SRC Winter Symposium Socio-Cultural Dimensions of the Changes in the Slavic-Eurasian World ( English / Japanese )


ロシアの学校制度と教育観は変わったか

所  伸 一 (北海道大学)

Copyright (c) 1996 by the Slavic Research Center( English / Japanese ) All rights reserved.


この報告は、ソ連邦崩壊以後のロシアの教育現状を、1992年の「ロシア連邦教育法」以後4年半を経た現時点で総括し、構造と教育観を概観してみよ うとするものである。われわれは、とりわけ、以下に示すような論点を取り上げ、学校制度の内実と政策担当者及び市民の教育期待について整理してみることを 試みた。資料としては、官報と新聞を含む出版物のほか、現地調査データとして、モスクワ(1996年11月実施)、ノヴォシビールスク(1995年10 月; 1996年5月実施)、及びユジノサハリンスク(1995年12月実施)の学校と教育行政機関での聞取り素材を使用した。

 

1. ロシアの教育体系と学ぶ者の経路

はじめに現在のロシアの教育の制度体系とそこに学ぶ人々の動態を概観しておく。<概念図は次頁に掲載>。関連の数字も挙げてみよう。ロシアは現在、 162,600の教育施設を含む、かなり大きな学校網を擁する。その内訳は、組織・法的形態別に見て、6,800の国営学校、147,300校の自治体立 学校、8,500校の非国営学校(私立、団体立、宗教法人立の諸学校)である。1995/96学年度始めで76,700の就学前施設が活動しており、ここ におよそ680万の幼児が通園している。普通教育の学校数(昼間制と夜間制で)は95/96学年度で70,200以上を数え、ここに2,100万以上の生 徒が学ぶ。4,300の初等・職業教育機関に170万の生徒が学び、中等・職業教育施設は2,600校で、ここで200万の生徒が学ぶ。高等教育機関は 548校で、250万の学生を擁する。資格向上のための分野別・専門統合・地域立の機関、学部、講習所が1,000カ所余りもうけられ、ここでは200万 人以上が再訓練を受けた。8,200の補助教育施設に600万以上の児童・青年が在籍する。教育の分野には、大量の労働力が投じられており、各種教育施設 で、約590万人が働いている。

 

2. 連邦崩壊後ロシアの教育制度をめぐる主な争点

2−1.ソ連崩壊後のロシアにおける教育の基本的な理念と制度骨格は、1992年7月に国会で採択されたロシア連邦教育法(Zakon Rossiiskoi Federatsii "Ob obrazovanii")(全58条)によってうたわれた。 *1この法律 は、個人(lichnost')の育成を第一の目標にうたう点、及び、社会と国の側から保障しようとする教育の概念規定において、過去と際だっていた。す なわち、同法は、訓育・子育ての意味を含む包括的な教育(vospitanie: upbringing)の語を使用するのを避けて、陶冶・教養(obrazovanie: education)と教授・学習(obuchenie: instruction)の要素へと重点を移すことによって保障を限定したのであった)。*2

1993年12月採択のロシア連邦憲法もまた、この発想と共通のものを持っており、このため独自に、「子供の養育への配慮は親の義務である」(第 38条)ことを明記した。

これらに見られる立法意思は、いわゆる脱国家化、「脱イデオロギー」化というソ連崩壊前後のロシアにおけるソビエト様式への反発の機運を強く受けた ものであった。

ロシア連邦の教育体系

出所: Ministerstvo Obrazovaniya Rossiiskoi Federatsii,"1995/1996 uchebnyi god.
Itogi,problemy,perspektivy",M.,1996,s.41.

2−2.新生ロシアは才能発掘のため学校を多様化する路線を公式に採用した。この結果、1995/96学年度に昼間制・普通学校は全国合計が7万余 校であるが、このうち、リセーなど新しいタイプの学校の数は以下の表の通りである。

この多様化を進める方向については世論はあまり割れていないかに見える。

 

表1/新しい種類と組織・法的形態の中等教育機関

教  育 機 関
校 数
1992年
1993年 
1994年
1995年
特定教科を深く学習させる学校
6,955
7,026
6,849
8,200
ギムナジヤとリセー
506
918
1,190
1,282
非国営の機関
85
300
386
523


表2/リセーとギムナジヤの校数


1991年
1992年
1993年
1994年
1995年
リセー
77
200
328
433
482
ギムナジヤ
100
306
569
727
800


表3/リセーとギムナジヤに学ぶ生徒の数(単位1,000人) 


1991年
1992年
1993年
1994年
1995年
リセー
49.5
116.9
214.5
284.2
331.7
ギムナジヤ
78.6
234.8
433.2
553
641.2
出典: Ministerstvo obrazovaniia Rossiiskoi Federatsii, 1995/1996 uchebnyi god. Itogi, problemy, perspektivy, Moskva,1996, p.42.

2−3.普通学校の教育内容及び課程組織を改革するに際しては、脱国家化、「脱イデオロギー」、多様化が基調音となったが、その経過と議論が示す一 つの目的は、欧米と共通性を持つ卒業資格(konvertiluemyi diplom)が発行可能な内容、課程、時間数、年限などを備えた中等・高等教育機関を作り出すことにあった。*3いわば閉鎖国家 から開放・市場制国家群への参加という転換による要請である。中等教育については現在、各教科の国家的教育標準(スタンダード)が案として中央から提示さ れ、確定作業が進行中である。

現行の中等教育内容に関して言えば、ここにはペレストロイカ期以降「オルタナチヴ」の名の下に多様なものが取り込まれてきたのであるが、特に自国史 とロシア文学について、論争が起こりつつある。世論レベルでは、95年末の総選挙時に各潮流が教育に関しても見解をまとめたため、意見分布が明らかになっ た。たとえば、民族派の「ロシア人共同体会議(KRO)」は、「現在の教授学習内容は、広範な世論、文化人、学者の参加を得て、もう一度注意深く見直すべ きだ。なぜなら、それは深刻な不安を招いているからだ。そこでは母語、文学、祖国史にあまりにも注意が払われていない。プーシキン、ゴーゴリその他ロシア の作家のいくつもの作品が学校の教科から除かれている。これでは、わが国の学校は言葉の悪い意味でのコスモポリタンを育てることになる」と主張する。*4

歴史教育をめぐっては、それが包括的な社会観の伝達の営みであるだけに、舞台は学界にとどまらず、立場や教育論を反映しつつ、よりひろく論議されて いる。1996年11月には、教育次官のアレクサンドル・アスモーロフが国会に呼ばれて、共産党(KPRF)会派のG.ベノーフ議員が学校教科書において 歴史の歪曲と中傷とが起きていると追及する質問の答弁に立つという1件があった。

この事実経過に立ち入ってみよう。ベノーフ議員は10−11年生の近代史の教科書にジューコフ元帥のことが出てこないこと、大祖国戦争がその教科書 では第2次大戦に変わってしまったことを挙げた。「次官が招いた専門家(科学アカデミーのロシア史研究所長A.サーハロフと世界史研究所長A.チュバリヤ ン)は省の立場を支持した。つまり、近代史は事実として第2次世界大戦を述べていること、及びチャーチル、ルーズヴェルト、スターリン、モーロトフをその 主体と見る見方を取ったこと、しかし、大祖国戦争とそこにおけるゲオルギー・ジューコフ元帥の役割とに関しては、5年生から始まる祖国史の授業の中で述べ られていること、であった。」改革派の新聞は、上の記事を、「事実の歪曲と中傷に関しては、議員をいかに立腹させたとしても取り消すことの出来ない新発見 の資料がそれらを<中傷し>ているのである。」「国会は学校教科書に不安を感じた。だが実生活は変わったのである。唯一の真理であると公認された理念で満 ちた、スタンダードな指令で指導することは既に不可能である」と締めくくった。*5

この教科書問題を契機に、歴史教育をめぐる問題の構造は、さらに鮮明になったようである。「『過渡的』教科書」と題された特集記事は、国会質疑のや や詳しい経緯とあわせて、コラムで、今は種類が多すぎて学校現場では困っているという歴史教師の声を紹介し、さらに、かつてのバラ色の歴史も困るが、さり とて過去を真っ黒に描く現在の教科書も困るとする親の意見を掲載している。

それによれば、哲学博士でもある「親」、アナトーリ・ゴリャーチェフは次のように言う。「先日、娘が使っている教科書、ドミトレーンコ『祖国史: 20世紀』を手に取ったが、その章建てを見ただけで恐ろしくなった。1917年−2月から10月へ。内戦の歩み。危機から危機へ。スターリン転換。戦争の 前夜。戦後の苦難。自由化の最初の試み。制度の危機。ソビエト制度の崩壊、とある。20世紀の我々の歴史全体とは危機とカタストロフと崩壊だということに なる。たいへん暗い光景が思い浮かぶのだ。侮蔑という独特の1段階が始まったのだ。われわれは絶えず自分を責めつづけている。人類の宇宙脱出はいったいど こに行ったのだ。われわれの偉大な文学はどこに消えたのか。技術の成果はどうしたのか。否定的なものをぎりぎりまで集めることは、やめなければならない。 10年前の教科書を見てみよう。すべてがバラ色で描かれていた。現在の教科書はどうか。すべてが真っ黒である。混ぜ合わせてみよう。そしてどういう色が出 てくるか見てみよう。その色合いは真実により近くなるだろう。だって歴史には悪いこともあれば良いこともあるからだ。すべてを1色で描くことはできない。 実生活ははるかに複雑で、もっと多色だ。」*6

このように、歴史教科書をめぐって96年に見られたやりとりは、ソビエト崩壊直後の「1段階」を経て、ナショナリズムによる「反撃」、ないしは、学 校の歴史教育は国民の形成あるいは統合の一翼を担うという側面から言えば当然な要請もはらんだ、揺り戻しが生じていることを示したのである。

教育の国家標準(スタンダード)の制定という問題に戻れば、このような政策は、字義通りには全国の学校教育(公私立を問わず)の到達度の標準化をめ ざすものであるが、実際には、生徒の全般的な知識獲得水準の高度化を要求するため、その制定をめぐる論議によって、連邦内各地域の教員の充足及び力量、関 連教材蓄積など実施基盤のばらつきの現実が改めて浮き彫りにされている。

始めに現場教師の中の、標準導入に反対の意見を見てみよう。チュメニ州オクネヴォ村の歴史教師は次のように書いている。「発表になった草案を読んだ 時、<中略>私には、これをまとめた人たちは学校の現場へ一度も足を運んだことがない人たちだという印象が生じた。私は、何かエリート的で特別な学校でな く、並の、普通の学校を、たとえば私たちの村の学校を念頭に置いている。このようなスタンダードは非現実的で、もしこれが採択されたなら、お役人には見事 な教員抑圧手段が生まれる。現在その影が姿をあらわしている。まだこれは草案に過ぎないが、しかし、教員審査のために提出されている問題項目の中には、す でに『歴史教育のスタンダード』というようなものもある。」*7

教育省批判のスタンスを維持する新聞『9月1日』は、役人による精神生活支配の復活に反対する立場から、上のような声を紹介しつつ、国家スタンダー ド一般に反対の論陣を張っている。しかし、筆者には、その導入に賛成ないし従わざるを得ないという声が現在のロシアの多数派であると思われる。ウラヂーミ ル州の一教師は、「教育スタンダードは必要だ。だって今はあまりにも色々な学校が生まれ、色々な教育プログラム・教育工学が多数あるからだ。しかし、こう いう全体に何か共通のものがなければならない」という意見を寄せている。また、ペルミ州の教師は、「おそらく、スタンダードは、能力別に子供を分けるとい う無秩序状態を打ち切るのを助けるだろう」と期待している。*8このあたりが現在、代表的なものと思えるのである。

さらに、教育標準の導入を、これは授業に高い水準を要求するもので、ロシアには必要なことと受けとめる見方がある。たとえば、ユジノサハリンスク教 育大学では、教育学講座主任が、1995年12月、筆者の質問に答える中で、「ロシアの教育の水準はまだ低い」から引き上げが必要であるとの理解を示し た。この大学では、国家標準(スタンダード)をサハリンの各学校現場でいかに実現するか、が大学院生の研究テーマになっていた。

ところで、教育に関するロシア社会のこのような自己評価と対応は、すでにペレストロイカ期から兆しが見られたものであったが、市場経済陣営への参加 決定以後、より説得的に見える比較情報によって強められていた。新聞は、世界銀行の専門調査団による部内レポート『移行期ロシアの教育事情』(英文、 1994年10月)を詳しく紹介しており(1995年2月)、ロシアの生徒の「学力」について、一定の世論強化に与していた。その報道によれば、このレ ポートは、7カ国の13歳の生徒の数学の学力比較調査の結果を相関図で示している。評価は3つの観点で行われている。すなわち、(i)情報の知識量、 (ii)この情報の問題解決への応用力、(iii)新しい及び未知の課題への活用、である。掲載した『教員新聞』は、「第1の指標では旧ソ連、ハンガ リー、スロヴェニアの生徒の数値は他の諸国より良いことを示す。しかしソビエトの生徒は分析が必要な条件で知識を活用する点では、イギリス、フランス、カ ナダ、イスラエルよりも劣ることになる」と書いた。*9

さらに、学力についての国内の経年比較においても、反省が生まれている。モスクワ市教育局の調査によれば、物理について首都の中等学校生徒の3分の 1以上が標準要請に及第しないという。新聞は、「ちなみにこの科目の教育は伝統的にわが国の誇るところだったが」と付け加えている。また、7−9学年の代 数と幾何についても、これに近い実状が指摘されている。*10

こうした中で、つい最近は、生徒の学力の国際比較のニュースが、ロシア世論を喜ばせるトーンで報じられている。いわく、「ロシアの生徒は誇りにして 良い。数学、理科の知識で世界平均の水準を上回ったのだ。アメリカ、イギリス、ドイツの同級生に勝った上にだ。この結果は、教育到達度測定国際連盟の行っ た調査が示したもの。テストは41カ国の15万の生徒が受けた。アメリカには勝ったものの、上にはアジアとヨーロッパ14カ国の同級生がいる。」*11

ロシアの教育世論は、まだ、自信喪失と不安の心性にとらわれているようである。

 

2−4.新体制は、義務教育年限を、後期中等段階をかつての義務課程からはずすことによって、9年とした。この点については、1989年段階からす でに、改革派、保守派とも一致していた。ところが、9学年修了者のうち半数以上が進学し、希望者が増加しつつある、この後期中等の普通課程の無償性を93 年の新憲法が規定しなかったため、各地で有料化が導入され始め、94年前半は世論が騒然となった。憲法草稿執筆の「犯人探し」も行われた(「不明」のまま である)。しかし、憲法修正は事実上不可能なため、この問題は結局、94年7月8日に大統領令「ロシア連邦市民の教育を受ける権利の保証」によって政治的 に決着され、「教育法の改正までの間、国立および公立の教育機関において無料の普通中等教育および初等職業教育〔PTUにおける−−引用者〕を受ける手続 きを維持する」(第1条)こととされた。*12つ まり、政治方針として、後期中等普通課程に希望者を全員受け入れよ、この課程に競争選抜を持ち込むな、授業料を徴収してはならぬ、と命じられたのであっ た。

したがって、これ以後、問題は、各地方行政・各学校の「教育機会保障」の実践にゲタが預けられ、これに対する連邦教育省の行政指導という問題へと性 格を変えた。

この間に教育法の改正が進められ、下院は95年7月に承認し、96年1月には上院も承認した。こうして1月23日に公布された修正教育法は無償性を 規定するものとなった。第5条第3項は基礎学校に加えて「普通中等(完全)教育」についても「全員就学的性格(obshchedostupnost')」 をうたい、第16条第1項が地域住民の就学権を明記してそれを補った。これにより、後期中等教育と初期職業教育への競争入試は廃止された。*13

こうして、「市民の教育を受ける権利の保障」としての基本法の上の問題は、憲法を除いては、「解決」を見た。しかし、「教育」問題は解決されていな い。『9月1日』紙は次のように書いている。

「この勝利の事実そのものは、ごく不利な政治情勢の下であってもパニックに陥ったり、手をこまねいて座っていてはいけないことを示している。民主主 義に対するごく危険な攻撃でさえ、もしあらゆる機会が利用されるなら、撃退されうるのだ。しかしながら、教育法の修正の中には、実践の現状をなに一つ変え ないような、だが現実にほとんど未解決の課題である、一つの重要な課題がある。問題は、今や大統領令の上だけでなく、法の上でも、9年生の卒業者全員が制 限なしにかつ試験なしに10年生に受け入れうる−−つまり全員が中等学校を後期までも受ける機会を得るということである。これはたいへん進歩的な法律であ る。」「しかし、法のもう一つの面も理解しなければならない。本質からいって、それは全員しかも義務の中等教育の、かつてこの教育が生徒にとっての義務で あった〔1970年代以降のソ連における11年義務教育制を指す−−引用者〕ものが、今度は学校に取っての義務だという条件付きでの、復活である。学校に は例外なく全員を断固として教えるという義務が課されたのだ。」*14

特に中等教育は現在、教育が普及した諸国では共通のように、難しい問題を抱えていると言えるが、ロシアのそれも、こうして、問題の共通性を増してい るかに見えるのである。学校の現場では、「新しい法律〔教育法修正〕は恩恵なのか、それとも重荷なのか」と受け止められ、「10学年には現在どの青年も入 学できる。多くの者に取りこれは救済である。教師たちは、全員に一人残らず教えることができるのか、一番後ろの席〔カムチャトカと呼ばれることもある、成 績不良児の座席〕で起きている事には目をつぶる方が楽ではないか?と問題を話し合っている」のである。教員世論は、目下、「上級学年には全員入れる必要が ある」という意見と、困難な問題を教員に押しつけた形の「こういう法律は人間的でありえない」という反発とで揺れている。*15

 

2−5.ロシアの学校制度に私的セクターを導入する問題は、「営利タイプ」の機関を導入するという方針でゴルバチョフ時代の市場移行計画(1990 年秋)の中で提起され、ロシア教育相ドネプローフ(在任、1990.7-1992.12)の当初の構想では「教育市場の創出」の一環とされていた。*16これは実 際、私立学校の新設促進と国営諸学校の民営移管の2種の具体策によることが想定されていた。

私立学校については、92年教育法は設立を承認している。

国の認可(litsenziia)を得ている私立の中等教育機関は、現在、全国に約600であるが、これはロシアの学校総数の1%以下である。その 分布をみれば、モスクワに200校以上、次いでペテルブルグとモスクワ州に約40校づつであり、これにクラスノダール地方、ノヴォシビールスク州、タタル スタンが続いている。この普及状況は、各地域の経済発展と直接連関があると言える。親が支払う月謝は様々であるが、モスクワで最も高いのは1995年9月 現在、「スタリーチヌイ(Stolichnyi)リセー」で、月600ドルである。地方ではこれより安い。私学の教員の給料は国営・公営校より20− 30%高いという。*17

ところで、私立学校の中でも別のタイプに眼を向ければ、もう一つ、ロシアの興味深い特質に突き当たる。われわれは、サハリン州において、「ソツィウ ム(Sotsium)」という名の私立「コレッジ」を調査しえた(1995年12月)。これは制度上では中間的な学校であるが、日本ならば専修学校兼進学 予備校のような存在であった。教育機関としての認可は得ているが、卒業資格授与権(akkreditatsiia)は得ていない。教育法施行後の1992 年11月に設立され、後期中等11年を修了した入学希望者を全員入学させ、このコレッジ卒業生を内務省地方機関・地方自治体の法律職員、大学の法学部進学 者、企業の経理担当者等として送り出している。この私学は、コムソモール専従活動家経験者が職業高校(PTU)の寮のワンフロアを賃借して開校・経営し、 学長をつとめる。設立時の資金の半分は企業からの寄付金によったという。この設置者たちは、ソビエト崩壊後の実務人材の社会的な需要を看取し、個人的人脈 によって行政機関・企業などに、ニッチ産業のように人材供給を行っているのである。

これは、旧コムソモール組織の社会的な教育機能を代替する側面を持つものと言える。別の角度から見るならば、これは、ロシアにおけるソ連崩壊=近代 化の推進という側面を端的に示す例と考えてよいだろう。

私学をめぐる当面の問題に眼を転じれば、教育活動の実施を許可する認可を受けていても、国章の入った卒業認定状の発行資格をもたない中等教育機関が 多数存在するという問題がある。教育法修正の結果、その卒業者は大学受験資格を持たないことになった(第50条第5項)。このため、「アクレヂテーション は非国営学校への報復手段なのか」とする政府批判が起きている。*18そもそも、認可時の審査において種々の遵守基準(教室備品、占有建物の面積、専任教員の比 率、等)は適用するが、92年教育法がうたう私立学校への税制・土地取得等での優遇措置、貸与奨学金制度などを実行しない、という政府の対応が続いてきた 上に、このような法改正のため(私学に関わる「不利な」改正点は他にもあるが)、現在、私立学校の成長はおろか、存続にも困難な条件は増えている。*19

ロシアの私立学校は、以上のような状況からすれば、まだ決して大衆的とは言えないし、また、巷間指摘されているところからみて教育内容や方法の点で すべての私学がユニークで優れているわけでもなく(そのような学校も存在するのは事実であるが)、公立校に対するオルタナチヴあるいはライバルの役目を果 たすに至っていない。これは、教育の国家独占の打破により選択肢の拡大と学校全般の水準引き上げの刺激要因を得るという、先のドネプローフを始めとする改 革派の初期の目論見に沿っていない。

それは恐らく、教育省が私立学校新設を認可の遅延によって妨害している(『9月1日』紙の言うごとく)ためというよりも、ロシア新社会の中に、新し い教育方式を望むような且つ教育費の直接負担能力のある、中間市民層がまだ形成されていないためなのであろう。

このような私立学校であるが、現在世論の大半は、これに対して中間的な立場を取っており、その入学希望者が存在することを認め、公的な援助は必要だ という線まではほぼ認めている。*20こ のような、やや楽観的な意識が生まれている理由は、教育においても私的なセクターがある程度成長・機能することへの期待が、それはそれとして、国民の中に 根を下ろしつつあるためではないかと思われる。

しかし、諸学校の民営化については、ロシア世論は慎重である。1994年、政府下の国有財産管理委員会(チュバイス委員会)に教育施設部門が設置さ れた時、大学を含む国営諸学校の民営化もいよいよ始まるとの噂が流れたため、これが大きな争点となった。だが、世論の多数は学校の民営化には強い懸念を示 したため、その民営化計画は同年秋には棚上げされた。その後は、「国営・市営教育機関の地位保全と民営化の猶予に関する法」を国会が1995年4月に採択 するが、大統領が署名を拒否する。だが国会が再度採択し、大統領も新学年度前に承認する、という経過をたどっている。

大学民営化に対しては大学サイドの大半が反対しているようである。94年秋には、モスクワ大学学長ヴィクトル・サドーフニチーは、「民営化の道はわ が国の大学を破滅に追いやりかねない。創意と発展を妨げる国家独占が教育において存在するのか。ロシアには約500の国立大学とすでに200の私立大学が 活動しているではないか」と書いた。*21ま た、イズヴェスチヤ紙のベテランの教育担当記者、イリーナ・オフチーンニコワの「学校の一斉民営化は教育を破滅させる」*22という端的 な反対論は支持を集めた。これらの結果、国有と市有の教育機関民営化の3年猶予の法が公布され、*23民営化は一 時棚上げされ、その後、修正教育法は国営・公営教育機関の財産の民営化(非国有化)を禁じる条項(第39条第13項)を加えた。しかし、それでもなお、こ れまでの政治決定プロセスを見る限り、今後の予測は立てがたい。*24

 

2−6.現在、ロシアでは、学校中退児の激増が起きており、またそれとも並行して、孤児発生の第3の波とも呼ばれる事態が生じている。*25政府文書に よれば、毎年およそ4万の子供が孤児になって行く、と言う。*26

ロシア児童基金・児童研究所所長代理のエヴゲニー・ルイビンスキーは、「現在ロシアには、子どもの理想像と現実状態の間に悲劇的な分裂が存在する」 として、「特別に困難な環境にある」ロシアの子供の状態に関する1995年の統計を挙げている。それによれば、孤児及び親の保護喪失の児童は48万3千 人、精神的・知的発達に異常を有する子供で特別学校ないし普通校の矯正学級に学ぶ児童が90万8千人、福祉施設に入っている障害児が45万3千人、難民の 児童が28万2千人、法律違犯児童が92万2千人、犯罪を犯した者が20万8千人、等、そして就学せず且つ就労していない子供が150万人以上、離婚によ り片親がない子供が60万人(1年間だけの数字)、婚外児が28万8千人であり、合計で500万人以上すなわち8パーセントになる。ルイビンスキーは、こ れに、最低生計費以下の家庭の児童が46パーセントに上るのを加えて、「あわせてロシアの子ども全体の54%、すなわち半分以上が『特別に困難な環境に』 置かれている」と結論する。*27

他方、ロシア教育省は報告書の中で、普通学校生徒のおよそ40%、PTU(職業高校)生徒の75%以上が貧困線以下の家庭の子どもであると発表して いる。*28

われわれは、ここでは、議論を学校教育の「責任」が関わるところに限定しなければならない。

そのうち、学校中退児の激増の問題には、いくつかの原因が考えられる。

まず、新しい教育法が義務就学の年齢を、義務の前期中等課程を及第修了していない場合であっても15歳までと規定(第19条)したことである。この 結果勉強したくない、あるいは家庭条件が恵まれない、等の子供が学校にも行かず、仕事にもつかずのケースが急増しており、社会問題になっている。約150 万人以上という数字は上に述べた。*29

もう一つの原因は、学校及び関連施設と各家庭の養育・訓育機能の弱体化である。これは具体的には、教師の仕事との一種分業のシステムの下で1930 年代以来、生活指導・秩序伝達の役割を果たしてきた学校内の「ピオネール」(少年少女共産団)とコムソモールの両組織が廃止されたこと、及び、経済悪化に 対応した各家庭の夫婦労働時間の増大により養育機能が弱くなったこと、などである。このうち、訓育について沈黙する学校の公的信頼の低下に関わっては、 92年教育法の基本意思が明らかに加担している。*30

教師の役割の回復や向上を急には望めない現在、また、教育省で構想されつつある人文・道徳系教育の強化や再生*31の成果に期 待できない現在、社会意識の中では、ピオネール的な組織の復活の必要意識が上昇している。*32

こうして、教育界では、学校・教師の訓育上の役割をめぐって、論議が活発化している。教育界の外では、ロシアにおいても、そもそも、そういう機能を 学校・教師は負うべきではないとする主張も存在する。しかし、日常の実践的解決が迫られている現場には、それでは力を持たない。学校や教師のほうからは何 をなしうるか。ロシアの開放された社会における模索は始まったばかりである。*33

 

2−7.小結。以上からすれば、現在のロシアでは、学校に対する国の保護をただちに除いたり、学校役割を限定するのみの改革は、社会機能の活性化は おろか、それを維持する上でもかなり危険であると思われる。

 

 

3. ロシアの教育観の変化と教育危機の認識

 

3−1.新ロシアを支配しつつある教育観は、個人責任の強調と能力主義と呼ぶことができる。これはソビエト時代に、とりわけ1960年代以降、徐々 に形成され、表明化してきたと考えられるが、確認できる通り、ペレストロイカ開始以後は改革勢力が公然と主張したところであった。*34

現在、そうした教育観、いわば個人的実力主義の価値観が、社会に急速に浸透していることを認め得る。地方においても教員や生徒の中にそうした価値観 をひろく見取ることができた。「良い学校に進み、良い会社に就職して、良い生活をめざす傾向が、まだ皆ではないが、生まれてきたので、社会は良くなってい ると思う」という意見が地方都市ユジノサハリンスクで聞かれた(市内の中等学校長20年経験者で現在、年金受給者・ギムナジヤ講師。1995年12月取 材)。

地方教育行政の指導者の中には、「現在の子供たちは、良い学習環境の中で勉強している」と語る者も居る(オムスク市の国民教育課で、1995年10 月)。*35

また、改革派の教育新聞『9月1日』は、「成績がわが国の崇拝の対象になった」と歓迎のトーンで書いている。*36

市民の進学要求は、全体として見れば、上昇している。95年夏の大学入試では志願倍率が前年比で30−40ポイント増となり、教育行政指導部の予想 を大きく上回った。人口比の大学生数はロシア史上最高(1万人当り180人。1995年秋)になっている。*37これと連動 して、普通中等学校第10学年に進学して学習を継続する9年修了者の割合は、ソ連崩壊直後の低下した一時期を脱した後、伸び続けて、かつてなく高くなって いる。この比率を数字で見れば、1992年−53.1%、93年−54.9%、94年−59.1%、95年−60.4%、である。*38

 

3−2.しかしながら、全体として、学校制度に対する物的・法的基盤の新しい保障構造も形成されず、また、中央・地方ともに教育行政能力も安定して いないため、新生ロシアの理念である生徒の個性の違いに応じた教育を実現するための平等の条件はまだ形成されていないばかりか、教育における機会格差の拡 大傾向が顕著になりつつある。

これは、社会の中に「分裂感」を醸成しつつあり、危険でさえある。

保障されていない物的な基盤の第一に挙げるべきは、学校教員の待遇が依然として改善されていないことである。1995年9月以来、全国各地で教員ス トライキが継続的に起きており、全国一斉抗議行動も数度打たれている。つい最近では今年1月13日(月曜)の冬休み明けに全国規模の行動が行われた。

教育の行政基盤の不安定の一例として、市、地区の行政における学校支援業務の不誠実、恣意性を指摘しうる。「行政官の子弟が学んでいる学校では給与 の遅配と電気・暖房・水道の予告なしのストップは実際起こらないと言われる。」*39また、中央と地方の権力の間で、教員給与の歳出示達書の送付・受領をめぐる責任のなすり合 いが繰り返されている。*40

脱国家化による行政の無責任化現象については、革新派教師と教育行政職員が共同で書いた「学校の自由の裏面」と題する論文があるが、そこでは、上か ら与えられた自由の結果について次のように指摘している。「学校に対する伝統的な形態の援助を拒否し、学校で生じる諸プロセスに対する責任の分担を拒否し たものの、上級の管理システムは、統制と規制を決して放棄しなかった。逆に、統制と規制は、きわめて念入りにやる性格を帯びた。」*41

こうして、全般的な不安定の中で学習条件の格差は広がってゆく。ノヴォシビールスク市内の学校の中心部と周辺部の条件格差に良心を痛める指導的教員 は次のように語った。「将来こういうことがブーメランのように戻ってきて、労働者居住地区の社会的、教育的環境はさらに悪化して行くだろう。いま悪循環が 生まれつつある。都市の中心部と周辺部の教育格差は一段と広がっている」(1995年10月。園田氏が行った現地取材。同前)。学校成績の良し悪しと、進 学機会や学習条件のそれとの相関が連動して現れつつある下で、現場の教員の中では、大半が生徒の能力別学級・学校編成に反対意見を表明している。*42

かくして、96年には国会においても、教育と国家的治安の関連いかんという受け止め方が生まれ、5月、新たな議会公聴会「教育とロシアの国家的治 安」が開催されるに至った。*43

 

3−3.結び

新しく生まれた民間教育運動の指導者、アレクサンドル・アブラーモフ(前モスクワ大学教授)の最近の発言が、現在の危機の要素と原因を自省的、分析 的に述べている(1995年6月、全ロシア・ゼムストヴォ教員大会における報告)。

「ロシアは教育ポテンシャルを失い、それに続いて大国としての地位も失いつつある。こうしたすべてに名前を与えれば、無責任ということである。」

「ロシアの教育は制度的危機に見舞われている。危機は、国家的治安への脅威として語るのも誇張ではない局面にまで達している。ロシアには教育とマク ロ経済政策の連関が完全に欠けている。高度の技術に基づく工業は、危機が去った時でも、基礎的な科学・技術知識を習得した人材が不足しているなら、立ち上 がりづらいであろう。ロシアは、学校生活で伝えられる必須の労働文化が欠如してるため、質の低い商品しか提供できず、世界市場で競争にたちうちできないで あろう。」

「子供の教育機会の保障の措置なしの教育機関の見せかけの多様化は、エリート教育と社会的淘汰をもたらすだろう。教育標準を充実化することなしに教 育内容を多様化すれば学習の質の大衆的な低下を招くし、地域に現存する可能性の補償ぬきの地方化は、地域ぐるみにおける情報・財源・人材不足をもたらして いる。世界的文化の富全体を習得することなしのエスノカルチュラルな自己認識は、民族的な自己満足を生むだろう。」

「92年教育法は進歩的意義を有する。」しかし、「違反に対する責任の法的規定をまったく持たない」という欠陥を有する。

「教育の民主化の課題は、考えていた以上に本質的に難しいものだと分かったし、かつてよりもはるかに多くの人員と資金を必要とした。それ〔民主化〕 は多くの個人的野心と団体利益に対して重い挑戦状を突きつけるものであるが、これは必ずしも悪いことではない。しかし、派閥エゴと改革者一人一人(傑出し た人物でさえ示す)のエゴイズムは、われわれがあんなに激しく非難してきた国家のエゴより良いところは何もない。これらは皆、出所は一つである。モラルの 欠如と無責任である。」*44

教育の状況認識における1996年の特徴は、上のような見解が、さらに危機の度を深めているのだと叫ばれるほどになったこと、*45及び、教育 分野の洞察力のある指導者だけでなく経済学者や一般紙上にも、*46そして国会においても、共有されるようになったことと言えそうである。

ロシアはソビエト・システム崩壊以後、国家的教育とは相対的に独自の、社会的な教育分野を形成する途を歩み始めたと言えるが、その後数年の危機状況 からすれば、少なくとも上のような自己認識が、中央と地方の教育政策と教育実践のみならず、一般政策の原理修正−−先のアブラーモフの言い方をかりるな ら、マクロ経済政策と学術・教育分野との関連付け−−にも取り入れられることが期待されているようである。


SRC Winter Symposium Socio-Cultural Dimensions of the Changes in the Slavic-Eurasian World ( English / Japanese )

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