林 忠行編 『東中欧地域国際関係の変動』(1998年、スラブ研究センター) 第11章

NAT0・EUの拡大と旧ソ連・東欧ブロック国境

 

 秋 野 豊  (筑波大学)


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はじめに

 報告者の研究テーマの一つは、旧ソ連・東欧ブロック各国における体制転換のプロセスが、いかなる国際的ならびに国内的なレベルにおける新たなクラック(亀裂)を生み出すのか、また、これらのクラックがいくつか合同することによりいかなる「新線」と なるのか、そして、いかなる形で最終的にユーラシアの欧州部分を「酉」に統合される部分とその統合の枠外に置かれる部分とに分断することにつながるかを調べることにある。より具体的には、NATO・EUの拡大のプロスペクトが旧ソ連・東欧ブロック各国 の国家的方向性に現にいかなる影響を与えているのかという問題に、東中欧と旧ソ連西方に位置する諸国家との間の国境問題や国境管理の実態から取り組みたい。

 国境をわざわざゲーム的感覚で越えるのはあまり良い趣味の旅行の仕方ではない。しかし、ポスト冷戦の旧ソ連諸国を訪れて、それぞれの国がいまどの程度独立国としての実態を備えているのか、旧ソ連世界の中でどのように生きていこうとしているのか、さ らにその外の世界とどのような関係を築こうとしているのかなどを知りたいと思うなら、ビザやティケットなど最低限の「用意」で、もしくはそれ以下の「用意」で、国境を越えてみるのにはそれなりの研究上の意味はある。旧ソ連の国境管理のルールも運用 もじつはまだまだ「バザールでの買い物」と似ていて、興味深い実態を教えてくれる。学術研究による調査旅行も含め、旧ソ連・東欧ブロックのほぼ全諸国に最低限の「用意」で、ある場合にはパスポ〕トのみの「用意」で国境を越えた。本報告が焦点を置くのは 旧ソ連が欧州と接する線である、これはいうまでもなくNAT0・EUの拡大が直接的インパクトを持つ東中欧と旧ソ連西方に位置するバルトなどの諸国家間の国境にあたり、ここでの人と物の流れはもっとも興味深い動きを示しているところである。

1.チェコ、ポーランド

 まずは、プラハからバルトにはいった。日本からチュコヘのビザは空港で簡単に取れる。しかし、チェコから隣国のスロバキアヘはあらかじめビザを取る必要がある。自動車でスロバキアに入るには国境で通過ビザを取れるが、汽車の場合はビザの事前準備な しでは入国できない。東中欧と旧ソ連西方に位置する諸国家との間の国境問題や国境管理を考えるときに非常に参考になるのは脱社会主義転換プロセスにおいて生じたチェコスロヴァキアの分裂のケースである。これは過去の問題であるし、国家分裂の問題で あって国境管理に係るものではないが、国内レベルのクラックが国境になったケースであり、本報告で取り扱う論点に関しきわめて示唆的な性格を持つので、少し説明しておきたい。

 1992年の暮れにチェコスロバキアはチェコとスロバキアとに分裂したのだが、原因はクラウスとメチアルという両首相の巨大なエゴのケミカルが合わなかったことが大きいとされている。だが、その陰でもっとも大きな役割を果たしたのはドイツだったと 思われる、チェコはドイツと国境を接するが、スロバキアとは数百キロの距離があるボンは脱社会主義の体制転換が始まるとすぐにプラハを説得して、チェコ経由でドイツ入りする不法移民をチェコヘ送還することに同意させた。そして、チェコとスロバキアと の間の県境に過ぎなかった川のチェコ側にジーメンス製の国境監視装置を提供した。

 チェコ政府は、同国経由でドイツ入りした不法移民を強制送還する出発地ではなく、「東」のどこかからスタートした彼らが西側に入る前の「最後の非西側国家」であるチェコに引き戻すことにプラハは同意した。これに対してスロバキアはウクライナとの国 境に壁を作る意思も力もなかったので、チェコはスロバキアとの国境管理を「ドイツの援助」で厳重なものにしていった。こうしてドイツはチェコとスロバキアの境を、ドイツヘの難民流入を止めるドイツの「外国境」に事実上変えたのである。チェコが自らの 東側国境を閉ざせば閉ざすほど、チェコは次第に「最後の非西側国家」という位置づけから「非西側諸国の中で最初の西への入り口国家」に移行し、同時にチェコとドイツの境は「内国境」になっていった。

 象徴的にチェコはNAT0に入ることになったが、スロバキアは枠外に置かれた。ここで本論に戻るとすれば、だからこそ、いまバルトが自らの東にある壁を一層高くそして固くし、それと同時に北欧および西欧諸国のすべてとの間でビザ撤廃に踏み切り、さら に上で説明したドイツとチェコとの間で締結された国際的取り決めである、難民処理に関するジュネーブ協定の受け入れを行ったことの意味は大きい。西側ができるだけ排他的に固まりながら拡大しようとする理由は「東からの脅威」に求められるのは確かだが、 大国ロシアの復活だけがその具体的脅威の内容ではない。より深刻な新たな脅威はなによりも南アジアなどからの不法移民の流入や麻薬、武器なのであり、このように考えれば、ロシア側がNATO拡大を「欧州における東西の新たな線引き」であるとか「一流国 とそれ以外に区別しようとの試み」として非難するのは、必ずしも的外れではない。

 さて、このような問題意識でプラハを汽車でたち、バルト方面に向かった。車中でポーランド・ビザを取ったが、たまたま手元にポーランド通貨を持っていたのでなんとかなった。だが、国境警備兵の対応から入国拒否となるかどうかはケースバイケースであ ることが分かった。但し、ワルシャワ空港では即時のビザが取れる。一般に、道路の国境は車ごとの対応だし、タイムスケジュールの問題がないので、比較的、緊張感はない。これに対して、大量輸送で、ある程度時刻表に縛られる鉄道での入国手続きやビザ取得 は結構厄介で緊張させられる。またしてもビザなしでワルシャワからリトアニア、ラトビアを経由してエストニアの首都タリンにいたる乗車券と寝台切符を買って急行に乗った。リトアニアとエストニアは日本人はビザなしで入国できるが、真ん中のラトビア はビザが必要であると聞いていたが、実態を調べるためにバルト三国を西南から北東に串刺すような形で動くことにした。

2.リトアニア、ラトビア

 ポーランド=リトアニア国境での検査はごく簡単で、両国の関係の良さを物語っている。リトアニアからラトビアに入ってもなんの国境通過手続きもなく、首都リガの手前まで列車がきた朝の4時ごろ突然検査を受け、ビザなしの不法入国であると宣告され、 汽車からおろされた。不法入国の科で国境管理事務所で調書を作られ2時間ほどかかって終わった、罰金その他のペナルティーを科されることなく単に国外退去となるので、どうせならエストこニア側国境に引き渡すよう頼んでみたが、当然これは許されなかっ た。ジープで国境に戻されリトアニア国境警備局に引き渡された。だが、対応はすこぶる友好的で罰金もパスボートヘの違反記録書き込みもなし、国境での別れの握手の後には一種の謝罪の表現がなされた。

 なぜ、ラトビアだけがビザ規制を厳しくしているかについては次の説明が可能である、モスクワにとってもっとも大きなバルトの価値はそこにおける不凍港の存在であり、中でもラトビアのベンツビルスやリェパヤはロシアと外の世界とを海でつなぐ最大 の港である。このため、ロシアはラトビアがロシア系住民の処遇問題においてラトビアはエストニアと変わらぬ「反ロシア的」政策を取っているにもかかわらず、ラトビアとの関係をさほど表立ったものにはしないのである。ラトビア側も経済的利益から国境管理を若干程度エストニアやリトアニアとは異なるものにしているものと思われる。ただ し、基本的なところではバルト三国間で差はないようである。

 さて、ラトビア国境から首都ヴィルニュスまでは、国境でリトアニア国境警備軍兵士が斡旋してくれたバスで行き、一晩をホテルで過ごした。料金はポーランド水準より少し低い程度である。翌日、ここのラトビア大使館前でビザを取るため寒空で一緒になら んだのはポーランドとリトアニアに挟まれるロシアの飛び地カリーニングラードからきた女性だった。結局、私には50ドルほどで即時のビザ発給があった。ロシア人は20ドルほどと聞いたので、羨ましがると、彼女は悲しそうに「即時ビザは認められず、こ こで二日待ちのルールで、ホテル代などいれると大変な出費。私たちが自由に行けるのは国境を接するここ、そしてベラノレースだけよ」と述べた。

 なるほど、首都のバスターミナルに行ってみると、かってあったロシア諸都市への路線は採算が取れないためほとんど廃止になっていた。これはバルトの最大の中心地であるラトビアのリガでも同じで、安価で一般国民にとり便利な交通手段である国際バスは すベて南北に走っており、東へ向かうロシア路線はゼロだった。理由はロシアとの厳しい、ビザ制度のため、乗客が非常に少ないということに尽きる。そもそもビザ申請は首都でのみ可能だということで大勢は決まる。これに申請から取得までの待ち時間や招待状 の取り寄せ義務などビザ・ルールを少し不便にすれば、東からの人の流れの遮断効果は絶大である。ロシアはビザなしを望んでいるので、これはバルト側の歴史的選択ということになる。その一方でバルト諸国は大半の西側諸国とのビザ撤廃をしているので、彼 らのNAT0加盟に向けた熱烈な希望だけでなく、いかにロシアに背を向けながら西側と交じり合おうとしているか明らかであろう。特に、NATO入りが決定しているポーランドと接するリトアニアはバルト・スカンジナビアの結びつき以上に、最近ワルシャワと の歴史的リンクを強めこれを通じてもっと直接にNATO・EUと関係を深めようとしている。ラトビアも最近ポーランドと自由貿易協定を結び、リトアニアの背中に乗ろうとしているかのようだ。

 バルト諸国はいま非常に重要な段階にさしかかっている。NATOの第二次拡大に乗れるかどうかである。これはバルト諸国の意思や努力だけでどうにかなる問題ではないことは明らかである。しかし、ロシアとの懸案の領土間題やロシア系住民の人権問題を解 決すること、および経済社会面でできる限り西側と一体化しておくことはこれに関して重要である。

 すでに少し前に述べたが、この面での大きな進展が最近一つ見られた。スカンジナビア諸国とのビザ制度の撤廃である。意外に思われるかもしれないが、バルト諸国は北欧諸国から最も重要な支援をこれまで受けてきたが、人の出入りに関しては自由ではなか ったのである。バルト諸国が南アジアや旧ソ連からの難民の北欧入りのゲートになることが恐れられたからである。1997年5月初めにようやくバルト・西側・北欧との間のルーブ状の流れはこれで全面的に完成する。そのかわり、バルト諸国には、彼らの領土 を経由して北欧にたどり着く難民が送還されることになる。したがって、バルト側は益々東に位置する旧ソ連との壁を高くすることを余儀なくされる。不法移住者の送還とビザ制度の廃止はセットなのである。じつは、バルトから少し地理的に離れ、直接的ア クセスの容易でない西欧にはこのような問題はなかったために、早くからビザ撤廃が可能なのであった。

3.エストニア

 エストニア・ロシアの係争地であるペチョラ(ペッツェリ)国境はまだ法的には確定していないので、コントロール線と呼ばれる。ロシアはこれを正式に国境線としたい。だからロシア側は立派なフェンスを新たに張り巡らしている。これに対して、エストニ ア側は1920年のタルトゥ条約に基づきもう少し東側に国境を本来なら広げたい。だから、フェンスは固定化に繋がるので、立てることはできない。したがって、この景色には論理がある、しかし、エストニア側から不釣り合いなほど立派だがじつに閑散とした ロシアの検間所を越えて数キロ歩けば、ペチョラ市の貧しさは別世界のようで胸を打つ。そうすると先ほどの国境の景色は論理的ではない。貧しいロシア側からの入境を阻むはずのエストニアのフェンスはなく、白国民の脱出を阻むロシアのフェンスは厳然と しているのであるから。冷戦時代ならともかく、現在でさえなぜこのようなことが生じるのであろうか。

 エストニアはNATO加盟をあまりにも強く望むため、最近このコントロール線を受け入れる決意を固めた。逆に、ロシアはエストニアのNATO入りを阻止するために、交渉をストップさせている。実質的にこれはもう領土交渉問題ではなくなった。ここからわ かるように、NAT0拡大は領土問題や他の地域紛争を押し潰すスチームローラーの役割を果たす、しかし、もう一人の主役がいる。驚くほど立派なロシア側の国境施設の建設費を出したのはチェコとスロバキアの場合と同様に、ドイツである。エストニア側は結 局ドイツの後押しを受けたロシアと交渉していたのである。ドイツは国境監視の電子装置もロシアに提供していたのである。敵対する兵士ではなく、難民が境を形作る時代といえる。ドイツによるロシア国境管理の強化は、ボンがエストニアとロシアとの同境線 確定交渉において明確にロシアの立場に対して支持の決定を示したこと、他方エストニア側に対しては両国間の国境が厳格に管理される限りボンはエストニアの西への参入を支持するということを意味している。

 ロシアはまだバルトの運命を決めるのは自分だと考えているかもしれない。NAT0の第一次拡大に同意した今でもモスクワは「バルトなど旧ソ連への拡大は全く別の話であり、賛成できない」と釘をさしている。しかし、バルトは自分の運命を少しでも西側と 結び付けるために、旧ソ連つまり東側との戸締まりを厳しくし、特にロシアに背を向けながら日夜汗を流しているのである。バルトはNAT0入りがいつ可能なのかといった大上段の議論をしながら、人や物の流れはバルトと西側との間でダイナミックに還流して いるのである。

 エストニアの首都タリンの空港に行くと、もうロシア系の航空合仕は運行しておらず、すぐ隣のウクライナやベラルースにエストニア航空のプロペラ機で行くと、機内アナウンスはエストニア語と英語のみで、料金もまったく西なみで、300ドル程かかる。 現在でもこの距離なら、「東」の標準値段は3分の1であろう。

 

4.ウクライナ、モルドワ

 CISに加盟していないバルト諸国を動き回る時に、ロシアヘの入国ビザをたとえ持っていても、それは当然なんの意味も持たない。だが、いったんCISの中に入ると、この査証はここの諸国間関係を見事に色分けしてくれるリトマス試験紙のようなものとな る。ロシア・ビザが大きな威力を発揮するのは、ベラルース、アルメニア、カザフスタン、キルギスタン、タジキスタン、ウズベキスタンにおいてであって、ロシア・ビザをこれら諸国への入国に際して示せば、基本的に3目問の滞在が自動的に許される。その ようなビザに関する相互の取り決めがこれら諸国間にあるのである。これらの新独立国家群はこの協定が締結された時、まだロシアを中心にまとまりを見せていたところである。したがって、これらの国のどこか一つへの入国ビザをとれば有効範囲がうんと広く 便利である。しかしである、実際これらの国々を渡り歩けるだけの有効期限の長いビザを取るのは手間もかかるし、費用も大いにかかる。招待状、予約の全ホテル代金支払い済みを証明するバウチャーなどが要求される。

 これに対してウクライナ、モルドワ、グルジア、アゼルバイジャン、トルクメニスタンはCIS内におけるロシアのヘゲモニーを当初から認めまいとする立場からこの協定に調印しなかった。従って彼らはバルトと同様に、ロシア・ビザなどを有効な査証とは 認めない。ただ、バルトとは異なり、CIS諸国の市民の出入りはビザなしで自由にしている。たとえばいま、我々がウクライナとモルドワに入るには、まったくロシアなみの厳格なビザ取得手続きが必要である。それに比べて以前はよかった。ウクライナ独立後 の数年間は、写真を数枚を持ちウクライナに入り、その場でビザをとり、ついでにチェックなしでロシア領内奥深くまで入れた。逆に言えば、ロシアからすればウクライナは以前は「ざる」のごときものであった。これに対し、ロシアはウクライナに上記のビザ 協定に入るか、それとも自ら入国管理を厳格化するよう求め、キエフは国境管理でロシアにコントロールされることを避けるために、自ら国の開放度を小さくした。ただ実際の運用となると話は少し別で、げんにミンスクのウクライナ領事館で、「ウクライナか らルーマニアにぬけてモスクワから東京に戻る」予定なのでビザを出してほしいと頼み、ブカレストニモスクワ間の航空券を見せただけで、ウクライナから出国する切符も招待状もホテルのバウチャーも何もなしに、直ちに4日間の滞在ビザを発行してくれ た。やはりウクライナは本心ではどうも国をあけたがっているようだ。

 ビザなしで、かつモルドワから出国する航空券も持たずにモルドワの首都キシニョフに飛んだ。ビザなしであることを告げると、国境警備兵はキシニョフ空港の中の領事部まで案内してくれた。その場で何とか2日か3日ほど滞在できる通過ビザでも取得しよ うとして、壁のフライト発着時刻表を眺めながら領事にかけあって「明目、ブカレストに行きたい。いや、イスタンブールでもよい」とやったら、「国の出入りはバザールでの買い物とはわけが違う」と批判された上で、数時間後のフライトでモスクワに送還さ れた。2年前は同じ方法でうまく入国できたのではあるが。どうも、万事につけ旧ソ連の動きは早すぎる。確かに、1996年の夏にロシアで安全保障会議書記に就任したレベジが国境管理を厳格にすると宣言して以来、目にみえてロシアヘの出入りは容易ではな くなった。この変化を受けてのことと思われるが、その他の旧ソ連諸国の国境管理も厳しくなった。「多分このせいだな」と感じつつも、領事部で電話を借り、ある人物をなんとか飛行場まで呼び出し、監禁された時間と空間を利用してインタビューした。こう して所期の訪間目標は達成できた。これは出入国管理規則違反だが、このようにまだ管理はさはどきつくない。

 コンスタチネスクが大統領に選出されるとすぐ、ウクライナ・ルーマニアは領土間題を話し合いで処理し友好関係をあっという間に築いてしまった。モルドワをも含めて、懸案の領土間題は南ベッサラビアと北ブコビナに三国問のユーロリージョンを形成する決定も行った。現地に行けばすぐ分かるが、この3ヵ国に沿ドニエステル共和国を加えたこのあたりの国境線の入り組み方は尋常ではなく、人および物の流れは寸断されている。したがって、逆にユーロリージョン構想に基づく地域協力は大いに実を結ぶであ ろう。そして、この中でロシアの利益は排除される方向にある。

 

5.グルジア、アゼルバイジャン、アルメニア

 グルジアとアゼルバイジャンでは入国に際して便宜がはかられていて、ビザなしで入国しても滞在ビザは出してくれる。トルクメニスタンでも簡単に通過ビザを出してくれる。モルドワからは送還されたが、これを例外とすれば、CISのビザ協定に加盟してい ないこれらの諸国は少なくとも西側に対しては国を開放しようとしている。アルメニアは周囲の敵対的視線のなかで存在する国家である。ただ、ベラルースとは異なり、親露だが反西であるからロシア・ビザを持つ西側入国者に対して極めて制限的な入国管理を 強いることはない。周囲を敵に囲まれるアルメニアは親露路線でもあるが決して反西的姿勢はとらない。したがって、ロシア・ビザを持つ西側入国者には歓迎的で、協定の許す滞在期間を超えて滞在しても「理解」を示すようである。

 このような入国管理のあり方からもすぐに分かるように、CIS内の親西的グループと親ロシア・グルーブが存在することは明らかである。注意しておかなくてはならないのは、ウズベキスタンである。ビザ協定に加盟し、その意味では親ロシア・グルーブに入っているが、現在査証運用上の工夫を凝らしているようだ。相対的に見て、反ロシア・親西グルーブの中央アジアにおける代表格である実際ウズベキスタンを最近出入りして、なるほどとうなずかされるされることがあったCISのどこがウズベキスタンに空路入ろうとして困るのは、協定上ここでも有効なはずのロシア・ビザなどがあっても、ウズベク査証がないとCIS諸国のどの窓口でも航空切符を売ってくれないのである。このような形で、ウズベキスタンは親ロシア・グループには属しておらず、独立国家であると主張しているかのようである。これに対するロシアの対応も興味深い。先日ビザなしでモスクワにカザフスタンから入った時のことであるが、パスポートにはまだ有効なカザフ査証があったにもかかわらず、つまり、カザフの査証でロシア入国ができるはずなのに、そしてそのことを指摘したにもかかわらず、わざわざ入国審査官はすでにスタンプを押され有効でなくなったウズベク査証を根拠にウズベキスタンからロシア経由での日本行は「CIS間の協定があるのでロシア入国を許可する」との判断を下した。ロシアはウズベキスタンが協定調印国であることを強調したいのであろう。

おわりに

 旧ソ連東欧ブロック諸国の国境管理政策をこのように見れば・、親西側グループと親ロシア・グループが存在することがわかる、第二次NATO拡大への公式的な動きが始まる2000年ころが本当の意味での新東西対立の山場となるはずだが、もっと下のレベルで東西の分割新線は日夜これらふたグループの境目で太くなりつつあるのである。ロシアはこれまで旧ソ連を自らの勢力圏と考えて、CISを「近い外国」と表現してきた。しかし、1998年に入り、公式にこの用語を使用しない旨決定した。端的に言えば、反露・親西グループの影響が強まり、親露グループは事実上主流になることを断念したからである。ここで考えておきたい重要な問題は、なぜロシアは影響力を最近急に失いつつあるかということである。理由は、欧州からポーランド、ウクライナ、モルドア、そしてコーカサスさらに中央アジアにつながる、TRASECAに代表されるコリドーができ始め、この線に沿って反露もしくは抗露で親西的、独立志向のCIS国家群が優勢になったからである。ウクライナ、モルドワ、グルジア、アゼルバイジャン・ウズベキスタンが代表格で、トルクメニスタン(中立志向)、カザフスタンも、また場合によってはキルギスタンもこれに加えてよい。ロシアがいま押さえているのは、対NATOの守りの要ベラルース、コーカサスの楔アルメニア、中央アジアの最後の砦タジキスタンだけである。

 モスクワはこれまでの政策を続ければ、以下のような結果を招来することを明確に理解した。1)新NAT0国家ポーランドを介してウクライナとバルト三国は反ロシア5カ国の防疫線を作る。2)ウクライナ、モルドワ、ルーマニア間でロシア対抗の地域同盟がで きる。これまで、モスクワはこれら3ヵ国問にモロトフ=リッペントロップ条約の生みだしたひずみに代表されるような、極めて複雑な領土間題、少数民族間題を巡る確執があるため、まずまず「分割して統治」の政策は今後も功を奏すると考えてきた。しかし、 3)アゼルバイジャンはウクライナ、グルジア、トルコとの間ですでに戦略パートナーシップ関係を築いているが、ウクライナは米国の後押しを受けてこれらとともに黒海・コーカサスにおけるロシアの影響力を今後大いに減少させるだろう。ロシアにとって最大 の問題は、西側がたとえばTRASECAに沿って親西でモスクワ対抗の帯を欧州・コーカサス・中央アジアに築き始め、NATO侯補もしくは準NAT0国家に対して次第にグローバル・スタンダードの人権政策、政治経済的政策のみならず、共通の国境管理政策を押し付け ていくことである、こうなれば、場合によってはCIS内の人の流れを変える大きな壁が走ることになりかねない。最近の例では、ポーランドがカリーニングラードとベラルースとの国境における人の流れを極端に制限する国境管理政策を取る一方で、ウクライ ナ・ポーランドの国境通過点を欧州における最大の流通ポイントに変えるための大改修工事をしたことである。カリーニングラードは北方領土同様の離れ小島化しつつある。このポーランド・ウクライナの動きがTRASECAにおける第一歩とすれば旧ソ連・東欧圏 の政治経済学的な今後の変容は大きいものといわざるを得ない。このような動きを促進するのは、NAT0の拡大であり、そしてEUの拡大である。そして、国境管理政策こそは非常に鋭利な新線作りのカティング・エッジなのである。