民  主  化  理  論  と  中  国

-旧ソ連東欧諸国の経験を踏まえて-

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伊 東 孝 之(早稲田大学政治経済学部)


[1]はじめに

中国が民主化するとすればどのような問題があるだろうか。すでに民主化した諸国、あるいは現に民主化しつつある諸国の経験は役に立つだろうか。とりわけ、1989年までの旧ソ連東欧諸国は政治経済体制に関して今日の中国と多くの共通点をもっている。少なくともアセアン諸国、韓国、日本、欧米諸国などとよりは共通するものが多い。旧ソ連東欧諸国の経験は現代の中国にとって多少役立つのではないかと思われる。

報告者は地域的には旧ソ連東欧諸国を専門としている。いわゆるディシプリンに関しては比較政治学を専門としている。本報告では旧ソ連東欧諸国の経験と比較政治学の理論に関する知識を中国の民主化問題に適用してみたいと考えている。ただ、中国そのものに関する知識は非常に限られているので、報告者の知見はまったく的外れであるかも知れないし、逆に専門家には自明の事実の繰り返しであるかも知れない。その際はご海容を乞う次第である。

いうまでもなく民主化は今日、旧ソ連東欧諸国の枠を超えた世界的な広がりをもつ問題である。旧ソ連東欧諸国の民主化はハンチントンが民主化の第三の波(Huntington 1991)、シュミッターが第四の波(Schmitter 1993)と呼んだものの一環である。それぞれの地域の民主化を別々に見るのではなく、南ヨーロッパ、ラテンアメリカ、旧ソ連東欧、東南アジア、東アジアの民主化を一つの統一的、理論的パースペクティヴのもとで見ることが求められている。本報告もそのような努力へのささやかな寄与である。考察は中国の民主化にとって西側で開発された理論がどのようなインプリケーションをもつかということを中心に展開される。

[2]アクター中心主義の蹉跌か-- 天安門事件の教訓

従来、民主化のような歴史的事件は大きな客観的、構造的要因を中心に解釈されるのがふつうであった。それが「学術的な」理解であると考えられてきた。政治的行為者、すなわちアクターの活動を中心にして解釈されることは、文学や講談においてはいざ知らず、学術的な文献においてはほとんどなかった。しかし、1970年代からは社会科学においても次第にアクターの役割に関心が集まるようになった。

アクター中心主義的な歴史解釈の由来と評価は別に論じることにして、ここではそれがとくに「第三の波」の民主化理解にとって重要であったことを指摘しておきたい。第三の波においては民主化は背景をまったく異にする諸国においてほとんど同時的に起こってきた。このことはそれぞれの国の歴史的、社会経済的、文化的などの条件が民主化に及ぼす影響はそれほど大きくないということを示唆していた。むしろ民主化を求めるアクターの活動と国際環境という各国に共通な、同時代的な要因が大きく作用していた。国際環境についてはさておき、ここではまずアクターの活動に注意を向けてみよう。

民主主義は「作る(craft)」ことができる。民主主義にはたった一つの前提条件すら必要でない。民主化を求めるアクターさえ存在すればよい。アクターは、もし然るべき戦略を採用するならば、自分のおかれている歴史的、社会経済的、文化的などの条件を越えて活動し、成功を収めることができる( DiPalma 1990)。アクター中心主義はこのような考え方に基づいていた。

長い間、階級構造、経済水準、政治文化、制度的成熟など客観的制約要因の論議に悩まされてきた若い世代の研究者にとって、アクター中心主義は大きな解放感を与えるものであった。そこには当然、主意主義的、エリート主義的傾向があった。他方ではシュンペーター以来の堅実な手続き的基準を重んじる民主主義理解の流れがあった。民主化研究の元祖といわれるラストウがすでにアクター中心主義的傾向を強く示している(Rustow 1970)が、その後民主化研究において主流をなしたリンス、オドンネル/シュミッター、ハンチントンなどの研究はすべて基本的にアクター中心主義的な立場に立っている(Linz 1978, O'Donnell & Schmitter 1986, Huntington 1991)。そして、それは南ヨーロッパ諸国、ラテンアメリカ諸国、旧ソ連東欧諸国、東・東南アジア諸国における民主化をよく説明するように思われたのであった。中国での天安門事件を頂点とする一連の政治的動きはアクター中心主義を裏づけるように見えた。天安門事件はポーランドで最初の自由選挙が行われ、野党「連帯」の勝利が決定的となったのと同じ1989年6月4日に起きている。中国における民主化の動きは単に時期的にラテンアメリカ諸国、フィリピン、韓国、そして旧ソ連東欧諸国における民主化と踵を接していたばかりではない。それは典型的な、絵に描いたようなアクター中心主義的民主化のケースであるように思われた。中国が世界人口に占める比重は圧倒的に大きい。しかもこの国はそれまでの民主化のケースとは歴史的、社会経済的、文化的などの条件をまったく異にしている。もしこの国で民主化がアクター中心主義的シナリオに沿って実現したならば、仮説は大きな加勢を得ることになっただろう。

しかし、中国における民主化の試みは挫折した。そしてそれはアクター中心主義的理解にも一定の反省を迫るものであったように思われる。民主化理論から見るとき、天安門事件とはいったい何だったのか。どのような意味で中国の民主化の動きはアクター中心主義的であったか。

オドンネル/シュミッターは民主化のシナリオを次のように描いている(O'Donnell & Schmitter 1986)。まず権威主義的支配者がハト派とタカ派に分裂する。ハト派が自由化宣言を行う。政治的オープニングが始まる。中国においては、それは1977年における登小平の復権、胡耀邦=趙紫陽グループと楊尚昆=李鵬グループの対立、自由化の進展が対応している。自由化が進むと、野党勢力も穏健派と急進派に分裂する。政府ハト派が穏健派に接触を試みる。クーデタの噂が流れる(「クーデタ・ポーカー」)。市民社会が復活する。それは知識人から大衆へ、上から下へ、中央から地方へと向かう。大衆的高揚が起きる。

ここまでは1989年の諸事件を想起すれば、ほぼシナリオ通りであったということができる。ここで政府ハト派と野党穏健派の間で民主化協定が結ばれ、出発選挙が実施されなければならなかった。しかし、中国ではこの最後のステップが起こらず、その代わりに戒厳令体制が布かれたのであった。

なぜ中国では政府ハト派と野党穏健派の間で協定が結ばれなかったのか。すでに1991年にツォーは一つの解釈を与えている(Tsou 1996)。1996年にアメリカで作られた記録映画「天安門」もこの解釈に従っているように見える。すなわち、たしかに政府側にハト派、野党側に穏健派が形成された。しかし、それぞれの陣営における両者の立場は弱かった。とくに野党穏健派は野党勢力内で指導権を確立できなかった。穏健派自体の態度も絶えず動揺した。とうてい政府側と交渉し、協定を締結できるような態勢になかった。政府内におけるハト派の立場は胡耀邦の失脚以来弱くなっていたが、野党穏健派が政府ハト派の呼びかけに応えようとしなかったためその立場は一層弱まった。これを見て中央派の登小平はタカ派に与することを決定した。この解釈は民主化失敗の主たる責任を政府側ではなく野党側に求める点に特色がある。基本的に同じ考え方に立っているが、より体系的に説明しているのがジャンである。すなわち、ソビエト型の体制をとる国では野党勢力は制度的野党というよりも社会運動となる傾向がある。社会運動の内部には強い組織的、制度的統制が欠けている。またリーダーは運動の創造者というよりも運動の産物である。組織的、制度的統制がないため、リーダーは単純な人気取り的、あるいは扇動的象徴を使って運動を統一し、統制しようとする。天安門事件で浮かび上がってきたリーダーは典型的な運動依存型リーダーだった。彼らには体制内のハト派と協定を結ぶ能力がなかった(Zhang 1994)。

なぜ中国では政府ハト派と野党穏健派は協定を結ぶ能力を欠いていたのか。なぜ野党側では運動依存型リーダーが中心となったのか。そもそも民主化のアクターはどこから来るのか。これは中国における民主化だけではなく、民主化一般にとって重要な問題を提起している。

[3]構造の復讐か-- 全体主義論の遺産

この問いに対する最もスタンダードな答えは、旧体制の性質に問題があったというものだろう。つまり、アクターも所詮環境の産物である。アクター中心主義が前提としているのは南ヨーロッパ諸国やラテンアメリカ諸国のような権威主義体制であるが、中国の民主化は異なった体制のもとで起こってきたのでそのシナリオは実現すべくもなかった、という主張である。実は旧ソ連東欧諸国も同じ問題を抱えている。とすれば、この主張は、旧ソ連東欧諸国で起きたものがなぜ中国では起きなかったのかという問いにも答えなければならないだろう。

ジャンは単なるアクター中心主義批判を越えてこのような一般的な問題に答えようとしている。その論旨はおおよそ次のようである(Zhang 1994)。

オドンネル/シュミッターは構造ではなくて経綸術(statecraft)に焦点を絞っているが、たとえば移行協定にはそれなりの制度的前提条件がなければならない。とりわけ移行過程への直接の参加から大衆を排除するエリートの能力、とくに協定を人民部門に押しつける野党エリートの能力が必要とされる。このような制度的条件はコーポラティズム的特質をもつ権威主義体制においては与えられるが、いわゆる全体主義体制においては自律的な社会制度がなく、大衆が原子化状態におかれるためきわめて不備である。反政府運動が発生すると制度的野党としてではなく社会運動として発展する。これは中国だけではなく旧社会主義国全体に当てはまる。例外はポーランドであるが、ポーランドにおいてさえ協定による移行はきわめて不正常なものだった。

ジャンが提起した問題は、先行するレジームの型が民主主義への移行にどのように影響するかという問題と言い換えることができよう。そのような問題の立て方をする比較政治学者は少なからずある。ここで比較政治学において民主化との関連で中国の体制がどのように性格づけられているかを見ておこう。

現代の非民主体制の類型化に大きく貢献したのはリンスである。リンスの古典的研究によれば、毛沢東の中国は全体主義体制である(Linz 1975)。リンスは形式主義的な定義を採用している。民主主義の定義に手続き的定義を提唱したのはシュンペーターであるが、リンスはそれを非民主的体制にも適用しようとした。すなわち、もっぱら権力を行使し、権力を組織化し、社会と結びつくその方法、権力を維持する信条体系の性質、政治過程における市民の役割、の3つに注意を注ぎ、政策の実質的内容、追求される目標、体制の存在理由などは度外視している。

リンスの基準によると、現代の政治体制は基本的に民主主義、権威主義、全体主義の3つに分かれる。このほかに伝統主義とスルタン主義にも言及されているが、これは前近代からの生き残り体制であって現代においては例外である。民主主義と全体主義には大きな下位類型がないが、権威主義には官僚軍部支配型、有機体的国家主義型、動員型、人種差別民主主義という4つの下位類型がある。このうち動員型はさらにポスト独立、ポスト民主主義、ポスト全体主義という3つの下位類型をもっている。下位類型を合わせると権威主義体制は圧倒的な種類を誇ることになる。

さて、全体主義はどのように特徴づけられるか。それは一元的な権力中枢の存在、イデオロギーの存在、市民の参加と動員の奨励の3つである。これは全体主義の定義としてはミニマリストの定義であって、他の定義においてしばしば挙げられる膨張主義的傾向、大量テロ、独裁者、近代的テクノロジーは必ずしも必然ではないとされている。

この定義を適用すると、1956年以後の東欧諸国はもはや全体主義ではない。それは一種の権威主義であって、リンスの分類によれば動員型権威主義の中のポスト全体主義的権威主義である。ブレジネフ時代のソ連はどうか。きわめて慎重な書き方がなされていて正確には読みとることができない。おそらくリンスは当時判断に迷っていたと思われる。

1996年になってリンスはステパンと一緒に新しい書を著した(Linz & Stepan 1996)。リンス/ステパンはその中で新しい体制分類を提案している。従来は基本的に3類型であったが、新しい書では民主主義、権威主義、全体主義、ポスト全体主義、スルタン主義の5類型となっている。これはやや便宜主義的な分類である。従来の分類に従うと、非民主体制のほぼ90%が権威主義体制となってしまう。これは分類としては好ましくない。そこで、ポスト全体主義(的権威主義)を独立のカテゴリーとし、また現代においては例外体制と考えられていたスルタン主義を独自のカテゴリーとして立てた。ポスト全体主義は旧ソ連、ユーゴスラビア、チェコスロバキアが分裂したので数が多い。スルタン主義にはデュバリエのハイチ、ソモザのグァテマラなどと並んでマルコスのフィリピン、金日成の北朝鮮、チャウシェスクのルーマニアなどが入っている。

新著は南ヨーロッパ、ラテンアメリカ、旧ソ連東欧の3地域、とくに旧ソ連東欧地域に焦点を絞っており、中国についてはほとんど言及していない。スターリン後のソ連を今回ははっきりとポスト全体主義に分類しているが、毛沢東後の中国については「全体主義かポスト全体主義」と述べるにとどめている。

本報告との関連で関心を引くのはポスト全体主義である。ポスト全体主義は多元性、イデオロギー、動員の程度において初期型、凍結型(1977〜88年のチェコスロバキア)、成熟型(1982〜88年のハンガリー、ポーランド)に分けられている。権威主義に最も接近するのは最後の成熟型で、そこにおいては(1) 制度的、社会的、文化的、経済的多元性がある。(2) イデオロギーとユートピアへのコミットメントが弱く業績に依拠する度合いが強い。(3) 動員が少なくなっている、などとされている。こうした体制分類は移行のパターンに重大な影響をもつと考えられている。リンス/ステパンは、民主主義の定着の5つの領域(arena)というものを挙げている。それは市民社会、政治社会、法の支配、(民主主義にとって使用可能な、機能する)国家官僚制、経済社会である。こうした領域が欠けていると民主主義への移行は可能だが、民主主義の定着は難しいという。領域という考え方は理論的な整合性ということよりもプラグマティックな考慮から生まれたもののようであるが、それなりの有用性をもっている。これらの領域が主として旧ソ連東欧地域を念頭において設定されたものであることは明白である。たとえば、全体主義であれば、いずれの領域も不在であって、民主主義の定着は困難である。ポスト全体主義にあっても、いずれの領域も微弱な程度にしか発達していない。それは南ヨーロッパやラテンアメリカの権威主義国と比べれば一目瞭然である。

協定による移行は政府側のハト派とタカ派、野党側の穏健派と急進派の合計四者が演じる民主化ゲームと考えることができるが、四者ゲームは二つのレジーム・タイプにおいてしか可能でない。それは権威主義と成熟したポスト全体主義である。前述のように著者は毛沢東後の中国を明確に分類していないが、ポスト全体主義であるとすれば、天安門以前は初期型、天安門以後は凍結型ということができよう。凍結型は協定による移行ではなく、崩壊による移行につながりやすいとされている。

[4]ヒエラルヒーのしたたかさか-- 新制度学派の解釈

近年、政治学に新制度学派の影響が浸透するようになった。それはロシア東欧研究においても目立っているが、中国研究にも影響が及んでいるようだ。新制度論といってもいろいろあり、ホールとテイラーによれば、歴史的制度論、合理的選択制度論、社会学的制度論の三つがある。実はもう一つ経済学的制度論があるが、合理的選択制度論に似ているので、著者はそれに含めたと述べている(Hall & Taylor 1996)。加藤によれば、社会歴史的制度論と合理的選択制度論の二つである(Kato 1996)。両者の分類には微妙な違いがある。加藤説はやや視野が狭いと思われるので、本報告ではホール/テイラー説によりたい。

新制度論は行動科学主義に対抗して1960〜70年代に登場した。奇妙なことに三つのスクールはほとんど相互の関連なしに発展してきたらしい。したがって、同じ新制度論を称していてもまったく異なった理解に基づく場合がある。これが多くの混乱と誤解の原因となっている。

筆者が管見する限りでは、中国の民主化問題に新制度学派の観点からアプローチしたのはソルニックが最初である(Solnick 1996)。著者は本来ロシア研究者であるので、本報告において検討の手がかりとするにふさわしいと思われる。ソルニックの立場は新制度学派の中の経済学的制度論であり、ホール/テイラーが合理的選択制度論に含めているものである。ゲーム理論を併用しているが、これは新制度学派の研究にしばしば見られる。

新制度学派の研究は旧社会主義国の民主化・市場経済化にとって大きな意味をもつものと思われる(上垣1996)。新制度学派はまったく新しい用語を用いるので、はじめに簡単に解説しておいた方がよいだろう。合理的選択制度論はもともと米国の下院議員の行動や市場経済における企業の行動を対象に生まれてきたので、それを社会主義体制に適用する場合にはやや複雑な手続きが必要である。周知のように体制移行には脱制度化の局面と制度化の局面がある。社会主義国の民主化の場合、いかに新しい制度が登場するかというよりも、まずいかに古い制度が崩壊するかを説明しなければならない。新制度論は本来、制度がいかに発生し、維持されてきたかを説明するのを得意とするが、脱制度化の局面にも適用できるはずである。

合理的選択論においては、制度は市場における取引費用(transaction costs)を極小化する役割を果たすとされる。取引の対象となるのは財産である。財産には財産権を有する本人(principals)と財産を管理する代理人(agents)が存在する。本人と代理人は一つのヒエラルヒーを形成する。あらゆるヒエラルヒーは本人と代理人の二者関係の連鎖と考えることができる。ヒエラルヒーの部分を構成する人間(あるいは集団)は下に対しては本人であり、上に対しては代理人の関係にある。一般的に本人は代理人に対してより多くの権威をもつが、代理人は本人に対してより多くの情報をもつ。したがって、本人と代理人の間には権威と情報の非対称的な関係が存在する。代理人は本人に対してなるべく自分の行動と情報を隠そうとする。

ソビエト型の中央計画経済においては、計画者はできるだけ正確に最大努力と所与の入力の最適利用に見合うと判断される出力を指定することによってこの問題に対処しようとする。実際には正確な情報は代理人しか知らないので、正確に出力を指定することは困難である。過去の業績から将来の能力を推定しようとすると、いわゆる爪車問題(ratchet problem)が起きる。代理人は絶えず自分の能力を低く見せ、自分の安全マージン(safety margin)を拡大しようとする。

ソビエト型官僚制特有の問題に対応するためには、3つの基本的な仮説を検討しておく必要がある。まず、社会主義国においては財産権は共産党のヘゲモニーに依拠している。しかし、財産権紛争の第三者決定の明確な法的あるいは手続き的規範が欠如しているので、所有権の原則は統制しているという事実にのみ依拠し得る。つまり、財産権はヒエラルヒー的な組織構造によって定義されているので、その逆ではない。本人の権威は代理人がそれを受け入れる用意によってのみ確認され得る。もし代理人が権威を無視したときにこれを罰することができなければ、代理人はあたかも委ねられた権限を自分自身のものであるかの如く行動しはじめるだろう。次に、もし上記が正しいとすれば、所有権が権威を定義し、権威が所有権を定義するという循環論の問題が起きる。資本主義国では第三者(たとえば裁判所)の決定をまつことができるが、ソビエト型においてはそれは強制力に依拠している。状況が安定しているときは、権威は自明のこととして受け入れられる。この場合「ヒエラルヒーはそれ自身の最終上告審である」(Oliver E. Williamson)。実は、資本主義国でも公的官僚制においてはこの原則が貫徹している。

第三に、標準的な代理人契約においては、本人は代理人の労働からの出力の残余に対して請求権をもつものと解釈される。しかし、ソフトな予算制約の支配するソビエト型のヒエラルヒーにおいては、本人は利潤最大化主義者でも予算均衡化主義者でもなく、この原則は当てはまらない。本人はしばしば残余を請求せず、リスクを負わない。特権的な地位を維持することに自己利益を見出すが、それを代理人の出力を最大化することによってではなく、最大化していると見せかけることによって行う。

市場経済においては金融危機の際に銀行の取りつけ騒ぎが起きるが、中央計画経済においては逆の現象が起きる。市場経済における取りつけ騒ぎとは、本人である多くの預金者が連鎖的に預金の支払いを求めて代理人である銀行をつぶしてしまうという現象であるが、中央計画経済における逆取りつけ騒ぎとは、代理人である多くのマネジャーが連鎖的に財産権をわがものにして、本人である中央計画当局をつぶしてしまうという現象である。この連鎖反応において決定的に重要なのは、本人がもはやその資源を統制していないというパーセプションである。そのようなパーセプションが生じるのは、改革が実施されて代理人により大きな自由裁量権が与えられる瞬間である。

したがって、本人がどの程度自分の権威を維持することに真剣かという評判(reputation)が重要となる。ゲーム理論におけるチェーンストアの比喩はこれを例証している。「本人が自分の評判を回復し、権威の浸食を抑制しようとするならば、迅速に、かつ断固として行動し、日和見主義的な代理人の規律を引き締め、財産権の配分を明確にしなければならない。」

ソ連では、1987年の固有企業法によってコオペラティヴを通じての「自然発生的民営化」(無統制な国有財産の私物化、つまり逆取りつけ騒ぎ)が起きた。監督官庁がマネジャーの事実上の所有権の要求を排除できないことが明らかになると(つまり本人が権威維持に真剣という「評判」を放棄すると)、この過程が加速化した。ヒエラルヒーの崩壊は産別省内部だけではなく、連邦・地方行政システム内でも起きた。監視組織の役割をもつ共産党内でも起きた。それはとくにコムソモールにおいて顕著であった。選挙制の導入は下級機関の不服従を加速化した。

中国でも同様の現象が見られたが、異なった経過をたどった。1979年から改革が始まり、工業資産と地方財源に対する所有権が中央指導者から地方指導者に移譲された。下位レベルの代理人が本人の権威を無視し、ヒエラルヒー統制を壊しはじめた。しかし、中国では緊張を伴いながらも中央の手から統制がすべり落ちなかった。

郷鎮企業が奨励され、地方自治体が財政権を取得した。地方官吏が豊かな実業家となった。1980年代後半に経済が過熱化したため、中央が引き締めを実施し、効果を挙げた。しかし、このとき以後、地方官吏に対する統制は不完全となった。ただ、ソ連と違って代理人が外部資本(クレジット)を利用できなかったことが中央の権威を無視することを困難とした。

中国では逆取りつけ騒ぎが起きなかった。それは次の三つの理由による。まず、共産党が地方からの歳入増大に成功し、ソ連式の内部改革を回避した。次に、改革が財産権関係を曖昧にするのではなく明確にした。中央は隠し行動、隠し情報問題に対応する能力を身につけた。第三に、規律の評判を保存する決定的な行動をとった。

中国ではソ連と違って「停滞」の克服問題ではなく、文革の混乱収拾、組織の再建が中心課題であった。企業経営陣と地方自治体との雑種(hybrid)組織が導入された。これは「地方的国家コーポラティズム」ということができる。財産権が中間レベルの行政職に移譲された。中国はもともとソ連よりもはるかに分権化されており、中央は地方に対する統制を失わなかった。たとえば、地方官吏の任命権を放棄しなかった(Susan Shirk)。中央と地方の間で財産権が分配されたというよりも、むしろそうした権利が公私の領域を分けたその仕方が重要である。

改革はこうして「幹部企業」を作り出した。その経済的利益は財産権と結びついており、財産権は株式保有者および(あるいは)税務署としての地方自治体の役割を確認した。幹部企業者 − しばしば党書記を含む − は私的ビジネスの企業家と似たインセンティヴを有しているが、自分の疑似所有権を確保するために国家官僚制における地位に依存している。こうして中国の改革は国家の所有権を掘り崩すというよりもむしろそれを強化することに貢献した。

中国では1981年から「契約」という言葉が導入され、「地方自治体との財政契約」という形で使われている。統治の基礎が「ヒエラルヒー的権威」から「双務的契約」に転換した(Andrew Walder)。ソ連の場合と異なって契約が実行可能(enforceable)ということが重要である。分権化を目指した政策は実際に分権化を生み出したが、ソ連的な形での逆取りつけ騒ぎを引き起こさなかった。地方官吏は企業者としてまさに隠し行動、隠し情報問題に取り組むことによって報われた。「別々の椀で食べる」という財政政策は地方官吏による操作を可能とした。

天安門事件における共産党の行動は規律違反を罰し、日和見主義の波を抑止するという評判を確立する明白な戦略と見ることができる。評判戦略は短期のコストを払って長期の抑止を得るということを意味する。共産党の戦略はこの意味で成功であった。

ヒエラルヒー的権威の浸食は不可避ではない。下位レベルの官僚の計算には制度の特徴、制度改革の諸要素、指導者の行動が深く影響する。

中国では改革から利益を得ようとした官僚が自分の監督下の財産を私物化するよりも党と国家の地位にとどまることを選び、「中央における国家介入を地方における国家介入に置き換え」た(Chiristine P. W. Wong)。この疑似所有権の分権化が国家と党を繋ぎ止める決定的なセメントの役割を果たしたのかも知れない。

しかし、現在の状態が長続きするとは思われない。登小平後は地理的にも経済的にも遠心力が強まるだろう。私的部門が増大すれば雑種組織の利点は失われるだろう。中国では逆取りつけ騒ぎは保守的な地方から始まるかも知れない。保守的な地方はより豊かな地方からのより包括的な財の再分配を求めるかも知れない。雑種組織の試みは制度的安定の対価としてレント・シーキングを制度化することを意味するかも知れない。中国のような財産権が曖昧である移行期システムにおいては組織構造が不安定となる傾向がある。

以上がソルニックの分析である。新制度論は社会主義体制の脱制度化の過程をきわめて明快に説明する。新体制の成立過程における問題点もよく指摘することができる。それはアクターの行動とそれに対する構造的制約の両方を分析に採り入れている。しかし、新体制の成立過程そのものについてはこれまでのところ積極的、包括的な分析を提出していないようである。

[5]市民社会の弱さか-- 西欧リベラル派の批判と自己批判

民主主義の根底には市民社会があるという議論は古くからあった。しかし、それがソビエト型政治体制の民主化の問題と結びつけられるようになったのは1970年代である。その背景には西側、とくに西ヨーロッパ諸国におけるリベラル左派=新左翼の議論があった。西ヨーロッパではそれまで市民社会といえば、ヘーゲル的な意味での市民社会(b殲gerliche Gesellschaft)、つまり「国家権力の介入を受けることなく私欲を追求する人々(ブルジョア)からなる世界」だった。これに対して、フランクフルト学派は「国家権力から独立に公共問題への関心を追求する人々(市民)からなる世界」という意味を与えた(Zivilgesellschaft)。それは市民運動を支える哲学となった。同じ頃、一部の東欧諸国に似たような理念を掲げる知識人が登場した。彼らは政治的には禁欲を守る、政治は共産党に任せると宣言し、自らは社会活動に専念する、国家権力から自由な社会の領域を組織すると称した。「反政治の政治(Politics of Anti-Politics)」(David Ost)が彼らのスローガンであった。それまで東欧知識人を魅了した革命主義と異なって、徹底した非暴力主義、公然主義を唱えた。のちに「連帯」運動に際して「自己限定的革命」の名で知られることになる。この運動の活動家の中には若い頃に社会主義の理念に共鳴して共産党に加わり、のちに幻滅して体制を民主化する道を探った人々が多い。理念的に西欧諸国のリベラル左派に対応する人々といってよいだろう。おそらく西側の理論とは関係なしに出現したと思われるが、次第に共鳴し合う関係となった。彼らには今でこそ東欧諸国は歪んだ社会主義のために遅れているが、自分たちの運動が成功すれば西欧諸国と民主性において同等の水準、いやそれ以上の水準に飛躍することができる、したがってそれは「西側にとっても模範となるような運動」であるという自負があった(Arato 1990)。

市民社会は構造なのか、それともアクターの活動の所産なのか不明確なところがある。ヘーゲル的な意味では明らかに構造だった。しかし、フランクフルト学派や東欧諸国の反体制知識人の意味ではアクターの活動の所産だった。おそらく両方の意味を兼ね備えているというべきだろう。たとえアクターの活動の所産だとしても、一定の市民社会の伝統というものがなければそういう活動自体が芽生えにくい。またいったん発生すると構造化する傾向がある。このような二面的性格によって市民社会論はアクター中心主義にも構造論にも受け入れられやすいが、同時に混乱を持ち込む恐れもある。

アクター中心主義的民主化理論は市民社会論を民主化の一定の段階における「市民社会の復活」とか「大衆的高揚」という形で採り入れた。アクター中心主義にとっては市民社会論は mixed blessing であった。というのは、アクター中心主義は基本的にエリート主義であるが、市民社会の復活は大衆の介入を意味するからである。リンス/ステパンは民主化理論の一つの柱として大々的に市民社会概念を採り入れたが、二人はどちらかといえば構造という意味で使っている。また市民社会と並んで政治社会、経済社会という概念も導入している(Linz & Stepan 1996)。

近年、市民社会論は多くの批判にさらされている。それは一方では幻滅から来ている。市民社会の運動はポーランドやハンガリーのようなごく一部の諸国に限られていた。それら一部の諸国においてさえもその役割は期待とは外れたものとなった。市民社会は一方では政治社会に、他方では経済社会に吸収される傾向を示した(Arato 1990)。政治的自由化がいったん開始されると、多くの反体制運動活動家は政党づくりに奔走するようになり、政治社会入り、国家入りをした。他の活動家は市場経済化の波に乗って経済社会に、つまり古い言葉でいう b殲gerliche Gesellschaft に参入しようとした。こうして本来の市民社会の領域は閑古鳥が鳴く有様となった。社会は「動員解除」され、政治的アパシーが支配し、投票率が目立って低下した。環境問題や人権問題への関心も目立って低下した(Ekiert 1992)。旧ソ連東欧諸国の政治変動においてはオドンネル/シュミッターのいう「草の根運動」が欠如していたのである。

ある西側の研究者は次のように述べている。「ポスト共産主義の条件下では、実践的、理論的な分析概念としての市民社会は、それ自体としては、旧体制に関わって手を汚したことのない人々を結集する初期スローガンとして以外には、きわめて限定された価値しかもたない」(Lewis 1993)。市民社会に大きな期待を寄せていたポーランドの研究者は次のような苦い言葉を漏らしている。「国家社会主義のもとで発展した市民社会と政治社会の萌芽は、いわゆる市場経済と民主政治の作動様式とは相いれない」(Ekiert 1992. Terry 1993 にも同様の意見がある)。社会主義国の反体制運動は決して西側の市民運動に比較できるようなものではなく、それ自体一つのエリート運動、カウンター・エリートの運動だった。したがって、政治的自由化が始まると、運動の担い手が新しい権力の側に移っていったのは自然である。

最近、ディンという中国研究者から市民社会論に対する新しい批判が現れている(Ding 1994)。それは単にそもそも中国には東欧諸国のような市民社会がなかったとか、あったけれども変質したとかいう議論にとどまるものではない。市民社会対国家という二項対立的概念自体が社会主義からの移行には滅多に適用できないばかりか、たいていの場合誤解を生む恐れがあるというものである。というのは、ディンによれば、社会主義国における社会組織は両面性(amphibiousness)をもつからである。

社会主義国の社会組織はまず制度的寄生主義を特徴とする。後期社会主義社会には、共産党支配を終わらせるために活動し、外部の観察者が「独立的」あるいは「自律的」と考えるような多くの組織が現れるが、それらは実際には党=国家構造に対して寄生的な関係にある。次にそれは制度的操作と転換によって特徴づけられる。社会主義社会には自由民主主義における自発結社と似た組織がたくさんある。実際にはそれは共産党によって設立されたもので、下からの要求の「先取り的」役割を果たす(Johnson 1970)。体制の上層部が疑似社会に対する統制を失うと、制度的転換が起きる。体制と反体制は共生関係にあり、反体制は「エスタブリッシュメントの非同調(establishment non-conformity)」というべきものである。これは特殊中国的な現象ではなく、社会主義国一般に当てはまる。

中国の場合は「単位(danwei)」制度がこの傾向を強めている。それは自立的で、相対的に閉じられていて、政治的、人事的、財政的実権を有するミクロ社会システムである。単位の長は大きな裁量権をもっている。とくに行政と経済運営の分権化が進むと、合法非合法、適当不適当、正規非正規の間の「灰色領域」が拡大し、単位の長の判断にかかることが多くなる。ディンはマスコミの分野から公式、半公式、非公式の3つの組織の例を挙げている。

公式組織の例としては北京の人民出版社が発行した『新華文摘』、1979年設立のマルクス=レーニン主義・毛沢東思想研究所(干光遠Yu Guangyuan、蘇紹智Su Shaozhiなど)がある。いずれもその公式の地位を利用して反体制的な理念の宣伝や知識人の教育を行った。

半公式組織の例としては専門家協会、叢書、同仁刊物(tongren kanwu)がある。いずれも天安門事件に先立つ10年間に啓蒙活動を展開し、知識人に対して大きな影響を与えた。

非公式組織は本来は中国に存在し得ないが、自分を保護してくれる上部組織<挂靠単位(gua-kao danwei)>の傘下に入り、しばしば共産党名士を名誉会長あるいは顧問としていただくことによって、また財政的にはどこの「単位」でもやっている二重帳簿の仕組み(「小金庫(xiao jinku)」)を利用することによって存在することができる。具体例としては、世界経済協会・上海世界経済研究所付置の『世界経済導報』、北京市科学技術協会付置の北京社会科学技術開発研究所などがある。いずれも1980年代に大きな影響力をもった。

このような傾向はとりわけ毛沢東後に広まった。その理由としては、共産党が正統性を失ったこと、中央による国家機構の統制が弱まったこと、文化大革命後人材登用に新しい慣行が普及したこと、経済改革とその社会的結果が考えられる。両面性現象はマスコミにとどまるものではなく、経済でも同じだった。たとえば郷鎮企業は西側で一般に理解されているのと異なってほとんど私企業ではない。しばしば党の責任者が社長を兼ねているか、国家あるいは集団機関を上部組織(挂靠単位)としていただいている。

しかし、両面性が社会主義国に共通の現象であったとすれば、なぜ旧ソ連東欧では曲がりなりにも市民社会的性格が強くなり民主化が成功したのに、中国ではそうならなかったのかという問題が残る。これについてディンは、中国では党=国家システムのかなりの部分が組織として衰退したが、強制装置が崩壊しなかったこと、制度的操作が中位、下位レベルで生じたが、中枢部分では生じなかったことを挙げている。これは説明としてはやや迫力を欠くが、先のソルニックの議論と共通するものをもっている。

両面性モデルは決して市民社会モデルの否定ではない。市民社会は中国では目下のところ寄生的性格が強いが、将来はレリヴァントになるだろうとディンは述べている。

[6]経済発展は民主主義をもたらすか-- 継続する論争 経済が発展すると民主化しやすいというのは、1959年のリプセット論文以来、一つの定説となっている(リプセット仮説)。これについては多くの論議が重ねられ、今日に至っている。リプセット自身も自分の仮説に彫琢を加えている。先進国に民主主義国が多く、後進国に独裁主義国が多いというのは統計的に証明可能である。しかしそれだけでは経済発展が民主主義につながることを説明したことにはならない。R・ダールがいうように、因果関係は統計数字ではなく、論理によって証明しなければならない。19世紀初頭のアメリカのように、一人当たりのGNPが300ドル(1957年の平価換算)以下であっても十分な民主主義が存在し得たことを証明しなければならない。ダールは、A.読み書き、教育、コミュニケーションが普及している。B.中央支配的社会秩序ではなくて多元的社会秩序が存在している。C.極端な不平等が阻止されている、という条件があれば、民主主義は成立し得ることを指摘している。19世紀のアメリカはこれらの条件を満たす自由農民社会だった。この意味では民主主義は発展水準と必ずしも関係がない(Dahl 1971)。

発展水準と民主主義とを結びつける媒介項は何だろうか。最も一般的なのは政治文化論である。工業化が進むと、都市化が進展し、都市化とともに教育が普及し、教育が普及すると市民文化が受け入れられやすくなる(Amond & Verba 1963)。これはいわゆる近代化論の背景となっている。近代化論はしばしば開発独裁肯定論となる。このほか、媒介項として、機能分化論、コミュニケーション論、中産階級論、などがある。

現代の中国は一人当たりのGNPはなお低いが、おそらく19世紀初頭のアメリカの水準はすでに追い越しているだろう。しかし、ダールの条件のうちAしか満たしていない。そのAさえもおそらくは十分でない。とはいえ、中国経済が驚くべき急成長を遂げているのは事実である。これは民主化の可能性に影響をもたないだろうか。ハンチントンは1950年代から20年間続いた高度成長が民主化の「第三の波」を齎したといっている。1913〜50年の一人当たり実質生産の年間平均成長率はスペインでマイナス、ギリシアとポルトガルで1%以下であった。ところが、1950〜73年にはスペインで5・2%、ポルトガルで5・3%、ギリシアで6・2%に高騰した。1960〜73年のGNP成長率は西欧諸国の4〜5%に対して6〜8%とはるかに西欧諸国の水準を抜いていた。このような経済成長の蓄積が1970年代に民主化となって結実したのだった(Huntington 1991)。同じことは広い意味で旧ソ連東欧諸国にも当てはまる。今日の中国にはよりいっそう当てはまるだろう。革命以後の中国の経済成長は著しいが、とりわけ登小平の「4つの現代化」政策以後めざましい。政策開始以来、そろそろ20年が経とうとしている。

経済発展と民主化の関係について最も新しい説はプシェヴォルスキによって唱えられている(Kohli et al. 1995, Przeworski & Limongi 1996, Przeworski et al. 1996)。プシェヴォルスキはリプセット仮説について懐疑的である。プシェヴォルスキによれば、経済発展が民主主義につながるという考え方には実は2種類ある。

(1) 内生的な(endogenous)解釈。経済発展がそのまま民主主義につながるという説で、いわゆる近代化論はこれに入る。経済発展はまず非民主的な段階で起き、然るのちに民主化するということになる。

(2) 外生的な(exogenous)解釈。民主主義は経済発展とは別の理由で起きるが、経済的に発展した国で起きると定着しやすいという説である。外見上は(1) と同じように見えるが、説明の論理が異なっている。

内生的な解釈に従うとどうしても説明できないケースが出てくる。経済発展の水準と関係なしに非民主体制が崩壊したり、民主体制が成立したりしている。たとえば戦争の結果、権威主義的指導者の死、経済危機、外圧などで民主化する場合がある。発展水準が低くても民主化した例、発展水準が高くても独裁にとどまった例がある。したがって、外生的な解釈の方が納得がゆく。民主化はいつでも起きる。それは主としてアクターの行動にかかっている。ただし、民主主義が定着するかどうかは別問題である。発展水準が高いところで起きた場合にはあまり問題がない。発展水準が低いところで起きた場合には経済成長を維持しなければならない。経済成長を維持することができれば民主主義も維持できる。しかし、経済危機に陥ると難しい。

プシェヴォルスキの説はアクター中心主義を補強するもので、同時に開発独裁論やネオリベラリズムに対する警告となっている。

しかし、同じアクター中心主義に立ちながら、リンス/ステパンはリプセット仮説に好意的な立場をとっている。良好な経済状態はどのような政治体制にとっても有利だという説は根拠がない。持続的な経済成長は非民主体制を掘り崩す作用をもつ。経済的繁栄が続くと権威主義体制の存在理由が疑われるようになる。また持続的な経済成長は社会変化を引き起こし、抑圧のコストを高める。中産階級、熟練労働者層を発達させる。教育の拡大が他の社会との接触を促す。これに対して、民主主義体制の場合は逆に経済的繁栄が体制の基礎を強める。民主主義は権威主義よりも経済危機に耐える能力をもつ。権威主義は正統性よりも業績に依存することが多いので、経済危機に弱い(Linz & Stepan 1996)。ハンチントンも「業績ジレンマ」という言葉で同じ考え方を表明している(Huntington 1991)。

プシェヴォルスキの考え方に立てば、中国経済の繁栄は必ずしも民主化につながらないだろう。これに対してリンス/ステパンの考え方に立てば、遠からず民主化が訪れるだろう。権威主義体制は経済危機に弱いので、深刻な経済危機が起きたときにその可能性が出てくる。中国は地域格差が大きいので、経済発展の影響はいずれにせよ複雑な形をとることになろう。

[7]国家性に対する挑戦か-- 地方分権化の意味合い

中国では地方分権化の傾向が目立っていると伝えられる。また、香港との合体によって一国二制度方式に移行した。こうしたことは民主化にとってどのような意味合いをもつだろうか。

民主主義と地方分権は密接な関連にあると考えられる。地方分権は権力分離(separation of power)の一形態である。18世紀、19世紀の民主主義革命は封建的な地方割拠主義に反対して、中央集権主義を唱えたが、成熟した民主主義は広範囲の地方分権を抜きにしては考えることができない。はたして地方分権化の進展は民主化を促すだろうか。

J・S・ミル以来、代議制民主主義は主権国家と国民的同質性を前提としていると考えられてきた。現代の民主化理論の代表者もほぼ同じ立場に立っている(Rustow 1970, Linz 1975, O'Donnell & Schmitter 1986)。彼らは民族問題は民主主義の枠内では解決不可能なので、それ以前に解決されていなければならないと考えている。リンス/ステパンはこれを国家性(stateness)の問題として定式化した(Linz & Stepan 1996)。もちろん、リープハルトの多極共存型民主主義論(Lijphart 1977)は異なった立場に立つが、今日までのところ多極共存型の民主主義理論はあっても民主化理論は存在しないように思われる。ライティンはゲーム理論の立場から他民族社会における民主化の可能性を論じており、その非原初主義的アプローチは将来性を感じさせるが、目下のところ単なる理論モデルにとどまっている(Laitin 1995)。報告者は民主化と民族問題の関連についてまだ定見をもつにいたっておらず、立ち入って論じるつもりはない。ここで考察しようとしているのは民主化と地方問題との関連である。報告者の知る限りでは、地方問題はどの民主化理論においても民主化の深刻な障害とは考えられていない。

ところで、民族問題と地方問題は必ずしも截然と分けることができない。民族問題はある程度まで地方問題であり、また地方問題は民族問題に発展する可能性を秘めている。たとえば、スイスのフランス系カントンは地方問題であるが、民族問題に発展する可能性を秘めている。問題は当該地方の住民が全体国家に対してどの程度独自の政治的アイデンティティをもつにいたるかである。地方の政治的アイデンティティが民族意識などに支えられて一定以上に強くなれば、国家性の問題に転じるだろう。もちろん民主主義国家における政治的アイデンティティを全国的か地方的かと二者択一的に捉えるのは正しくない。どのような民主主義国家もその内側に常に複数の政治的アイデンティティを抱えている。民主主義国家は多様で相互補完的なアイデンティティ(multiple and complementary identity)に支えられている。本報告は地方問題として現れてくる限りで民族問題を考察するが、民族問題それ自体は取り上げない。したがって、中国においても深刻になりつつある少数民族問題は対象外である。民主化過程において地方問題が原因となって国家が解体した例は南ヨーロッパとラテンアメリカには存在しない。これに対して、旧ソ連東欧諸国にはユーゴスラビア、ソ連、チェコスロバキアの例がある。この3例はもちろん民族問題と深く絡んでいるが、ある程度までは国家的アイデンティティと地方的アイデンティティの間の競合の問題であったと考えることができる。報告者はすべての多民族国家が解体の運命にあるとは考えていない。なぜ南ヨーロッパとラテンアメリカでは民主化に伴って国家の解体が起きず、旧ソ連東欧地域では起きたのか。これはそれとして考察に価する問題である。もちろん南ヨーロッパとラテンアメリカにはもともと旧ソ連東欧地域におけるような深刻な地方問題が存在しなかったと考えることもできよう。しかし、南ヨーロッパではスペインが、またラテンアメリカではブラジルがそれなりに深刻な地方問題を抱えていたのである。

リンスとステパンはこれを民主化過程における政治的アイデンティティ形成の問題と関連させている(Linz & Stepan 1992, 1996)。民主化過程において政治的アイデンティティ形成に最も貢献するのは選挙である。したがって、どのような時間的順序で選挙を実施するかが重要な問題となる。同じ選挙でも自由化の程度が低い選挙はアイデンティティ形成に貢献しないので、どのレベルで先に完全自由選挙を実施するかが決め手となる。

スペインとブラジルにおいては、まず全国的なレベルで完全自由選挙を実施した。それも1度ではなく国民投票のような形で何度も実施した。然るのちに、大幅な地方分権を認めて、地方レベルにおける選挙を実施した。このため、全国的な政治的アイデンティティが地方的なアイデンティティを圧倒するようになった。これに対して、ユーゴスラビアとソ連では共和国レベルの選挙が先行した。ユーゴスラビアではそもそも全国レベルの選挙が行われず、共和国レベルの選挙のみが実施された。ソ連においてはたしかに全国選挙が先行したが、その自由度が低く、直接政府を形成できるようなものではなかったので、のちに実施されたより自由な共和国選挙の方が政治的アイデンティティ形成により大きく貢献することになった。もちろん、共和国の政治的アイデンティティ形成に与って力があったのは自由選挙だけではなかっただろう。そのほかにも多くの要因があったに違いない。しかし、ユーゴスラビアのマルコビチ首相やソ連のゴルバチョフ党書記長は国家の一体性を守ろうとするならばまさにやるべきでなかったことをやってしまったのである。つまり、たとえ僅少ではあったにせよ全国的なアイデンティティを形成できる可能性があったにもかかわらず、それを最初から閉ざすような形で自由化を実施してしまったのである。

中国においてはなお自由選挙が実施されていない。しかし、伝え聞くところによると、天安門事件以後、村落レベルでは事実上の自由選挙が行われているという。その自由度がどの程度のものかは明らかでない。またそれは今のところ県、市、省など上のレベルに波及する気配はないようである。もし共産党政権が村落レベルでの自由選挙を許しているとすれば、次の自由化の波の際にそれをどのレベルまで許すだろうか。もしまず全国レベルで完全自由選挙を実施するのではなく、省レベルから実施するならば、それは地方の政治的アイデンティティ形成に大きく貢献することになろう。権威主義的指導者は民主化圧力に屈するときにしばしば全国レベルでの自由選挙を嫌って、地方レベルで小出しに自由選挙を実施する傾向がある。中国の指導者がその例にならうならば、民主主義のための全国的なアイデンティティ形成の機会を逸し、国家の一体性を重大な危険にさらすことになるだろう。もう一つ、興味深い例は香港である。香港には一国二制度方式が適用されようとしている。はたしてそれは実現可能だろうか。リンスとステパンは最近の著作においてこの問題に注意を払っている。

統一までの香港の政治システムが十分に民主的であったかどうかは異論の余地があろう。しかし、言論の自由など住民の基本的な権利が保障されていたこと、立法府の自由選挙が行われていたことは知られている。北京政府は一国二制度方式の名の下に統一後もその政治システムの存続を保証した。はたして非民主的国家の内側に民主主義的下位政治システムを維持することが可能だろうか。

民主主義は近代国家の統治形態であり、国家なくしてはいかなる近代民主主義も存続し得ない。ウェーバーによれば、国家とは領土に基礎をおく強制団体であり、暴力行使の独占権を要求する。つまり民主主義は主権国家でなければ維持できない。香港の地位は国家なき民主主義の限界を示すことになろう。いかなる政治システムが支配的であるべきかは最終的には国家の手中にある。地方に自治を許すかも知れないが、その決定権は最終的には北京政府にある。北京政府は香港に政治的民主主義を許すような制度改革を一貫して拒否してきた。香港の地位を保証するのはけっきょく中国=英国協定でしかないのである(Linz & Stepan 1996)。

他方で、何らかの理由で長期にわたって一国二制度方式が維持されるならば、それは中国の他の地方が香港の地位を要求する根拠となるかも知れない。北京政府が最も恐れるところだろうが、その可能性も排除できない。

一国二制度方式は歴史上珍しいケースであるが、前例がないわけではない。同君連合は二つ以上の国が同一の君主をいただく体制であるが、君主が国によって政策を使い分ける場合は一国二制度に近い状態となる。たとえば、ナポレオン戦争後のポーランドはロシア皇帝を君主としていただく王国となった。アレクサンドル一世はポーランドに関しては比較的リベラルな政策を実施したので、ロシア本土とは別の制度が適用されたかのようであった。しかし、ポーランドの自由は1830年の11月蜂起で終わりを告げた。これは近代以前の例であり、また同君連合は一国二制度方式というよりも国家連合に近いが、同じ国の中で異なった体制を維持するのが難しいことの一つの例証となろう。

このように地方制度という観点からも中国は現状を維持するのが難しくなっている。

[8]結びに代えて

以上において、旧ソ連東欧諸国の経験を踏まえて、西側において開発された民主化理論が中国の民主化の見通しに示唆を与えると思われる諸点を検討してきた。このほかにも検討すべき課題は多々あるだろう。

たとえば、旧ソ連東欧諸国では言論の自由化に伴って政治文化調査が大々的に行われるようになり、多くのことが明らかとなっている。中国においてはそのような調査はなお十分な意味では可能でないであろうが、政治文化調査は単なる世論調査と異なって直接に住民の政治的意見を聞くものではないので、ある程度のことは可能と思われる。すでに多くの農村調査が行われていると仄聞するが、将来は政治文化の調査も含めてもらいたいものである。旧ソ連東欧諸国における調査結果と比べれば、きっと興味深い知見が得られるだろう。

またたとえば、国際的要因の影響がある。もともと民主化理論においては国際的要因にはほとんど注意が払われなかった。しかし、旧ソ連東欧諸国の変動においては国際的要因の巨大なインパクトは無視できないものがあり、数多くの研究が現れている。それは単に直接の政治的、経済的圧力だけではない。中立的なメディアによる情報や時代精神の拡散といったものを含めた外の要因の働きである。中国においても改革・開放政策の進展に伴って国際的要因の作用は重要となろう。

示唆はあくまで示唆であって、それ以上のものではない。それがどの程度役に立つか、どの程度事実に対応しているかは中国研究者自身によってチェックされなければならない。他方で、中国研究者が独自に行う研究は疑いもなく民主化理論を豊かにし、他の地域の研究者が新しい知見を得るのに貢献するだろう。

長い間、ロシア研究者の間ではロシア・ユニーク説が支配的だった。東欧研究者の間でもいわゆる原初主義的(primordialist)アプローチをとる研究者が少なからずいた。中国研究者の間でも多少はそのような傾向があるのではないかと思われる。しかし、グローバルな市場経済化と民主化は比較研究のための新しい地平線を開きつつある。たしかにそれぞれの地域の個性には十分な注意を払わなければならないが、同時にそれにとどまることなく他の地域との共通性や相違の意味にも目を向ける必要があると思われる。

- 参照文献(著者名アルファベット順) -

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17 Linz & Stepan 1996: Juan J. Linz & Alfred Stepan, Problems of Democratic Transition and Consolidation. Southern Europe, South America, and Post-Communist Europe (Baltimore & London: Johns Hopkins University Press, 1996).

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21 Przeworski & Limongi 1997: Adam Przeworski & Fernando Limongi, "Modernization: Theories and Facts," World Politics, 49-2 (1997 Jan): 155-183.

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25 Schmitter 1993: Philippe C. Schmitter, "The International Context for Contemporary Democratization," Stanford Journal of International Affairs, 1 (1993 Fall/Winter): 1-34.

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27 Terry 1993: Sarah Meiklejohn Terry, "Thinking about Post-Communist Transitions: How Different Are They?" Slavic Review, 52-2 (1993 Summer): 333-337.

28 Tsou 1996: Tang Tsou, "The Tiananmen Trageday: The State-Society Relationship, Choices, and Mechanism in Historical Perspective," in: Jon Elster, ed., The Roundtable Talks and the Breakdown of Communism (Chicago: The University of Chicago Press, 1996) : 213-240.

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30 Zhang 1994: Baohui Zhang, "Corporatism, Totalitarianism, and Transitions to Democracy," Comparative Political Studies, 27-1 (1994 Apr): 108-136.


質  疑  応  答  (先に質問を一括し最後に回答を一括)

(1) 宇多文雄(上智大学)氏から下斗米報告について  ロシアの民族問題は、遠心力と求心力のどちらにまとめることが可能か? 下斗米氏は「分離主義の没落」と言うが、全くそうは見えず、必ずしもエスニックな対立を伴わない中央−地方対立も激化している。一部では、中央との対立が深まることをセパラチズムと呼んでいる。結局、武力闘争を伴わないだけで事実上の連邦崩壊の危機をはらんでいると言えるのではないか。

(2) 松里公孝(北大スラ研)氏から宇多・下斗米発言について  (下斗米報告に賛成の立場から)ロシアにおけるエトノス関係の共通の合意は「非対称的な連邦にはしない」というもので、96年憲法の意義は大きい。

(3) 趙宏偉(杏林大学)から天児報告について  村の選挙では、党員内部の談合(あるいは党のキャンペーン)で決まることもあり、自由選挙かというと必ずしもそうでもない。村レベルの選挙が共産党の新たな権威誇示の場であるとも言える。

(4) 上原氏から天児報告について  村レベルの選挙のイシューが、今日における村民負担の問題の深刻化とうまく結びつかないが、この点をどう考えるのか。  菱田報告について:「唯銭一神教」はやがては多元化する過度期の現象と してとらえて良いか。  スラブ側報告について:スラブ社会でも「唯銭一神教」的現象は起こって いるか。

(5) 岡田裕之(法政大学)氏から伊東報告について  官僚制の問題をめぐって、一党制のもとでの官僚制は本来の官僚制ではないというが、昔の中国では皇帝の下での家産官僚が存在するので、結局「官僚制」と一口に言ってしまうのではなくいくつかのタイプを設定してはどうか。

(6) 毛里和子氏から下斗米・伊東報告について  スラブ側三報告ではいずれも「ノーメンクラトゥーラ権力の連続性」が強調されているが、それはいつまで続くのか。旧ノーメンクラトゥーラはいつかは消えるのでは? 階層分化などの見通しはどうか。

〈回答〉

(1) 下斗米氏  (毛里質問へ) ノーメンクラトゥーラ支配の今後については、恐らく中露では異なるであろう。ソ連時代、すでに1970年代からノーメンクラトゥーラの分解は進行している。現在起きているのはノーメンクラトゥーラの部門間の争いで、とりわけ問題なのはエネルギー部門を独占するノーメンクラトゥーラの存在である。  (菱田報告に関連して) 拝金主義の問題は、確かにロシアにもある。「分離主義の没落」については、ペーパーの中で「?」をつけており、確言したわけではない。

(2) 天児氏  (上原・趙質問へ) 農民負担の問題は特有の因果関係を持っているが、農村の末端レベルでは流動的な状況である。そして、それが従来の党中央からの統治の弛緩を起こしている状況から考えて、一連の問題を党の支配の再構成の過程として見るべきであろう。その点、趙指摘は確かにその通りである。しかし、同時に思いがけない事態が続々と起こっており、結局中国農村における変化を直線的なものとしてではなくさまざまな傾向の混在として考えるべきであろう。  (下斗米氏が「中国はそんなにましな国なのか」と述べたことに関連して)民族問題について楽観的だとの指摘だが、一歩踏み込んで考えを述べれば、今日の中国は一見して政治的に安定しているが、同時に不安定を内在しており、民族問題をめぐって制度化が進んでいないという状況が見られる。

(3) 菱田氏  個人的には、天児見解よりはもう少し悲観的である。  村民自治については、フィールドワークした場所は極めて限られているし、農村の安定と選挙の問題には親族結合等の要因が影響を及ぼしている可能性がある。「唯銭一神教」については、ロシアの状況はどうなのだろうか。

(4) 伊東氏  「植民地化」の問題については、中央アジアの場合は共産党が共和国を作ったのに対し、バルトの問題はもともとソ連と関係ないところで国家が機能していたというところにあると考える。  ロシアにおける「唯銭一神教」の問題は、現在のところそれほど感じられない。あくまでさまざまな現象の中のひとつである。  官僚制・ノーメンクラトゥーラの問題については、将来的には分解していろいろな階層になるであろう。


結   語

本合同シンポジウムの閉会の言葉として次の3点について触れたい。

1. 今回のシンポジウム開催の動機

今回の合同シンポジウム開催にあたり、私自身、バザール社会で象徴され、多少劣等感意識をもった文化、すなわちロシアにかねてから親近感を持っており個人的に関心があったことと、中国領域研究の中間点でなにか地平がひらけてくるアイデアが創出されるのではないかという期待とともに、中露比較研究はいずれにしても大変に有用だと考えてきた。中国領域研究チームがこれから最終年度に向けてまとめの作業を始めようという時にあたり、一歩早く総括作業に入っており、かつ旧社会主義圏として似た問題群を抱えているスラブ領域研究の成果を学びたい。

2. 民族問題について

下斗米氏は今回の発表で、ロシアの民族問題の基本的性格として (1)民族問題は中央−地方問題の一つでもあり (2)利害調整のメカニズムとその制度化によって民族問題の先鋭化は避けられる、または避ける可能性があるとしている。このテーゼにあえて異議を挟まないが、そのプロセスで中国とロシアと大きく異なる点がある。憲法あるいは制度レベルの問題がロシアではオープンに語られてバーゲニングが行われているが、中国ではそうした議論が一切許されていない。例えば、中国では、利権の配分とか資源の配分とかの問題提起や要求にしても公にすることはできない。このような違いがあるが、民族問題は政治スローガンであると同時にこの問題はしばしば政治化する。下斗米テーゼでは非常に合理的で一見納得がいくがそれだけで分析していては民族問題の深層が見えてこないのではないかと懸念する。チェチェン、ユーゴ、チベットなどでなぜあのような非合理な紛争が起きるのだろうか。それは極めて非合理的なものであるがゆえに政治的インパクトを持つ(非合理性の政治化)。では、どういう枠組みで分析したらよいのであろうか。民族問題が国家の安定あるいは構造の崩壊に繋がるかなどを下斗米テーゼを通して考えさせられ教えられた。

3. 全体総括

総括発言の第1点は、今日のシンポジウムで報告を聞いたうえで改めて印象として感じた点であるが、ロシアは全く変わっていないということである。確かに変容の現象は多々見受けられるが、主体すなわちアクターという点では変わっていない。今日まで「中国の明日がロシアの今日」と思っていたが、逆に「中国の今日がロシアの明日」かも知れないということである。

2点目は、体制変容をどのように論じるのかという課題である。もともと社会科学研究はモデルを想定して研究を行い、たとえば全体主義から権威主義、そして権威主義から民主主義というような体制変容モデルに依存する。現在起こっていることが本当にそうなんだろうか、つまり現在起こっていることが固定化される、例えば現在ロシアで起こっている混乱が固定化することもありうると考えると、体制変容モデルですべての変動を分析しがたい印象を受ける。過去を全て体制変容であると考えることも可能であるとすれば、何か着地点を想定して論じることが本当に適切なのか。 したがって、脱社会主義の場合、中間モデルをつくる必要があると思われる。ロシアではショック療法は失敗であったとしているが、中国ではある段階で政治的にしろ経済的にしろ必要となるかもしれない。注意しなければならない点として、現在起こっている変化に性急な結論を求めるのは危険であるということである。

3点目は冒頭に皆川氏が述べた制度変更が必ずしも意識の変容に繋がらないということである。極めてアンビヴァレントな状態について一例を示すと、ロシアでは経済特区を導入すべくその法整備を中国より先に検討していたようだが、結果的にはロシアでは政治経済改革同様実体が伴わずいまのところ制度倒れに終わっている。制度の変更が意識の変容と結びつかないとすれば、そのズレをどうすればトータルに把握することが可能なのだろうか。現代政治研究の重要な課題である。

最後に本シンポジウムで中国側の問題提起を受けてくれたことを感謝している。そして、これからもこのようなシンポジウムが開催れることを強く望んでいる。

文部省科学研究費重点領域研究

「現代中国の構造変動」総括班

領域代表  毛里和子