フォークロアからソヴィエト民族文化へ
-「カザフ民族音楽」の成立(1920-1942)-

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3 「ソヴィエト・カザフ民旗音楽」の創造

(1) 職業化と大衆化としての「社会主婁的発展」

1920年代は、「民俗文化を通して普遍性を獲得する」という考え方が基礎付けられた時代だったということができるだろう。一方、1930年代になると、国家による芸術創作の指針として、社会圭義リアリズムの理念が打ち立てられ、各民族の文化においてそれをいかに実現するかの模索が始まった。1932年の『文学新聞』、1934年の全ソ連邦作曲家同盟の決議は、社会主義リアリズムの美学が「社会主義的現実を正しく反映した、簡潔で、明朗で、真実な音楽の創造」を目標とすることを確認した。その性格は、必然的に「国際的であり、同時に民族的形式の無限の多様性をも許容する」 (79) ものであった。つまり、「形式は民族的、内容は社会主義的」な文化である。それは、「各々の国、各々の人民のもとで、民族natsiiaの歴史的運命、文化的伝統や習性、そして形成される生活条件にしたがって、独自の道を発展してゆく」 (80) 。音楽創造における「民族性」の必要性は、作曲家にのみ要求されたのではなく、従来「民俗音楽」とみなされてきたカザフ音楽にも適用されることになる。

社会主義リアリズムが要求したのは、特殊性と普遍性の弁証法的統合であった。「民族文化を一般にうんぬんすることができるのは、教権主義者とブルジョアだけである。勤労大衆は、世界労働運動のインタナショナルな(国際的な)文化だけを口にすることができる」 (81) と言ったレーニンとは異なり、自ら「民族」を定義したスターリンは、「民族文化」の建設を謳った。しかしながら、その「内容」が社会主義的であるべきという規定は、明らかに、伝統主義、純粋主義的な民族文化とは異なった志向を目指していた。元来、個別的現象であるはずの民族文化の「普遍性」を保障したのは、「社会主義的発展」というイデアである。真実とは「葛藤の絶え間ない闘いを進む発展」 (82) であり、各民族共和国における民俗楽器オーケストラは、「発展する民俗音楽」の最も象徴的な例であった。民俗楽器オーケストラは、「広い人民大衆を音楽芸術に親しませることができた」だけではなく、「民族の(natsional'nyi)楽器が、民俗音楽の領域からプロフェッショナルな舞台へと出てゆき、民俗芸術のブロパガンダの強力な手段となる」(強調筆者)ことを促したのである個 (83) 。そして、「民俗音楽」は、ステージ・パフォーマンスとしての「プロフェッショナルな」ジャンルのひとつとして確立されることになった。

民俗音楽の新たな制度化におけるプロフェッショナリズムの追求は、それと相互補完的な関係にある大衆化をも生み出した。すなわち、音楽教育機関の設置によって、より多くの人民が、制度化された音楽教育に接する機会を与えられる。そのシステムのなかから「プロフェッショナルな」音楽家が輩出し、民俗楽器オーケストラの維持と拡大に貢献し、あるいは音楽教育機関へと環流されるム。この自足した体系は、殊に読譜能力の有無を軸として、従来の伝統的な音楽形態をアマチュアリズムとして差異化した。「民俗音楽」は、いまや社会主義的発展を経てプロフェッショナリズムを達成することで、「ソヴィエト民族音楽」へ生成しようとしていたのである。

(2) 音楽教育機関の設置

プロフエッショナルな音楽文化の構築のため、まず本格的に整備されたのは、その基盤となる音楽教育機関である。先述のように、初等音楽教育機関は、19I9〜1920年以来各地に設立されていたが、中等教育機関としては、1932年にアルマ・アタ(現アルマトゥ)に開設された音楽再門学校Muzykal'nyi tekhnikumが最初の音楽学校となる。この専門学校は、当初はビルの数室のみから成る小規模なもので、初年度の生徒数も30人を数えるにすぎなかった。専門科目として、カザフ民俗楽器(ドンブラ)、声楽、ピアノ、オーケストラ(弦・管楽器)の4科が設けられたが、当時、諸制度の不備に加え、カザフの楽器廃止論が浮上したこともあり、一時は閉校の憂き目にもあったという (84)

1933年、教育人民委員部はこの専門学校に新たな指導者を招き、音楽演劇専門学校Muzykal'no-dramaticheskii tekhnikumとして再建することを決定した。校長に任命されたのは、レニングラードで音楽と音楽学を学んでいたアフメト・ジュバノフ(1906〜1968)である。当時のウラリスク州テミル郡(現アクトベ州ムガルジャル地区)生まれのジュバノフは、幼少の頃からドンブラをつまびき歌声を響かせただけでなく、バラライカ、マンドリン、ギターやヴァイオリンを学ぶ環境にもあった。音楽は独学で習得し、当時アクトベで開かれていたロシア民俗楽器オーケストラのサークルにも参加したという。ザタエーヴィチの採譜集を知ったことを契機に、より本格的な楽譜の習得を志し、1928年にはレニングラードの音楽専門学校に入学してヴァイオリンを学んだ。やがてレニングラード音楽院のオーボエ科に入学し、ロシア民俗楽器オーケストラのメンバーであるニーマンに師事したが、後に歴史・理論科に転向している。1931年、カザフ共和国で初めてフォノグラフにアクトベ州の民謡とキュイを録昔し、それを採譜したのは、彼であった(注28参照)。その翌年には、「音楽のいろは 」という音楽入門書をカザフ語で書いている。1931年、彼はレニングラード芸術学アカデミーの大学院生となったが、前述のように、1933年に音楽演劇専門学校再建の責任者に任命され、帰郷した (85)

ジュバノフを迎えた音楽演劇専門学校には、民俗音楽採譜調査室およびカザフ民俗楽器改良実験工房が設置された。1920年に構想された採譜・編曲そして楽器改良は、音楽教育とともに、この専門学校が一手に引き受けることになる。

(3) 民俗音楽の採譜

音楽演劇専門学校における民俗音楽採譜研究室の活動をジュバノフとともに主導したのは、ロシアの作曲家ブルシローフスキイ(I905-1981)であった。モスクワおよびレニングラードの音楽院で作曲を学んだブルシローフスキイは、1933年にカザフ共和国に招聘され、音楽演劇専門学校で教鞭を執り-作曲活動に従事した。ブルシローフスキイは、研究室でのカザフ民謡の採譜を精力的に行い、それらの編曲は、1934年の彼のオペラ《クズ・ジベク》として結実した。カザフの伝説を元にした《クズ・ジベク》は、カザフ共和国最初のオペラとして記念碑的な作品となった。その後も彼は、カザフの叙事詩や伝説を題材にしたオペラやバレエなどを多数創作しており、オペラだけでなく交響曲とバレエに関しても「共和国最初の作曲家」 (86) とみなされた。

民俗音楽の採譜と研究という名のもと、採譜は積極的に行われ (87) 、1950年代のカザフ音楽学の発展を用意することになった。しかしながら、当時は、採譜結果を用いた音楽学的研究がめざましい成果を上げていたわけではなかった。教育人民委員部が定めていたように、研究室の課題はあくまでも「民謡の採譜とその編曲」 (88) であった。それは、カザフ音楽の科学的研究というより、「芸術的音楽作鈷」の創造と、1934年に設立されたカザフ民俗楽器オーケストラのレパートリーの拡大に貢献したのである。

(4) 楽器改良と民俗楽器オーケストラの結成

1920年代にはついに実用化しなかった改良楽器は、音楽演劇専門学校に設置された実験工房において具体化することになった。1933年、ロシアの楽器職人ポリース・ロマネーンコおよびエマヌイール・ロマネーンコ(1903-I970)の兄弟がカザフ共和国に招聘され、1934年、彼らの手によって最初の改良型ドンブラおよびコブズが完成した (89) 。ロマネーンコ兄弟は、ロシア民俗楽器の「改良」に携わったこともあり (90) 、改良されたカザフの楽器はロシアのそれと原理的に似かよっていた。たとえば、細く薄い板を張り含わせて造った胴、共鳴板上部の板とその形状、フレットの増加と固定化、ナイロン弦や金属弦の使用などである。改良型の楽器と従来のものとの差異を表にまとめると、以下のようになる【表1,2】。楽器各部の材質も特化し、たとえばドンブラなら、胴はクルミの平板、棹はシラカバ、共鳴板にはモミが用いられたものが規格品となった。最も革新的だったのは、ロマネーンコ兄弟によって、アルト、テノール、バス、プリマといった音域の異なるドンブラが考案されたことである。民俗楽器オーケストラの結成に不可欠な音域の拡大と多様化が、ロシアの前例に倣って遂行された【図1,2】。

この新しいドンブラから、手始めに11人の学生・教師による小規模なアンサンブルが組織された。テノール・ドンブラのみによるユニゾンのアンサンブルではあったが、1934年の第1回全カザフスタン民俗芸術家大会でその演奏が披渥され、カザフ共和国中央執行委員会は、その含奏団を基盤とする民俗楽器オーケストヲの創設をまもなく決定した。こうして、同年、カザフ中央執行委員会記念カザフ民俗楽器オーケストラ(現在のクルマンガズ記念カザフ民俗楽器オーケストラ)が誕生したのである (91) 。指揮台に立ったのは、ジュバノフであった。アンサンブルは、当初はドンブラのみであったが、1936年、カザフ人の楽器職人カマル・カスモフ(1893-1966)によって、バスおよびコントラバスの音域を持つ改良コブズが完成されると、それらもまたオーケストラに導入された。なお、1938年にはアルト・コブズも完成している (92)

表1 ドンブラの「改良」

フレット数 フレツト 中立音程
伝統型(西部) 細く長い 12〜14 可動 ガット 梨型/くり抜き あり
伝統型
(中央部・東部)
太く短い 7〜8 可動 ガット オール型、三角型
/くり抜き
あり
改良型('34)
(平均律)
細く長い 18〜20 固定 ナイロン 梨型/張り合わせ なし

表2 コブズの「改良」

弦の数 弦の材質 共鳴板
伝統型 馬の尻尾 湾曲した棒+馬の尻尾 上部なし
下部皮張り
改良型('34) 馬の尻尾 同上/ヴァイオリン用 上部板張り
下部皮張り
改良型(年代不明) 金属2本
+ガット1本
同上/ヴァイオリン用 上部板張り
下部皮張り

(以下の文献を参考に、筆者作成)
Bolat Sh. Sarybaev, Kazakhskie muzykal'nye instrumenty, Alma-Ata: Zhalyn, 1978.

Gul'zada N. Omarova, "Problemy traditsionnogo i sovremennogo bytovaniia kazakhskogo kobyzai." A. V. Zataevich i problemy sovremennogo etnomuzykoznaniia: Materialy Vsesoiuznoi nauchno-prakticheskoi konferentsii, Alma-Ata: Gosudarstvennyi komitet po kul'ture Kazakhskoi SSR, 1991, pp.102-104.

オーケストラの結成に伴う「改良楽器」の普及は、伝統的なタイプの楽器とその音楽のあり方にさまざまな影響を及ぽしたが、特に大きな変化を被ったのはコブズである。表からも明らかなように、改良型コブズは金属弦を持ち、木製の共鳴板を胴全面に張った、ヴァイオリン族に近い楽器である。もともと、伝統的なタイプのコブズ(クルコブズ)は馬の尻尾から成る弦と弓との摩擦音を特徴としているが、金属弦を持った改良コブズの音色は、それとは本質的に異なったものになった。改良コブズが伝統的なレパートリーを演奏することは事実上不可能であったし、それが考案されたのは、むしろ新しいレパートリーの演奏を普及させるためであった。

また、改良型コブズとは異なり、クルコブズは、当時の民俗楽器オーケストラや音楽院などの機関に専攻科として含まれなかったため、その技術は公的な職業として成立し得なかった (93) 。そのため、クルコブズの担い手は「愛好家」とみなされることになった (94) 。それだけでなく、音楽教育がすべて国立の教育機関に移ったため、音楽の志を持つ者は一様に音楽学校の扉を叩くようになり、民間でしか伝承されていなかったクルコブズの音楽文化は、次第に衰退していった。他方で、クルコブズは国家の方針に直接束縛されることがなかったため、伝承をよく伝える演奏家も現れた。しかし、すでに19世紀後半の民族誌 (95) においてその衰退が指摘されていたクルコブズは、改良型コブズが公的な性格を持つにつれてますます希少な楽器となり、その担い手の数も減少する一方であった。国立の諸機関で代表的な位置を占めたドンブラの状況とは、この点が根本的に異なっている。ドンブラに施された「改良」は、合奏曲などの新たな音楽演奏を可能にし得ると同時に、奏法や音質の点で、従来伝承されてきたカザフ音楽の演奏をも、それなりに許容し得る余地を残していた。そのため、コブズのように、改良型と伝統的な型、および各々の貴楽が明らかに乖離することがなく、かえって「改良」による変化が明示的になりにくいまま、公的機関での普及が進んだ。地方によるフレット数の差異や中間音などは、今ではほば完全に失われているが、それが意識されることはほとんどないといってよい。

なお、伝統的なタイプのコブズが、公的な楽器としての性格を持たなかった理由が明記された例は、筆者の知る限り見いだされていないが、推測できるのは、その特質が規格化には適していなかったということである。倍音・雑音を含む複雑な音色が、合奏に向いていたとは言い難いだけでなく、クルコブズが、叙事詩語りやシャーマンによって祖霊との交信に用いられていたという宗教的な背景も、当時は否定的な意味合いを持っていたと考えられる。

図1 オーケストラのドンブラ属

図2 コブズ

(5) 楽譜の導入

元来、カザフの伝統音楽は、まったく楽譜を用いずに伝承されてきた。そして、その演奏形態は、独奏・独唱を基本としていた (96) 。ソヴィエト政権樹立後に西洋音楽教育が進められていたとはいえ、1934年に民俗楽器オーケストラの団員となったドンブラの名手たちは、楽譜と含奏というものをほとんど経験していなかった。したがって、結成後しばらく、彼らは耳で聴いて習得した旋律をユニゾンで演奏していたのである (97)

カザフ民俗楽器オーケストラにおける楽譜導入の契機となったのは、1936〜I937年にかけてジュバノフが行った西洋古典音楽の編曲であった (98) 。この西洋のレパートリーを演奏するため、1937年にようやく楽譜が導入されることになったのだが (99) 、団員にとって、楽譜が即座に習得できるシステムではなかったこともうかがえる。I938年10月の民俗楽器オーケストラのコンサート批評には、こう書かれている。  

[オーケストラは]いうまでもなくカザフ晋楽の発展における著しい成果を示しているが、合唱団が早々と複雑な晋楽形式一多声に親しんだのに対し、いまだにユニゾンで演奏し続けている。これがオーケストラの豊かな可能性を低下させ、世界の音楽文化のあらゆる宝庫を習熟するという将来への成長を妨げている (100)

ここには楽譜に関する画接の言及はないが、先述のように斉奏が楽譜を用いずに行われていたことを考慮すると、合奏が成立しない理由として楽譜の活用の不十分さを推測することは妥当であろう。

このように、カザフ人にとって楽譜という新たな体系は、記録、伝達といった要素というよりも、むしろ多声性を実現するのに不可欠な手段であったことが理解される (101) 。なお、本稿では詳しく触れないが、楽譜との葛藤は、1950年代に入るまで続くことになった (102)

(6) カザフ音楽史の創造

プロフェッショナルな音楽文化を確立するためには、その学間的な裏付けもまた必要であった。かつて、各地の音楽家は、地理的に限定された範囲内でしか知られることがなかった。しかし、いまや彼らについての情報は、文字となって共和国全土で印刷され、各地の人民の意識に上ることとなった。

カザフの音楽家に関する最初の伝記は、1936年にジュバノフが書いた「カザフの民衆作曲家クルマンガズ」 (103) である。クルマンガズはカザフスタン西部のキュイシであり、現在ではカザフの最も代表的な音楽家とみなされている。1944年にはカザフ民俗楽器オーケストラが、そして1956年には国立アルマトゥ音楽院が、その正式名称に彼の名を付すようになった (104) 。また、1991年のカザフスタン共和国独立以降、ドンブラを弾く彼の肖像が紙幣のひとつに印励されている。もともとカザフの音楽家が署名性を持っていたことは確かだが (105) 、かつては特定の音楽家の名がカザフ・ステップ全土に知られていたということはなかったと思われる。音楽家にまつわる言い伝えを読む限りでは、音楽家の著名度は通常ジュズ (106) 単位を越えることはなかった (107) 。あくまでもローカルなネットワーク上での記憶と情報が、印刷物のかたちで共和国全土に広まった最初の契機としては、すでにザタエーヴィチの採譜集の註釈を挙げることができる (108) 。ザタエーヴィチは、名前が伝えられている音楽家のおおよその生没年、出身地、生涯、音楽的才能、曲にまつわるエピソードをごく簡単に記した。しかしながら、前述の通り、ザタエーヴィチの採譜集は一般庶民のあいだに普及したわけではなかった。音楽家の人物像やその音楽様式に関する知識が、共和国全土の一般のカザフ人に届くようになったのは、やはりジュバノフの執筆活動に依るところが大きい。というのは、彼が、上掲書のほかに、新聞という大衆的な媒体を積極的に利用し、多くの文章をカザフ語で著したからである。ジュバノフは、カザフ音楽や民俗楽器オーケストラ、そして西洋音楽についても非常に多くの記事を書いている (109) 。1930〜40年代に書かれたカザフ音楽に関する記事には、たとえば「民衆作曲家クノレマンガズ」(1937)、「クルマンガズは何を歌ったか」(I938)、「カザフ民衆作曲家・アンシ[歌い手]一ムヒト」、「ダウレトケレイ・キュイシ」(ともに1939)、「ビルジャン・サル」、「アハン・セリ」「民衆作曲家ディナ」(以上1940)といった、カザフの伝統的な音楽家の生涯と芸術に関するものがみられる。当時、音楽専門学校で彼が直接担当していた「カザフ音楽史」の授業も、これらの執筆活動をもとにして行われていたのであろう (110)

これらの記事の集大成が、彼の「最初の学術書」 (111) といわれる『カザフの作曲家の人生と芸術』 (112) である。明らかに西洋音楽史にみられる作曲家列伝の体裁をとったこの本は、1950年代初頭まで、音楽専門学校および音楽院のカザフ音楽の「唯一の教科書」として重用されてきた (113) 。キュイシとアンシに関する2部から成り、それぞれ9人ずつの音楽家を扱っている。彼らの生年は18I8年から1896年にわたるが、いずれも伝統的な伝承体系のなかで音楽を会得した音楽家である。

ジュバノフのこの伝記は、カザフ語で書かれているのだが、タイトルには「作曲家kompozitor」というロシア語が用いられてい乱しかし、ジュバノフ自身がよく認識していたであろうように、カザフの伝統的な音楽家は、「作曲家」や「演奏家」という概念とは決して適合しない存在であった。即興と変奏を重視する音楽において、「作曲」は決して「演奏」と分離され得るものではなかったからである。ちょうど同時期、ジュバノフはムーソルグスキイやリームスキイ=コールサコフらロシアの作曲家に関しても記事を書いており、「作曲家」という語の使用にあたって、明らかに西洋・ロシア音楽の「作曲家」列伝としての音楽史を参照していることがうかがえる。

その一方で、各節における音楽家の肖像画に付された肩書きには、「民衆作曲家」「民衆詩人」という言葉もみられる。「民衆作曲家」とは、「作曲家」とは異なる、カザフの伝統音楽の担い手であることを示していた。つまり、教育機関での音楽教育を受けておらず、したがって楽譜を用いない「作曲家」である。カザフ共和国において楽譜を用いる「作曲家」には、「民衆」という言葉は付されないことを想起すれば、この区別はより明らかである。

しかしながら、ジュバノフのこの著作を読むと、カザフ音楽を、西洋古典音楽と互角の、さらに独自の自律性を持った芸術としてとらえていることが感じられる。たとえば、クルマンガズのキュイ《アダイ》を「カザフのマーチ」とみなす者がいることに関して、マーチはあくまでヨーロッパの形式であると主張し (114) 、西洋音楽の枠組の安易な適用を否定する。また、「[キュイを]ピアノやヴァイオリンで弾くと、ドンブラのような効果がなくなる。というのも、それぞれの楽器には、それぞれ特徴的な技術とともに特徴的な音色があるからだ。[……]キュイをヨーロッパの楽器の特性によって演奏することはできない」という記述もみられる (115) 。西洋音楽とは異なるカザフ音楽のあり方は、その他にもしばしば強調されている。「私たちが[ここで]言っているマイスタージンガー(歌の名手)[sic.]とは、ドイツの、あるいはフランスの概念での、少なくとも楽譜文化を知り、口にラッパを、背中には太鼓を持った音楽家ではない。[……][それは]ずた袋を引いて歩いていたムヒトなのである」 (116) 。ジュバノフは、放浪するカザフの音楽家を誇っているのである。また、ジャヤウ・ムサと、カザフの代表的な詩人・音楽家であるアバイにみられるロシアの影響を対比し、  

アバイはヨーロッパを模倣したため、カザフ音楽の音階構造から完全に逸脱してしまった。[……]彼のどんな歌も叙情性に満ちている。しかし、その叙情性はカザフのものとはいえない。[一方、]ジャヤウ・ムサの歌には、都会の軽いリズム、どんなときでも軽いジャンルの音楽[いわゆる軽音楽]が聞こえてくる日それでも、カザフ音楽の雰囲気、民衆の旋律の基礎は、終始一貫してみいだされる (117)
と評する。文化接触を経てもなお許容され得る「カザフらしさ」は、彼にはほとんど直感的に感じられていた (118)

 

[今世紀初頭、]カザフ語のオレン[詩歌]にロシア語の言葉を付け加えることがあった。[……]人々のあいだでは、[それは]新しいジャンルのように思われた。しかしそのようなオレンには、美しさ、意味、妥当性が当然不足している。[……]現在の歌謡曲のようなものだ (119)

西洋的な概念の軽率な適用を否定するかにみえる一方で、カザフ音楽が西洋音楽に比肩することを、まさに西洋音楽の概念を用いて理論的に示そうともしている。まず、カザフ人音楽家を西洋の作曲家に比蹴する。クルマンガズをべ一トーヴェンになぞらえ (120) 、ダウレトケレイの奏法をヴィルトゥオーゾと形容し (121) 、ビルジャン・サル(1834-1897)の詩にみられる「主体性」を、西洋の芸術家のそれにたとえる (122) 。また、「環境さえあればジャヤウ・ムサはシュトラウスやオッヘンバックになれただろうに」とも言う (123)

次に、西洋音楽理論によるカザフ音楽の分析あるいは解説がみられる。「音階面では、アン(叙情歌)の冒頭の音はf[ファ]となり、冒頭の音が主音のようになる(F-dur[へ長調]の場合)。しかし、リフレインの終わり(アンそのものの終結部)はc[ド]で終わる。和声的にはF-durで終わるが、変格終止となる。[……]アンの拍子は混合(不規則)的、速度は遅く、藩ち着いて旋律的である(andante cantabi1e)。ある演奏家たちは、非常にしばしばフェルマータ(fermoto [sic.])を使う」 (124) 。西洋音楽理論の援用としては甚だ乱暴でつたなく、知識の披瀝のために用語を駆使しているかのように見えることも否めないが、1942年のカザフ共和国にあっては、これだけでもカザフ音楽の正当性を十分に提示し得たに違いない。

カザフ音楽は、このように、「楽聖」から成る音楽史の存在の提示によって、西洋・ロシア古典音楽に倣った実体的な価値を主張し始めた。そして、この書の巻末に、彼らの作として伝わる曲の楽譜が掲げられたことは、「楽聖」の「作曲家」としての存在をさらに補完したといえる。

このように、ジュバノフによる「楽聖列伝」は、カザフ音楽の存在を正当化する役割を果たした。まず、ソヴィエトのイデオロギーにとって、ソヴィエト期以前の「封建時代」の賛美は当然タブーであったが、その封建制と闘う貧しい民衆は、常に正義とみなされた。したがって、前世紀の音楽家を英雄視するには、彼らが「民衆」のあいだから出たことを示す必婁があった。同時に、作曲家から成る歴史と、楽譜を持った音楽としての自律性を書物として提示することにより、カザフの音楽は、ソヴィエト・カザフのプロフェッショナルな文化として発展させ、改良すべき価値を帯びることにもなったのである。

そのことは、しかし、この列伝に登場する伝統的なタイプの音楽家を「カザフ民俗音楽」という概念に封印することにもなった。つまり、西洋古典音楽あるいはその系譜を引くソヴィエトの作曲家の創造活動や、「プロフェッショナルな」民俗楽器オーケストラの音楽活動とは土俵を異にするところの、「民俗音楽」としてである。これは、上記のカザフ音楽の正当化と相反するようでいて、実は相互補完的な考え方である。改良楽器や民俗楽器オーケストラ、音楽機関における教育という「プロフェヅショナリズム」は、伝統的な音楽のあり方から明確に差異化されなくてはならなかったからだ。現に、『カザフの作曲家の人生と芸術」においては、登場する作曲家たちが「プロフェッショナル」と呼ばれる場面はない (125) 。ジュバノフの個人的な意図がどのようなものであったかは知る由もないが、「プロフェッショナルな」音楽と晋楽家は、ソヴィエト時代にしか存在し得ないことが確認されたのである。彼の書は、結果的に、新しい音楽形態とその価値概念、つまり職業化と大衆化としての発展を支持することになったといえよう。

おわりに

以上検討してきたように、カザフの音楽は、一方で、ロシア人による異国趣味によって「民俗音楽」として五線譜化され、他方でロシア音楽界にみられたナショナリズムをそのまま適用することで、「民族の音楽」として形成されてきた。世界的普遍性を持つとされる西洋古典音楽=「芸術音楽」に対置された「民俗音楽」は、社会主義的リアリズムが打ち立てられた1930年代以降、「発展」を経ることによって「民族音楽」に生成する可能性を得た。この「発展」は、民俗楽器の改良や合奏団の結成によって象徴的に明示されることになり、また公的機関での音楽教育および楽譜の使用とも密接に関わりあっていた。そして、公的なプロフェッショナリズムの普及は、逆説的に大衆化を導き、そこに含まれない文化を「アマチュアリズム」として差異化・差別化することにもなった。

カザフ音楽に対するこのような価値観は、当地において、特に1980年代から強まっている伝統主義・純粋主義的な傾向と衝突し、盛んな議論が続いている。しかし、彼らの主張が、「ソヴィエト時代」という過去の誇張や歪曲を必ずしも免れているわけではない (126) 。こういった状況のなかで、多分に審美的・情緒的な観点から、現行の「民俗音楽」ないしは「伝統音楽」の真贋を区別し、その区別を学間的に正当化しようとする態度は、研究者としては回避すべきだろう。むしろ、そのような議論やその矛盾が生じるに至った歴史的過程を詳らかにしてゆくことで、ソヴィエト時代に確立された「制度」としての音楽文化、あるいは音楽学的言説自体をとらえ直すことが可能になるのではないかと思われる。


Summary in English