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7. 安藤の帰国後の活動

  1885年2月に安藤は7年ぶりに帰朝した。同月24日の勝海舟の日記に、「安藤謙介、七ケ年前、旅費遣わし世話いたし者なり。」とある (82) 。勝の安藤に対する財政的援助はこの時のみにとどまらず、これ以後も繰り返し安藤は勝から借金、もしくは第三者からの借金の立て替え、あるいは保証人を依頼している。その額は100円から千円までと多額に上っている (83)
    1887年7月に勝から法務大臣芳川顕正への推挙によって、安藤は司法省の検事に転じた。出だしは名古屋控訴院詰で (84) 、次いで1890年に岐阜始審裁判所詰めとなった。翌年前橋地方裁判所検事正に進み、以後、熊本、横浜の地方裁判所検事正を歴任した。
  1895年、横浜検事正時代に朝鮮王妃殺害事件が起こった。これは同年10月8日早朝、李氏朝鮮王朝の国都漢陽(現ソウル)の景福宮に日本の軍隊や大陸浪人が乱入し、高宗の王妃閔妃を殺害した事件である。日清戦争後の三国干渉をきっかけに、閔妃らが推進した排日政策の転換を狙って日本公使三浦梧楼が指揮を執り、朝鮮人のクーデターに仕立てようとしたが真相が発覚した (85) 。安藤はこの事件の調査のため朝鮮に派遣され、広島裁判所で審理を行った (86) 。結果は三浦ら全員が免訴となり、朝鮮での反日機運を激化させることとなった。
  1896年4月、安藤は第二次伊藤博文内閣のもとで第五代富山県知事になり、初めて地方行政に関与することになった。彼の立場は政友会系である (87) 。一年後に非職となったが、1898年1月に第三次伊藤内閣のもとで第八代千葉県知事に就任した (88) 。憲政党内閣が成立すると、同年8月に再び非職となり、成田火災保険会社社長、植田無烟炭坑会社社長に就任した (89)
  1902年9月に東京築地3丁目の同気倶楽部で日露協会が創立された (90) 。これは、日露戦争直前の危機的な時期に「日露両国民の意思を疎通し、其他通商貿易の発達を計るを以て目的」 (91) としたものである。会頭に榎本武揚が就任し、安藤は創立委員、次いで相談役の一人になった (92) 。翌年の第8回衆議院議員選挙に富山県高岡市より無所属で出馬して当選。1904年3月の第9回総選挙にも立候補したが、今度は落選した (93) 。同年11月から安藤は第十三代愛媛県知事をつとめた。彼は県会で多数派を擁していた政友会とはかって、県立松山病院を閉鎖し全財産を売却、その財源を三津浜築港、その他の大土木事業にあて、党勢の拡張を図ろうとした。だが築港費問題が発覚し、愛媛県政史上空前の政争史を生むこととなった (94) 。第一次西園寺内閣から立憲同志会の第二次桂内閣への交替により、1909年7月にまたまた休職となった。1910年に安藤は韓海漁業会社を創立して社長に就任した (95) 。翌年9月、第二次西園寺内閣の下で第十六代長崎県知事に返り咲く (96) 。政友会のリーダー原敬は、安藤の愛媛県知事時代の悪評に触れて日記にこう書いている。

  安藤が左までの悪政をなしたるにも非らず又品性は決して醜汚の點なし、只辯口常に人の非難を招く次第なるも用ゆべからざる人物にあらず、故に斷然人言を排して之を登用したり (97)

  1912年12月に第三次桂内閣に替わって安藤は休職命令を受ける。1913年3月からは第十五代新潟県知事をつとめた (98) 。原敬は安藤の新潟県知事就任前日の日記にこう記している。

  安藤謙介を招き新潟県知事たらん事の内意を傳へたるに、彼何んと考たるにや貴族院に入るるの条件にても望ましき口気なるに付、好まざれば往かずして可なりと云ひたれば彼れ快諾せり。 (99)   1914年4月に安藤は大隈内閣成立により再び休職になった。政友会系の旗印が明瞭だったために、政権交代時には非職、再任を繰り返すこととなったわけである。同年7月に安藤は第七代横浜市長に就任した (100) 。1918年7月で任期満了になると、11月から1920年12月まで第六代京都市長をつとめた (101) 。1924年7月30日に東京で没。奇しくも市川文吉と同じ命日である。享年71歳。正四位勲二等を授けられた。

8. 安藤とロシア

  かくして安藤謙介は、かつてペテルブルグ大学で学んだ法学と行政学の知識を日本で活用したわけだが、他方『フリゲート艦パルラダ号』の邦訳を出版するというゴンチャローフとの約束は、遺憾ながら果たさなかった。この作品中の「日本におけるロシア人」2章からの断片的な日本語訳が初めて発表されたのは1898年10〜12月のことであり (102) 、これら2章と終章「20年を経て」の全訳は1930年のことである (103) 。『フリゲート艦パルラダ号』の完訳はわが国ではまだ出ていない。とどのつまり安藤は、本作品の訳者としては不適当な人物だったといわざるをえない。確かに彼はロシア語がよくできたが、その関心の対象は法律と政治であって、文学ではなかったのである。
    但し、彼のために少しばかり弁護しておく。1882年、有栖川宮熾仁親王が明治天皇の名代としてアレクサンドル三世の戴冠式に参列した際、ペテルブルグ大学で日本語が教えられていることを知り、同宮家蔵書中の約3500巻を同大学に寄贈した。日本語の授業のことを宮に伝えたのは安藤である (104) 。この有栖川文庫が糧となって、後にコンラッド、ネフスキーといった世界的日本学者が輩出した (105)
  また安藤は前述のように1904年11月から4年7カ月の間愛媛県知事をつとめた。これは、当時同県松山市の収容所に日露戦争のロシア人俘虜が収容され、ロシア通の安藤が特に任じられたのである (106) 。彼がロシア通であることはよく知られていた (107) 。ロシア人俘虜は日本全国29の収容所にのべ7万2408人が収容されたが、そのうち松山収容所はのべ6019人にのぼり、これは当時の松山市の人口の六分の一にあたる (108) 。1899年、オランダでロシア、日本を含む約30カ国の間でハーグ条約が採択された。この条約は戦争時の俘虜の人道的取り扱いをうたっており、日露戦争のロシア人俘虜収容は本条約が適用される最初のケースだった。日本国はこの条約を忠実に守り、俘虜を人道的に扱った。このために安藤が知事として起用されたのである。内務大臣から俘虜の取り扱いは日本国の品位を落とさぬようにとの内訓を受けると、安藤は次のような訓告を各方面に発した。

  彼ラノ祖国ノタメニ戦ッタ心情ハ、マコトニ同情スベキデアル、ソノ捕虜ノ出入リ通過ニ際シテハ、群衆ガ雑踏シ一時的ナ敵愾心ニカラレテ侮辱スルヨウナ言動ガアッテハ、一視同仁ノ天皇陛下ノ御心ニソムクダケデハナク、日本人トシテノ面目ヲケガスコトニナルカラツツシマネバナラヌ (109)

  ロシア人俘虜は度々慰問を受け、かなりの自由を享受した。彼らは観光に出かけたり、収容所内で靴、錠前製造などの労役に就き、学校を開いて俘虜の士卒が同じ俘虜にロシア語やポーランド語を教えた (110) 。俘虜と日本人女性の間に恋が芽生えることもあった (111)
  最後にゴンチャローフの未刊の書簡の今ひとつの点、即ち作家が「そのご夫人とも知り合いになった日本人公使」 (112) とは、西徳二郎のことではないだろうか。この書簡は1887年8月に書かれたが、西はその2カ月前に日本公使としてペテルブルグに赴任した。彼にとっては三度目の訪露で、今回は妻子を連れての赴任だった。西は職務の余暇に絵画を学び、劇場や舞踏会をよく訪れ、ロシアの貴顕や朝野の名士、各国公使等と親睦を深め、露都の社交界で信用と徳望を博した。そしてそのような場には常に妻のミネを同行したのである (113) 。しかしながら、筆者のこの推測を裏付けるような資料は、残念ながら見つかっていない。

 

 本稿執筆に際し、V.I. メーリニク(ウリヤーノフスク工科大学)、A.V. ロマーノワ、N.V. カリーニナ(以上サンクト=ペテルブルグ・プーシキン館)、O.A. デミホフスカヤ(ヤロスラーヴリ)、石垣香津、勝部真長、佐々木照央、ワヂム・シローコフ、外川継男、長縄光男、中村喜和、浜野アーラ、東一郎、宮本立江、渡辺雅司の各氏から貴重なご教示と資料を賜った。また国立国会図書館、埼玉大学図書館、一橋大学図書館、早稲田大学中央図書館で資料の収集を行った。記して感謝の意を表する。


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