン州およびグリエフ管区)に1万2000世帯、ウズベク・ソビエト社会主義共和国(鉄道以北)に9000世帯移住させる。
  3. ソ連人民委員会議の予備フォンドから、極東地方執行委員会、カザフ・ソビエト社会主義共和国およびウズベク・ソビエト社会主義共和国人民委員会議に、1937年9月1日付ソ連人民委員会議決定第1571-356号(極秘)によって承認された支払いを追加の2万1000世帯に対して行うための資金を、またカザフ・ソビエト社会主義共和国およびウズベク・ソビエト社会主義共和国人民委員会議の申請に応じて、建設資材を供与する。
[第4項〜第6項は省略]


ソ連人民委員会議議長.モロトフ

ソ連人民委員会議総務部長.ペトゥルニチェフ(117)

この決定によって、第一・二波に引き続き、第三波の移住が実施された。上記の2万1000世帯のうち、10月3日から14日にかけて、4万4977人、9284世帯が移住させられた(118)。後述するように、移住が終了するのは10月25日であるから、この移住は25日まで続いたと考えられる。
興味深いのは、上記の決定がなされる前に、チェルヌィシェフ内務人民委員代理がエジョフへ、エジョフがスターリンへそれぞれあてた文書の内容である。双方とも、国境地域からの移住に引き続き、極東地方に残っているすべての朝鮮人を移住させるよう提案している。
チェルヌィシェフは9月22日、国境地域の朝鮮人の移住後、残りの朝鮮人をそのままにしておくことは「朝鮮人はみな親族のつながりが極めて強いため」危険であると訴えている。「極東地方における朝鮮人の居住地域が残りの地区に限定されていることは、彼らの精神状態にまちがいなく影響を及ぼし、これらの集団は日本の活動にとって好都合な土壌となるだろう」。なかでもチェルヌィシェフは、沿海州の海沿いの漁業を営む地区が「日本の諜報活動の最重要拠点となっている」とみていた。
一方エジョフがスターリンにあてたものは、日付がはっきりしないが、文面からみて9月21日から23日のあいだに書かれたとみられる。内容はチェルヌィシェフのものとほぼ同じで、ウラジオストク、シュコトヴォ、スーチャン、オリガ、ソフガヴァニ各地区の朝鮮人が「日本の諜報活動要員となっているのは疑いない」ため、極東に残る朝鮮人を放置しておくことは、不適切かつ危険だと述べている(119)。9月28日の決定が出された背景には、このような内務人民委員部の判断があった。
はじめの決定が出されてから2カ月あまりたった37年10月29日、エジョフはスターリンとモロトフに移住終了を報告した。  
「1937年10月25日、極東地方からの全朝鮮人の移住は完了した。全部で3万6442世帯、17万1781名の朝鮮人を、124の列車で移住させた。極東地方に残ったのは全部で700名以下(カムチャッカとオホーツクの特別移住者)で、彼らは今年11月1日までに列車でまとめて移送される。  1万6272世帯、7万6525名の朝鮮人がウズベク・ソビエト社会主義共和国へ、2万170世帯、9万5256名がカザフ・ソビエト社会主義共和国へ割り振られ、移送された。  到着し、現地で[朝鮮人を]降ろしたのが76列車、走行中が48列車である」(120)

ここでいう特別移住者とは、以前沿海州からクラークとして追放された人々のことを指している。
当初は、移住させるべき朝鮮人は国境地域の住民に限られていた。しかも年末までに終える計画であったことを考えると、朝鮮人の移住作戦は非常な「成功」を収めたといえよう。

(4)朝鮮人の反応

このような移住措置に、朝鮮人はどう反応したのだろうか。武装蜂起などの大がかりな抵抗運動はなかったが、それをするには強制移住の命令があまりにも唐突だったのかもしれない。しかし以下の資料は、少なくとも朝鮮人がこの無謀な仕打ちに従順に従ったのではないことを物語っている。
移住直前の状況を知るうえで非常に貴重なのは、ソコロフ内務人民委員部極東地方赤旗勲章国境軍管区部隊長による「ウスリー州朝鮮人移住対象地区の住民の政治的傾向」に関する報告である(121)。この報告には、朝鮮人の怒り、不安、戸惑いが如実に記されている。
第一波の移住対象地区では9月1日以降、朝鮮人に対する説明が行われた。ソコロフは「朝鮮人住民の大多数は、ソビエト政権と党のこの措置を正しく理解し、それに対して満足のいく対応を見せた」と報告している。しかしその一方で、「説明が不十分だったため、多数のコルホーズ員が移住に関連した多くの問題を理解していない」とも指摘している。
なかには、政府が決定したのなら従わなければならない、朝鮮人を国境から遠くに移住させるのはいいことだ、と述べる者や、「向こうではおそらく我々のために朝鮮人自治州が作られるだろう」とか、「ロシア人は米を作れないから、我々を呼び戻さざるをえなくなるだろう」などと事態を楽観視する者もいた。
しかし当然のことながら、移住政策を批判する者もいた。「我々朝鮮人党員を党は信用していない」「私の顔の色が違うというだけの理由で、私を追放するのか」という発言には、信じてきた党の裏切り、民族差別への怒りが感じられる。 
ある党員候補は、内務人民委員部が朝鮮人を弾圧するのは、朝鮮人一人ひとりをみなスパイと見なしているからで「内部人民委員部の機関が、そのうち全員を逮捕してしまうだろう」と考えていた。また、ソビエト政権は朝鮮人が日本人のほうへ乗りかえるのを恐れている、政府は朝鮮人を皆殺しにしたかったが、そうすることもできないので、途中でみんな死んでしまうだろうと計算して移住をはじめることにしたのだ、と述べる者もいた。
次の発言には、追放措置の理解に苦しむ朝鮮人の姿がうかがえる。「私は一晩中移住のことを考えていた。レーニン全集を手にとって、民族問題に関する論文をつぶさに読んだが、そんな話はどこにもなかった。もしロシア語ができたなら、新聞に投書して、私を投獄するかしないか確かめられるんだが」。また決定の信憑性について疑念を抱き「スターリン同志が我々を移住させろなどと言ったはずはない」と考える者もいた。
「私はカザフスタンにつてがあるから知っているが、極東の人間にはカザフスタンの気候は耐えられない。もし移住させられたら、みんなきっと死んでしまう」という軍人アンドレイ・パクの発言は、朝鮮人たちの不安をさらにつのらせたに違いない。肺結核を患うリ・サンスンはコルホーズの集会後、移住させられるよりは射殺される方がましだ、向こうは気候も悪いから肺病持ちの自分は行かないと言った。
このほかにも似たような、非常に投げやりな発言が見受けられる。「やりたいようにやらせればいい、移住させたければするがいい、私はピストルで自殺する」。「移住に関する決定は正しくない。移住のための時間はあまり与えられていないし、金もない。我々をつれて行って放り出すのだ。軍人に集められて撃ち殺されたほうがいっそましだ。どっちにしろ我々は死ぬのだから」。
秋の収穫を前に、自分たちが汗水たらして育てたものを置き去りにしなければならないのは、やりきれない思いがしたことだろう。ある朝鮮人党員は、今年はいい収穫を得たがそれを手にすることはできない、これでは犬に食わせるも同然だ、と憤慨した。また「沿海州のパルチザン」コルホーズ議長は、どうせ移住させられるのだから「家畜をつぶして食ってしまわなければならない」と述べた。また、ほかの朝鮮人コルホーズ員たちはこう嘆いている。「いつも我々は飢えていた。今はなんでも事足りるようになって暮しもよくなったのに、我々はどこかに追い立てられまた飢えることになるんだ」。
8月の決定では希望者の出国は妨害しないとされていたが、朝鮮人たちはこれをどのように受け止めていたのだろうか。ハンカ地区の住民たちの考えは「出て行って日本人と一緒に暮らすなどどいう愚か者は今いない」というものであった。スイフン地区の「太平洋の革命家」コルホーズでは、ある朝鮮人が国外脱出しようとほかの朝鮮人を誘ったが、ついて行く者はいなかった。
スパッスク地区では、多くの人々が「我々はもう長いことソ連に住んでいる。満州よりここのほうがいい」と考えていた。たとえカザフスタンであろうと、朝鮮へ行くよりはいい、と言う者もいた。また同地区の住民の一人は国外脱出を希望していたが、それを諦めた。なぜなら彼に向かって多くの人が「日本人がおまえを締め殺してしまうぞ」と言ったからである。一方、スパッスク地区コンスタンチノフカ村では、4人のコルホーズ員が、自分たちは身寄りがなく、親戚が満州にいるという理由で、出国願を提出した。
これらの発言は、朝鮮人全体の気持ちを反映しているとは必ずしもいえないので、判断には慎重を要する。またソコロフは、日本領事館に日本への出国許可を求める申請を出すよう宣伝した朝鮮人がいたとも述べている(122)。しかし、朝鮮や満州が日本の占領下にある以上、国外脱出はソ連の朝鮮人にとってよりよい選択とはいえなかっただろう。越境を妨げた原因は、当局側の管視と、対策を練る間もないほどの突然性、そしてこのような朝鮮人自身の消極性にあった。
モロトフ地区では、ロシア人と朝鮮人からなる「警報」コルホーズと「突撃作業員」コルホーズで、両民族間の争いが生じた。とりわけ「突撃作業員」コルホーズは37年に朝鮮人コルホーズとロシア人コルホーズが合併してつくられたばかりだったが、移住する朝鮮人に、コルホーズの不可分フォンドの一部を持って行く権利を与えるか否かという問題が持ち上がったのである。朝鮮人は自分たちが持ち込んだフォンドを残していくのは腑に落ちないとして「我々は組織されたコルホーズとして、すべてのフォンドを持って移住することを望む」と主張した。
またソコロフは同じく、第三波の移住についても報告を行っている(123)。この時期には、すでにこれまでの移住の様子がある程度伝わっており、暗澹たる噂が後から行く者の不安を煽っていた。「カザフスタンに行くまでに朝鮮人を乗せた車両がいくつか転覆して、たくさんの人が死んだ。これもみんな朝鮮人のことは考えもせず、同情もしないからだ。ソ連政府の政策はこんなものなのだ」。
また、移住先で子供や老人を苦しめていた病魔の話も、極東に届いていた。8月の移住命令が出される数日前にカザフスタンからやって来たアナトーリー・キムは「カザフスタンでは飢餓とマラリアが猛威をふるっており、住む家もない。移住させられた者はみな死ぬしかない」という「反革命的噂」を広めた。またオリガ地区では、これと同じような噂が広まっていたが、それに影響されて逃亡を試みる者が現れ、10月5日にはイマン川上流のタイガへ脱走しようとした朝鮮人4名が逮捕されている。
民族差別に対する怒りは、一層激しくなっていた。「ソビエト政権は朝鮮人を犬以下だと思っている。朝鮮人にとってスターリンの政策は機関銃や大砲の弾よりも恐ろしい」。「朝鮮人は極東地方でほか[の民族]と同じように暮らすことができるのに、我々は尊重されず、少数民族として好き勝手なところに放り出されるのだ」。また「朝鮮人全員がスパイや破壊分子であるわけではない。ソビエト政権に献身的な人たちもいる。だから移住においても個人的な対応が必要だった」と述べる者もいた。
そして国家への憤怒は、ロシア人への反発につながっていった。「ソビエト政権は[民族間の]権利は平等だと言っているが、実際にはそんなものはありはしない。ロシア人が命令し、朝鮮人は従うしかない」。「我々の後にはロシア人が住むようになるんだ。あいつらに何も残してやるものか。何もかもたたき壊してしまえ」。「我々はロシア人を嫌悪する。はっきりいって、我々はテントのなかで死ぬために移住させられるのだ」。
行動で抵抗の意志を示した人々もいた。オリガ地区の住民パクは、老齢を理由に地区から出ることを断固として拒んだ。同地区では、多くの老人が同じような意志表示をした。自分たちにとって「移住は死に等しい、移動に耐えられない」というのがその理由である。このような移住拒否を防ぐため、地区3人委員会(124) に対し「全朝鮮人の移住の実現を可能にするよう」指令が出された。
立ち去って行く朝鮮人たちの作物は安く買いたたかれた。そのため、リ・チャンスは「盗みのようなまねは絶対に許さない。こんな値段で野菜を売る必要はない」として、自分たちの収穫を調達機関に売らないようほかの朝鮮人を「扇動」した。  この報告で言及された朝鮮人たちの多くは、逮捕されるか、移住先にその言動が報告された。


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