ヴォルガ・ドイツ人の強制移住

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はじめに

 1941年9月、ヴォルガ地方のドイツ人は、シベリアやカザフスタンへ強制移住させられた。1763年のエカテリーナ2世の布告に始まるおよそ180年におよぶヴォルガ地方のドイツ人の歴史は、これによって幕を閉じた。

 ペレストロイカおよびソ連崩壊による史料公開の飛躍的向上のおかげで、ヴォルガ・ドイツ人の強制移住に関して、公文書にもとづく実証的研究が可能となった。近年いくつかの研究成果が発表され、当事者の回想録や推測のみに頼らざるを得なかった従来の強制移住像は見直されつつある(1)。また史料集の刊行も行われている。

 1990年にKGBのドイツ人担当であったキチヒンが、内部文書を使った論考を発表したが、史料公開がすすむにつれ、記述が不正確で信用性に乏しいことが明らかになった(2)。ドイツ人強制移住に関する最初の本格的な論考は、1991年のニコライ・ブガイである(3)。彼はスターリンの民族強制移住全般にわたって研究を行っており、1992年に刊行した史料集でもドイツ人強制移住に関する多くの公文書を紹介した(4)。ブガイの一連の著作は文書館史料を丹念に探索した初めての研究として評価できるものの、犠牲者数の特定に関心が片寄る嫌いがあり、強制移住の具体的なメカニズムをとらえきれていない。また事実関係の誤認も散見される。1995年に発表された論考でも、こうした傾向に変化はない(5)

 ドイツ人強制移住の研究ではアルカジー・ゲルマンが最も重要である。彼は、ヴォルガ・ドイツ人自治共和国の設立から消滅までを扱った大著『ヴォルガのドイツ自治区』第2巻(1994年刊)(6)の最後の章を強制移住にあてている。強制移住の準備過程や実施状況に関するゲルマンの記述は詳細かつ綿密であり、この問題がほとんど余すところなく検討されていると言ってよい。強いて難点を挙げるとすれば、ヴォルガ・ドイツ人自治共和国史の最終場面として強制移住を扱ったため、近隣のサラトフ州やスターリングラード州のドイツ人への視点が弱いことであろう(7)。なお上記著作で引用された文書の一部は、彼が編集した史料集『ヴォルガ・ドイツ人共和国の歴史』(8)に収録・紹介されている。

 ヴォルガ・ドイツ人の移住先での受入状況についても、ここ数年、多くの研究が発表された(9)。またレンペリが文書館史料に基づいて整理した強制移住の基本データは、ヴォルガ・ドイツ人を含めたドイツ人全体の移動の様子を跡付けるうえで非常に便利である(10)。さらに、このほどドイツ語で出版されたロシア・ドイツ人の通史は、こうした最近のロシアでの研究動向をふまえた強制移住像を簡潔に提示している(11)

 一方、重要な史料集には、1995年にロシア民族学・人類学研究所からミロワ監修で出版された『ドイツ人の強制移住』(12)がある。これはヴォルガ流域のドイツ人の強制移住に関する文書を数多く収めており、特に移住作戦の実行指令書は強制移住の実態解明にとって貴重な史料である。ゲルマンが前掲著で利用した公文書の多くも、ここに収録されている。これ以外では、『カザフスタンのドイツ人の歴史(1921〜1975年)』(13)がカザフスタンでのドイツ人受入の様子を裏付ける文書を多数収録している。またアウマンとチェボタリョワ編纂の『文書に見るロシア・ドイツ人の歴史』(14)は、ヴォルガ入植からペレストロイカ期の自治区回復運動に至る、幅広い時期の関連文書を集めているが、強制移住に関しても重要な公式決定を紹介しており、参考になる。さらにドイツでは、強制移住から戦後にかけてのソ連ドイツ人に関する公文書が翻訳・出版されている(15)

 本稿では、ヴォルガ・ドイツ人自治共和国、サラトフ州、スターリングラード州の3地域をあわせたヴォルガ・ドイツ人全体を対象に、強制移住のメカニズムとその目的の解明を試みる。本来ならば文書館での独自の史料調査を行うべきであろうが、現段階ではとりあえず刊行された史料の分析に専念した。上に指摘したように、ミロワ監修の史料集には強制移住の輪郭を捉えるのに十分な分量の史料が含まれており、これ以外にも刊行資料は数多くある。こうした刊行された多くの一次史料を読み直すことで、基本的な部分はゲルマンの研究に同意しつつも、いくつかの点で新たな解釈を提示することができると筆者は考えている。

 まず第1節で強制移住の決定と準備状況、第2節で強制移住の実態について詳細な分析を行い、そのメカニズムの解明に努める。ここではドイツ人を移送した列車の運行状況を分析し、新たな視点から強制移住の実態を明らかにする。そして第3節で移住先での状況から強制移住の目的を考える。なお本稿のテーマは、スターリン期のソ連政治やソ連の民族政策の分析など、さまざまな方向へひろがりうる内容を含んでいる。しかし筆者の力量不足のために、他の民族の強制移住との比較を若干行ったものの、こうした点には言及できなかった。これらについては、他日を期したいと思う。

1.移住決定

(1)決定

 1941年8月30日、ヴォルガ・ドイツ人自治共和国の党および最高会議の機関紙である『ボリシェヴィク』紙(ロシア語)と『ナフリフテン』紙(ドイツ語)に、8月28日付のソ連最高会議幹部会令「ヴォルガ地域に居住するドイツ人の移住について」(16)が発表された。

 この決定は、「軍当局から得た信頼すべき情報によると、ヴォルガ地区に住むドイツ人住民の中に、数千人から数万人の破壊分子とスパイがおり、彼らはドイツからの合図でヴォルガのドイツ人居住地区で爆弾を爆発させることになっている」としたうえで、これをソビエト権力に報告しなかったのは「ヴォルガ地区のドイツ人住民が、ソビエトの人民と権力の敵を自分たちに中に匿っている」ことを意味する、と決め付けた。そして「こうした望ましからぬ事態を回避し、流血の惨事を防ぐため」、ノヴォシビルスク州、オムスク州、アルタイ地方、カザフ共和国などの、周囲から隔離された農地へドイツ人を移住させる、とした。

 これまでヴォルガ・ドイツ人の強制移住は、この幹部会令によるものとされてきた(17)。しかしソ連崩壊後に公開された公文書から、これに先立って、ソ連人民委員会議および党中央委員会決定「ヴォルガ・ドイツ人自治共和国、サラトフ州、スターリングラード州の全ドイツ人の他地方・州への移住について」(1941年8月26日付)(18)が出されていたことが明らかになった。この決定は、ドイツ人の移住先、関係政府機関の役割分担、移住作戦の具体的な手順などを事細かに規定している。つまり、「数千人から数万人の破壊分子とスパイ」という荒唐無稽な嫌疑をドイツ人に投げかけた8月28日付ソ連最高会議幹部会令は、強制移住に合法さを与えるための「表向き」の理由説明にすぎず、実際に強制移住の命令を下した実行指令は、8月26日付ソ連人民委員会議および党中央委員会決定であった。ソ連内務人民委員部(NKVD)作成の「ヴォルガ・ドイツ人自治共和国、スターリングラード州、サラトフ州からのドイツ人移住計画」やNKVDの強制移住実行指令が8月26日付決定をうける形で作成されていたのも、この考えを裏付ける。

 8月28日付幹部会令の荒唐無稽さは、あらためて指摘するまでもないだろう。しかし当局のドイツ人に対する嫌疑が全くの事実無根であったわけではない。当時、ヴォルガ・ドイツ人自治共和国党委員会から中央への定期報告は、住民の愛国的行動とともに、少数ながら否定的言動についても言及するのが常だった。このため独ソ戦が勃発してからは、「まもなくヒトラーがモスクワに到達して、ボリシェヴィキはおしまいだ」「対ソ戦でドイツはまず、わがドイツ人自治共和国に拠り所を求めるだろう。わたしたちは間違いなく、まもなく最初のパラシュート部隊を迎えることができる。そしてわが共和国で激しい戦闘が始まる」といった住民の声が中央へ伝わっていた(19)。また幹部会令の「ドイツからの合図でヴォルガのドイツ人居住地区で爆弾を爆発させる」という記述も、当時の状況下では一定のリアリティを有していたことも事実だ。ヴォルガ・ドイツ人自治共和国党委員会は独ソ戦勃発直後の6月26日、「敵のパラシュート部隊・破壊分子対策の準備」に関する決定を採択している(20)。それだけではない。ある7月の夜、ヴォルガ・ドイツ人自治共和国西部のディッテリ村で防空警備の当直をしていた党員たちは、上空に戦闘機が飛来するのを目撃した。当時この村では戦闘機の飛来が非常に珍しい出来事だったため、当直の人たちは、飛行機がソ連機かドイツ機か、また目的は何かを憶測しあったが、結局翌朝になって、ドイツの戦闘機からパラシュートをつけた兵士が降下して合図の信号を送ったと目撃談をでっち上げ、地区当局へ報告した。この噂は村中に広がり、NKVDが実際に捜索へ乗りだす事態にまで発展したという(21)

 こうした点を考慮するなら、幹部会令の文面を全くの事実無根と切り捨てるわけにはいかないだろう。しかしながら、これらがごく例外的な、根拠に乏しい事例であることも紛れもない事実であり、「数千人から数万人の破壊分子とスパイ」という口実やヴォルガ・ドイツ人全体への断罪は、やはり荒唐無稽としか言いようがない。現実には、独ソ戦開戦後、ヴォルガ・ドイツ人自治共和国ではドイツ人が祖国ソ連の防衛に積極的に参加していた。人民義勇軍へ多数のドイツ人が志願し、防衛基金に短期間で多額の寄付が集まった。またナチス・ドイツの兵士や大衆に対する「同じ階級の兄弟たち」としてのアピールがヴォルガ・ドイツ人の名で数多く発表されている(22)

 ドイツ人強制移住の意図は、ドイツ人が「破壊分子とスパイ」であるという「事実」ではなく、むしろ有事の際の安全保障という国家・体制側の論理に求めるべきであろう。ナチスのヨーロッパ侵略が始まると、ヨーロッパ各地にちらばるドイツ人を潜在的なスパイ、いわゆる「第五列」として不審の目で見る傾向がヨーロッパで強まっていたが、これはソ連でも同じであった。スターリン体制では、「大テロル」時の「疑わしき者は罰する」にみられるように、潜在的な可能性さえあれば十分に嫌疑の対象となった。こうした体制が、潜在的なスパイのヴォルガ・ドイツ人を戦線付近に放置しては危険だとみなしても全く不思議はない。国境地帯の安全保障の確保を目的とした民族強制移住には、1937年の極東の朝鮮人、1939年の西部国境のポーランド人など、すでにいくつもの前例がある。また赤軍内部では、兵役法の採択を前に開催された1939年9月の人民委員会議の国防委員会で「不穏」民族の扱いが議論となり、国境地帯に居住する一部民族(ドイツ人のほか、フィンランド人、ポーランド人、バルト諸民族、ブルガリア人、ギリシャ人、トルコ人、ルーマニア人)は徴兵対象としないと決定していた(23)。潜在的な不安分子に対する当局の反応は、有事の安全保障という国家・体制の論理からみれば、けっして奇異ではない。

 ドイツ人強制移住の政策決定過程はまだ不明である。ここでは強制移住の意図が何時ごろ芽生えたかを推察する手がかりとして、いくつかの問題点を挙げるにとどめたい。

 KGBのドイツ人問題担当だったキチヒン中佐は、ヴォルガ地方でドイツ人スパイが暗躍しているとの情報を確かめるために、モロトフとベリヤが1941年7月にエンゲリス市を視察したと述べている。二人は党活動家・赤軍代表の会議に出席してヴォルガ・ドイツ人国家が陥っている危機に注意を喚起し、何らかの対抗措置の必要性を指摘した、というのである(24)。もしこの証言が正しいとすると、当局は7月の段階でドイツ人対策の必要性を認識していたことになり、この視察訪問が強制移住計画の正式決定に結びついたとみなすことも可能である。しかしこの証言を裏付ける文書は見つかっておらず、事実であるかどうか今のところ確証はない。文書館でこの証言を裏付ける公文書の探索を試みたゲルマンは、「非常に疑わしい」と視察の実施に懐疑的である(25)

 もう一つ注目されるのは、サラトフ州とヴォルガ・ドイツ人自治共和国のドイツ人住民数の報告書(作成日不明)(26)である。内容は地元の国民経済集計局のデータに基づいて、1941年6月1日現在のドイツ人住民の人数を地区別にまとめたものだ。報告書に記載されたドイツ人の人数は、1939年の国勢調査と比べるとかなり増加している。またその数値は、一桁の位まできちんと記入された非常に詳細なものだ。先に記した「ヴォルガ・ドイツ人自治共和国、スターリングラード州およびサラトフ州からのドイツ人住民の移住計画」はこの数値を引用しており、この報告書が強制移住の準備過程で重要なデータとして使われていることを裏付けている。

 問題なのは、6月1日現在というデータの日付である。地区別の詳細な民族別人口調査が毎月実施されていたとは考えにくい。年2回、半年ごとの調査ならありえないことはないが、その場合も調査日は普通なら1月1日現在と7月1日現在になるので、6月1日という日付は通常の調査ではありえない日付なのだ。これはあくまで推測の域を出ないが、ソ連当局が6月22日に勃発した独ソ戦のごく早い段階で(もしくは戦争以前から)国内のドイツ人の処遇を検討し、その資料として特別にドイツ人の人口調査を行なったのではないだろうか。

 なおブガイは、ドイツ人移住に関する8月12日付ソ連閣僚会議決定が存在し、当局が8月半ば時点で強制移住の実施を決定していたと主張しているが(27)、ゲルマンはこの決定が9月12日付の間違いだったことを明らかにし、8月26日以前にドイツ人強制移住が政治局内で検討された形跡はないと述べている(28)。しかし上に見たように、1941年6月1日現在のドイツ人住民数に関する報告書はドイツ人を危険視する当局の意図を暗示しているように思われ、独ソ戦勃発の早い段階から、密かに非公式レベルではドイツ人強制移住が計画されていたのではないだろうか。

 ヴォルガ・ドイツ人の強制移住の実態解明に移る前に、ヴォルガ地域以外のドイツ人の強制移住について、その決定日時と人数をここで簡単にまとめておく(29)

9月6日:モスクワ市とモスクワ州、およびロストフ州からのドイツ人移住が発表。モスクワから8449人、ロストフ州から3万8288人が移住させられた。

9月21日:クラスノダール地方、オルジョニキッゼ地方、トゥーラ州、カバルダ・バルカル自治共和国、北オセチア自治共和国からの移住決定が発表。それぞれ3万7300人、8万8903人、3058人、5803人、2415人が移住させられた。

9月22日:ウクライナ共和国のザポロージェ州、スターリン州、ヴォロシロフグラード州からの移住決定が発表。それぞれ3万2032人、3万5477人、9858人が移住させらられた。

10月8日:ヴォロネジ州のドイツ人5125人の移住が決定した。

10月8日:グルジア、アゼルバイジャン、アルメニアからの移住が決定し、それぞれ2万423人、2万2841人、212人が移住させられた。

10月22日:ダゲスタン自治共和国、チェチェン・イングーシ自治共和国からの移住が決定し、あわせて7306人が移住させられた。

11月2日:カルムイク自治共和国からの移住が決定し、5525人が移住させられた。

11月21日:クイビシェフ州からの移住が決定し、8787人が移住させられた。

 このほか日付不明ながら、ウクライナ共和国クリミア自治州のシンフェローポリから1900人、同共和国ドニエプロペトロフスク市から3250人、ゴーリキー州から2544人が移住させられた。このように1941年末までに強制移住させられたドイツ人は80万人を超えた。なお上記地域からの移住先は、ごく少数を除いて、ほとんどがカザフ共和国である。

(2)指揮系統

 本稿では以下、ヴォルガ・ドイツ人の強制移住について、次の文書5点に基づいて分析を試みる。

  1. ソ連人民委員会議および党中央委員会決定「ヴォルガ・ドイツ人自治共和国、サラトフ州、スターリングラード州の全ドイツ人の他地方・州への移住について」(30)(8月26日付、以下「8月26日決定」と略称)
  2. 「ヴォルガ・ドイツ人自治共和国、スターリングラード州、サラトフ州からのドイツ人移住計画」(31)(日付なし、以下「移住計画」と略称)
  3. ソ連内務人民委員命令第1158号「ヴォルガ・ドイツ人自治共和国、サラトフ州、スターリングラード州からのドイツ人移住作戦実施に関する措置について」(32)(8月27日付)
  4. ソ連内務人民委員承認「ヴォルガ・ドイツ人自治共和国、サラトフ州、スターリングラード州からのドイツ人移住作戦実施に関する指示」(33)(8月27日付)
  5. 「ヴォルガ・ドイツ人自治共和国、サラトフ州、スターリングラード州からのドイツ人移住作戦実施に関する指示」(34)(日付なし、4とは内容が一部異なる)

 ソ連人民委員会議と党中央委員会は「8月26日決定」で、ヴォルガ・ドイツ人自治共和国、サラトフ州、スターリングラード州のドイツ人(事前調査でそれぞれ40万1746人、5万4389人、2万3720人の計47万9855人)を、クラスノヤルスク地方、アルタイ地方、オムスク州、ノヴォシビルスク州、カザフ共和国(セミパラチンスク州、アクモラ州、北カザフスタン州、クスタナイ州、パヴロダール州、東カザフスタン州)へ移住させると決定し、移住作戦の指揮監督をNKVDに委ねた。現地で移住を実際に指揮する作戦グループ指揮官には8月27日に、イワン・セロフNKVD副長官が任命された(35)

 現地のヴォルガ流域での移住作戦は、セロフをトップに、7名で構成される「NKVD作戦グループ」が統括した(36)。そしてNKVD作戦グループの指揮下には、極めて整然とした指揮系統がつくられ、上から順に、「州作戦トロイカ」、「地区作戦トロイカ」(37)、「作戦グループ」が置かれた。州作戦トロイカは州・自治共和国の単位で設置された。トロイカ(3人組)の名称が示すように、通常3人(ヴォルガ・ドイツ人自治共和国のみ4人)で構成され、州・自治共和国レベルで移住作戦の準備・実行に全責任を負った。各地の州作戦トロイカのトップは、NKVD作戦グループのメンバーだった。州作戦トロイカの下に置かれた地区作戦トロイカは、ドイツ人が多数居住する地域のNKVD地区局長、民警長、党地区委員会書記で構成された。そして強制移住作戦の末端組織が作戦グループで、地元のNKVD職員と中央から派遣された応援要員で編成された。ドイツ人住民と実際に対応したのは、この作戦グループである。

 またNKVDには、移住作戦を円滑に行うため、農業人民委員部、穀物・家畜国営農場人民委員部、およびソ連人民委員会議付属移住局(中央と地方の機関)に命令を下す権限が与えられていた。農業人民委員部と穀物・家畜国営農場人民委員部は、移住によって残されるドイツ人農民の財産(不動産、家畜など)を維持・管理するためであり、ソ連人民委員会議付属移住局はドイツ人のシベリアやカザフスタン入植をNKVDが直接監督するためだった。このほかの官庁では、供給人民委員部が移住するドイツ人からの穀物・飼料などの受け取りと移住先での現物清算を、貿易人民委員部が移住列車での食事提供を、保健人民委員部が移送列車の医療スタッフ・医薬品・医療器具の提供を、鉄道人民委員部と海運人民委員部と河川運輸人民委員部が輸送車両・蒸気船の提供やドイツ人の輸送を、それぞれ命じられた。

 NKVDは、移住作戦全体の資金として、2000万ルーブルを国庫から前払いされた(38)

(3)準備

 移住作戦を前に、現地へ多数のNKVD職員と民警が配置された。その数は、ヴォルガ・ドイツ人自治共和国がNKVD職員1200人と民警2000人、サラトフ州がNKVD職員250人と民警1000人、スターリングラード州がNKVD職員100人と民警250人、あわせてNKVD職員1550人と民警3250人である。このほか8月26日には内務人民委員部の実働部隊であるNKVD軍にも動員令がかかった。ヴォルガ・ドイツ人自治共和国のエンゲリス市へ7550人、サラトフ市へ2300人、スターリングラード市へ2500人、計1万2350人の大部隊である(39)。NKVD軍は現地トップであるセロフの直属の指揮下に入り、29日には配置についた(40)。こうした大規模な軍事力を背景に、作戦グループは強制移住の準備作業を猛烈な速度で進めた。

 作戦グループはまずドイツ人の人数調査を行った。彼らはコルホーズ、農村、都市へ赴き、ドイツ人の家を一軒ずつ調査して、家族の人数を集計カードに記入するのである。妻はドイツ人で夫が非ドイツ人の家族は、移住対象から除外された。また家族のうちドイツ人でないものは対象外だったが、希望すれば家族と行動を共にすることができた。作戦グループは人数調査の時に、家長が家族全員の移住に責任を負うよう警告した。内務人民委員命令によると、家族の一部が逃亡した場合は家長が刑事責任を問われ、家族も処罰対象になった。また移住を拒否した場合は、逮捕して強制的に移住させることになっていた。

 集計された移住対象者の人数は、作戦グループから地区作戦トロイカに報告される。地区作戦トロイカは、このデータに基づいて移住作戦実行計画書を作成した。そして移住対象の世帯数とそれぞれの家族構成、および移住対象者の馬車や自動車の有無を検討したうえで、鉄道の乗車駅までの移送経路やNKVD要員の配置先が決められた。地区ごとに作成された計画書は州作戦トロイカに提出され、承認を受ける。さらに州作戦トロイカが提出された計画書をもとに出発日を決定し、移住列車の運行表を作成した。地区作戦トロイカは、運行表で定められた日時にドイツ人を乗車駅へ移送する責任を負い、乗車駅までの移送手段を確保することになっていた。

 ドイツ人への出発日の通達は、出発のおよそ数日前だった。州作戦トロイカの指示を受けて、地区作戦トロイカが移住対象者リストを公表し、作戦グループが移住日と出発の準備を個別にドイツ人へ通告した。

 現金以外に、日用品や小さな家財道具は、1世帯あたり1トンを限度に移住先へ持って行くことが認められた。しかし大きな家財道具を持っていくのは許可されなかったし、家などの不動産は当然手放さざるをえなかった。都市住民の場合、残していく家財を信頼すべき人を通じて売却して所有者の新しい居住地へ送金することが認められていた。一方、農民の所有する農耕器具、家畜、家屋などは、地元のソビエト機関、農業人民委員部ならびに乳肉産業人民委員部の代表から構成される特別委員会に引き渡された。引き渡しの際、委員会から評価額を記した受領書が発行された(41)。受領書に記載されたものは、1941年度分の国庫納入額とこれまでの未払い額を差し引いた上で、移住先で同等のものが提供されることが約束された。また家屋は、移住先での新家屋もしくは建築資材(木材、釘、ガラス)の提供で対応する、とされた。刈り入れ前の畑の収穫物は、そのまま放置せざるをえなかった。

 このほか、移住にあたって約1ヶ月分の食料を持参すること、荷物に名札をつけることが指示された。

 迅速に移住作戦を成功させるためには、治安維持が重要な鍵となる。このため移住作戦の実施中は「騒ぎやパニックが起きないように」し、「遅延行為、反ソ行動、武装衝突などが起きた場合、事態解消に断固たる措置を取る」(42)ことが指示された。移住通告を個別に行い、住民同士の話し合いや集会を禁止したのも、治安を保つためであった。また移住作戦開始前に反ソ分子を逮捕せよと事前に指示が出ており、実際に8月29日と30日にあわせて81人が逮捕されている(43)

 NKVD作戦グループのセロフ指揮官からベリヤNKVD長官への現地報告によると、集計カードの記入は8月29日に始まった(44)。ヴォルガからの移住第1陣は9月3日なので、上に述べた全ての作業がわずか1週間足らずという、極めて短期間で行われたことになる。集計の結果、移住対象となるドイツ人は、ヴォルガ・ドイツ人自治共和国が37万4225人、サラトフ州が4万3101人、スターリングラード州が2万3945人、合計44万1271人と見積もられた(45)

 ゲルマンによると、列車への荷物搬入は9月1日から始まった。このため移住第1陣を割り振られたポクロフスク、クラスヌィ・クト、グメリンカ、パラソフカなど、駅近くに住む住民は、財産を処分したり持って行く荷物を整理する時間がわずか数日しかなかったという。ドイツ人の駅までの移動には車や荷馬車が使われることになっていたが、しばしば確保できない場合があり、ドイツ人の男たちが駅まで歩いて行かなければならないこともあった。移送手段の不足を補うため、船で指定の駅まで運ばれる場合も多かった(46)

(4)現地の反応

 「8月26日決定」は、翌日にはヴォルガ・ドイツ人自治共和国、サラトフ州、スターリングラード州の党・ソビエト指導者に通知された。そしてこの日に開かれた特別会議で、ドイツ人強制移住に関する地方ごとの決定が採択された。決定は3地域どれもほぼ同じ内容で、まず中央決定への完全な賛意を示してその一貫した遂行を宣言した後、中央決定の言文をほぼそのまま引き写した(47)

 ヴォルガ・ドイツ人自治共和国人民委員会議のゲクマン議長は8月30日午前10時、同自治共和国共産党のマロフ第1書記のもとを訪れた。ゲクマン議長は、ドイツ人の移住決定を掲載した新聞を示しながら、「幹部会令を読んだ。これは正しいと思う。なぜなら私たちの仲間には卑劣漢が多いからだ。私はこれを待っていた」と述べ、辞表を提出して受理された。27日にすでに党・ソビエト指導者の会議があったことを考えると、この辞任はデモンストレーションの色彩が濃い。自治共和国の要職にある他のドイツ人も、ほぼこのような形で辞任した(48)。ヴォルガ・ドイツ人自治共和国の要職にあったドイツ人は、正式には党州委員会ビューロー決定により9月5日付で解任されている(ゲクマン人民委員会議議長、ゴフマン最高会議幹部会議長、コルブマヘル党州委員会第3書記など)。なおゲクマンとコルブマヘルは9月16日付エンゲリス市党委員会決定によって、「8月28日付ソ連最高会議幹部会令を誹謗する反ソ活動の性格を持つ行動」を理由に、強制移住の最中に党から除名された(49)

 決定が新聞に公表されると、現地のドイツ人とそれ以外の人々の間にはっきりとした溝ができた。エンゲリス市のロシア人住民は、移住決定を歓迎していた。徴兵通知を受け取ったばかりのある労働者は「家族が内なる敵の脅威から逃れたので、これで安心して戦場へ行ける」と述べた。「政府は正しいことをしている。ドイツ人はスパイばかりだ。奴等は互いに匿いあっている」といった声も街中で聞かれた。またナチス・ドイツに追われたポーランド人やチェコ人の難民たちも、決定を歓迎した。その一方でドイツ人のほとんどが移住決定に怒りをあらわにしていた。「ツァーリの夢見たシベリア移住がとうとう実現する」と当局を非難する者がいたし、「これは予測できた。ヒトラーがロシアを絞め殺そうとしている。もうすぐドイツ軍がスターリングラード、そしてエンゲリスへやってきて、私たちを連れていってくれる」とソ連の敗北とナチス・ドイツによる解放に期待をかける声が聞かれた。エンゲリス市では、強制移住を新聞発表で知り、移住をまぬがれようと、ドイツ人の夫との離婚を申請したロシア人女性が何人もいた(50)

 次にドイツ人の回想から、当時の様子を見てみる。

 ヴォルガ・ドイツ人自治共和国北部の農村に住んでいたゲンリフ・ジベルト(51)は、父や兄と一緒に8月はずっと、村から10キロ離れた農場で小麦の収穫をしていた。しかし新聞に移住決定が発表されると、班長から全員家へ帰るように命じられた。家へ帰る途中で会った党組織の書記は、「これは正しい行為だ」と何度も繰り返し、騒ぎ立てないように、集まって行動しないようにしてくれと懇願した。戻ってみると村は兵士に包囲され、外出禁止令が出されていた。

 夜間は通りの見回りが行われていた。家畜を殺すのは禁止されていた。家畜はコルホーズへ引き渡さなければならなかったからだ。住民が残していく財産の受付係は軍人で、すべて目分量で決めていた。家畜と家の財産と引き替えに、正式のものとは思えない受取証を受け取った。その年8ヶ月間のコルホーズでの労働の支払いはなかった。

 村に残ったのはロシア語教師のロシア人女性と戦争前にカザフ人と結婚したドイツ人女性だけだった。この二人の若い女性で、農村ソビエトの文書、コルホーズ、10年制の学校、2軒の商店、薬局、病院、診療所、郵便局を引き受けることになった。

 彼の村の500人は車でヴォルガ川の船着き場に運ばれ、まず艀船でエンゲリス市まで連れていかれた。それから貨物列車に100人ずつ詰め込まれ、エンゲリス、チムケント、セミパラチンスク、ノヴォシビルスクを経由して、ノヴォシビルスク州のモシコヴォで降ろされた。

 一方、サラトフ市に住んでいたフローラ・テレンチエワ(旧姓ヴェリシ)(52)によると、「サラトフから連れていかれる9月7日未明は、どの家も一睡もせず、みんな一緒に庭に座って、ドイツ人を駅まで運ぶ車が来るのを待っていた」。フローラの乗せられた列車は66両編成で、貨車一両ごとに40人から50人がのっていた。年長だった彼女の父は車両長になり、時々大きな駅で配られるパンやスープの分配をした。列車はアラリスク、アルィシ、ジャンブル、アルマ・アタ、セミパラチンスク、バルナウールを経由して、9月19日にノヴォシビルスクから85キロのオヤシ駅に着いた。

2.強制移住

(1)規定

 「移住計画」は、ドイツ人の移送を次のように定めていた。

 移送に使われる列車は1両40人乗りの65両編成で、このうち7〜8両は移住者の荷物の運搬に利用された。ヴォルガ・ドイツ人自治共和国40万1746人とサラトフ州5万4389人のドイツ人の移送は、198本の列車(1万2870両(53))で行われるとしていた。ちなみにこれは、荷物車両を列車1本あたり7.5両と換算した上で、移住対象のドイツ人の人数45万6000人から算出したものと思われる。またスターリングラード州のドイツ人2万4700人(54)は、船でアストラハン、カスピ海を経由してグリエフまで運ばれ、そこから鉄道で目的地まで送られることになっていた。

 各列車には、NKVD護送軍司令官から任命された列車長が責任者として乗り込んだ。このほか列車には警備にあたる兵士22名(55)、および医師1名と看護婦2名が同乗し、これら要員のために兵士用車両と病人用隔離車両を1両ずつ連結するよう規定されていた。

 移送中の食事は1日2度、駅の食堂など特別に定められた場所を通じて提供することになっていた。食事の内容は、スープが1日1度、お湯が1日2度との規定だった。移送中のドイツ人の食事を賄うため、列車長には1人1日6ルーブル(56)計算で食費が前渡しされ、食堂などへの支払は列車長が行った。

 列車長には、実際の移送を前にさらに具体的な指示が出された。荷物車両は全車両数の10%とすること、危険物(斧、鎌など)は人の乗った車両とは別にして、特別の車両で保管すること、食事は1日2度のスープおよびパン500グラム、と変更が加えられた(57)

 こうした指示は、現実には守られない場合が多かった。車両に寝床がなかったり、隔離車両が連結されないことがあった。また食料の配給も乱れがちで、特にお湯がないことはしばしばだった。食料の代わりに「日当」という名目でドイツ人にお金が渡されることがあったが、移送中に何かを買うことは非常に困難だった。食事も出さず、お金も渡さないという列車長すらいたという(58)

 移送中の列車の状況を、あるドイツ人は次のように回想している。

 9月9日に荷馬車でウルバフ駅に着き、翌日、家畜運搬用の列車でシベリアへ出発しました。貨車には80人がひしめき、上には板寝床があって、うまくやった人がそこを陣取っていました。列車には兵隊の貨車があって、そこからパンをもらいました。一日一回、大きな駅でスープがバケツで配られました。パンは一日に二人で一つでした。自分の食料で煮炊きして腹をふくらませていました。列車には水の入った樽があって、飲み水や子どもを拭くのに使っていました。一応一通りはそろっていました(59)

 一方、少ない人数で移送中の安全を確保するため、ドイツ人を相互に監視させるシステムが取り入れられた。まず各車両ごとにドイツ人から車両長を選び、彼らに車両内の秩序管理、列車長の指示の遂行、人数確認の責任を負わせた。第1節(4)のフローラ・テレンチエワの回想に出てくるように、車両長は食事の配分もしたようである。さらに車両8〜10両単位でグループを編成してその責任者を選出し、このグループごとの行動監視のために兵士の責任者が任命された。

 列車長は命令に従わない者を営倉車両に入れることができた。そして最低1日1回は点呼を行なって人数を確認するとともに、列車の運行状況や現在位置をNKVD特別入植部へ毎日電信で報告する義務があった(60)

 ドイツ人の移住者数や移送先といった強制移住の基本的なデータは、ドイツ人の送り出し地および受け取り地でそれぞれ取りまとめたうえ、中央で集計されることになっていた(61)。添付資料の「ドイツ人強制移住列車運行表」(以下「運行表」と略称)は、この集計記録を基にして、出発時と到着時の駅・日付・人数が明らかになった列車を列車番号順に一覧表にしたものである(62)。「運行表」は中央の総合集計記録(1942年1月5日付(63))を基本にして、ドイツ人を受け入れた地方の集計結果でこれを補足した。地方の受け入れ記録が確認できたのは、アルタイ地方(1941年12月12日付)、クラスノヤルスク地方(1941年12月30日付)、北カザフスタン州(1942年1月4日付)、およびカザフ共和国(1942年1月18日付)の4点である(64)

 作成にあたって、中央の総合集計と地方ごとの集計でデータが食い違っている場合には、原則として地方のデータを優先した(データが食い違った部分には下線を付けるとともに、備考欄に違いを明記した)。これは地方データの方が、強制移住の現場に近いだけに、現状をより反映した、信頼性の高い情報だと思われるからだ。例えばアルタイ地方(列車番号763号、798号、855号〜895号の計41本)の出発時と到着時の人数に注目すると、中央のデータが人数を同じとした列車でも、その多くについて地方データは移動中に人数の増減があったとしている。こうした違いが発生したのは、中央集計の係官が情報収集を怠り、報告書の出発時と到着時の人数に最初から同じ数字を書き込んだためではないかと思われる。同様に到着日付についての中央と地方のデータの相違も、列車運行に早着・遅延が起きたにもかかわらず、出発時に予定していた到着日をそのまま書き込んで中央集計記録を作成したことが原因であろう。ただしカザフ共和国の集計は例外である。これは列車番号が重複したり意味不明の数字が散見されるなど、文書作成者の事務処理能力および数値の信頼性に疑問が残るので、中央のデータを優先した。またデータの一部が欠落している場合があったが、その部分は空白とした。

 なおヴォルガ・ドイツ人自治共和国の首都ポクロフスク市は1931年にエンゲリス市に改称されているが、強制移住時には駅名はポクロフスクのままだった。

 「運行表」からは188本の列車、45万1806人の移動の様子を裏付けることができる。以下、「運行表」を基に「移住計画」が規定した移送の実態を検証する。なお「運行表」725号〜735a号のグリエフ駅発の列車12本、2万6880人は、「移住計画」の船で移送するスターリングラード州のドイツ人に相当する。そこで以下では、まず列車によって移送されたヴォルガ・ドイツ人自治共和国とサラトフ州のドイツ人42万4926人(列車176本)について検討し、それから項を改めて船による移送を取り扱う。

(2)列車による移送

 「8月26日決定」は、ヴォルガ流域からのドイツ人強制移住を9月3日開始、20日完了と命じていた。「運行表」で確認すると、開始は予定通り9月3日だったが、完了は一日遅れの21日だった。しかし21日にもつれこんだ列車はウヴェク駅発815号のわずか1本だけであり、ヴォルガ・ドイツ人の移住作戦はほぼ当初の計画通り実行されたといえる。なお中央の報告書では作戦は予定通り20日に終了したことになっており、列車1本が遅れた事実は現場でもみ消されたようだ。

 ドイツ人の移送は30の駅から行われた(図1参照)。ヴォルガ・ドイツ人自治共和国が15駅、サラトフ州が12駅、スターリングラード州が3駅だが、このうちサラトフ州のウヴェク駅と、スターリングラード州の3駅(カムイシン、メドヴェジツァ、ネトカチェヴォ)はヴォルガ・ドイツ人自治共和国のドイツ人を運ぶために使われた。

 最も多く利用されたのはポクロフスク駅で、ここから46本の列車が出発し、全体の4分の1近くにあたる10万8922人が西シベリアやカザフスタンへ移送された。この駅にはエンゲリス市をはじめ、ヴォルガ川流域の6つの地区(カントン)からドイツ人が集められ(65)、ほぼ毎日数千人単位で強制移住が行われている。最も列車が集中した9月16日には、この日だけで1万6669人もの人々がヴォルガの地を後にした。これに次ぐのが、ヴォルガ川流域の自治共和国中部地域からドイツ人が集められたウヴェク駅(21本、4万8629人)である。60〜80qも離れたバリツェル地区から歩いてきたドイツ人がようやく駅に到着しはじめた9月14日以降、ウヴェク駅からの列車出発は頻繁になる(66)。またサラトフ市とその周辺地区のドイツ人が集められたサラトフ駅からは13本の列車で3万125人が移送されている。この三駅にアニソフカ駅も含めると、19万9497人というヴォルガ・ドイツ人の半数近くがサラトフ、エンゲリス周辺地域から強制移住させられた計算になる。

図 1:ドイツ人強制移住時のヴォルガ流域の鉄道網

 このほか多くのドイツ人を移送した駅としては、メドヴェジツァ駅(10本、2万6442人)、カムイシン駅(8本、2万2713人)、ベズィミャンナヤ駅(8本、1万9705人)、クラスヌィ・クト駅(7本、1万7062人)、レペヒンスカヤ駅(7本、1万6649人)、ナホイ駅(7本、1万6286人)がある。

 19日間におよんだ移住作戦の間、毎日多数のドイツ人が列車で運ばれていった。その数は、少ない日でも数千人、最も多い日には3万8420人(9月8日)にもなり、一日平均2万3千人強である。行政区分別では、ヴォルガ・ドイツ人自治共和国からは36万5574人(67)(151本)、サラトフ州からは5万9352人(25本)だった。

 これだけ一時に多くの列車を運行したために、渋滞が起きて列車運行に支障がでている。現地の指揮トップのセロフは、9月9日付の報告書に「作戦は正常に進んでいるが、列車の運行はうまくいっていない。この間出発した61本のうち31本がまだサラトフ州内にある。こうした状況では2、3日後には積み込みの失敗が起きかねない。駅間に中間監視所を設けて渋滞の解消策を計っており、リャザン・ウラル鉄道長官には駅の作業のより綿密な管理を要求した」(68)と書いている。

 次に、ヴォルガ・ドイツ人がどこからどこへ移住させられたかを分析してみる。

 表1は、ヴォルガ流域から発車した列車176本42万4926人の行き先をまとめたものである。

表 1:ヴォルガ・ドイツ人自治共和国、サラトフ州からの強制移住先

地  域

人数

ヴォルガ・

ドイツ人自治共和国

サラトフ州

アルタイ地方

87,755人 (37本)

78,183人 (33本)

9,572人 ( 4本)

クラスノヤルスク地方

77,705人 (33本)

77,705人 (33本)

ノヴォシビルスク州

87,816人 (37本)

74,299人 (31本)

13,517人 ( 6本)

オムスク州

83,023人(31本)

70,284人(26本)

12,739人 ( 5本)

カザフ共和国

88,627人 (38本)

65,103人 (28本)

23,524人 (10本)

内訳

 

 

 

アクモラ州

30,317人 (13本)

28,005人 (12本)

2,312人 ( 1本)

クスタナイ州

16,095人 ( 7本)

13,712人 ( 6本)

2,383人 ( 1本)

パヴロダール州

21,131人 ( 9本)

4,562人 ( 2本)

16,569人 ( 7本)

北カザフスタン州

21,084人 ( 9本)

18,824人 ( 8本)

2,260人 ( 1本)

合    計

424,926人 (176本)

365,574人 (151本)

59,352人 (25本)

 これをみてわかるように、クラスノヤルスク地方が人数で若干少ないものの、ドイツ人はシベリア4地域とこれに隣接するカザフ共和国北東部へほぼ均等に移住させられている。だがヴォルガ・ドイツ人自治共和国とサラトフ州とを比べると、両者の移住先には若干の違いがある。シベリアでは、アルタイ地方とクラスノヤルスク地方へ強制移住させられたドイツ人は、ほぼヴォルガ・ドイツ人自治共和国出身の人々で占められていた。逆にカザフスタンのパヴロダール州は、ほとんどがサラトフ州出身者で占められている。また強制移住先を出発駅との対応関連でみると、アルタイ地方はヴォルガ川左岸地域、オムスク州はヴォルガ川右岸地域(特にカムイシン駅からメドヴェジツァ駅にかけてのヴォルガ・ドイツ人自治共和国南西部)の割合がかなり高い。クラスノヤルスク地方とノヴォシビルスク州は半数前後がポクロフスク駅から運ばれてきている。一方カザフ共和国はポクロフスク、ウヴェク両駅が中心であるものの、全地域からほぼまんべんなくドイツ人が送り込まれた。

 次にヴォルガからシベリア、カザフスタンへの移送経路を考察する。アルタイ地方やノヴォシビルスク州に送られたドイツ人は、列車はアルマ・アタなどを経由する南回りだったと証言している(69)。かなり遠回りな経路だが、これは本当だろうか。またシベリアの他の地域(オムスク州、クラスノヤルスク地方)やカザフ共和国北東部の各州へはどういう経路で運ばれたのだろうか。ゲルマンは、ドイツ人を運ぶ列車は、戦線へ向かう軍用列車の通行を妨げないように幹線のシベリア鉄道を避け、ウラリスク、アクチュビンスク経由で南に大回りし、アルマ・アタを通ってバルナウールからノヴォシビルスクへ抜けた上で、そこから西(オムスク州や北カザフスタン州)や東(クラスノヤルスク地方)へ向かった、としている(70)。ドイツ人の移送経路を「運行表」によって再検討してみる。

 ヴォルガ・ドイツ人自治共和国、サラトフ州、スターリングラード州から出発した列車のうち、発着時の日付が不明なものを除くと、「運行表」から185本の列車(グリエフ発の列車を含む)の動きが把握できる。表2は、到着までの平均所要日数を到着駅の行政区分別に整理したものである。

表 2:強制移住先ごとの平均所要日数(グリエフ発の列車を含む)

 まずドイツ人が証言している南回りのルートをたどってみる(図2参照)。この経路に位置するドイツ人の移住先までの移送日数は、セミパラチンスク州9.3日、東カザフスタン州(行政中心地はウスチ・カメノゴルスク)10.9日、アルタイ地方(同バルナウール)11.8日、ノヴォシビルスク州13.5日と、距離が増すごとに順当に到着までの平均所要日数が増加している。ノヴォシビルスク州から東へ向かったクラスノヤルスク地方は、ノヴォシビルスク州と日数の差がない。これは「運行表」作成にあたってクラスノヤルスク地方のデータが地元集計で内容が補正されているのに対して、ノヴォシビルスク州のデータは中央の総合集計そのままであることが影響している可能性がある。補正をしない中央の総合集計のデータのままなら、クラスノヤルスク地方までの所要日数は13.75日となり、ノヴォシビルスク州より移送日数が長くなる。

 問題なのは、ノヴォシビルスクより西に位置する地域だ。オムスク州は9.6日、北カザフスタン州(行政中心地はペトロパヴロフスク)は8.4日と、ノヴォシビルスクよりあきらかに所要日数が短いだけでなく、より西にあるほど短いのである。つまり平均所要日数のデータを見る限り、ノヴォシビルスク以西の地域を目的地とする列車は南回りの迂回ルートではなく、チカロフ経由で直接シベリア鉄道に入り、東へ向かう北回りルートをとったと考える方が自然なのだ。北回りルートに沿って平均所要日数を追うと、クスタナイ州5.9日、北カザフスタン州8.4日、アクモラ州8.6日、オムスク州9.6日、パヴロダール州10.0日となる。これが自然な流れであろう。なお移送列車が北回りルートでオムスク州を経由してノヴォシビルスク州へ行った可能性も考えられるが、オムスクからほぼ同距離のパヴロダール州とノヴォシビルスク州で所要日数にかなり開きがあることから、ノヴォシビルスク州への移送列車が北回り経路をとった可能性は低いと思われる。

図 2:ドイツ人強制移住時のシベリア・カザフスタンの鉄道網

 むろんこうした推論は、途中駅での停車や渋滞などを含め、すべての列車が同じ条件で運行したことが大前提である。また地域によって列車本数に偏りがあり、シベリアの各地域とカザフ共和国各州(特にセミパラチンスク州)を同列で比較することが本当に可能なのか、疑問の余地も残る。しかし史料の制約・限界はあるものの、「運行表」からは、ヴォルガ地方からシベリアやカザフスタンへのドイツ人の移送に際して、南回りの迂遠ルートを使った列車(目的地:カザフ共和国のセミパラチンスク州、東カザフスタン州、それにシベリアのアルタイ地方、ノヴォシビルスク州、クラスノヤルスク地方)と、シベリア鉄道経由の北回りルートを使った列車(目的地:カザフ共和国のクスタナイ州、北カザフスタン州、アクモラ州、パヴロダール州およびシベリアのオムスク州)があったと推測できるのである。

 ところで列車の移送は、非常につらいものだったという。食事の様子はすでに述べたが、排泄の処理は精神的にも肉体的にもかなりの負担だったし、車内の衛生状態の悪さから胃腸の伝染病が蔓延し多くの子供が犠牲になったという。その一方で移送中の車内での出産もあった。また停車時間について情報がうまく伝わらなかったために、用便をすませたりお湯を取りに行っている間に列車が出発してしまうという、乗り遅れの事故もかなりあったという。乗り遅れた人たちは後続の列車に積み込まれたが、列車がそれぞれ行き先が違うために、家族がばらばらになってしまうことも多かった。このほか停車中に逃亡するケースもみられたが、ほぼ全員が逮捕され、厳しい処罰を受けている(71)

 残念ながら「運行表」からは、こうした移送中の人数増減を明確につかむことは不可能である。「運行表」作成に用いた原史料には、一部に出産・死亡・乗り遅れの件数が記されているが、すべてを網羅した記録は存在しない。また出発時と到着時との人数差は、それが出産・死亡・乗り遅れによるものなのか、それとも記録作成時の単なる誤記によるものなのか、判別できない。「運行表」は、そこから出発・到着地や人数の移動に関する大まかな傾向をつかむことはできても、詳細な人数の変化を把握できるほど正確な記録ではないのだ。

 ゲルマンは、ヴォルガ・ドイツ人自治共和国から移送された全列車で、少なくとも129人の死亡(大半が子供)が確認でき(72)、サラトフ州とスターリングラード州からの全列車では36人が死亡、乗り遅れや病気による下車が72人だった(73)、と述べている。またカザフ共和国ジャンブール州の現地報告(1941年11月5日付)によると、同州には列車5本で1万2200人がモスクワ市から連れてこられたが、移送途中の死亡者は41人だった。そして死亡の他に、出生23人、合流14人、自殺2人、乗り遅れ34人が記録されている(74)

 こうした例から全体を推測するのは少し乱暴かもしれないが、列車による移送はドイツ人にはつらい経験であったとはいえ、移送中の死亡率自体はごく低かったと思われる。ドイツ人の回想でも、移送中に死者がでたというような記述は稀だ。後年の民族強制移住では、移送中の死亡率がバルカル人8%、クリミア・タタール人5%、カルムイク人1.3%だったとの報告もある(75)。ドイツ人の移送は、こうした諸民族にくらべると、かなりましな状況だったのではないかと思われる。

(3)船による移送

 「移住計画」は、スターリングラード州のドイツ人の移送に船を利用せよと明記していた76。ヴォルガ川をアストラハンまで下り、そこからカスピ海を横切ってグリエフに上陸し、残りを鉄道で移動するのである。「運行表」のグリエフ発の列車(列車番号725号〜735a号)が、これに該当する。ドイツ人の回想からも、ヴォルガ川、アストラハン、カスピ海を経由するルートがドイツ人移送に利用されたことがうかがえる(77)

 ヴィクトル・シチルツは、船による移送経験を次のように語った。

 私たちは、すし詰めの貨物列車でカムイシンまで運ばれ、艀船が来るまでそこで待たされました。全くの野宿でしたが、幸い天気もよく、焚火で食事を作りながら、埠頭から遠くない場所で二晩待ちました。

 最初の晩のことは私の脳裏に強く焼き付いています。人の海の中で焚火に照らされた人々の顔が所々に浮かび上がり、隣ではヴォルガ川が滔々と流れている。人々は重苦しい予感に胸を締め付けられて眠ることができないでいる。すると歌声が聞こえてきたのです。ドイツ語の歌、民謡が。その時の人々の気持ちを表わすかのように、物悲しく、哀愁を帯びた歌声でした。数千人が声を合わせ、当時流行のグルジア民謡「スリコ」をドイツ語で歌った光景は、一生涯記憶に残る、魂を揺さぶられるような出来事でした。

 二日後、私たちは艀船にすし詰めにされ、ヴォルガ川をアストラハンまで下っていきました。アストラハンで、今度は石油運搬タンカーへ家財道具を引きずって入れました。深くて、石油臭い船倉に3段の板寝床がしつらえてありました。私たちはそこへ押し込まれ、グリエフ(78)へ向いました。

 言葉では言いつくせない辛さでした。一度も海を見たことのない女性がお祈りをし、カトリック教徒は信心深く十字を切りました。耐えられないほどの悪臭、蒸し暑さそして退屈さの三日間で半数が、特に女性と子どもが病気になりました。グリエフで私たちはまた家財道具を貨物列車に積み替え、一両に50人から60人が詰め込まれ、一路東へ向かいました。列車は最終的にセミパラチンスク州へ着きました(79)

 この回想にもあるように、ドイツ人のほとんどが海を見るのは初めてだった。そのうえ強制移住という特殊な状況下にあったがために、海はドイツ人たちに恐怖を呼び起こした。セロフからベリヤへの現地報告でも、9月7日にグリエフ行を待っていたアストラハン停泊中の艀船第063号で、ドイツ人の間に船が海に沈められるという噂が流れ、船内がパニックに陥ったことが記されている(80)

 なおカスピ海を横切ってカザフ共和国のグリエフに連れてこられたスターリングラード州のドイツ人の最終的な移送先は、「運行表」によると、東カザフスタン州1万6330人、セミパラチンスク州1万550人だった。移送人数は当初、「計画」にみこまれていた2万4720人から若干増加し、2万6880人だった。

(4)強制移住の全体像

 以上に見たように、「運行表」はヴォルガ・ドイツ人強制移住の規模について多くの情報を与えてくれた。しかし「運行表」が物語るのはこれだけではない。強制移住の全体像、言い換えるなら強制移住の性格も、「運行表」から推測することが可能である。

 「運行表」の到着駅に注目すると、移送列車がほぼ移送先の行政区分ごとに配列されていることがわかる。列車番号の順に言うと、700号から724号および736号から742号はオムスク州、743号から783号はノヴォシビルスク州、784号から808号はカザフ共和国の諸州、809号から841号はクラスノヤルスク地方、842号から854号はカザフスタンのアクモラ州、855号から892号はアルタイ地方となっている。このように列車の目的地と列車番号の配列には全くの偶然とは思えない、規則性が感じられる。次に列車の出発日に目を移そう。「運行表」の最初の700号は9月4日に、次の701号は9月5日にオムスク州へ向けて出発している。しかしすでに9月3日には741号と742号、820号〜822号、847号、855号〜857号の計8本が出発している。列車の運行は列車番号の順ではなく、ヴォルガ流域の各地から同時並行で行われているのである。

 「運行表」のこうした配列は何をあらわしているのだろうか。列車番号は出発・到着時や運行中の連絡に不可欠な識別番号であり、報告書を作成する段階になって後から番号が割り振られたとは考えられない。つまり「運行表」どおりの列車運行が現実に行われるには、必要な列車の本数の割り出しや出発駅と日にちの確定という準備作業が、第一陣がヴォルガを出発する9月3日以前にすべて完了していなければならないのである。これは移住作戦実行計画書の作成とこれに基づく強制移住の実施が、規定通りに行われたことを意味する。おそらく「移住計画」の段階で概算人数に基づいて移住作戦実行計画書の雛形らしきものが作成されていたはずで、これを強制移住決定発表後の人数調査の結果で修正して最終案が作成されたのであろう。そうでなければ、40万人を超える人間の移送を一週間弱のごく短期間で準備し終えるなど、不可能である。このように強制移住作戦の綿密な計画性と周到な準備の様子は、「運行表」からもうかがうことができるのである。

 ところで「運行表」に欠番(7つ)や追加番号(735a号)の列車があるのは、移住作戦実行計画書の人数と実際の人数が違ったために、現場で調整を余儀なくされたことを示す。典型的な例は追加番号であろう。「計画」では、スターリングラード州のドイツ人を2万4700人と見込み、列車一本あたり40人65両(貨車を除けば、57.5両)の基準で、必要な列車数を11本(10.7本)と算出していた。移住作戦実行計画書でもこの人数は踏襲されたらしく、列車番号725号から735号までの11本が割り当てられた。しかし実際の現場ではドイツ人の数が2万6880人に増加したため、列車を一本追加せねばならず、そのため735a号という追加番号の列車が「運行表」に記録されることになったのだ。欠番はこの逆で、事前集計の数に水増しがあったり、一つの列車に予定以上の人数を詰め込んだために起きたものであろう。

 このように欠番や追加番号は、強制移住を実施するに当たって当局が事前の周到な準備作業を行ったという推測を裏付ける一方、その綿密さも、事前集計と実際の人数に違いがあって列車数を増減させたように、一種の粗雑さをも内包するものだったことを示唆している。実行段階での粗雑さの混在という点では、「運行表」にみられる中央集計と地方集計の日付や人数の違い(おそらく記録者の誤記)も、同様である。

 なおヴォルガ・ドイツ人強制移住の計画段階の綿密さには、過去の強制移住や大量粛清といった権力側に蓄積された弾圧の経験が大きな力を発揮していると思われる。1937年に行われた朝鮮人強制移住は8月21日と9月28日の2度の決定によって実施され、9月9日から10月25日の間に17万1781人が列車124本で極東からウズベク共和国とカザフ共和国へ移住させられたが、移送列車の編成、残していく財産に対する引換証の発行、党・執行委員会・NKVDで構成される地区トロイカの存在など、ドイツ人の強制移住と共通点が多い(81)。ただ移住作戦の期間は、まだ経験の「蓄積途上」だったせいか、ドイツ人よりもかなり長い。また第二次大戦勃発直後にソ連に併合されたモルドヴァ、ベラルーシ、西ウクライナ、バルト諸国からの強制移住(1941年5月〜6月)では、ヴォルガ・ドイツ人強制移住と同じような列車の運行記録が作成されていたことが判明している(82)。さらに言えば、ドイツ人や極東朝鮮人の強制移住作戦で重要な役割を果たした「トロイカ」は、1930年代後半の「大テロル」で略式の死刑・長期刑判決を下した同名の組織と何らかの関連があると思われるし(83)、ドイツ人が強制移住後に編入された「特別入植」も元来は富農撲滅の過程で設置されたものである(84)。こうした点を考慮すると、ドイツ人の強制移住が過去の経験とは無関係だとは到底思われない。

 ヴォルガ・ドイツ人自治共和国は9月7日に廃止され、同自治共和国の7つの地区はスターリングラード州へ、残りの14地区はサラトフ州へ編入された(85)。廃止に伴う事務処理は1週間で完了し、15日には旧ヴォルガ・ドイツ人自治共和国の諸機関は正式に廃止された。同自治共和国の学校や文化施設は、職員、学生、見学者がほとんどいなくなったことを理由に、閉鎖された(86)

 ドイツ人がいなくなった土地には、戦線から疎開してきた人々を入植させ、彼らにドイツ人が残していった穀物や家畜の世話をさせる計画だった。例えば「8月26日決定」では前線から移住してくる農民のためにドイツ人が残していった建物、家畜、土地を利用すると記されているし(87)、8月27日のヴォルガ・ドイツ人自治共和国決定にも、家畜の世話をするために1万7250人をドイツ人移住後の村落へ送り込むことが定められていた(88)。そして実際に9月3日にはウクライナ共和国、オリョール州、クルスク州のコルホーズ農民6万5000人の移住を命じる決定をソ連人民委員会議が出した。農民の疎開はドイツ人の強制移住と並行して9月5日から15日に実施される予定だったが、ナチス・ドイツの快進撃を前に農民の移住に精力を割く余力はなく、さらに農民自身も移住に難色を示したため、入植は順調に進まなかった。地元当局は緊急措置として近隣地区からロシア人農民3万人を動員し、まだ終わっていない収穫作業や家畜の世話に当たらせたものの、これでは全く不十分だった。9月22日のサラトフ州党委員会の会議では、旧ドイツ人村での収穫の遅れ、収穫物の盗難や腐敗、家畜の死亡などが報告された。このためサラトフ州当局は26日に旧ヴォルガ・ドイツ人自治共和国領への2000世帯移住を決定し、地区単位で強制的に人数を割り当て、早急な移住を求めた。しかし移住したのは1942年1月1日現在で1万1500人、計画の67.5%に止まった。旧ドイツ人村は荒廃し、移住は困難になるばかりだった。ヴォルガ・ドイツ人の強制移住によって地域の産業は破壊され、穀物数万トンもの喪失をはじめ、多大な経済的損害をもたらした(89)

3.移住先で

(1)移住先での受入

 「8月26日決定」は、すぐさまヴォルガ・ドイツ人の移住先のシベリアやカザフ共和国にも伝えられた。決定は、降車駅でのドイツ人の受け取り、移住先までの移送、彼らの生活環境の整備といった課題は移住先の各地方が責任を負う、と定めていた。このためシベリアやカザフスタンの各地では、すぐさま「8月26日決定」を検討する会議が招集された。ノヴォシビルスク州のように早くも8月30日に党地区・市委員会指導者協議会でドイツ人受入問題を話し合ったところもあるが、具体的な受入決定の採択はどこも9月に入ってからである。9月1日にオムスク州、3日にアルタイ地方、6日にノヴォシビルスク州で(クラスノヤルスク地方は日付不明)、またカザフ共和国では9月1日に、それぞれ受入決定が採択された(90)

 各地の具体的な受入プロセスは、いずれもほぼ同様の手順を踏んで進められた。以下では、アルタイ地方を例にとりながら説明する。

 アルタイ地方では「8月26日決定」を受け、9月3日に党地方委員会と地方ソビエト執行委員会の合同会議が開かれた。会議ではまず、事前に準備されていた「アルタイ地方における受入・移送計画」(91)が承認された。計画はドイツ人9万5000人を58の地区に移送するとしており、移送にあたっての降車駅と経由地もすでに確定していた。そしてドイツ人の受入・移送作業を指揮するため、作戦トロイカが各レベルで設置された。アルタイ地方全体の指揮監督は、地方ソビエト執行委員会議長、党地方委員会書記、地方NKVD局長からなる地方作戦トロイカが行い、その下部組織として各地区ごとに地区作戦トロイカ(地区ソビエト執行委員会書記、党地区委員会書記、地区NKVDのトップで構成)が設置された。地区作戦トロイカには、降車駅からの輸送手段やドイツ人用住宅の確保が命じられた。また移送にあたって必要となる食料・医薬品の準備が関係部局に指示されている(92)。11日にはヴォルガ・ドイツ人受入にあたっての各地区への資金提供計画が承認され、食費141万ルーブル、移送経費120万3000ルーブルのあわせて262万3000ルーブルをドイツ人移送のために支出することが決定した(93)。またドイツ人を住まわせる簡易住宅(寄宿舎やバラック、掘立小屋)の建設費として145万ルーブルが計上された(94)。移住先に置かれた指揮系統は、ヴォルガでの移住作戦とほぼ同じ体系をなしている。なおアルタイ地方の場合、こうした一連の決定が迅速にすすんだのは、1938年から1941年夏にかけてすでに数十万もの人々(ポーランド人やバルト諸民族)が強制移住させられていて、地元当局がかなりの経験を積んでいたことが背景にあったと思われる(95)

図3:アルタイ地方のドイツ人移住先

 図3は、「運行表」作成で利用したアルタイ地方NKVD作成の1941年12月12日付報告書(96)をもとに、9月11日から10月8日までに到着した列車(計41本)から、ドイツ人9万6397人がアルタイ地方のどこへ送られたかを再現したものだ。作成にあたっては、次の点に注意した。図ではドイツ人が送り込まれた地区を、カーメニ地区ならカーメニ村のように、地区の行政中心地で代表し、送り込まれたドイツ人の人数と駅降車日のデータを付け加えた。同一地区へドイツ人が二度送り込まれた場合は、人数と降車日のデータを二つ併記してある。なお降車駅からドイツ人が実際の受入場所に到着するまで平均で2.6日、長いもので6日かかっており(前述の資金提供計画による)、図の日付はその場所への到着日とは必ずしも一致しない。また強制移住当時の地図が入手できなかったため、アルタイ地方の境界線は現在のものを使用している。図ではノヴォシビルスク州にもドイツ人送り先があるが(アンドレエフカ、カラスク、クラスノゼルスコエ)、ここも1941年当時はアルタイ地方の領域内だった。

 図をみれば一目瞭然だが、ドイツ人が送り込まれた場所はアルタイ地方の全域に分散している。受入地区はあわせて54の地区にのぼり、その数はおよそ2000人ずつ(最小422人、最大3039人)である。計画の58地区よりは少ないものの、ドイツ人はアルタイ地方のほぼ全域にまんべんなくばらまかれた。また鉄道から遠く離れた僻地にも数多く送り込まれている。降車駅から先は、荷物運搬用の荷馬車はあったものの、ドイツ人自身が徒歩で目的地まで向かうことが多かったようだ。なお目的地までの移動には、一部でオビ川も利用されている。ドイツ人がバルナウール駅に到着すると、駅近くを流れるオビ川の港から船に乗せて上・下流の河川港(カーメン、シェラボリハ、ウスチ・プリスタニ、ブィストルィ・イストク)まで彼らを連れて行き、そこから目的地まで移送した。

 「移住計画」は、ドイツ人の移住はコルホーズ単位で現地のコルホーズに編入するか、もしくは新しい土地へ入植するとしていたが、実際にはこの規定は守られず、移住は家族単位で行われた(97)。一例を挙げよう。9月20日アレイスカヤ駅着の移送列車871号のドイツ人2278人は、パルフェノヴォ地区へ送られている。この列車に乗っていたアンナ・リブザンは他の11世帯と一緒に馬車でアレイスクから60キロのロジネフ・ログ村へ連れていかれ、さらに3つのグループに分けられて別々の家に住み込むことになった。また同じくこの列車に乗っていたアンドレイ・フンクはプロスコ・セミョノヴォ村へ連れて行かれ、3世帯で二部屋ある家が一軒与えられた、と述べている(98)。このようにドイツ人は、降車駅で村単位で小規模のグループに分割され、実際にロシア人農家に受け入れる段階でさらに数世帯にまで細分化されたのである。

 ドイツ人の受入現場では、かなりの混乱が起きた。迎えの輸送手段も宿泊場所もないため、ドイツ人たちが降ろされた駅で何日も放置された例は数多いし、連絡の不備のために最終受入地がわからず、いくつもの場所をたらい回しされた場合もある。住居の確保も、計画どおりには進まなかった。計画に盛り込まれた住宅の新築は後回しにされ、古い建物の修理ですらドイツ人の受入決定後しばらくしてようやく着手されたにすぎず、地元住民の家屋への間借り、それも狭い部屋に多人数を押し込む方策で当座をしのぐしかなかった。クラスノヤルスク地方では1941年初めに、ドイツ人1万7307世帯のうち9296世帯が、地元住民への間借りで暮らしていた(99)

 ドイツ人は、ヴォルガに残してきた財産の引き渡し受領証と交換に、移住先で同等のものを受け取ることができるはずだった。しかし彼らが実際に受領証に基づいて穀物、野菜、家畜、家財の返還を要求してみると、現場にその情報がほとんど伝わっていないことがわかった。地元当局は上からの指令がないことを理由にドイツ人の要求を拒否し、受領証による財産の返還はほとんどの場合、行われなかった。このため日常の食糧にも事欠くドイツ人がかなりの数にのぼった(100)

 また「移住計画」は都市住民を、州都を除く都市部へ送るとしていたが、現実には何ら区別することなく彼らも農村部のコルホーズへ送り込まれた。元都市住民の比率はどこも10〜15%程度だったが、クラスノヤルスク地方だけはおよそ60%と非常に高かった。農業の経験の全くない元都市住民のドイツ人たちは移住先での仕事になかなか順応できず、貧窮の度合いが他地域よりかなりひどかったという(101)

(2)強制移住の目的

 シベリアやカザフスタンで、ドイツ人は主に農業労働力として歓迎された。例えばカザフ共和国ジャンブル州の場合(これはモスクワからのドイツ人だが)、ドイツ人は駅から100キロ以上離れた遠隔地やビート収穫の人手が不足している場所に優先的に送り込まれた。中でも農民は、到着してわずか2、3日後にはビート収穫といったコルホーズでの農作業に駆り出されている(102)。北カザフスタン州ではドイツ人は脱穀、牛の飼育といったコルホーズの作業に組み込まれたし、何らかの専門技術を持っている者は、出来る限り専門知識にみあった仕事が与えられた(103)。アルタイ地方アレイスカヤ駅で降ろされたあるドイツ人女性は、専門家の奪い合いで「奴隷市場」のようだったと、当時を回想している。

 私たちの列車がアレイスカヤ駅に到着した時、あちこちのコルホーズの議長が橇の荷車を引いて集まっていた。まるで奴隷市場のように、叫び声がわきおこる。「鍛冶屋は、来い」「大工だ、大工が欲しいんだ」「トラクター運転手と機械専門家はこっちだ」「会計士か簿記係が欲しいんだ」「農業専門家か畜産専門家はいないか」などと声がかかる。

 独り者の女性や子連れの女性、老人、知識人は「三級品」だった。彼らは一番奥地の貧しいコルホーズへ割り当てられ、多くは飢えで死んだ。彼らは橇に自分のみすぼらしい所帯道具を乗せ、橇の後から果てしない雪原のステップをとぼとぼ歩いていった(104)

 ノヴォシビルスク州のように、地元当局側がわざわざドイツ人入植を中央に要請した例もある(105)。ノヴォシビルスク州のドイツ人入植要請は10月初旬に中央へ伝えられ、これを受ける形で9月下旬から10月初旬に強制移住が行われたウクライナ(ザポロージェ州、スターリン州)やアゼルバイジャン、およびヴォロネジ州などからノヴォシビルスク州へドイツ人が振り向けられた。ノヴォシビルスク州がなぜ多数の労働力を必要としたのかは今後の研究課題だが、当局がドイツ人を労働力として歓迎していたことを示す事例として興味深い。

 ドイツ人の移住決定は、移住先での具体的な利用方法を指示していなかった。上に見たドイツ人の労働力としての利用は、どちらかといえば偶然のなりゆきによるもののように思われる。しかし戦時中の労働力不足という時代状況に加え、ドイツ人にシベリアやカザフスタンで不足していた様々な専門技術を持つ者が多かったこともあり、ドイツ人は現地で歓迎された。そして時間が経つに連れ彼らは地元経済にがっちりと組み込まれ、欠くべからざる労働力として定着していく。1941年12月に極東の漁業発展策としてドイツ人投入が中央の党・政府内で計画された時も、ドイツ人は農業に習熟しているので極東へ移住させるとシベリアでの播種作業が損害を被る、との反対意見が現地から出されたほどだ(106)

 その後こうした労働力としてのドイツ人に注目し、計画的にこれを利用する制度が導入された。1942年1月10日付の国家国防委員会決定第1123ss号「17歳から50歳までの徴兵年齢にあるドイツ人移住者の利用方法について」(107)は、17歳から50歳までのドイツ人移住者男性12万人を戦争の全期間にわたって「労働部隊(рабочие колонны)へ動員すると決定し、NKVD管轄の森林伐採へ4万5000人、同じくNKVD管轄のバカリとボゴスラフの工場建設へ3万5000人、鉄道人民委員部管轄の鉄道建設へ4万人を、それぞれ配置するとした。動員を拒否した場合「最高の刑事処分」に問われるとしており、これは事実上、強制的な徴用だった。また戦線のドイツ人将兵は6月末頃から次第に除隊を余儀なくされていたが、最終的に「スターリンの指令」と言われる9月8日付国防人民委員指令第35105s号によって「敵性民族」として除隊させられ、強制労働を課せられていた(108)

 最初の決定から約一ヶ月後、さらに国家国防委員会決定第1281ss号「17歳から50歳までの徴兵年齢にあるドイツ人男性の動員について」(1942年2月14日付)(109)が出された。1月10日付決定はシベリアやカザフスタンへ強制移住させられたドイツ人が対象だったが、2月14日付決定は、強制移住の対象でなかった、元来シベリアなどに住んでいたドイツ人を含め、すべてのドイツ人男性を動員するものだった。この決定は、ドイツ人を鉄道建設に利用すると規定していた。さらに1942年10月7日には男性の対象年齢が広げられ、下は15歳から上は55歳までになった。また16歳から45歳の女性にも動員が拡大された(国家国防委員会決定第2383ss号(110)、ただし妊婦と3歳未満の子どもを持つ者は除外)。この決定によって集められた労働力は、男性は石炭人民委員部、女性は石油人民委員部の諸企業へそれぞれ投入された。

 ドイツ人たちはこの強制労働を「労働軍(трудовая армия)」と呼んだ。公式の文書でこの「労働軍」という用語が使われることはなかったが、この表現は強制的に徴用され、囚人とさして変わらない条件で建設現場や工場での労働を強いられた戦時中のドイツ人たちの状態をよく言い表している。労働可能なドイツ人はほぼ全員、労働軍隊に組み入れられ、戦争の全期間にわたって「無償の労働力」として利用された。戦争との関連で指摘するなら、女性にまで動員対象を拡大した1942年10月は、戦況が最も厳しかった時期と一致する。この年の夏にはハリコフやクリミアが陥落し、ナチス・ドイツ軍はスターリングラードを包囲していた。厳しい戦況の打開策の一つが、ドイツ人の動員拡大であった。

 1941年8月28日付ソ連最高会議幹部会令は、ドイツ人による破壊活動の未然防止を強制移住の理由に挙げていた。しかしその一方で強制移住後のドイツ人の扱いをみると、当初は意図していなかったかもしれないが、ドイツ人は独ソ戦の人手不足を補う貴重な「無償の労働力」として位置づけられているのである。

(3)強制移住の影響

 ヴォルガの地で育まれたドイツ人の共同体は最終的に、強制移住によって完全に破壊された。ドイツ人がかたまって住み、日常がドイツ語環境にあったヴォルガ地方とは異なり、移住先は周囲をロシア人やカザフ人などに取り囲まれた非ドイツ語環境であり、その中でドイツ人たちは数世帯単位にまで細分化された形で生活しなければならなかった。それだけでなく、強制移住の途中や労働軍への動員によって、家族ですらばらばらにされるケースが頻発した。ドイツ人は強制移住先によって、いわば異民族の大海に点在する離れ島のような立場に置かれたのである。

 こうした環境の変化は、ドイツ人社会に大きな変化をもたらした。その一つの例が母語問題である。

 ドイツ人のドイツ語母語率は、戦後急速に低下した。1939年に88.4%あったドイツ語母語率は、1959年に75.0%、1970年に66.8%、1979年に57.0%となり、1989年には48.75%と、ついに半数を割り込んだ。こうした急速な変化は、何に起因するのだろうか。

 グラフは、1989年のカザフ共和国の国勢調査結果から、ドイツ人の母語を年齢別に見たものである。カザフ共和国のドイツ語母語率は全体で54.4%だったが、年齢別の母語のグラフからわかるように、ドイツ語を母語とする人は高齢者ほど多く、年齢が下がるにつれてロシア語を母語とする人が増加している。ドイツ語とロシア語の母語比は20代と30代がほぼ半々で、この世代を境に高齢者はドイツ語を、年少者はロシア語を母語にする人が多い、線対称のグラフになっている。

グラフ :1989年のカザフ共和国におけるドイツ人の母語

 世代ごとの格差を明確にするため、おおよその目安として、次のように分類してみた。強制移住前にドイツ語をほぼ身につけたと思われる55歳以上(強制移住当時14歳以上)を「自治共和国世代」、強制移住と戦後の混乱期に幼少期をすごした55歳から40歳(1949年生まれ)までを「強制移住世代」、そしてこれより下、1958年のドイツ語母語教育導入によって学校でドイツ語教育を受けることができた世代を「カザフスタン世代」とする。なお未成年者は、まだ母語が固まっていないとみなし、考察対象から除外した。

 世代単位でみた場合、年齢ごとの変化が最も激しいのは、強制移住世代である。たしかに自治共和国世代でもドイツ語母語が年齢がさがるにつれて減少しているが、強制移住世代ほど急激ではない。一方、カザフスタン世代は母語率に大きな変化がなく、ほぼ均質な層をなしている。

 これはおおよそ次のように説明できよう。ドイツ人のロシア語母語化という同化現象は、ヴォルガ・ドイツ人自治共和国の頃から少しずつ始まっていたかもしれないが、強制移住による母語教育の機会や家庭でのドイツ語環境の喪失が何にも増して同化現象に拍車をかけた。強制移住世代でも若い年齢層ほどドイツ語母語率が低くなっているように、同化傾向は強制移住以降、年々強まった。ドイツ語母語率の低下傾向は、学校でのドイツ語母語教育再開によってまがりなりにも歯止めをかけることができたものの、戦後、ドイツ語を母語とする自治共和国世代が亡くなり、それに代わってロシア語母語の多いドイツ人(カザフスタン世代)の割合が増加する中で、ドイツ語母語率は急速に低下していった。

 このように戦後の急速なドイツ人のロシア語母語化現象は強制移住と密接な関係があり、強制移住がドイツ人社会に大きな変化をもたらしたことは間違いない。母語問題はあくまでも一例にすぎないが、強制移住は戦後のドイツ人社会に大きな影響を残している。

おわりに

 強制移住の対象はヴォルガ・ドイツ人だけではない。ウクライナやカフカスなど、ソ連のドイツ人のほとんどが強制移住させられ、エカテリーナ2世の布告にはじまるロシアにおけるドイツ人の歴史は大きな転換点を迎えた。ドイツ人たちは元来、入植先の土地土地でそれぞれ独自の文化を発展させてきた。もともとロシア(ソ連)のドイツ人たちは居住地域ごとに社会階層や宗教を異にするいくつかの集団であり、20世紀初頭の時点でもドイツ人としての共通性よりむしろ各地域ごとの独自性の方が顕著であった。しかし強制移住先によってシベリアやカザフスタンで戦後に集団間の混合がすすんだこともあり、ドイツ人の地域差は次第に目立たないものとなっていく(111)

 本稿では強制移住の実態やメカニズムの解明に重点を置いたため、こうしたロシア・ドイツ人の歴史の中で強制移住をどう位置づけるかという点には触れることができなかった。この問題に取り組むためには、当然ながら強制移住以前以後のドイツ人社会の研究が不可欠である。強制移住がドイツ人社会にとって大きな断絶であるのか、もしくはそれ以前の傾向を単に加速したにすぎないのか、今後の研究で詳細な検討が必要であろう。こうした今後の課題を明確にし、さらに強制移住がドイツ人社会にとって大きな転換点であった事実を確認して、本稿を終えることにしたい。

[付記]本稿は1999年度文部省科学研究費補助金による研究成果の一部である。


Summary in Russian