オルマンベトとその時代
-口頭伝承に表れるノガイ=オルダの有力者について-
坂井 弘紀


はじめに

 「ノガイ大系」といわれる叙事詩の作品をはじめとして、中央ユーラシア=テュルク、とりわけカザフ、カラカルパクの口頭伝承には「オルマンベトOrmanbet」という人物の名称がしばしば表れる。それは、いわゆる英雄叙事詩のみならず恋愛叙事詩といわれるジャンルの作品に登場したり、あるいはトルガウといわれるジャンルの作品に「オルマンベト=ビーのトルガウ」とまさにその名を冠した作品が存在したりと様々なジャンルに表れる名称である。
 一般にこのオルマンベトという人物は、16世紀末にノガイ=オルダ(正確には大オルダ)のビーとして権勢を誇ったオルマンベト=ビーに比定されるのが通説となっている。そして、これらの口頭伝承では、彼の死後ノガイ=オルダは分裂・崩壊し、その住民は各地を流浪し、周辺地域に移り、また周辺の「民族」と同化したと伝えられている。
 今回の発表では、この口頭伝承に表れるオルマンベトが、通説通りノガイ=オルダのオルマンベト=ビーであるか否かを再検討するとともに、彼あるいは彼の名前が表れる作品が何を謡っているかを見ることで、少なからぬ作品が彼の死後について謡っているのかを考えてみたい。


1 叙事詩に表れるオルマンベト

 叙事詩の時代設定として、ふつう「その昔」「時代が古きとき」などと抽象的な表現が取られることが多いが、具体的に表現する例としてもっとも多く見られるのが「オルマンベトが死んだとき、ノガイが崩壊したとき」という表現である。この表現について検討することで、叙事詩が「いつの時代を想定しているのか」という問題に示唆を与えてくれる。
 オルマンベトという名称が表れる叙事詩の作品として、エル=コクシェ、コズ=コルペシュとバヤン=スル、エル=タルグン、マナシュウル=トゥヤクバイなどの作品が挙げられる。これらはいずれもカザフやカラカルパクなどキプチャク草原に伝わる代表的な叙事詩である。ここで簡単にオルマンベトがどのように作品に表れているかを見てみよう。


            ウァク(オラク)の息子、カンバルがいた、
            カンバルの息子はエル=コクシェ。
            エル=コクシェは若輩であった、
            若いとはいえ長であった。
            オンサン(10の数の)=ノガイが崩壊したとき
            オルマンベトが死んだとき
            彼は進んでいった
            マナンという川に
            バルカンという山に (エル=コクシェ(1)

            オルマンベトのオンサン=ノガイが移動した
            一人の英知は無限の軍勢のごとし
            銅の山に二人のハンが移り来た。
            エルティシュ川のロシアに従属することなく。
            オルマンベトのオンサン=ノガイが移動した
            一人の英知は無限の軍勢のごとし
            カラハンとサルハンというバイがいた
            二人の時代は豊かであった。
            (コズ=コルペシュとバヤン=スル(2)

 タルグンはアクジュニスとともに,エディル川に広がるオルマンベトのオンサン=ノガイに向かった。オンサン=ノガイには10人のハンがおり,その一人ハンザダの国にたどり着いた。この国はタルグンを暖かく迎え入れた。当時ハンザダの国はエディル河支流のシャガン川付近にいたカルマクと反目していた。(エル=タルグン(3)


 つまり、著名な勇士コクシェは、オルマンベトが死に、ノガイが分裂したときに活躍したとされ、また「コズ=コルペシュとバヤン=スル」の舞台となった時代はオルマンベトが移動したころと語られてきたのである。また勇士タルグンの向かったくには、10人のハンが統治する「オルマンベトのノガイ」であると伝えられる。このように、叙事詩の代表的作品には、オルマンベトの時代あるいは彼の死後の時代をその舞台として設定している作品が見られるのである。


2 オルマンベトとは誰か?
 これまでのところ、オルマンベトが誰であるかという問題については、二つの見解がある。それは、通説となっているノガイ=オルダのオルマンベト=ビーという説とカザン=ハン国の「創始者」であるウルグ=ムハンマドとする説である。
 ここでは、オルマンベトが誰であるかという点について、先行研究を踏まえて検討してみたい。まず、先行研究におけるそれぞれの見解を見てみよう。

 (1) オルマンベト=ビー説

 遊牧ノガイ=オルダの崩壊に際して、彼らのもとには「1万のノガイが混乱したとき、ウルマンベト=ビーが死んだとき、オリスクの黒い森が燃えたとき」と始まる悲歌があった。(4)(ワリハノフ)

 キルギス(カザフ)の伝説は、全く同一の民族が「ノガイとカザフ」に分裂した時代が16世紀末のオルマンベト(エディゲの子孫)の治世であったことを示している。(5)(トゥヌシュパエフ)

 オルマンベト=ビーは16世紀末の人物である。史料にも彼の名は見られる。彼は大ノガイ=オルダがまだ分裂していなかった一時期に、ウラルで有力であったノガイのムルザである。ジャユク流域を支配していた。(6)(ティレウムラトフ)

 16世紀後半のノガイの統治者(ミルザ)の一人がオルマンベト=ビーで、彼にちなんでトルガウ詩の題名となっている。(7)(ライクル)


(2) ウルグ=ムハンマド説
 オルマンベトをシャカリムは、ジョシュ裔のウルグ=ムハメド=ハン(本名テミル、1446年没)としている。このハンの死後、ノガイのハンたちはビーの位を争って、崩壊へと向かっていった。この考えをサトパエフも支持している。オルマンベトが、1420年代にサライから追われて、のちにカザン=ハン国を建てたウルグ=ムハメドであったこと、また彼がアサンカイグと同時代の人物で、二人が一緒に過ごしていたことについてはマガウインも述べている。(8)(ウブラエフ)

 シャカリムの情報からは、「カザフの伝統的歴史解釈では、最末期「金帳」および「アストラハン汗国」の君主(小ムハンマド裔)のみならず「カザン汗国」の開祖である大ムハンマドもノガイのハンと呼ばれていた」ということを知ることができよう。(9)(赤坂)

 オルマンベト=ビーは、シャカリムによれば、カザフはウルグ=ムハンメドというハンを指した。私の考えでは、オルマンベトはウルグ=ムハンメドではない。これには根拠がある。(10)(ハレル=ドスムハメド)
 
 これらの見解を見ると、先行研究においてオルマンベトは、ノガイ=オルダが弱体化・分裂した時代の有力者であった「ノガイ=オルダのオルマンベト=ビー」とする説が主であり、「カザンハン国のウルグ=ムハンマド」とする説はおおむねシャカリム=クダイベルディの解釈に基づいていることがわかる。そこで、シャカリムの解釈を取り上げて後者の説について検討してみたい。
 まず、シャカリムがオルマンベトについて言及している箇所を取り上げてみよう。

  シャカリムの論述

  1 …テミルクトゥの二人の子供は、ボラト=ハン、テミル=ハンである。このテミル=ハンのあだ名はウルグ=ムハメド=ハンでわれわれカザフの言葉ではオルマンベト=ハンといった。(11)
 2 ジョチ=ウルスは結局、いくつかの小さなハン国に分裂した。その理由は本名テミル=ハン、あだ名をウルグ=ムハメド=ハンといった著名なハンが1446年に死んでから、ノガイのハンたちはハン政権を争って、分裂したのである(ウルグ=ムハメド=ハンをわれわれカザフの言葉ではオルマンベトという)。(12)
 3 その後、ウルグ=ムハメド、すなわちオルマンベト=ハンが死んで、ノガイ人が弱体化すると、17世紀にノガイの大部分はチンギス族から逃亡し、エディルに来たトルゴートに従った。一部はクリムに従った。(13)
 4 われわれカザフのドンブラ弾きは、(これは)オルマンベト=ハンが亡くなったとき、オンサン=ノガイが分裂したとき、ノガイ=カザフの分離のときの悲しみのキュイである、といってドンブラの伴奏で悲しいキュイを演奏した。(14)

 1はテミルのあだ名を大ムハンメドとしているが、テミルがそう呼ばれていたかは他に資料がなく不明であるが、2でこの「ウルグ=ムハンメド」が1447年に死んだと書いていることから、カザン=ハン国のウルグ=ムハンマドを意味していると考えられる。一方3ではオルマンベトの死後、ノガイが分裂し、17世紀のトルゴートへ従属したと述べられていることから、素直に17世紀のカルマクの侵攻に先立つオルマンベト=ビーの死とノガイ=オルダの弱体化を言っているものと取るべきであり、4のオンサン=ノガイという表現は、カルマクとの戦いを描いた叙事詩をはじめとする口頭伝承に頻繁に見られることから、ノガイ=オルダおよびその住民を指すのが一般的であり、また4のオルマンベトは叙事詩などに見られるオルマンベトと同一と考えるべきである。
 したがって、1・2と3・4は明らかに別人と見なすのが自然である。シャカリムは、カザン=ハン国のウルグ=ムハンメド(テミルと混同していると思われるが)とノガイ=オルダのオルマンベトの二人の異人を表していたのである。
 先行研究では、ウブラエフやマガウィンはどの記述のオルマンベトについてもカザン=ハン国のウルグ=ムハンマドと解釈し、一方ドスムハメドはすべてをノガイ=オルダのオルマンベト=ビーに比定しているが、これは双方とも極論で、「同名異人」が記述されていたと考えるべきである。
 以上のことから、叙事詩などの口頭伝承に表れる「オルマンベト」は、基本的に16世紀末のノガイ=オルダのビーであったオルマンベト=ビーと見なすべきであろう。
 ちなみに、崩壊した「オンサン=ノガイon san noghay」であるが、どのような集団なのであろうか。これには、諸説あり定説がない。先行研究では、「100万のノガイのくに(15)」、「10部族のノガイ=オルダ(16)」、「1000部族のノガイ(17)」、「1万のノガイ(18)」「多くの部族が集まった集団(19)」などとされている。サンsanという言葉には「数」の他に「無数の」や「1万(古語)」の意味もあるようだが、「オンサン=ノガイ」という表現は口頭伝承における「多くの民からなるノガイ」を意味する言い回しなのであろう。

 ところで、シャカリムの記述で「オルマンベト」に二つの意味があったように、「ノガイ」という言葉にも二種類の意味がある。それは、周知のように「タタール」と「ノガイ=オルダ(オンサン=ノガイ)」である。
 シャカリムに依拠して『最末期「金帳」および「アストラハン汗国」の君主(小ムハンマド裔)のみならず「カザン汗国」の開祖である大ムハンマドもノガイのハンと呼ばれていた』とする見解は、シャカリムの言説に見られる二人の「オルマンベト」を同一人物とすることが前提とされるため、根拠としては適切ではないが、シャカリムがノガイを「タタール」と「ノガイ=オルダ」の二つにたいして使っているのは確かであり、結論としては正しい。このことは、叙事詩にも見られ、たとえば、叙事詩「ナリク(ムルン=ジュラウ版)」では、カザンとノガイを異なるものとする表現とこれらを同一のものとする部分とが見られる。この作品にはカザンのハンであるナリクが、ノガイに自分の新しい妻を求めにいくという場面があり、カザンとノガイは異なる地域的概念と読みとれる一方で、「ノガイのくにの中にある/それは、カザンの町なり」とノガイがカザンを包含することもまた表されている。このように、語り手自身も同一作品の中で「ノガイ」というひとつの言葉を二つの意味で用いているのである(20)


3 歴史上のオルマンベト=ビー

 それでは、ノガイ=オルダのオルマンベト=ビーとはどのような人物であったのだろうか。ここでは、16世紀後半以降のノガイ=オルダの歴史について概観しながら、この点について考えていきたい。
 ロシアのカザン・アストラハン征服前後に、ノガイ=オルダはロシア派(イスマイル)とクリム派(ユスフ、カズ)に分かれ、対立した。それはやがて、イスマイル家を中心とする大ノガイとカズ家を中心とする小ノガイというノガイ=オルダの分裂を招いた。大オルダはエディル川左岸および下流域に、小ノガイはカバルダとアゾフに挟まれた地域に広がり、それぞれロシア、クリム=ハン国に従っていた。
 大小ノガイは対立関係にあったものの、ときに協同して、ロシアを襲撃するなど複雑な関係にあった。とくに大ノガイはロシアへの臣従と反抗を繰り返した。オルマンベトは、大ノガイ、イスマイル家の人物で、イスマイルの孫にあたる。彼は16世紀末に、大ノガイのビーとして10年弱君臨した。しかし、彼の名前が口頭伝承にしばしば表れるのに対して、この人物に関する史料はきわめて少ない。史料(21)には、本人のイワン雷帝への書簡が記載されていたり、その他の人物の書簡に数カ所言及されるものもあるが、情報としては不十分である。
 ノヴォセリスキーが「残念ながら特にノガイに関する資料は80年代半ばで途切れている。これらによって80年代後半、特に1589-90年の小ノガイとの闘争について知ることができたであろうが、90年代の大ノガイの状況についてはほとんど資料がない(22)」というように、ちょうどオルマンベトの治世に関する史料は欠落しているのである。
 ただ、「在大ノガイ大使ゴドゥノフの1604年の文書によると、1590年に死去したウルスのあとをティネフマトの長男ムルザ=ウルマメトが継いだ。彼の生存は1597年には確認されている。彼に代わり年長順にティネフマトの息子ティンマメトがクニャズの位を継いだが、1600年にはイシュテレクがクニャズに就いているため、その任期は短かったのだろう(23)」とあるように、オルマンベトが1590年代にノガイのビーであったことは確かである。

 ここで、オルマンベトの治世のころのノガイ=オルダの様子を一瞥してみよう。
 1580年代末、アストラハン地方から移動してきたウルスの息子たち率いる1万5千の大ノガイの人々は、ドン川左岸に広がっていた。クリム=ハン国とカズ一族(すなわち小ノガイ)は、これらの大ノガイをドン川流域から追い返そうとしていた(24)。ティンアフメトの息子オルマンベト=ミルザが「大ノガイ」のビーに選出されたころ、ノガイは、東部に「ウルス=ビー」、中央部に「オルマンベト」、西部に「ヤクシサト=ビー」と3つの独立した勢力に分かれていた(25)。大ノガイと小ノガイの流血の争いの中で、ウルス=ビーやその息子サトゥ=ミルザ、ヌラディンのシェイド=アフマト、カズ=オルダのヤクシサト=ビーなどが死んだ。そしてこの戦いの結果、大ウルスのミルザたちは再びアストラハン近郊に戻ることを余儀なくされた。そして1590年代にノガイ=オルダは国内外の軋轢によって弱体化し、ゆっくりと着実に崩壊へ進んでいた。
 オルマンベトの具体的な行動については史料の欠如から不明な点が多いが、大ノガイのビーとなった彼が、権力抗争の渦中にあったことはよく知られている。彼の時代には、大ノガイと小ノガイとの争いとは別に、大ノガイの内部でも紛争があった。オルマンベト一族とシャーママイ家、ウルス家、ティンバイ家との内訌である。この抗争は18年に及び、オルマンベトの死をもって終結したという(26)
 その後もしばしば大ノガイ内部では、内訌が起こるとともに、1630年代にはカルマクの本格的な侵攻を受けて、弱体化していった。大ノガイはエディル右岸に移動し、クリム=ハン国に臣従したが、結局1642年以降、ロシアに臣従する。以後、カルマクを恐れ大ノガイは、エディル左岸の故地に戻ることはなく、アストラハンからテレク川流域の草原に居住したのである。
 大ノガイを構成していたオルマンベト一族は、オルマンベトの死後も「オルマンベト=ノガイ」という独立した集団を形成し続け、分裂したノガイの一勢力として存在した。16世紀前半にこれらの地域を旅行したエヴリヤ=チェレビーがノガイについて記す次の文にもその名が見られる。
 「(クリムの)ハンはムスリムの軍勢とともに、クリムの優秀な部隊からカラウルを置いた。それらは大ノガイ、小ノガイ、シェイダク=ノガイ、ウルマンベト=ノガイ、シリン、マンスル、セジェウト、マングト…、これらはみなカラウルの任務についた」(27)
 なお、同書の注釈では、ウルマンベト=ノガイについて次のように補足している。「ロシア史料に見られる1590年代の大ノガイの支配者ウルマンベトがウルマンベト家の長であった。ウルマンベト一家のミルザたちは、1639年以降クリムに残り、ロシアの臣下に戻ることはなかった」(28)
 ノガイの一族の中には、ユスフ家(ユスポフ家)やウルス家(ウルソフ家)のようにロシアに従い、貴族階級となる一族もあったが(29)、17世紀前半のカルマク侵攻以後西へ逃走したオルマンベト家はクリムに留まったようである。


4 「オルマンベト」は何を意味するか?

 叙事詩やトルガウなど口頭伝承において、オルマンベト自身を主人公とした、あるいは彼自身の生涯を詳しく伝える作品は、報告者の知る限りほとんどなく、彼の死後の時代が重視されている。オルマンベトの名が表れる作品は、大きく次の二つに分けることができる。

 1 作品の冒頭等で、物語の時代や場所を設定するだけの作品。
 2 オルマンベトの子供が主人公あるいは主要な登場人物となる作品。

 叙事詩では(往々にして内容とは無関係に)、「遥かなる昔」の象徴としてオルマンベトの時代が設定されている。しかし、オルマンベトの治世前後の「混乱の時代」が彼らの歴史における重要な時代として設定され、謡われている作品も少なくない。叙事詩では、アクタバン=シュブルンドゥなど歴史的に大きな契機が描かれるのが一般的であるが、「オルマンベトの時代」もまたそのような重要な時代と見なされ、ノガイの分裂と彼らの移動、それに伴う新たな「民族形成」が謡われている。以下、これらについて、実際に作品の例を挙げながら見ていこう。

  (1)ノガイの分裂にともなう、人々の移動を謡った例
  (「オルマンベト=ビーのトルガウ」から抜粋)

            山々を越える、越える
            越えて多くのノガイ人が移った。
            エディルとジャユクから
            多くのノガイ人が集まって移った。
            オルマンベト=ビーが死んだとき、
            オンサン=ノガイが崩壊したとき
            オルマンベトのようなビーには
            息子ではなく娘が残された。/
            3人の娘の末娘は
            サルシャ=スルウといったという。
            ノガイのくにでは
            老齢の老人が
            力強き若者が
            泣きながら話し合いをもった。(30)


            いにしえの時、
            時代の古き時に
            オイルとクユルで
            クムケントの高き山で
            エディル=ジャユクのほとりで
            ムンサンのノガイのくにがあった。
            オルマンベトというビーがいた。
            オルマンベト=ビーが死んだ。
            ムンサンのノガイのくにが崩壊した。
            オルマンベト=ビーには
            息子は残らず、娘が残された。
            主なきノガイは移動した、
            ノガイの住民は集まった。(31)


 (2)ノガイ内部の対立とカルマクのノガイ侵攻を謡った例
  (「マナシュウル=トゥヤクバイ」あらすじ)

 ノガイのくにに11人のビーがいた。このくにに向かって、ウンドゥス=カルマクという敵がアシャガル川流域にやってきた。ノガイの賢者オルマンベト=ビーを呼びに行かせ、オルマンベトにウンドゥス人は「われらの言う通りにせねば、われらのやり方に従わねば、おまえのくにを攻め取るぞ」と言った。
 するとオルマンベトは「私はおまえの言うことに賛同できない。わがくにの11人のビーがに連絡を取り、彼らが受け入れよと言うならば、受け入れよう。受け入れるなといえば、やはり受け入れられぬ」と答えた。カルマク人は「おまえは受け入れぬと言うのか」とオルマンベトを=ビーを殺害してしまった。残ったビーたちを呼ぶために使いが送られた。そこでビーたちは出発しようと馬に乗った。道中彼らは、マナシュ=ムルザの家に立ち寄った。ビーたちはマナシュに「この敵に立ち向かおう。勇敢なる作戦を行って、やつらに立ち向かおう」と言った。
 そしてマナシュは家を発った。母は不幸が起きるのではないかと、彼に同行することにした。
 11人のビーはアシャガル川に向かった。そこで奸計を案じ、マナシュに隠れて相談した。彼らはマナシュを人質としようとしたのである。
 「人質を残し、3日で戻るといい、3日で戻らなければ、移動して行く」と、ビーたちはマナシュをウンドゥスに渡した。そして、マナシュと母はカルマクのもとに残った。
 11人のビーがマナシュのアウルを過ぎ去ろうとしたとき、娘がやってきて、兄と母について聞いた。すると11人のビーは「おまえの兄と母親はやがて戻ってくるだろう」と答えて、去って行った。彼女は「兄も母もいない。11人のビーはだましたのだ」と思った。
 そして、娘はマナシュの残した「蒼い駿馬」を連れて、丘に立って見てみるとノガイがみな移動しているところであった。彼女は兄嫁に「私はノガイと一緒には移りません。ここに残ります。私が一緒に行ってもノガイは我々に水すらくれないでしょう。」と。
 このときマナシュの妻は懐妊していた。そして男の子を産んだ。勇士の残したトゥヤク(蹄のこと、転じて「後継ぎ」も意味する)なので、トゥヤクバイと命名された。
 さて、3日経ったのち、マナシュのもとに戻ってきた者がいなかったため、ウンドゥスはマナシュを殺してしまった。母はマナシュの傍らに座って泣いていた。
 トゥヤクバイの母はトゥヤクバイに、父がマナシュであることや彼の名前の由来、11人のビーに騙されて殺されたことを伝えた。
 トゥヤクバイは母と祖母が寝入ったあと、母の小刀を盗み、11人のビーを探しだそうと、出発した。ビーたちが眠っている家に入って、ビーをみな斬りつけて、殺害した。事を終えると、裸足で、帽子も被らぬままの姿で家に戻った。
 その後ビーの家が壊され、血が流れているのを見つけ、人々が集まった。オルマンベトにはアリという息子がいた。アリは「11人のビーの家に来た者があるか、誰か知らぬか」と訊ねた。ある者が「誰かは知らぬが、一人の貧しい子供がやってきたようだ」というと、「マナシュには一人息子が残されていた。その子かどうか調べてみよう」と考えた。
 さて、11人のビーの30人の息子も、ビーたちを殺したのはトゥヤクバイと思って、武器をつるしてトゥヤクバイのもとに向かった。彼らにオルマンベトの息子アリも同行した。
 トゥヤクバイを見つけた30人にトゥヤクバイは、「おまえらの父、卑怯な11人のビーが我が父を人質としたために殺されたのだ。それゆえ、11人のビーを殺したのだ」と言った。30人はアリと相談した。アリは「おまえらの父の行いは誤りであった。トゥヤクバイは、おまえらと違い不屈の勇士だ」と言った。トゥヤクバイに「おまえは忍耐ある勇士だ。11人のビーの死は罰であった」といい、アリはトゥヤクバイと友人になった。そして、彼らはみなマナシュのアウルに行き、敬意を受けた。そして彼らは故郷へ戻った。
 ひと月が経った。30人の息子たちはオルマンベトの息子を長として、敵に向かって行軍した。トゥヤクバイも「父の仇を取るために、ウンドゥスに行こう。仲間とともにオルマンベトの息子が率いる行軍に加わろう」と出陣した。ウンドゥスのメイラムハンはアリとトゥヤクバイに言った。「余はウンドゥスのハンだ。ノガイというくにを攻めに来たのだ」と。トゥヤクバイは「私はメイラムハンのカルマクの町を取ろうと来たのだ」といった。そしてアリとトゥヤクバイは馬に乗って双方から攻撃をしかけ、何日間か戦った。その攻撃に耐えきれず、800のカルマク兵は逃げ去った。一方30人の勇士のうち、4人が死んだ。メイラムハンの息子を殺して、トゥヤクバイは故郷に戻った。母は仇討ちをした息子を喜びながら迎え入れたのであった。(32)


 (3)ノガイ崩壊によるカザフ、カラカルパクの「民族形成」を謡った例
 (「オルマンベト=ビーのトルガウ(ジュマバイ=ジュラウ版)」から抜粋)

            汝に一人娘がいたとして、
            もしも娘をサルトに嫁がせたら、
            そのサルトを婿と見なすだろうが、
            婿の土地は狭くなろう。
            その地に縄を打って
            その土地は干上がるだろう
            乳を取る山羊の
            夏営地にはならないのだ、民よ。(33)


            いつも語る言葉がある。
            これは指針とならぬだろうか。
            カラカルパクはナクラ奏者が
            カザフからはスルナイ奏者がやってくる、
            ダル、バラバン、ダイラの奏者が
            カザフからやってくると彼女(オルマンベトの娘)は言った。
            「カザフからスルナイ奏者が来る」
            その言葉の意味を語ろう。
            ここにノガイの
            樫から作られた船があるということ。
            船とはどんな意味か?
            それは「二つの船首が合わさって
            ひとつの船が成り立つということだ」と彼女は言った。(34)



 (4)ノガイ崩壊によるカラカルパクの「民族形成」を謡った例
  (オテシィ=アルシュンバイウルの「世を過ぎて」から抜粋)

            ノガイであった人々は故郷を離れて、
            微かな希望を抱きながら暮らしていた。
            10のノガイのくにが崩壊したとき
            あるものはさすらいながら過ごした。
            かの者はノガイをカラカルパクと呼び、
            「離れしもの」として一生を過ごした。(35)


 これらの例には、「オルマンベトが死んだとき、10のノガイが崩壊したとき」というフレーズ通り、ノガイの内訌と崩壊が彼の死後に頂点を迎えていたことが見て取れる。このことは叙事詩が史実を反映している好例といえよう。
 また、ノガイ=オルダの崩壊以降、ノガイの人々は、カラカルパクやカザフ、バシュコルト、クリム=タタールなどの周辺の集団に吸収・統合されていった。カザフにノガイを舞台としたり、描いたりする作品が多い背景として、カザフの歴史にノガイが大きく関与していること、とくにノガイ崩壊によってその一部がカザフに同化したことを報告者はこれまでにも指摘したが(36)、ノガイの崩壊がこの地域の「民族形成」に強い影響を与えたという彼らの認識は、(3)で挙げたトルガウに見られる「ノガイの崩壊」と「カザフとの統合」や(4)のカラカルパクの「民族形成」に見いだせるのである。
 さらに、ノガイ=オルダの分裂と崩壊の大きな要因であるカルマクの度重なる攻撃に注目してみたい。中央ユーラシア、とりわけカザフやウズベク、カラカルパクなど中央アジアに伝わる叙事詩の主なテーマは「カルマクとの戦い」で、ほとんどの叙事詩がこれを背景としているが、オルマンベトの死後、まさにこのカルマクの中央アジア侵攻が始まっている。オルマンベトの死後十数年経った1613年、最初のカルマクの大ノガイ襲撃があった。オルダ内部の抗争とロシア・クリム=ハン国間での翻弄に疲弊していたことに加えて、東方からの新たな敵の攻撃は、ノガイ=オルダの崩壊とこの地域の「民族」構成の再編を余儀なくさせたのである。
 なお、「カラサイとカズ」や「オラクとママイ」、「チョラ=バトゥル」などオルマンベト=ビー以前の時代や出来事を描いた「ノガイ大系」の作品には、「オルマンベトが死んだとき、10のノガイが崩壊したとき」というフレーズはもとより、オルマンベトという名称も見られない。このことは、オルマンベトが彼らよりも時代的に新しいことを正しく認識しながら伝承されていたことの証であり、やはりオルマンベトがカザン=ハン国の「創始者」ではなく、ノガイ=オルダ末期のビーであることを意味するのである。

 以上のことから、叙事詩をはじめとする口頭伝承にオルマンベトの名がしばしば表れるものの、それらはオルマンベト自身を描いていたり、その功績を讃えたりするのではなく、むしろ彼の死後、ノガイ=オルダの分裂・崩壊後の困難な歴史背景を表現していることがわかる。オルマンベトの名は、「激動の時代」の象徴として使われたと結論づけることができるのである。


まとめ

 本報告では、まず叙事詩をはじめとする口頭伝承に見られるオルマンベトについて再検討をした結果、従来の通説通り、彼がノガイ=オルダ末期のオルマンベト=ビーを指していることとの結論に達した。
 次に、作品の内容について検討した結果、オルマンベトが表れる作品は、彼自身やその功績を謡うのではなく、時代設定としての紋切り型のフレーズに表れるか彼の息子あるいは娘の混乱した時代について謡われていることから、これらの作品を伝えてきた人々にとって、ノガイの崩壊とそれに伴う新たな「時代」が伝え残すべき重要な点であったと言うことができる。
 後世にまで伝えられる伝承には、「アクタバン=シュブルンドゥ」といわれるカルマクの中央アジア侵攻など、その集団の歴史上重要な出来事が背景となるが、ノガイの崩壊とその後の民族の「形成」や「再編」もまた、彼らにとって同様に重要な事件であったため、「オルマンベトが死んだとき」という象徴的な言葉でその時代は表され、語り伝えられてきたのである。
 また、オルマンベトの子供たちの時代が口頭伝承に謡われているということは、エディゲからオルマンベトまでのノガイ=オルダの歴史全体がおおむね謡い伝えられてきたということを意味し、ノガイ=オルダの存在が「ノガイ大系」を伝えてきた人々の歴史において、大きかったことが改めて理解されるのである。



(1)El qazynasy-eski soz, Almaty, 1994. Qazaqtyng batyrlyq epos, Almaty, 1992.

(2) El qazynasy-eski soz, Almaty, 1994. 250-b.

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(10) Xalel Dosmuxameduly, Alaman, Almaty, 1991. 112-b.

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(12) sonda, 20-b.

(13) sonda, 60-61-b.

(14) sonda, 21-b.

(15) Inan, Abdulkadir. Makaleler ve incelemeler. Ankara. 1968. s.620.

(16) Shakarim Kudajberdy-uly, Rodoslovnaq tyurkov, kirgizov, kaaaxov i xanskix dinastiy, Alma-Ata, 1990. str.46.

(17) Reichl,Karl. 2000.p.106.

(18) Valixanov Ch., 1985. str. 61. 166.

(19) Shakir Ybyraev, 1993. 154-b.

(20) Batyrlar jyry 5, Almaty, 1989.

(21) Prodoljenie drevnej rossijskoy vivliofiki 10, sankt peterburg;, 1795.(Slavic Printings and Reprintings. The Hague, Paris. 1970.)

(22) Novosel'skiy A.A., Bor'ba moskovskogo gosudarstva s tatarami v pervoy polovine 17 veka, M-L, 1948. str.37.

(23) tam je.

(24) Kohekaev B-A.B., Nogaysko-russkie otnosheniya v 15-18 vv.. Alma-Ata, 1988.

(25) Togan, Z. V. Bugunku Tutkili Turkistan ve Yakin Tarihi.. Istanbul.1981. s.141.

(26) Tynyshpaev M., 1992. str. 70.

(27) Evliya Chelebi. Kniga puteshestviya vypusk 2, Moskva, 1979. str.29.

(28) tam je, str.221.

(29) Istovan Vasary, Russian and Tatar Genealogical Sources on the Origin of the Iusupov Family, Harvard Ukrainian Studies, vol.19, Cambridge, 1995. 740, 744p.

(30) Kamal Mambetov, Qaraqalpaq tolghaulary, Nokis, 1995. 56-b.

(31) Reichl,Karl. 2000. p.189-190.

(32) Batyrlar jyry 6, Almaty, 1990.

(33) Reichl,Karl. 2000. p.191.

(34) ibid. p.193.

(35) Adebiyat khrestomatiqsy, Nokis, 1998. 94-b.

(36) 坂井弘紀「カザフの英雄叙事詩にひそむ歴史:『エル=タルグン』の歴史背景に関する一考察」『内陸アジア史研究』12号、1997年。



 
ノガイ=オルダ関連年表
(16世紀後半〜17世紀前半)

 1549-1554 ユスフの治世
 1550年代初頭 ユスフとイスマイル、それぞれカザン派・ロシア派として対立。
 1552  ロシア、カザンを征服。
 1554  イスマイル、モスクワと同盟を結ぶ。
 1555  イスマイル、シャーママイの長子カサイらとともにユスフを殺害。
 1555−1563 イスマイルの治世
     イスマイルの即位により、内紛が始まる。
 1556  ロシア、アストラハン征服。
 1557−59頃? 小ノガイ(カズ=オルダ)の形成。大・小ノガイの分裂。
 1563  イスマイル死去。
 1563-78  ティンアフメトの治世 
 1569  ハクナザル、ディンアフメド率いるノガイを攻撃。
 1577  ハクナザル、ノガイを攻撃。
 1577  小ノガイのカズ死去。
 1578-1590 ウルスの治世
 1580? ティンアフメド死去。
 1590-1597 ウルマンベトの治世
 1597-98年頃 オルマンベト死去。
 1597-1600 ティンムハメドの治世
 1600-1619 イシュテレクの治世
 1613  カルマク、大ノガイを襲撃。以後、しばしば大ノガイを襲撃。
   大ノガイ、ヴォルガ右岸に渡り、ロシアと断交。
 1616  大ノガイ、カルマクを撃退、かつての牧地に戻る。再びロシアに従う。
 1619  イシュテレクの息子たち、カラケリマンベトを破る。
 (1619-23 ビー位が空位に)
 1622  イシュテレク家とティンマメト家、クリム勢とともにロシアを攻撃。
 1623- カナイ=ティンバエフの治世(ヌラディンはカラケリマンベト)
 1628  ティンマメト家のマンベトとチュバル、カラケリマンベトとカナイのウルスを攻撃。
 1630  カルマク、ヴォルガ流域へ移動。
 1634  カルマクの本格的な攻撃。大ノガイ、ヴォルガ右岸へ移動。
 1634-36 大小ノガイ合同してドンコサックと争う。
 1636  再び大ノガイで(ティンマメト家とウルマンベト家の間で)内訌。
     この年の11月までに大ノガイのクリム領内への移動が完了。
 1638  再び、大ノガイの一部、クリムからアゾフ周辺へ移動。
 1640頃 すでに大ノガイにはビーもヌラディンも不在。
 1641  大ノガイ、クリム領内に戻る。
 1642  大ノガイ、ヴォルガ流域に移動し、ロシアに臣従する。
 1644  カルマク、ヴォルガ右岸の大ノガイを攻撃。以後、大ノガイはアストラハンからテレク川流域に居住。