日本における白系ロシア人史の断章
―プーシキン没後100年祭 (1937年、東京)―

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はじめに

 1937年に東京で、在日亡命ロシア人によってプーシキン没後100年祭が開かれた。この出来事は、A. I. マモーノフの『日本におけるプーシキン』(1)でも触れられていない。
 次に示すのは、その予定プログラムである。

プーシキン記念
大詩人死亡の日より100周年を記念して

 日本在住亡命露人協会執行部は、ロシアの天才詩人A. S. プーシキンの死亡の日より100周年を記念して1937年2月11日に以下の行事を催すことをお知らせします。
 午後6時にニコライ堂(神田区駿河台)にてセルギイ日本府主教座下により厳粛なるパニヒダが執り行われます。
 午後7時より基督教青年会館(Y. M. C. A.、神田区)の建物にて、協会執行部によりプーシキン記念の夕べが挙行されます。
夜の部の予定プログラムは以下のとおり

第一部

1. 協会会長P. P. ペトロフ陸軍少将による夕べの開会とプーシキンの肖像画の披露
2. セルギイ府主教座下の開会の辞
3. プーシキンのいくつかの作品の朗読
4. 『ボリス・ゴドゥノーフ』  
  a)チュードフ修道院の僧房  

      ピーメン

S. M. サリャーエフ

      グリゴーリイ

I. L. シシーキン
  b) 噴水の場  

      僭称皇子

ワルシャワ帝室劇場舞台女優A. D. ドルツカーヤ
      マリーナ 日本の有名女優E. A. スラーヴィナ


第二部

1. 「プーシキンとロシアと亡命」 P. P. ペトロフ陸軍少将
2. 『エヴゲーニイ・オネーギン』
  a) タチヤーナの手紙 女優スラーヴィナ朗読 
  b) 庭園の場  
      タチヤーナ 女優スラーヴィナ
      オネーギン 女優ドルツカーヤ
3. パブストによるチャイコフスキイのオペラ『エヴゲーニイ・オネーギン』の編曲

ピアニストV. D. ベロウーソワ演奏
4. 「偉大なロシア作家たちのプーシキン評価」 G. I. チェルトコーフ
  その他の出し物

 夜の部の純益は、東京のA. S. プーシキン名称ロシア初等国民学校の費用と、日本在住亡命露人協会図書室の拡充と協会の文化・啓蒙活動に充てられます。

入場料
大人 1円
生徒 50銭

寄付金は入場の際、また以下の協会事務局でも受け付けます。

日本在住亡命露人協会
東京市麹町区内幸町1丁目5 中林ビルディング  電話 「銀座」(57)3682

 このプログラムは1937年1月に作成され、前もって各亡命ロシア人宅に送付されたし、また東京市神田区のニコライ堂の入り口でも配布されたという(2)。原文はロシア語、最後の2行のみ英語である。以下プログラムの各項目、人名、固有名詞に注釈をつける形で、即ちプーシキン没後100年祭を「のぞき窓」として、在日白系ロシア人の生活の流れを捉えてみたい。

プーシキン没後100年祭

1. 日本在住亡命露人協会

 大詩人死亡の日より100周年 周知のように、ロシアの国民詩人アレクサンドル・セルゲーエヴィチ・プーシキン(1799―1837)は、自分の妻に言い寄るフランス人ダンテスと旧ロシア暦1837年1月27日にペテルブルグのチョールナヤ・レチカ河畔で決闘し、右腹部に致命傷を負って2日間激痛に苦しんだ後、1月29日午後2時45分に息を引き取った(3)。これは新暦で2月10日に当たる。
 日本在住亡命露人協会(4) 『内務省統計報告』の「在留外国人国籍別人員」及び内閣統計局『日本帝国統計年鑑』の「内地在留外国人国籍別」によると、1936年末現在で日本在留の外国人総数は40865人、「舊露西亜」人は男660人、女634人、計1294人。都道府県別のベスト・ファイブは、一位が兵庫の399人(男193人、女206人)、二位が東京の385人(男195人、女190人)、三位が神奈川の161人(男84人、女77人)、四位が北海道の85人(男41人、女45人)、五位が愛知の54人(男28人、女26人)。兵庫県は神戸市、神奈川県は横浜市にそれぞれ集中していたものと思われる。1923年の関東大震災以前は在日ロシア人の半分以上が横浜に居住していたが、震災以後は神戸と東京が彼らの社会の中心地となった(5)。但し、これは正式に登録された人々のみで、それ以外に一時滞在のロシア人も少なからずいた。「舊露西亜」人の中にはタタール系、ユダヤ系の人々も含まれていたはずである。一方「ソヴェート聯邦」人は男144人、女124人の計268人で、うち大使館・公使館人員が14人、領事館人員が6人である(6)
 内務省警保局編『極秘外事警察概況 第3巻 昭和12年』によると、この年日本国内の白系ロシア人の団体としては次のようなものがあった。「日本在住亡命露人協会」、「北海道亡命露国人協会」(7)(1929年設立、函館市、20名)、「神戸露国避難民協会」(8)(1927年設立、神戸市、約10名)、「全露ファシスト党日本支部」(1933年7月設立、東京市本郷区、20名、ハルビンで生まれた右翼団体の支部、国内では他に横浜・九州支部あり)、「白系露西亜人文芸会」(1937年3月21日設立、東京市淀橋区、会員数不明)、「露西亜婦人慈善会」(1932年設立、東京市神田区、15名)、「西比利亜民族協会」(1934年設立、東京市神田区、10名)、「露国正統王朝派同盟(9)日本帝国陸海軍支部軍団」(1931年設立、長崎市、16名)、「神戸露国婦人慈善会」(10)(1933年または1934年設立、神戸市、会員数不明)、「スビヤトウヌ、ペンスキプラボスラーブニヤ教会」(聖ウスペンスキイ教会、1931年設立、神戸市、30名)、「キリスト、ロズゼストバンナ教会」(キリスト生誕教会、1925年設立、神戸市、40名)。「露西亜婦人慈善会」と「神戸露国婦人慈善会」は超党派的団体か。聖ウスペンスキイ教会はハルビン主教の管下、キリスト生誕教会はニコライ正教の管下で布教活動を行っていた。
 日本在留タタール人は約300名だったが、白系ロシア人とは別個の生活を営んでいた。彼らはイスラム教徒で、1928年に「東京回教団」(東京市渋谷区、40名)を結成したが、1934年に「イデル・ウラル・トルコ・タタール文化協会」(東京市渋谷区、15名、他に神戸・名古屋・九州支部あり)が新たに発足し、この二つの団体が対立した状態にあった(11)。「イデル」はタタール語で「ヴォルガ」の意。
 さて「日本在住亡命露人協会」の設立は、1930年7月27日のことである(12)。協会の目的は「合法的手段を以て露国民族解放運動の発展と其実現を可及的援助するにあり」、また「会員、家族の向上並相互扶助」にあった。会員資格は「日本に在住しソ聯国籍を取得せざる十八才以上の男女舊露国人」。活動概況は、「正会員、名誉会員の別を設く、会務は総会及幹部会之を処理す総会は年二回年二、三回演劇音楽会開催収入を維持費に充つ」(13)とある。
 但し、本協会が日本在住亡命ロシア人の最初の組織という訳ではない。1921年の『在留外国人概況』によれば、露国人の団体はこの時点で既に、日本露国人協会(14)、横浜猶太人会、横浜猶太人慈善協会、日本在住露国人委員会(15)の4つ存在した。このうち日本露国人協会は日本在留露国人の救済を目的として1918年7月に組織されたもので、本部は東京のニコライ堂、支部は横浜と神戸に置き、会員は75名。一方、日本在住露国人委員会は、1921年5月横浜市山手町に「露国ヲ復讐シ過激派ヲ掃蕩スル目的ヲ以テ組織」されたものであるが、その後幹部間の内訌が生じて脱会する者があり、当時は形骸化していた。会員は約30名で、元露帝侍従長ミロスラフスキイが会を統率していた(16)。初代会長は露国陸軍中将Yu. D. ロマノフスキイ。露字新聞『ロシアの事業』をグトマンから引き継いで発行し、1920年4月からは邦字新聞『未来の露西亜』と改め、事務所を麹町区内幸町1−5、即ち後の日本在住亡命露人協会の所在地に移して発行した。同年6月10日発行の第13号から、『ロシアの事業』は日本在住露国人委員会の機関紙になった。月4回の発行で、編集長はV. V. シェルストビートフである(17)。ロマノフスキイは1921年5月に事務所を閉鎖、本紙を廃刊し、フランスに去った。ミロスラフスキイは二代目会長である。彼は委員会の事務所を横浜市山手町に移したが、名のみの会長にすぎなかった。同年ウラヂヴォストークにメルクーロフ政府が樹立されると、同政府に好意を持たないミロスラフスキイらは脱会し、委員会の目的はメルクーロフ政府援助となった。そして三代目会長に横浜市山手町居住の元オムスク政府商工大臣アレクサンドル・オコロコフが就任した。当時の会員は約10名。メルクーロフ政府が崩壊すると、委員会の存在意義がなくなり、1923年の関東大震災で事務所が焼失して会員は四散した(18)
 次に「日本在住亡命露人協会」の歩みを追ってみよう。『昭和六年中ニ於ケル外事警察概要』によると、同年1月8日に神田区小川町で、「東京白系露国人の親睦結束を計る為」東京露人倶楽部が開設された。この年には既に日本在住亡命露人協会が成立していた訳だが、1月14日に東京露人倶楽部で定例総会が開かれた。会長はチェルトコーフ、幹事は元陸軍中佐シネウルである(19)。ニコライ・シネウル(1877年5月5日−?)は横浜市中区本牧元町289番地に居住し、ライジングサン石油株式会社に勤めていた(20)
 『昭和七年中に於ける外事警察概要』によると、日本在住亡命露人協会の会員は43(45?)名。事務所は麹町区内幸町1−5[現在は港区新橋の近く]中村[中林]ビル内におかれていた。この年の1月10日に総会を開き、沿海州を脱出して稚内に漂着したロシア人に救援金を支出することを決めた。この事件については、倉田有佳氏の論文「1930年代はじめのソ連極東から日本への脱出・漂着者」(21)に詳しい。救援運動は9月以降も続く。2月22日には講演会を開催し、露国軍事連盟日本代表シネウルが「未来の戦争」という講演をした。また満州国水害義捐金を在ハルビン4団体に送金した。なおこの時点では本協会とは別に「露国軍事連盟」なる組織が存在し、会員は約30名、「旧騎兵少佐[コンスタンチン・]シネウル東京代表たるも振はず」(22)と括弧書きされている。
 『昭和八年中に於ける外事警察概要』によると、日本在住亡命露人協会の所在地は、「赤坂区檜町2」となっている。1月8日に東京基督教青年会館でキリスト降誕祭を施行。2月5日に総会を開催。チェルトコーフは「イリニツカヤ放火事件」[詳細不明]に関連して会長辞任を申し出、新会長にシネウルが就任した。他に書記長1名、幹部委員5名、同候補2名が決定。3月10日のマルクス記念日には同会館でマルクス記念会反対集会を開催した。脱出ロシア人の救援活動は引き続き行った。4月2日に同会館で反共産主義講演会を開催。6月11日には同会館で露国文化記念祭を挙行した。同月25日には「日本在住亡命露人協会婦人部」を置くことを決め、役員を選出した。27日には東北地方震災救済基金募集のための慈善音楽会とバザーを開催。7月12日には婦人部が婦人と子供のピクニックを開催した。同月16日には皇帝ニコライの追悼式を開催した。極東在住旧露国人政治団体の組織図は実に複雑多岐にわたっている。大別して7つの団体に分かれるが、そのひとつ「エミグラント露西亜亡命露人協会」の下部組織がハルビン、奉天、日本、長春、上海の5地域にあり、その日本に日本在住亡命露人協会が神戸避難民協会、北海道亡命露国人協会とともに属していた(23)
 1年おいて1935年度には、事務所は麹町区内幸町1−5中林ビル内に戻った。会員数は約70名。会長はペトロフ、他に幹部会員が6名、監査会員が5名、書記長が1名。この年は5回会合を開いている。3月1日には『亡命露人協会会報』第1号を100部印刷、配布した。全露ファシスト党が本協会幹部を糾弾するという事件があったことも判明する(24)
 1936年度は会長は替わらず、副会長がチェルトコーフ、サリャーエフ、ワネフの3人になっている。全露ファシスト党日本支部が開設されてから、会員のなかでこちらに移る者がいたことが判明する。定例総会が2月2日と8月30日に基督教青年会館で開かれた。また6月24日には『亡命露人協会会報』を発行した。会報はソ連邦の新憲法、いわゆる「スターリン憲法」の制定を報じ、これを批判する内容になっている。なお8月9日に北海道亡命露人協会は総会を開いて、日本在住亡命露人協会への併合を議決した。後者はこれを歓迎し、新たに東京協会の支部として存在を認め、ズヴェーレフを代表に任命した(25)
 1937年、即ちプーシキン100年祭が開催された年度は、2月21日に基督教青年会館で定例総会を開き、会長と書記は替わらず、理事に7名、理事候補2名、監督員長1名、監督員2名、書記1名が選出された。5月1日には経費節約のため協会の事務所を下谷区御徒町1−8黒田ビル内に移転した。6月13日には帝国教育会館で本協会は露西亜人小学校、全露ファッショ党東京支部、露西亜人文芸会と協力して「露西亜文化祭」を開催した。これら4「団体は今後合同して露西亜人倶楽部を創設せんとするの計画あり」という一節は興味深い。9月11日には支那事変の勃発に関し、会員から献金を募って恤兵金として警視庁に献納したい旨申し出、それは陸軍省に回付された。戦争の足音は、日本に住むロシア人にも確実に届いていたのである。また11月7日には基督教青年会館で「ロシア革命二十周年記念講演会」が開催された。もちろん反革命の立場からの講演会であっただろう。
 ちなみに「白系露西亜人文芸会」はこの年の3月21日に銀座の森永キャンデーストア2階で発会式が開かれ、会長に日本学者M. P. グリゴーリエフ、理事にグリゴーリエフ[兼任]、A. A. ワノフスキイ(早稲田大学講師)、A. D. ロズヴァドフスカヤ、ドンブローワ、シュヴェーツ、理事補欠候補者に2名、監査員1名、書記3名が選ばれた。仮事務所は、淀橋区下落合4−2015のグリゴーリエフ方におかれた。会の趣旨、目的は、「旧露西亜及日本の文学、演劇、美術、音楽等に関する智識を啓発し会員相互の親睦扶助を計り文化的教養のレベルを上げ悪趣味の流れる傾向より高尚なる趣味へ転換せしむ」ことにあり、また会の活動範囲は、「会員の定例会の外一般に演劇、講演、音楽会、読書会を公開し会員に対し露文印刷会報を発行す」ることだった。事実この年の会の活動は盛んで、4月4日と10月17日に講演会が開催され、5月4日には演劇会が開かれた。翌1938年には3月4日に帝国教育会館で露西亜人小学校資金調達のため会費1円を徴収し、また4月3日には露西亜人小学校で第一回総会を開催した(26)
 1938年度は3月27日に基督教青年会館で定例総会を開催した(27)
 1939年度は3月5日に基督教青年会館で年次定期総会を開催し、樺太、千葉、青森、北海道、盛岡等から28名が出席した。チェルトコーフが理事を辞任し、他の執行部は全員留任した(28)。支那事変勃発後、本協会はしばしば舞踏会を開催したり、一般の白系ロシア人から国防献金を醵集したりして、日本国の銃後の後援に協力したという。戦時体制に白系ロシア人も確実に組み入れられていったこと、また彼らに対する視察、内偵が厳しくなったことが本記録から分かる(29)
 1940年度は5月18日に横浜のホテル「ニューグランド」で舞踏会を開催した。これには仏、英、独、諾国等の外国人を含めて約250名の入場者があった。純益金750円のうち300円を陸海軍将士の傷病兵慰問として寄贈し、残額は貧民救済と学童資金に充てた(30)
 1年おいて1942年度は、3月2日に役員会を開いて、事業部として化粧品組合を結成することを決めた。5月7日と6月10日にも役員会を開催。6月10日には露西亜人小学校の経費の不足分600円を一部協会負担、一部は寄付金で補填することに決めた(31)。本協会が少なくとも1942年までは存続していたことが分かる。

2. 1937年2月11日

 1937年 1937年は、ソ連においても日本においても多事多難な年だった。
 ソ連では1930年代後半は、「大テロル」の嵐が吹き荒れた時代である。その最高潮が1937年で、反革命罪で有罪とされた者の数は、この年だけで約79万人に上る。1936年1月に「チーストカ(粛清)」、即ち党員の資格点検運動が開始された。8月に第1次モスクワ裁判が始まり、ジノーヴィエフ、カーメネフら16名が処刑された。9月には内務人民委員ヤゴダが解任され、後任にエジョフが就任。この人物がこの後約2年間にわたって「エジョフシチナ」と呼ばれる「大テロル」を陣頭指揮することになる。11月に第8回全連邦ソビエト大会が開かれ、新憲法、いわゆる「スターリン憲法」が採択された。1937年1月に第2次モスクワ裁判が始まり、ピャタコーフら13人に死刑判決が下った。2月には経済官庁の最高指導者オルジョニキーゼが自殺。同月から翌月にかけて行われた党中央委員会総会で、ブハーリン、ルィコフが党から除名された。この総会が「大テロル」の絶頂を画すものと見なされている。6月にはトゥハチェフスキイ元帥ら8将軍が秘密裁判で処刑された。1930年代における刑事弾圧による死者は、極めて不確定な数字ながら150−300万人、そのうち正式に死刑になったのは100万人以下、また1939年の被拘禁者の総計は約296万人と目されている(32)
 このような時代にソ連国内の多くの東洋学者が弾圧された。そのリストは、「弾圧された東洋学 1920−1950年代に弾圧を受けた東洋学者たち」と題して1990年の『アジア、アフリカの諸問題』誌第4、5号に掲載された(33)。「一般に1930年代には、日本研究者であることは、ほかのあらゆる専門分野の東洋研究者よりずっと危険なことでした。」とミハイロワ女史が書いている。女史によれば、この時代に40人以上の日本研究者が逮捕され、後に獄死したり、強制収容所に送られたという。レニングラード関係ではネフスキイ、コンラド、D. ポズネーエフ、コルパクチー、クレイツェル、ジューコフ、リヴォーワ=ヨッフェ、グルースキナなど16人の名を女史は挙げている(34)。ウラヂヴォストークでもこの年の11月にN. P. オヴィーヂエフ、ゾーチク・マトヴェーエフなど極東大学の東洋学者たちがいっせいに逮捕され、その多くが翌年に銃殺された。極東大学は1939年に閉鎖され、その再興は1956年のことである(35)。これ以外にもロマン・キム、クラスノシチョーコフ、コレンコ、コンスタンチーノフ、スパルヴィン、ピリニャーク、ポリワーノフ、マツォーキン、レイフェルトといった来日ロシア人が、帰国後「日本のスパイ」などの容疑で逮捕、銃殺、もしくは弾圧されたのである。
 一方日本でも1936年には2・26事件が起こった。皇道派青年将校が1400余人の部隊を率いて挙兵し、内大臣斎藤実、蔵相高橋是清、教育総監渡辺錠太郎らを殺害、永田町一帯を占拠して、国家改造を要求した事件である。これは鎮圧されたが、3月に内務省がメーデー禁止を通達。8月には首相、外相、陸相、海相、蔵相の5相会議で「国策の基準」を決定し、大陸、南方への進出と軍備充実を定めた。11月に日独防共協定がベルリンで調印。1937年1月には政党と軍部の対立が激化した。7月7日深夜に蘆溝橋で日中両軍が衝突し、これが日中戦争の発端になった。10月には国民精神総動員中央連盟が結成される。12月には日本軍が南京を占領し、大虐殺事件を起こした。中国軍民の死者は約20万に上った。
 日本在住のロシア人や、日本のロシア、ソ連研究者、関係者にとっても、これは極めて困難な時代だった。後にV. D. ブブノワ女史は戦時下の生活を回想して、「わたし達に取つてあの戦争は、それ[昭和16年12月8日−沢田]より五年も早く既に一九三六(昭和十一)年の二月二十六日、いわゆる『二・二六事件』と同時にはじまつたのです。」(36)と述べている。即ち、事件直後から自由に外出することを禁じられ、私服警官の執拗な監視、尾行を受けることになったのである。バレリーナのエレーナ・パーヴロワは日本に帰化し、「霧島エリ子」と名乗ることを余儀なくされた(37)。もうひとりのバレリーナ、オリガ・サファイアは、同年10月20日に「青山みどり」の名で日本の初舞台に立った(38)。神戸ではモロゾフ父子が、神戸モロゾフ製菓株式会社との間の屈辱的な和解条件を呑まされていた(39)
 同じく2・26事件でソ連大使館に情報部通訳として勤務する井上満が検挙され、軍機保護法違反で有罪となった。彼とその妻ちとせは既に3年前から外事警察によって監視されていた(40)。井上は以後2年以上を獄中で過ごし、健康を害して終生痩身となった(41)。また嶋野三郎も事件に関与したかどで拘束された(42)。1936年3月に日本ハリストス正教会の瀬沼恪三郎がソ連のスパイ容疑で逮捕、7週間獄に入れられた。この折の体験を瀬沼は翌年「幽囚追想記」にまとめている(43)。7月には露文図書を販売する「ナウカ」社の社主大竹博吉が軍機保護法違反で検挙され、同社は閉鎖、同社発行の左翼系雑誌『社会評論』とプロレタリア文学雑誌『文学評論』(1934年3月−1936年8月)は廃刊になった(44)。第二次ナウカ社の発足は戦後、1945年10月末のことである。1937年3月に早稲田大学露文科が閉鎖された。
 2月11日 前述のように、プーシキンの命日は新暦で2月10日になる。10日には神戸でも亡命ロシア人によってプーシキン没後100年祭が挙行された。大ホールを借り切り、そこにロシア人のみならず多数の外国人、そして日本の社会や行政機関を代表する人々も集まった。大阪外国語学校の傭外国人教師 A. L. ロマーエフが詩人の生涯と創作について長大な報告を行い、N. P. マトヴェーエフが「プーシキンについての言葉」という講演を行った。次いでプーシキンの詩の朗読、独唱、ロシア人合唱団の歌、そして『ボリス・ゴドゥノーフ』から「チュードフ修道院の僧房」と「居酒屋」の場面が上演された(45)。ロシア人のアマチュア合唱団はこれがデビュー公演となった(46)。芝居の出演者は不明である。
 翌11日は日本各地で紀元節の祝典が開かれた。永井荷風の日記『断腸亭日乗』の当日の記述を見ると、朝刊の天気予報(47)どおり朝から曇り、夜になって雨が降り出したことが分かる(48)。小雨のなかをロシア人たちが三々五々集まってくる様子が想像される。

3. ニコライ堂とセルギイ府主教

 ニコライ堂 ニコライ堂、正式には東京ハリストス復活大聖堂は、ニコライ主教(俗名イヴァン・ドミートリエヴィチ・カサートキン)によって7年の歳月と24万円の巨費をかけて建設され、1891年3月に完成した。だが1923年9月1日に関東大震災によって倒壊。1927年9月1日から東京美術学校(現東京芸術大学美術学部)の岡田信一郎の設計下に復興工事が始まり、1929年12月に工事が終了した。成聖式は12月15日のことである。従って、これは再建からまだ7年あまりの時期ということになる。
 セルギイ日本府主教 セルギイ(1871年6月7日、ノヴゴロド近傍グーズィ村−1945年8月10日、東京)は、俗名セルゲイ・アレクセーエヴィチ・チホミーロフ。1896年にサンクト・ペテルブルグ神学大学を卒業。その前年、在学中に修道士となる。1905年に神学博士となり、ヤンブルグ市の主教職に叙聖。同年から1908年までサンクト・ペテルブルグ神学大学総長をつとめた(49)。1908年6月に来日し、1921年に日本大主教に叙せられる(50)。1923年の関東大震災は、正教会にとって1917年のロシア革命に次ぐ第二の潰滅的な打撃だった。上記ニコライ堂の復興は、募金のための日本各地や朝鮮への47回に及ぶ巡回などセルギイの身を粉にした奮闘と、日本国内の日露両国人の信者の醵金12万7千円によって実現したのである(51)
 1931年にセルギイは府主教に挙げられ、日本ハリストス正教会は府主教管区に上ったが、これには問題があった。1925年に総主教チーホンが死去した後、ロシア正教会を担った総主教代行セルギイ(ストラゴロツキイ)は、ソビエト政権との妥協によって組織の温存を図ろうとしたために、在外の正教徒たちの覚えが悪かった。おまけに彼は一時期日本に派遣されてきたのだが、期待された働きもないまま帰国し、日本人信徒たちに好ましからぬ印象を与えていた。この総主教代行に日本の大主教セルギイは親近感を抱いていたようで、またこの総主教代行によって彼は府主教に任ぜられたのである。わがセルギイは「親ソ」的な発言を繰り返し、日本在住亡命露人協会に対して批判的な態度をとった(52)。このような点が、わがセルギイと日本国内の日本人、ロシア人信者との間に懸隔を生むこととなった(53)。やがて両者の対立は決定的なものとなり、反セルギイの機運が起こった(54)。後述のロシア初等国民学校の前身にあたる在京露西亜国民学校は、セルギイの尽力により1929年9月に開校したが、これがわずか2年後に閉鎖されたのもこの点に起因する(55)。1932年7月の時点で、京浜地方在住の白系ロシア人がセルギイ排斥運動を起こして、横浜に新たな正教会を設立しようと運動したが、資金不足のため実現できなかったことが判明している(56)
 1940年には日本で「宗教団体法」が施行され、外国人が宗教団体の首長であることを禁じられた。セルギイはロシア人としてとどまって「統理」の地位を退いた。翌年2月12日に彼は教会を出て「赤坂帝国アパート」に移転し、これによって日本の正教会とロシア人聖職者との関係は断たれた。1945年4月にセルギイはスパイ容疑で逮捕された。拘留は40日に及び、拷問も受けた。同年8月10日、即ち第二次世界大戦終戦の5日前に、東京・板橋の6畳1間の粗末なアパートで誰にも看取られずに息を引き取った。遺骸は大八車に乗せてニコライ堂へ、またそこから墓地へと運ばれた(57)。大八車を引いたのは、現「インターナショナル・クリニック」(東京都港区)の医師 E. アクショーノフ氏だという(58)
 プーシキン祭の時点でセルギイは66歳である。主な著作には次のようなものがある。

 神学博士論文「15−16世紀におけるノヴゴロド市の各聖堂、各修道院及び各教区の歴史」 ペテルブルグ神学大学 1905年(59)
 三井道朗(ママ)口訳、鈴木透筆記『大主教ニコライ師永眠前後』 日本正教会事務所、1913年、109頁。柴山準行編『大主教ニコライ師事蹟』に所収、日本ハリストス正教会総務局、1936年、1−135頁
 『東京復活大聖堂の成聖式 十字架を通して平和へ』 1930年 32頁(60)
 『十二位一体の聖使徒 使徒ペテロの優位の問題によせて』 パリ、YMCAプレス、1935年、XI+409頁(61)

 『十二位一体の聖使徒 使徒ペテロの優位の問題によせて』は、カトリック教会のローマ教座優越説に対する反駁の書である。「本書は、聖公會の神学博士モツト氏の好意により、パリ基督教青年會館附属印刷所で無料出版」したものだという。1937年の時点で瀬沼恪三郎による邦訳が完成していたが、それが出版されたかどうかは不明である(62)
 パニヒダ 「パニヒダ」とは死者の追悼祈祷のことである。当日はセルギイ府主教とイグナーチイ高久義雄輔祭によって執り行われた(63)
 基督教青年会館 (Y. M. C. A.) 東京基督教青年会館のこと。「YMCA」はYoung Men's Christian Association「キリスト教青年会」の略。キリスト教の信仰にもとづいて、青年の人間教育と社会奉仕を目的とする世界的な団体で、1844年にロンドンで結成された。日本では1880年東京府京橋区に創立された東京キリスト教青年会が最初で、同会は1890年に神田区仲猿楽町7番地に移転。次いで1894年に同区美土代町3丁目3番地(64)に「東京基督教青年会館」を建設してこちらに移転した。敷地は約500坪、赤煉瓦3階建ての壮麗な会館は「神田の青年会館」として市民に親しまれたが、1923年の関東大震災で倒壊。1929年に新しい会館が竣工した(65)。東京基督教青年会の機関誌『東京青年』の広告記事によると、新会館は6階建てで、4階部分はホステルに充てられていた(66)。前に見たように、日本在住亡命露人協会の総会や催し物は、ほぼ毎回ここを使用していた。YMCAはそもそも信徒による超教派的な組織であり、世界各地で亡命系子弟達の文化活動をも幅広く支援していた。ハルビン支部がその代表的な例である(67)。東京でも恐らく白系ロシア人のなかにYMCA会員がいて、そういう人たちを通じて会場を借用していたのだろう。新会館完成後間もない時期であり、また会館は中小集会室を多く備えていたので、ロシア人たちにとってはきわめて快適、便利だっただろう。ニコライ堂から徒歩で10分ほどの距離である。


4. P. P. ペトロフ

 P. P. ペトロフ パーヴェル・ペトローヴィチ・ペトロフ(1882年1月20日、プスコフ県−1967年、サンフランシスコ)(68)。コルチャーク軍の元参謀本部陸軍少将で露国軍事連盟極東支部参謀長。1903年にペトロフは志願兵として第93イルクーツク歩兵連隊に入隊。1906年にサンクト・ペテルブルグ士官学校を卒業後、第3フィンランド連隊陸軍少尉となる。1913年に帝室ニコライ・アカデミーを優秀な成績で卒業し、ヴィリノ軍管区で勤務。第一次世界大戦に参謀部員として東プロシア、ポーランド、ガリツィア方面に従軍。1917年に陸軍中佐となり、武勲を立てて六つの賞を受賞する。1918年にサマーラで「反革命怠業取締非常委員会」に捕縛されたが、チェコスロヴァキア軍団の反乱により解放される。その後沿ヴォルガ地方戦線司令部作戦部門司令官、ウラルと沿ウラル地方で第6ウラル軍団司令部司令官と西方軍への調達司令官助手、シベリアではコルニーロフ将軍の第4狙撃師団司令官をつとめた。まもなく陸軍少将となり、カッペリ将軍に代わって第3軍の指揮官に任命されるが(1919年12月付のコルチャークの指令)、指揮は執らなかった。クラスノヤールスクからウファの狙撃兵を指揮し、ザバイカル地方では極東軍への調達司令官となる(ヴォイツェホーフスキイ、ロフヴィツキイ、ヴェルジュビーツキイ将軍のもとで)。
 日本との関わりで興味深いのは、ペトロフが「ロシアの金塊」事件に関与したことだ。即ち、1919年11月のオムスク陥落の時点でコルチャーク軍後方勤務部隊司令官だったペトロフは、金塊63箱分を積んだ列車で新妻オリガ・ペトローヴナを連れてオムスクを脱出した。イルクーツク・チタ間でセミョーノフ軍に金塊を没収されるが、33箱を奪還してチタへと逃れる。だがそのうち11箱は食糧や機関車の燃料と交換した。かくして1920年夏にペトロフらを乗せた列車は、ロシア領ザバイカルと中国東北部の国境に位置する満州里駅までやって来た。そして同年11月22日にこの駅で、セミョーノフ軍の極東軍司令官G. A. ヴェルジュビーツキイは、20箱分の金貨と2箱分の金塊総額125万ルーブル分を中国人に略奪されることを恐れて、ペトロフを通じて日本特務機関隊長の井染禄朗陸軍中佐(69)に金貨と金塊の一時的な保管を託した。その際ペトロフは、自分の要求もしくは自分の委任状があればただちに金貨と金塊を返却するという井染中佐の受領証を受け取った。その受領証は、ペトロフの子息によれば、「25×15センチの一枚の紙切れだった」(70)という。しかるに翌月にペトロフとヴェルジュビーツキイが井染中佐に繰り返し返却を求めたにもかかわらず、中佐はさまざまな口実のもとに返却しようとせず、金塊の行方を告げずに満州へと去ってしまった。翌1921年12月7日に全ロシア農民同盟代理人K. I. スラヴィーンスキイはペトロフと契約を結び、後者は極東軍の軍備調達の支払いのためにこの領収証、即ち金塊に対する全権利を前者に委ねた。他方、1922年2月7日に大連で自治シベリア代議員組織同盟は、新たに資金を求めて米国に渡ろうとしているセミョーノフと契約を結んだ。後者はその管轄下にあるすべてのものを前者に委ねるという内容のものだったが、その後セミョーノフは契約書の署名を拒み、同年7月に日本に保管されている金に対する全権利を黒木親慶に手渡した。黒木は元陸軍少佐で、1918年のシベリア出兵の際はセミョーノフ軍の顧問となり、ザバイカル方面で赤衛軍と戦った人物である(71)。結局セミョーノフは米国への移住が実現せず、長崎に移った。以後日露両国人入り乱れての金塊争奪戦が展開されたのである(72)
 さてペトロフはディテリフス将軍のもとで極東軍司令部司令官をつとめた。1922年にウラヂヴォストークにたどり着く。その後ノヴォ・キエフカ、琿春経由で沿海州を脱出して中国へ逃れ、白衛軍とその家族たちの収容について中国官憲と交渉にあたった。奉天では全ロシア軍統合本部(ROVS) 支部長をつとめた(73)。ディテリフスの指令により(74)、ペトロフは1932年9月4日に大連から長崎に渡来し、山口、神戸経由で入京。シネウル、東京回教徒団長クルバンガリーらと来往した。ペトロフの渡来用務は、日本の特高警察の記録によれば、「日本在住軍事連盟実状調査及連絡、将来の対ソ運動の展開方法等の打合せ」にあった(75)。極東在住旧露国人政治団体の組織図は、前述のように大別して7つの団体に分かれる。そのひとつに「露国軍事連盟」があり、日本の露国軍事連盟は11都市にある下部組織のひとつとしてこれに属していた。翌1933年も露国軍事連盟日本支部は存続し、ペトロフの名前が挙がっている(76)。だが彼の来日の真の目的は金塊探しだった。ペトロフは日本政府と関東軍司令部を相手取って、金塊の白衛軍への返還を求める民事訴訟を日本の裁判所で起こしたのである。ペトロフ一家は来日後「二・二六事件」まで横浜の豪邸に女中をおいて暮らしていたが、これは訴訟の結果に望みを抱く陸軍大将荒木貞夫の周辺から金が出ていたためだという。だがこの訴訟は8年後の1940年に却下された(77)
 1934年から1935年にかけて日本ハリストス正教会の機関誌『正教時報』の「横浜正教会会堂建築費献金芳名」欄にペトロフと夫人の名前が繰り返し挙がっている(78)。1935年にペトロフは日本在住亡命露人協会の会長になった。従って「露国軍事連盟」日本支部は前年頃に消滅し、ペトロフは日本在住亡命露人協会の方に移ったのだろう。以後彼は本協会の会長をつとめ続けた。1936年8月に開かれた協会の講演会で、彼は「日本在住亡命露人の現状」というテーマで講演をした。「スターリン憲法」に謳われた反宗教運動の停止が偽りであることを指摘し、ロシア避難民の団結を呼びかけたものである。1937年4月4日にはペトロフは基督教青年会館で「露西亜革命初期一ケ月間の状況」と題する講演を行った。翌1938年1月12日にペトロフ会長は全会員に対し「会員諸君に與ふるの辞」と題する挨拶状を発表し、ボリシェヴィキ政府と日本国の関係悪化のなかで会員が「協力一致各自の小部署に精進」するよう呼びかけた。神奈川県警察部外事課の『支那事変下ニ於ケル外事警察ノ一般情況』(1939年3月末)によると、検挙取り調べ、または容疑行動のあった者として、ペトロフの名が挙がっている。当時彼は横浜市中区鷺山15番地にいた(79)。ペトロフは1933年9月から7年間ロシア国民初等学校の校長をもつとめた。
 1947年にペトロフは家族とともにサンフランシスコへ移住した(80)。かの地では1948−1955年にモンテレーの軍学校でロシア語を教え、1953−1962年にはサンフランシスコの大戦争古兵協会会長をつとめた(81)。前記トルシチョーフ氏とペトロフの子息の話によると、ペトロフの妻はペテルブルグ貴族女学院の出で、前線で看護婦として働き、そこで二人は出会った。息子は5人おり、うち4人はアメリカへ行ったが、1人だけはインドへ行った。ペトロフの身分は貴族だったという(82)
 プーシキン祭の時点でペトロフは55歳である。著作に次のものがある。

 『ヴォルガ河から太平洋まで白衛軍の隊列に加わって 1918−1922年』(回想記) リガ、M. ディドコーフスキイ編、1930年、253+3頁 略図付(83)
 「N. F. フョードロフとその教義」 日本在住亡命露人協会編『東洋にて 東洋諸民族の文化の諸問題を扱った非定期文集』第1号所収、大衆堂書店、1935年、85−101頁(84)
 『帝政ロシアの崩壊 2月革命から20年 ロシア革命の歴史より』 ハルビン、M. V. ザイツェフ出版、(日本在住亡命露人協会の援助により出版)、1938年、158頁(85)

5. 亡命ロシア人芸術家たち

 プーシキンの肖像画 プログラムにはトロピーニンによるプーシキンの肖像画が印刷されている。これが、プログラムに「第一部 1. . . . プーシキンの肖像画の披露」とあるその肖像画のことだろう。ワシーリイ・アンドレーエヴィチ・トロピーニンは、農奴出身の画家。1799−1804年に聴講生として美術アカデミーで学ぶ。1823年に農奴身分から解放され、翌年アカデミー会員となった。本肖像画は、1827年初頭に友人S. A. ソボレフスキイに贈るためプーシキンの注文によってモスクワで描かれたものである(86)。その後1909年に画家でありコレクターであるI. S. オストロウーホフが、6000ルーブルで購入してトレチヤコフ美術館に寄贈し、1937年まで同館に所蔵されていたが、現在はペテルブルグの国立プーシキン博物館に保管されているという(87)
 注目すべきは、プログラムの肖像画の右下部分に「トロピーニンの肖像画より イリヤ・レーピン、1913年2月15日」という書き込みがあることだ。即ちこれは、イリヤ・エフィーモヴィチ・レーピンが書き上げた複製画なのである。I. E. グラバーリの労作『イリヤ・エフィーモヴィチ・レーピン』の初版の記述によると、レーピンはナイフで切りつけられた自分の絵「イワン雷帝とその子イワン」を修復するため、1913年2月にペナーティからモスクワにやって来た。そしてこのモスクワ来訪時に彼は木炭で複製画を書き上げた。それはオストロウーホフに贈られ、彼からトレチヤコフ美術館に寄贈されたという(88)。だがトレチヤコフ美術館の移管絵画リスト中にこの絵はなく、美術館への寄贈の事実は疑わしい(89)。この複製画は、現在ヘルシンキ大学スラヴ図書館の館長室にかかっているという(90)。東京でこの日披露されたレーピンの複製画がオリジナルなのか、模写なのか、あるいは複製なのかは不明である。ちなみに1937年にプラハで開催されたプーシキン祭のプログラムにも、レーピンの複製画が印刷されているという(91)
 プーシキンのいくつかの作品の朗読 恐らく、後述のプーシキン名称ロシア国民初等学校の生徒たちによって行われたのだろう。ワノフスキイによると、ロシアの伝統的宗教行事を本学校で祝う際に、少女たちがネクラーソフやプーシキンの詩をとても上手に朗読したという(92)
 『ボリス・ゴドゥノーフのチュードフ修道院の僧房 チュードフ修道院はモスクワのクレムリン内にあった。1918年に廃院となる。神父ピーメンがグリゴーリイに、皇子ディミートリイを殺害したのはボリス・ゴドゥノーフであることを告げる場面である。
 S. M. サリャーエフ ステパン・マクシーモヴィチ・サリャーエフ(1885−?)は日本在住亡命露人協会の常任書記で、定例総会の司会などをつとめた。彼は事務所内に起居していた。日本語もできたようである(93)
 I. L. シシーキン 日本在住亡命露人協会の1935年度の監査会員にシシーキン外5名の名が挙がっている(94)
 噴水の場 正しくは「夜。庭園。噴水」の場。僭称皇子となったグリゴーリイが、ポーランド名門貴族の娘マリーナと密会する場面である。彼はマリーナへの愛ゆえに自分の身分を明かしてしまうが、彼女はその告白を冷たく退け、あくまで皇子たることを要求する。
 A. D. ドルツカーヤ 本名アンナ・ヂミートリエヴナ・ロズヴァドフスカヤ(1882年1月1日、モスクワ−1966年6月18日、群馬県吾妻郡草津温泉町)。旧姓ドルツカーヤ=ソコリニーツカヤ。舞台女優。モスクワのマールィ劇場で演劇を学ぶ。芸名はアンナ・スラーヴィナ。1898年頃、軽騎兵将校A. A. オブリーツキイ=ドーナルと結婚したが、1904−05年頃に離婚。1906年末にポーランド人のロズヴァドフスキ伯爵と再婚するが、夫は第一次世界大戦に赴き行方不明となる。1917年にハルビンで二人の娘エカテリーナ、ニーナと日本の女流奇術師松旭斎天勝一座に加わって来日。やがて「スラーヴィナ劇団」を結成して日本全国を巡業し、また小山内薫が校長をつとめる「松竹キネマ合名社」の俳優学校で教鞭を執った。太郎冠者(95)との合作に、『コメディー 薔薇の答』(96)がある。前記「白系露西亜人文芸会」では理事のひとりに選ばれた。第二次世界大戦終了後は発病した孫とともに群馬県吾妻郡草津温泉町に移り住み、そこで没した。
 「ワルシャワ帝室劇場舞台女優」とあるのは事実で、1900年代の後半頃、ドルツカーヤはワルシャワのザクセン帝室劇場の舞台に立っていた。上記サリャーエフ、シシーキンともに演劇は素人で、彼女が演技の指導に当たった。プーシキン祭の時点で55歳である。
 E. A. スラーヴィナ 本名エカテリーナ・アルカーヂエヴナ・オブリーツカヤ=ドーナル(1900年11月30日、カルーガ−1949年12月21日、ハリウッド)。女優で、芸名はキティー・スラーヴィナ。アンナ・ドルツカーヤとオブリーツキイ=ドーナルの間に生まれる。1917年に母と妹と来日。藤間流の舞踊の稽古に励み外国人最初の舞踊の名取になる一方、「スラーヴィナ劇団」の看板女優をつとめる。また1920年に「松竹キネマ合名社」に入社し、1923年の関東大震災まで5本の映画に出演して、同社のトップ女優となる。日本に亡命した元プレオブラジェンスキイ連隊近衛佐官M. A. トルシチョーフと1927年に結婚するが、1935年頃に離婚。1937年にイギリス人の版画家ブラウンと再婚。1940年に「ゴールデン・ゲート国際博覧会」で舞踊を披露するため夫とサンフランシスコへ渡るが、太平洋戦争勃発のためアメリカに永住した。
 プーシキン祭以外にもアンナとエカテリーナは、白系ロシア人の文化・芸術関係の催し物で中心的役割を果たし、異国で暮らす同胞にしばしの慰籍を提供した。エカテリーナはプーシキン祭の時点で37歳である。
 なおトルシチョーフとの間の一子コンスタンチン・ミハイロヴィチ・トルシチョーフ(1928年9月9日、神戸−)は第二次世界大戦終了後発病し、草津温泉町に移り住んだ。彼は詩人となり、2冊の日本語詩集『詩集 ぼくのロシア』(97)、『うたのあしあと』(98)が刊行されている(99)
 『エヴゲーニイ・オネーギン』の庭園の場 熱烈な恋文を寄こしたタチヤーナに対し、オネーギンが冷たく、説教まじりに答える場面である。
 パブスト パーヴェル・アウグストヴィチ・パブスト(1854−1897)。ロシア在住のドイツ人ピアニスト、作曲家にして教育者。外国でのコンサートで名声を得、1879年にN. G. ルビンシュテインによってモスクワ音楽院の教師に招聘され、1881年に教授となった。彼の作品中ではチャイコフスキーのオペラ『エヴゲーニイ・オネーギン』の編曲が殊に有名である(100)
 V. D. ベロウーソワ 正しくは、ワレンチーナ・ワシーリエヴナ・ベロウーソワ(1913年、ノヴォシビルスク−1998年6月2日、ノヴォシビルスク)。父は軍人で後に銀行員となり、ハルビンで没する。母はノヴォシビルスクで没。ワレンチーナはハルビン音楽専門学校でピアノを学ぶ。1934年に卒業後同校の教官となり、同時にコンサートマスターとなるが、1935年に同校は閉鎖。同年、この地に演奏旅行に来たピアニストにして東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部)教授レオ・シロタに見いだされ、その年の秋に来日。まもなく弟子たちができ、ロシア国民初等学校でもピアノを教えた。またソプラノ歌手貝島百合子と日本国内を巡業し、ピアノ伴奏をつとめた。1936年には東京に来演したシャリャーピンと知り合い、これは彼女にとって終生の思い出となった。東京音楽学校にはシロタの指導のもとに5年間在学した。プーシキン祭の時点で24歳である。この折りのことを後に本人も、「A. S. プーシキン没後100周年記念の夕べで、パブストの作品である、P. I. チャイコフスキイのオペラ『エヴゲーニイ・オネーギン』の編曲を演奏したのを覚えています。」(101)と回想している。
 1940年秋にベロウーソワはハルビンに戻った。そしてかの地で演奏活動を行いながら、第一ハルビン音楽学校で教鞭を執った。同校は1947年に改組されてソ連高等音楽学校となり、1954年に閉鎖されるまでそこで教務主任として働いた。1956年3月26日にノヴォシビルスクに帰還。4月10日には早くもノヴォシビルスク音楽学校オーケストラ部コンサートマスターの地位に就いた。翌年この地位を退いて教職に就き、1958年に教職部門の主任になった。年金生活に入ってからは、州立神経病クリニックの音楽療法士として10年間働く。その後はよく家庭コンサートを開いていた。
 ちなみに詩人A. A. アチャイール(本名グルィーゾフ)にとって、ベロウーソワは二度目の妻。アチャイールは1945年から1959年まで15年間を強制収容所で過ごしたが、その間彼女は彼を支え、二人が一緒に暮らしたのはわずか一年半だった(102)

6. G. I. チェルトコーフ

 G. I. チェルトコーフ ゲオルギイ・イワーノヴィチ・チェルトコーフ(1893年6月3日―1983年)。元砲兵中尉。1912年にサマーラ中学校を卒業、翌年商業学校に学ぶが、第一次世界大戦が勃発。タシケント士官学校を卒業後出征した。1917年の2月革命後、第10師団の代表委員に選出。沿ヴォルガ地方で非合法活動に従事し、欠席裁判で銃殺刑を宣告される。だが無事にウラヂヴォストークに逃れ、ウラヂヴォストーク・シベリア艦隊海軍狙撃中隊隊長をつとめた。まもなくA. V. サゾーノフの主宰するシベリア自治団に参画したが、サゾーノフの死後後継首領問題に関し暗闘が起こると、ゴロワチョフ一派に対立してマラウスキイを支持し、反ソビエト運動に従事した(103)。1922年10月、ウラヂヴォストークに赤軍が接近すると、チェルトコーフは白系ロシア人の避難の指揮を託され、自身も最後の一人として朝鮮の元山に避難。同年来日し、日本の反ソビエト運動団「北明会」等と連絡して反ボリシェヴィキ運動に関わった。
 翌1923年2月に東京でチェルトコーフは「インフォメーション・ビュロー」(104)を設立した。この組織は週報『新東亜通信』(105)を発行した。1929年9月から1930年代にかけてこの週報は、ロシア語・日本語の2カ国語で「新東亜会」出版社が発行し、その責任編集者は新妻二朗だった(106)。チェルトコーフは「オルギンスキイ」(Оргинский)のペンネームで、この『新東亜通信』やハルビンの露字新聞『ザリャー』、雑誌『ルベーシュ』をはじめとする新聞、雑誌に日本在留ロシア人亡命者の生活や日本に関する記事を書いた。1931年12月5日付で彼は満鉄の露字新聞『ハルビンスコエ・ヴレーミャ』の東京特派員となった(107)。前記文集『東洋にて』には、「日本の精神・肉体文化の認識によせて 柔術―柔道」(108)と題する論考を寄せている。チェルトコーフはまた日本で商業活動にも従事し、1937年にベルギーのコンツェルン「メタッリュニオン」の代表者となって、工作機械や金属を日本に輸入した。同年、イギリスの有限会社「コチン・プロダクス」の代表者にもなっている(109)
 次にチェルトコーフと日本在住亡命露人協会の関わりを見ておこう。彼こそ本協会の創立者で、1930年の創立時から1933年まで「幹部会議長」(110)、即ち会長をつとめた。1930年9月10日に北京在住のホルワット将軍邸において開催された亡命露人大会に、チェルトコーフは出向いている(111)。また1931年11月12日には、上海仏租界で開催された上海在住旧露国人協会代表者会議に列席した(112)。1932年に始まった沿海州脱出ロシア人の救援運動については前に触れたが、この年の11月5、7、8日にチェルトコーフは夏秋亀一(113)を同伴の上内務省を訪問して、繰り返し脱出ロシア人のソ連側への引き渡し引き止めを訴えた。またチェルトコーフは「反共産党の暗流と西比利自治国の行動と西比利運動状況」なるものを執筆し、鳥居忠恕に和訳させて、日本の軍部や元老、政府筋へ配布した。「昭和七年中に於ける外事警察概要」にはこう記されている。

 会長チエルトコフは大正十四年五月入京以来常に一定の職なく西比利自治国代表者評議会議員の名刺を使用し、反共産主義の宣伝に努め頭山満杉山茂丸其他軍部方面と連絡を保ちつヽ物質的援助を求めつヽあるも一種の政治ブローカーにして在留露国人間にも信用なく、権威なきものなり(114)

 1934年2月頃、前年9月東京にロシア国民初等学校が開校したにもかかわらず、外国人の経営する学校に通う露国人子女が少なからずいることを憂慮して、チェルトコーフは親たちにこう訴えた。

 多くの子供たちが外国人学校に通わされ、大勢がただ放っておかれている。これらの両親はわが子のことを考えなければいけない(115)

 確かにワノフスキイも、子供たちが急速に母国語を忘れつつあること、「立襟のルバーシカ(コソヴォロートカ)」(духовка)と「フライパン(スコヴォロートカ)」(сковородка)、「イグチ(食用キノコ)(マースレニク)」(масленик)と「大斉前週」(маслянница)(sic)を混同し、「天火」(духовка)を「フドーフカ」(хуховка)と発音したり、父親の話すロシア語を子供が理解できない、というような例を挙げている(116)。1936年2月2日の定例総会でチェルトコーフは副会長に選ばれ、外部との交渉事務監督を行うことになった。また8月30日の定例総会ではチェルトコーフは「ソ聯邦新憲法の批評」というテーマで講演をした。「スターリン憲法」の徹底的な批判である。1939年3月5日の定期総会で、チェルトコーフは理事を辞任した。
 恐らくこの年にチェルトコーフは日本を離れた。その後中国で約10年間暮らし、上海の地方自治体の財務局の会計検査官として働いた。まもなく中国は共産主義国となったので、彼はブラジルに移り、1年間暮らしてポルトガル語を習得した。その後アメリカに渡り、主としてロシア語の教授とソ連問題のコンサルタントの仕事をするかたわら、露字新聞、雑誌に数多くの論考を発表した。1983年末に亡くなった(117)
 トルシチョーフ氏によると、チェルトコーフは日本滞在中宝石の売買に従事していた。またローゼン男爵(日露戦争前の駐日ロシア公使ロマン・ローゼンの親戚)なる人物と組んで、対馬沖に沈没したロシアの戦艦に搭載した金塊引き上げの話を日本政府と三菱にもちかけ、両者ともにそれを信じ込んだという(118)。これはいわゆる「スヴォーロフ号金貨引揚会」のことだろう。スヴォーロフ号は、日露戦争の日本海海戦の際に対馬近海に沈没したバルト艦隊の旗艦である(119)。プーシキン祭の時点でチェルトコーフは44歳である。

7. A. S. プーシキン名称ロシア初等国民学校

 A. S. プーシキン名称ロシア初等国民学校(120) 本校の前身にあたる横浜の露国中学校と東京の露西亜国民学校については、前引の倉田論文「二つの大戦間の亡命ロシア人社会―在京浜ロシア人学校と在京浜亡命ロシア人社会−」に詳しいので、ここでは省略する。
 1933年9月に有志による父兄会が東京市神田区宮本通3番地に臨時校舎を設け、ここに「プーシキン名称ロシア初等国民学校」が誕生した。児童数は16名、学校長は前記ペトロフ、名誉監督はセルギイ、教師はE. M. ボグダーノフ、P. パーヴロフ、スピンクス夫人(英国人、英語担当)、外2名(日本語担当)がいた。ワノフスキイによると、ボグダーノフは優れた教育者で、熱心に子供たちを教育し、パーヴロフは若き芸術家で、その指導による児童オーケストラは見事だったという(121)。本校はとりわけ英語と日本語の教育に意を用いた。大部分の児童が本校卒業後外国人学校に進学するため、英語の知識は不可欠であり、日本語は主として書き言葉の方を教えた。その他男児には製本術、女児には手芸の時間もあった。当初は初等科の3学年だけだったのを、やがて7年制の高等小学校に再編した(122)
 その後寄付金4000円を集め、1935年9月27日にニコライ堂南側の敷地内で定礎式(123)を行い、同年12月(124)に二階建ての専用校舎が竣工、翌1936年1月に開校した。建物の面積は約40平方メートル。敷地は日本ハリストス正教会が向こう10年間無償貸与、かつ学校側の必要に応じ期間延長を認め、廃校の場合は建物を正教会に寄付する、という口約束のもとでの開校だった。1937年10月末現在で児童数は22名である(125)。本校の教育目標はこう謳ってある。

 学校の使命とする所は、子供達に善良なる国民性と、よき伝統に基く国民教育を施し、以つてロシヤ人達が母国を去るにあたり持ち出せるその精神的諸価値が父母の代と共に亡びることなく、ヤンガー・ジェネレーションによって継承され、永久に生かされることを期する点にある(126)

 だが実際に本校の使命がどれほど達成されたかは疑問である。東京外国語学校のロシア語講師A. P. ミチューリンはこう書いている。

 彼ら[ロシア人児童―沢田]は自分たち同士は日本語で話をする。彼らは母国語よりも日本語の方が上手だ。たった今日本語で活気づいてしゃべっていたロシアの少年が、ロシア人の問いにはたどたどしく、なまって答えるのを耳にするのは悲しいことだ。亡命先で生まれたこれらの子どもたちは、もちろん習慣の点で、また恐らくは世界観の点でさえ、ロシア人よりも日本人に近くなるだろう。彼らのうちに唯一残るものといえば、それは正教の信仰である(127)

 1940年9月に、前述のように、セルギイが正教会の大主教の職から退くことを余儀なくされた。そして自分が名誉監督官をつとめてきた本校の経営を、日本在住亡命露人協会に委託した(128)。1941年8月に正教会側から敷地回収の通告があり、事態は紛糾した(129)。翌1942年10月に調停裁判で、正教会は学校側に1945年9月30日まで敷地の使用を許可し、その後6カ月以内に学校は敷地を返還することに決まった。本校は1942年12月23日に東京府から私立学校として認可された。ロシア初等国民学校は少なくとも1944年夏までは存続していた(130)
 本学校がプーシキンの名を冠していることを指摘しておく。
 1円 1937年頃に1円前後で購入できたのは、例えば次のようなものである。学童用水彩絵具(12色入り)、カステラ1箱(1斤)、後楽園球場指定席、写真撮影料、総合雑誌、味の素100グラム缶、黒白フィルム12枚撮り、弁当箱、練炭、離乳食「グリスメール」500グラム押しぶた丸缶入り(131)
 50銭 1937年頃に50銭前後で購入できたのは、例えば次のようなものである。映画館入場料、上質醤油1.8リットル、畳表1畳当たりの裏返し手間賃、放送受信料、理髪料金(132)
 東京市麹町区内幸町1丁目5 中林ビルディング 内幸町1丁目には内外国人の社交場である東京倶楽部、都新聞社(東京新聞社の前身)、夏目漱石や近松秋江が入院した胃腸病院などがあった。現在は千代田区内幸町(133)。少し前になるが、1912年の地籍台帳では1丁目5ノ1から5ノ9の所有者は三井合名会社になっている(134)。中林ビルディングの位置は不明。ちなみに前記『新東亜通信』の発行所もこの番地になっている。

8. 世界各地のプーシキン祭

 プーシキン没後100年祭は、当然のことながら、ソ連国内でソ連共産党中央執行委員会のイニシャティブのもと盛大に祝われた。これを記念してアカデミー版の『A. S. プーシキン全集』全15巻の刊行がこの年にソ連で始まり、各地で展覧会が開催された。『東京朝日新聞』、『東京日日新聞』、『読売新聞』、そして当時日本で出ていた数少ないロシア、ソ連関係の雑誌『月刊ロシヤ』(135)は、2月10日にモスクワのプーシキン広場やボリショイ劇場をはじめソ連各地で祝典が盛大に挙行された様子、そしてそれが20日まで続くことを伝えた。『東京朝日新聞』は、「とにかく一人の文学者の百年祭が国家の一大事業として全国的にこれ程大規模に挙行されたことは恐らく世界的にも初めてのことであろう」(136)と書き、『東京日日新聞』は、詩人の孫に当たる人物が急に時の人になったことを報道している(137)。『報知新聞』は菊岡久利(本名、高木陸奥男)の「時の反芻=プウシキン百年祭に=」という詩を掲載し、投獄数十回におよぶアナーキズム詩人菊岡(138)は、「なぜか私のプウシキンは 日本の北国の牢屋の中にゐる 北国の囚獄の真冬の中で いつも私がプウシキンを 肌で呼吸し過ぎたせいなのだ」(139)と詠った。
 プーシキン没後100年祭は、日本のロシア文学者によっても祝われた。1937年一年間にプーシキンの作品の翻訳が5冊、評論が単行本、雑誌論文合わせて18編発表されたが(140)、その最たるものが、上田進、神西清、中山省三郎らによる『プーシキン全集』全5巻(改造社、1936―1937年)と菊池仁康個人訳の『プーシキン全集』全2巻(ボン書店、1936―1937年)の刊行である。とりわけ前者は、金子幸彦氏が「世界でも、あの当時あれだけまとめてプーシキンの翻訳を出したというのは他にないでしょうね。」(141)と語ったように、わが国のプーシキン受容史上燦然と輝いている。これらの翻訳とは別に、1936年に上田進訳『プーシキン詩抄』(ナウカ社)、1937年には中山省三郎訳『スペエドの女王』(書物展望社)が出て、ともにブブノワが挿画を描いた(142)。彼女はニコライ堂へは通わず、在日亡命ロシア人とは一線を画していたので、本稿で扱った在日ロシア人のプーシキン祭には恐らく参加していないだろう。
 日本在住亡命ロシア人によるプーシキン没後100年祭は、しかしながら、以上のいずれとも関わりがなかった。彼らが接触をもっていたのは、パリ、ベオグラード、ベルリン、プラハ、リガ、テリオキ(フィンランド、現ロシア連邦レニングラード州ゼレノゴールスク)、ルーツク(ポーランド、現ウクライナ領)、ベイルート、ハルビン、上海、奉天、大連、天津、北京、漢口、ニューヨーク、シドニー、ビゼルト、チュニス(ともにチュニジア)、ブエノスアイレス、サンチアゴなど世界各地の亡命ロシア人によるプーシキン記念祭挙行の動きだった(143)。1937年一年間に世界中で166のプーシキン委員会が結成され、記念祭開催はヨーロッパで24カ国170の都市、オーストラリアで4都市、アジアで8カ国14都市、アメリカ大陸で3カ国5都市、全部で42カ国231の都市に上るという(144)

 突如若やいで変貌した亡命者たちは、自分たちの悲哀を忘れ、あるいは後回しにして、まる一年の間文字どおりプーシキンを生きたのだ(145)

 1937年にロシア人亡命者によってロシア国外で何冊かの優れたプーシキン論が出版され、第二次世界大戦前までにその数は都合約100冊に上るという(146)。なかでも特筆すべきは、ハルビンのロシア人によるプーシキン100年祭である。1937年1−3月にハルビンの新聞に表れたプーシキン関係の論文、記事は、300点を超えた(147)。また同年に『ロシアとプーシキン 論文集 1837−1937年』とG. K. ギンス『A. S. プーシキンとロシア人の民族的自覚』(148)、翌年にはK. I. ザイツェフ編集による『プーシキンとその時代』(149)が出版された。とりわけ『プーシキンとその時代』は注目に値する。1937年2月に満州帝国ロシア人亡命者事務局付属中央プーシキン委員会(150)によってプーシキン展覧会が開催され、これには同委員会委員P. I. サヴォスチヤーノフのコレクション、またブリュッセル在住の詩人の孫N. A. プーシキンから貸与された品も展示された。本書は、この展覧会が契機となって一本にまとめられたものである。テキスト部分が全216頁、それ以外に207点の絵画が収められている。印刷部数は1160部、そのうち所有者の名前の入った16部と番号の入った44部は上質紙に大判で印刷された。江原綱一元ハルビン副市長が200円を寄付し、これによってロシア人学童が廉価で本書を購入することができた(151)。トルシチョーフ氏によれば、このアルバムは東京のロシア国民初等学校でも生徒に配布されたという(152)。本書は1997年にモスクワの「テラ」社から復刻版が出(153)、巻末に「付録」としてザイツェフの4本の論文、「人生の師としてのプーシキン」、「プーシキンのための闘い」、「プーシキンの宗教的問題」、「プーシキンは生きているか?(1837−1962)」が収録されている。
 上海でも亡命ロシア人によって詩人の100年祭が挙行された。1937年に『上海のプーシキン・デー』と題する露・仏・英・中の4カ国語からなる本(154)が出版され、2月2日から14日までさまざまな催し物が行われた。また露国避難民委員会会長メツレルの発起のもとにプーシキン銅像建立委員会が組織され、2月11日に仏租界の空き地に銅像が建設されて、盛大な除幕式が行われた(155)

9. プーシキンとロシアと亡命

 東京のプーシキン祭の第二部、ペトロフの講演のテーマは、「プーシキンとロシアと亡命」である。講演の内容は不明だが、にもかかわらずこのテーマは象徴的な意味をもっている。なぜなら、亡命ロシア人にとってプーシキンは格別の存在だったからだ。モスクワ生まれのコロンビア大学名誉教授にしてニューヨークのバフメーチエフ文書館管理人M. I. ラーエフは、その著『在外ロシア』のなかでこう書いている。

 プーシキンの作品は他国語への翻訳が極めて困難だったので、ロシア人はプーシキンをことのほか自分たちの詩人であるとみなした。祖国を遠く離れ、過去にまつわるありとあらゆる快い思い出をノスタルジーとしてもつ追放者にとって、プーシキンはきわめて多くのことを意味した。彼の作品はたやすく暗記されたばかりでなく、記憶中に祖国の多くのイメージを呼び起こした。さらに他の民族と文化の洞察力あるその描写のお陰で、亡命者は在外ロシアを取り巻く世界に容易に入っていくことができた。プーシキンのお陰で新しい国、その文学の主人公たち、彼ら特有の考え方と感じ方、要するに彼らのメンタリティーが亡命者にとってより近しいものとなったのである。
 〈中略〉亡命の地において教養あるロシア人は、言語と形式の観点からばかりでなく、創作の自由、ボリシェヴィキのロシアで無慈悲に踏みにじられた自由に忠実なゆえに、自分たちにもっとも近しい、本当に自分たちの詩人としてのプーシキンを新たに発見したのである。
 〈中略〉プーシキンの政治的立場、即ち民衆蜂起を恐れてのツァーリズムとの和解、ロシアの民族主義と帝国主義に対する彼のたまさかの称賛、そして彼の非妥協的な個人主義と自由愛好の精神、これらすべてが亡命インテリゲンチヤのとりわけ熱烈な反響を呼び起こした。1920年代と1930年代中葉までソ連のプロパガンダは文化の領域においてプーシキンを斥け、ナロードニキ詩人ネクラーソフや、社会的な傾向をもった散文を書いたサルティコーフ=シチェドリンやガルシンのような他の偶像の方を良しとした。この排除ゆえに亡命者には、自分たちにとってロシア文化の中心人物であるプーシキンに帰依する気持ちがますます強まったのである(156)

おわりに

 上で見たような充実したプーシキン没後100年祭が1937年という年に東京で挙行されたのは、奇跡的な出来事といっても過言ではない。結果として実にタイミングが良かったといえる。これより少し前でも後でもそれは不可能だったろう。というのは、この一月後、1937年3月に東京で「白系露西亜人文芸会」が発足し、以後数年間は在京亡命ロシア人社会で精神・文化生活がもっとも開花した時期にあたり、プーシキン祭はその端緒をなしたものといえるからだ。それ以前では彼ら自身にこのような潜在能力はなかっただろうし、それ以後では軍国主義の道をたどり始めた日本の社会がその実現を許さなかっただろう。
 プーシキン祭の実際の参加人数は不明だが、この一月後に発足した「白系露西亜人文芸会」の催し物の折りの参加人数から推測して、およそ50人前後というところか。亡命ロシア人の集まりの例にもれず、プーシキン祭にも日本の警察が来たと思われるが、それを除けば他はほとんどロシア人ばかりだっただろう。
 最後に筆者自身の疑問点を挙げておく。それは、プログラム中にワノフスキイとグリゴーリエフの名前がないのは何故か、ということである。ワノフスキイにはプーシキンに関するいくつかの論文があり(157)、グリゴーリエフは前述のように「白系露西亜人文芸会」の会長だからだ。これと関連してひとつ思い浮かぶのは、前に触れた文集『東洋にて』はグリゴーリエフが編集し、ワノフスキイもこれに3本論考を寄せているが、この文集に次のような編集局の奇妙な断り書きが付されていることだ。

 [文集の−沢田]発行直前にペトロフとチェルトコーフとT女史が文集から抜けたいと言ってきたが、純粋に技術的な理由により間に合わなかった。(158)

 「出版方針の点で意見がまとまらずグループ内に分裂が生じたために、文集はこれ以上出なかった」という見方があることからして(159)、この2年前の内訌がプーシキン祭まで尾を引いていたのかもしれない。

 本稿執筆に際し、A. A. ヒサムトヂーノフ(ウラヂヴォストーク・国立極東工科大学)、G. P. コシーツィン(シドニー・『オーストラリアーダ』誌編集部)、E. B. ベロドゥブローフスキイ(国立サンクト・ペテルブルグ大学アカデミー中学校特殊教育リサーチ・センター)、O. G. プチーツィナ(モスクワ・トレチヤコフ美術館)、N. G. ジェクーリン(カナダ・カルガリー大学)、E. N. チェルノルーツカヤ(ウラヂヴォストーク・ロシア科学アカデミー極東支部極東諸民族歴史・考古・民族学研究所)、G. I. カネーフスカヤ(ウラヂヴォストーク・国立極東大学)、「来日ロシア人研究会」の会員、とりわけ中村喜和(共立女子大学)、滝波秀子、松村都の各氏、また内山ヴァルーエフ紀子、斉藤実(東京YMCA)、K. M. トルシチョーフ、新田喜代見、浜野アーラ、原暉之(北海道大学スラブ研究センター)の各氏から資料とご教示を賜った。またトレチヤコフ美術館、国立プーシキン博物館(サンクト・ペテルブルグ)、外務省外交史料館、国立国会図書館、埼玉大学図書館、東京YMCA資料室、北海道大学図書館、早稲田大学現代政治経済研究所図書室、早稲田大学中央図書館で資料収集と調査を行った。記して感謝の意を表する。


注釈