タジキスタンの内戦・和解・国家建設:出張報告
宇山 智彦


2001年3月10日
「イスラーム地域研究」1班b「中央アジアにおける国際関係とイスラーム」研究会
北海道中央アジア研究会第8回例会



1.出張の日程

 2001年2月3日 札幌→東京
 2月4日 東京→モスクワ
 (モスクワでタジキスタンのヴィザ取得、ドゥシャンベ往復航空券購入)
 2月7日 モスクワ→ドゥシャンベ
 2月16日 クムサンギル地区とクルガン・テュベに車で日帰り
 (クムサンギルはアフガニスタン国境の地区、中心のドゥスティー村は国境から20km)  2月18日 ドゥシャンベ→フジャンド
 2月19日 ガフーロフ市訪問の後、フジャンド→ドゥシャンベ
 2月21日 ドゥシャンベ→モスクワ→
 2月22日 →東京→札幌
 (出張費は、新プログラム方式「イスラーム地域研究」1班から)



2.全般的印象

 治安は良好。それもウズベキスタンのように警官等が頻繁に市民や外国人に尋問・いやがらせをする中での治安の良さではなく、安心して歩ける。ただし到着時の機内での麻薬取引犯取締り作戦の時のように、治安関係者や護衛が持つ銃を目にすることは多い。  
 日本外務省には、ぜひ「危険度」を下げてほしい。ウズベキスタン、クルグズスタンのフェルガナ盆地平地部についても。
 
 物乞い(特に子供)が多い。勤めている人も給料は20 somoniに満たない場合が多い(1ドル=2.55 somoni。なお、somoniは昨年10月末導入、4月まで1 somoni=1000タジク・ルーブルでタジク・ルーブル札も流通)。他方で外車が走り、豪勢なレストランもある。闘犬の賭け金は最低200ドル、一番強い犬の飼い主は警察幹部。  
 食料品・日用品は特に豊富とは言えないが一応出回っている。多くの店は日曜日休みで、平日も5-6時で閉まる。気候的に寒い場所ではないが、暖房がゆるいので電気ストーブ(イラン製)が必需品。電話事情悪い。  
 ドゥシャンベ中心部は、徒歩30分以内で大体の用事が済ませられコンパクト。1950年代風の古典的なデザインの建物が多い。夜8時以降は人出が非常に少ない(車は通る)。戦火の激しかったクルガン・テュベ周辺は荒れた建物が目立つ。クムサンギル地区はこの国には少ない平原地帯。フジャンドは明るい街並み、シル川が貫流し山が迫る。チカロフスク、ガフーロフと市街は連続。  
 特にモスクが多いわけでもなく、ドゥシャンベの人々の服装は主に洋服で(色のセンスは多少独特だが)、夜な夜な酒宴に興じる人々もおり、厳格なイスラームや伝統主義が浸透しているようには少なくとも表面上見えない。しかし断食の習慣が広まっているとも。また、イスラーム運動が広がる可能性がないという意味ではない(後述)。


3.主な面談者(順不同。便宜上、人名表記は統一していない)

 Mirzo Saidaliev 外務省人事特別情報部長(ロシアとの二重国籍)
 Ibragim Usmonov 下院議員
 Abdumadzhid Dostiev 下院副議長
 Garibsho Shakhbozov 外務省領事部長(元山岳バダフシャン自治州ソヴェト議長)
 Abdunabi Sattorzoda 外務第一次官、民主党幹部会員(元第一副議長)
 Mukhammadsharif Khimmatzoda 下院議員、イスラーム復興党副議長
 Iskandar Asadullaev 大統領附属戦略研究センター長
 Saodat Olimova 学術分析センター「シャルク」
 Rakhim Masov 科学アカデミー歴史・民族学・考古学研究所長
 Larisa Dodkhudoeva  同所研究員
 Abdullo Gafurov 同(現代史部長)
 Sherzod Abdulloev 科学アカデミー哲学研究所研究員(宗教学)
 Faiziddin Shomakhmadov クムサンギル地区議長
 Amirsho Miraliev ハトロン州議長(事務取扱)
 Abdulkhakim Sharipov ソグド州社会文化団体課長
 Zhamshed Zhurabaev フジャンド市社会文化団体・民族間関係課長(29歳)
 Dzhurakhon Fozilov フジャンド市組織人事課長(33歳)
 Sharif Shodiev ソグド州社会文化団体課セクター長
 ボボジャン・ガフーロフ地区の幹部たち
 Kalybek Koblandin 在タジキスタン・カザフスタン臨時代理大使
 高橋博史 UNTOP(国連タジキスタン平和構築事務所)次席代表


4.内戦の歴史に関連して

 
 内戦の開始は1992年5月だが、90年2月のドゥシャンベでの集会・暴動から緊張は続いていた。当時のマフカモフ共産党第一書記の責任大と見る声。トゥラジョンゾダをカーディーにして重用し、政治的野心を与えたうえ、事件が起きると性急に武力で鎮圧し、人殺しの見本を人々に示した、と。  
 92年に連日反対派集会が開かれた大統領府前のShakhidon広場(現在は前庭と道路がフェンスで仕切られる)と、大統領派集会が開かれたOzodi広場(旧レーニン広場、現Ismoil Somoni広場)は、いずれも都心にあり、歩いて10分。  
 故サファラリ・ケンジャエフ元最高会議議長(その著書3巻本には騒乱の生々しい写真)らが「人民戦線」創設、やくざのサンガク・サファロフが軍事的指導者となり、若い軍人マフムド・フダイベルディエフがロシア軍から戦車を横取り。92年11月にフジャンド近郊で成立したラフモノフ政権が、人民戦線の軍事力(ウズベキスタンのヘリ援護)により12月ドゥシャンベ制圧。(サファロフは93年殺害、ケンジャエフは反ラフモノフに転じたのち99年殺害、フダイベルディエフは96年以来蜂起を繰り返した後ウズベキスタンに潜伏)。  
 反対派の根拠地はバダフシャンとガルムだったが、バダフシャンで大きな戦闘は起きず。反対派に高位ポストを与える、のち中央でも採られた策を先駆的に行った、自治州指導部の努力。  
 反対派には内戦中モスクワ、テヘラン、イスラマバード等だけでなくアルマトゥに行っていた人も多い。反テュルク的スローガンを叫びながら、アルマトゥでカザフ人と結婚した人々も。  
 現在、政府関係者も市民も、内戦の話題を全くタブーにしておらず、当時のことをオープンに話してくれる。


5.和解の歩み

 (主にウスモノフ氏とサットルゾダ氏の話によって新たに分かったこと)

  政府と反対派の和平交渉、1993年10月に準備開始、94年4月に第1ラウンド(モスクワ)。政府側団長ズフロフ労相のランクが低く、特に軍事問題で決定権がないとして反対派は不満、団長のトゥラジョンゾダとヒンマトゾダが欠席。9月のテヘラン協議と10-11月の第3ラウンド(イスラマバード)ではドスティエフ(当時の政権No.2で、人民戦線創設に関与して軍事問題にも発言力)が政府側団長となり、トゥラジョンゾダらも出席するように。  
 テヘラン協議で一時的停戦協定締結。以後、交渉が不調な際にも、とりあえず停戦協定延長を成果として次の交渉につなげることができるようになる。ただし実際は停戦はしばしば破られた。  
 95年5-6月の第4ラウンド(アルマトゥ)は成果が期待されたが不調。他の中央アジア諸国首脳もラフモノフ政権に厳しい態度取る(恐らく同政権が交渉に消極的と見て)。結局、第1-4ラウンドは双方の立場を確認しただけに終わり、以後交渉は袋小路に。反対派は全民族・全政治グループが集まる協議フォーラムKonsul'tativnyi forumの創設を提案、さらにはそれを国家評議会Gossovetとし、国会の活動を停止することを求めるが、政府はいずれにも反対。9月から第5ラウンドを最終ラウンドとして開くことが合意されたが、実際は第5ラウンド(アシガバート)は12月にようやく開始。折からタヴィルダラ地区で戦闘が激化、反対派は双方の軍を引いてから話し合おうと提案、同月には何も決められず。政府側団長だったウバイドゥッロエフ副首相は、フダイベルディエフ反乱で辞任。96年3月には反対派を交えた国会特別セッションが開かれるはずだったが、反対派は欠席、反対派を糾弾する場に。交渉不調を受けて仲介役の国連事務総長特別代表はピリス=バロンからメレムに交代。3度に分けて行われた第5ラウンドは7月にようやく終了、軍事・捕虜問題で進展。  
 北部を基盤とする第三勢力を称して現れたアブドゥッロジョノフ元首相のグループが、自分達を交渉に加えるよう国連に手紙。国連は政府と反対派が賛成すれば加えてよいとし、反対派は賛成した(政府40%、反対派40%、他の諸勢力20%とする案)が強くは主張せず。政府は同グループにに支持基盤はなく、また元々政府側だから別枠をもうけるのはおかしいとして強く反対。共に、同グループが北部を代表するとは考えず。  
 96年10月に国民和解委員会(Komissiia po natsional'nomu primireniiu)創設が話し合われる。これは協議フォーラム・国家評議会のアイデアをある意味で引き継ぐものだが、国会の活動を停止させず、補助的な役割を担う(反対派の交渉担当者の一人だったサットルゾダ氏も、国家評議会は現実的でなかったことを認めている)。議長は反対派から(ヌーリー)。当初議長以外の委員を政府・反政府同数にすることを前提に委員は27人とされたが(97年1月の文書)、2月に調印された委員会規程では、議長も入れて同数にするため26人構成に(委員会での決定は全会一致方式なので、1人違っても意味はない)。  
 その後反対派のテロリストを解放すべきか否かなどで再び対立したが、97年5月に急遽ビシケクでトップ会談を開き、政治問題議定書を結ぶ。  
 97年4・5月の第8ラウンド(テヘラン)で交渉は終了、6月の最終ラウンド(モスクワ)ではそれまでに結んだ諸文書をまとめて「包括協定」とする。  
 全体として、ロシアとイラン(反対派を支持すると共に説得)が同じ立場に立たなければ和平はなかったこと、国連等が重要な役割を果たしたことはタジク人も認める。同時に、比較的短期間で内戦を終結させ、世界各地の紛争解決の模範ともなりうることに誇り。  
 公式の交渉と並行して、アメリカやロシアの民間人の仲介により、Dartmouth Conference Regional Conflicts Task Forceの枠組みで対話が行われたが、参加者が反対派に偏り、意義は限定的だったというのがウスモノフ氏の見方。  
 ウズベキスタンは当初、内戦と和平のプロセスを主導しようとし、92年9月に国連にタジキスタン問題に関心を持つよう呼びかけた。しかしタジキスタン政府が自立しようとすると怒る。交渉のどのラウンドもウズベキスタンで開くことはできず。97年5月のラフモノフとヌーリーの会談をメレムはタシケントで開くよう提案したがカリモフは断り、急遽アカエフが引き受けた。こうした事情も、現在のウズベキスタン・タジキスタン関係の緊張につながっている。


6.地方統治制度の特徴

 1994年12月制定の「地方における国家権力法」と「村落地方自治法」による。極めて中央集権的、かつ議会中心ではなく行政中心。→国家の単一性を強調。  
 州・地区レベルは「地方における国家権力」。議会Madzhilisの長と行政府の長は「議長rais」が兼任。議長の任免は大統領が行う。選挙制は時期尚早(どの程度かは人により差)という見方。議長は地方議会議員の中から任命されるきまりだが、実際は非議員が任命されて議長事務取扱となり(例:ミラリエフ氏)、数カ月後に予め当選が約束された選挙で議員となってから正式の議長になることも。  
 副議長らの任免は大統領の合意を得て議長が行い、行政部Khukumatの機構は政府によって決められる。  
 議会は上位単位の議会の決定を遵守する義務持つ。法律に違反するとみなされる議長・議会決定は上位の機関が取り消せる。  
 議会は年2-4回、数時間ずつしか開かれない(議員は他に本業がある)。大した仕事はないからというニュアンスの説明(南部の州・地区議長)と、常設委員会がきちんとした審議をしているからという説明(北部の市・地区課長クラス)。フジャンド市では40人の議員のうち30人が人民民主党出身、39人がタジク人(1人ウズベク人)。  
 財政面:村レベルで集められた税金を地区がとりまとめ、税の種類にもよるが85%を地区のために使い、15%を国と州に供出。一部の貧しい地区だけが補助金を受け取る。  
 社会文化団体課は旧イデオロギー課で(会話では今でもしばしばそう名乗る)、民主主義の宣伝やNGOの支援を行うと共に、過激な宗教団体(特に解放党)対策も行う。  
 2月10日の政府拡大会議で大統領が地区長らを叱責、更迭。  
村レベルには自治機関である議会Dzhamoatがあるが、その開会(年2回以上)、議員の構成法、議長の選出は、地区議長・議会によって、あるいはその合意のもとで行われる。議長や役員は地区から給料をもらう。ガフーロフ地区には4万6000人の村もあるが、通常はもっと小さい(人口8万6500人のクムサンギル地区には40の村)。コルホーズ解体の状況は地域によって違う。  
フジャンド市では下位に18の街区委員会(伝統的な家屋のある場所)と8つの住宅管理局(団地のある場所)があり、その長は市長の任命により市役所の代表者として働く。


7.政治体制:巧妙な現状維持システム

 
 元々政府側にいる人々と少なからぬ一般市民の、旧反対派への軽蔑。「地位を与えられて満足した、行政能力がない」。ヌーリーが子供百貨店を買収したという話。内戦の責任の大部分は、旧反対派に押しつけられている。  
 政府ポストの旧反対派割当(30%)は持続的なものではなく、徐々に低下。ハトロン州には旧反対派の地区議長が4人ほどいたが多くはすぐ解任され、ショマフマドフ氏だけ残る(彼についても、ミラリエフ氏は「あと半年で地区の抱える問題を解決できなければクビ」)。ショマフマドフ氏は地区議長就任時に、髭を剃るよう言われる(体制派と反対派の識別記号としての顎髭)。  
 しかしそれでも旧反対派はポストにしがみつく以外生き残れない。特に民主党出身者はすっかり体制に取り込まれている。  
 イスラーム復興党は下院に2議席しか得られず(選挙の不正がなければ30%の票を得られたと主張するものの)、組織の建て直しを図っているところ。オリモヴァ氏によれば、反対派に政府ポストが与えられ始めた時点で党は忘れられ、地縁がより重要に。同氏の世論調査では支持率4%(ドゥシャンベで1%)。農村でのプロパガンダによって力をつける可能性を危惧する政府側の声も。  
 平和希求が政府に反対派へのポスト割当を決断させたが、同時に大きな政策変更をしないことの理由づけになっている。  
 公式には地方主義はないというが、現実にはタジク人が常に出身地を話題にし、人事にも反映されているのは明らか。首相は常にソグド(旧レニナバード)州出身だが、上下両院議長より格下で、力無い。要所は旧クロブ州(現ハトロン州東部)、特にダンガラ地区出身者で押さえる(例:ウバイドゥッロエフ上院議長兼ドゥシャンベ市長、ミラリエフ・ハトロン州議長)。しかし全体としてはクロブ以外、特にソグド州の出身者が、内戦以前から経歴を積んできたエリートに多い。北部出身の旧ノーメンクラトゥーラと、クロブ出身の新興勢力が、旧反対派を取り込みながらがっちり手を組んでいる構図。  
 国家のシンボルとしてイスマーイール・サーマーニーを多用。あちこちに(しばしばラフモノフと並べて)掲げられる彼の肖像画は、髭を生やしたラフモノフのよう。ただしサーマーニー賛美が徹底しているというわけでもない。マソフ「サーマーン朝期がタジク人の黄金時代だというのはchepukha」。  
 言論は特に統制されているわけではないが、メディアは少ない。ドゥシャンベのテレビ4チャンネルのうち一つは国営放送、残りはロシアの放送(時間帯によって駐留師団の放送「TV201」などになる)。新聞は金曜日にしか出ない。


8.不安定要因と克服の試み
 
 旧反対派が再び政府と暴力的な形で対抗する可能性は低いが、ズィヨエフやニゾモフら元野戦司令官・現政府高官らは政府の部隊として実質的には自らの兵力を維持しており、いざとなればそれを使う可能性を危惧する声も。また、政府に不満な小規模の旧反対派部隊も存在(ただしその代表格Mullo Abdulloは戦闘やめ、療養中)。  
 政権内:ウバイドゥッロエフと大統領警護隊長のクーデタ計画の話(2000年)。ウバイドゥッロエフ(精神病・麻薬中毒の噂も)は大統領以上の力持つとも言われる(例:付添の車列の規模)。ズィヨエフに非常事態相ポストを受けさせる交渉をした関係で彼ともつながりあるが、共謀関係という訳ではなさそう。ラフモノフは中央アジアで一番若い大統領だが、大統領府幹部や閣僚、州・地区議長などは逆にあまり若くない。-大統領の指導力の限界。  
 地方経済:もともと山岳で細分され、タジキスタン全体が一つの経済地区として機能してはおらず、個々の地域がウズベキスタンやクルグズスタンの諸地域と結びついていた。しかしウズベキスタンの国境規制強化で、特に北部で影響大。南部は内戦の間運河の手入れがされず、農地が水浸しで使えなくなるなどの被害。  
 クロブ-ホログ(バダフシャン)間の道路がほぼ開通。ドゥシャンベとソグド州をつなぐアンゾブ峠のトンネル計画。バダフシャンを中心にアガ・ハーン基金が支援プログラム展開。  
 水が豊かで巨大水力発電所があるものの、冬は電力不足でウズベキスタンやトルクメニスタンから電気を買っている状態。ログン水力発電所の完成と、諸規模の発電所を多く作ることが懸案。  
 麻薬(密輸及び使用)、旧反対派戦闘員の就職の困難(UNTOPが支援)。  
 アフガニスタンでの戦闘激化。難民が国境に集まっているがタジキスタンは受入拒否。


8.イスラーム運動の過去と未来

 
 ソ連時代の非公式イスラームの権威、ヒンドゥスターニーは1950年代末以来ドゥシャンベに居住。ヌーリーやヒンマトゾダも一時期彼に学ぶ。ヌーリーらの思想と運動の歴史(ヌーリーは86年にイスラーム国家樹立を唱えたとして逮捕されたが、ヒンマトゾダ氏によるとそのようなスローガンを唱えたことはない)、フェルガナ盆地の運動との関係は、今後の研究課題。  
 宗務局は廃止され、ウラマー協議会があるが権限が小さく、多くの問題は政府の宗教問題委員会が管轄。  
 スーフィズムと政治:ヌーリーら多数派はナクシュバンディー、トゥラジョンゾダら少数派はカーディリー。オリモヴァ氏によれば、この区別がトゥラジョンゾダと他のイスラーム運動家の軋轢に関係(ヒンマトゾダ氏は否定)。体制派の政治家たちの多く(含ウバイドゥッロエフ)もタリーカと関係しており、南部出身者の政治的進出はスーフィズムの影響強化に結びついている、と(例:Hamadani肖像の10 somoni札への掲載)。  
 オリモヴァ氏の現地調査によれば、「ウズベキスタン・イスラーム運動」ゲリラはウズベキスタンでもクルグズスタンでもタジキスタン(イスファラ地区)でも支持を受けている。これは、カリモフ政権の国境規制強化で、一体だったフェルガナ盆地の経済地域が崩壊し、多くの人がカリモフを憎んでいるから。  
 ヒズブ・アッタフリール(解放党)関係者の逮捕頻繁。イスラーム復興党が国・民族の枠を超えられないのに対し、解放党は簡単に国境を越える。テロに携わっているという証拠がないまま取り締まることに西側人権団体も私も批判的だが、現地の政府・行政関係者は取り締まりの必要に疑問持たない(ソ連期以来の思想統制の伝統)。解放党が15-19歳の少年少女を多く集めていること、5人ごとの秘密組織を作ることから怖いイメージ。タジク語でカリモフ政権批判のビラを配ることから、両民族離間の陰謀を疑う声も。  
 戦争を知らない若者が育ち、出稼ぎ者がロシアから帰ってくる10年後には新しいイスラーム復興の波が来る、という予測も(オリモヴァ氏)。


9.国際関係

 
 ウズベキスタンとの緊張。タジキスタンはウズベキスタンがフダイベルディエフをかくまっている(明らかに意図的)ことを、ウズベキスタンはタジキスタンがナマンガニーをかくまっている(意図的かどうかは不明)ことを非難し合う。ブハラ・サマルカンド問題は当面の政治的争点となっていないが、インテリは相変わらずこの問題に関心(著書Istoriia topornogo razdeleniiaで有名なマソフ「24年の境界画定の際、タジキスタンを連邦共和国、ウズベキスタンをその中の自治共和国にするというチチェーリン・プランもあった。スターリンは境界線引きが臨時のものであることを知っており、あと数年生きていれば見直したろう」)。ウズベク人を「遊牧民」(!)として軽蔑する人もいるが、「ウズベク人はよいがウズベキスタン指導部がだめだ」という言い方が多い。  
 ロシアとの関係は全面的に緊密だが、ロシアのマスコミがタジキスタンの不安定化を煽る報道をすることなどから、不信感も意外に強い。  
 カザフスタンは、駐在大隊を2月5日に完全撤退させたが、ユーラシア経済共同体(旧関税同盟)の絡みなどで緊密な関係を維持、頻繁に代表団派遣。  
 中国との国境問題(マソフ氏は研究対象をブハラ・サマルカンド問題からこの問題に変更)。ドゥシャンベには「中塔友誼車」と大書したバスが走るが、タジク人の中国への警戒感は強く、中国の投資への期待は低い。  
 日本は大使館開設を計画。中央アジアの中でもかなり重点を置きつつある。JICAの研修等に多くのタジキスタン人を招待、外務省関係者もしばしば訪問。タジキスタン側の期待。しかし危険度3の指定と危険のイメージが幅広い交流を阻害。対中央アジア政策全体が抱える中途半端さも。  
 アメリカは大使館員を常駐させておらず、積極的に関与しているとは言い難いが、タジク人は「アメリカによる一極支配」批判が大好き。旧ソ連的妄想の側面と、大国・周辺国に翻弄されてきた現実的背景。