カザフスタン・クルグズスタン出張報告
〜文書館での作業の成果とトラブル〜 |
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宇山 智彦 |
1.日程
9月16日 千歳発関空経由イスタンブル着
9月17日 イスタンブル発
9月18日 アルマトゥ着(午前2時35分)
10月1日 アルマトゥ発ビシケク着(新型バス)
10月3日 ビシケク発アルマトゥ着(ミニバス)
10月7日 アルマトゥ発(午前4時10分)イスタンブル着
10月8日 イスタンブル発
10月9日 関空経由千歳着
(備考:ソウル〜アルマトゥは今年はアシアナが飛ばなくなり、カザフスタン航空しか飛んでいない。
そのカザフスタン航空も、オーバーブッキング騒動で10月上旬から1カ月運行中止とのこと)
2.アルマトゥ再訪
日常生活は便利に。市電、バスなど頻繁に走る。スーパーマーケット増。
かつてのような輸入品氾濫ではなく、カザフスタン製ないしロシア製のきれいな包装の製品や惣菜が増え、値段も手頃。
反面路上のキオスクがほとんどなくなったのは寂しい。
バラホルカの活況。空気はますます汚い。
AMS C.A.T.という旅行会社(岡奈津子さんの紹介)を通じて、Abylai khana-Abaiaの2DKのアパートを3週間160ドルで借りる(空港送迎つき)。
9月28日未明、近所(Abaia-Furmanova)で警官隊とウイグル人「テロリスト」の銃撃戦。
Nursat社と契約し、20時間1541テンゲ(1ドル=約144テンゲ)でアパートでインターネットを使う
(午後8時から午前8時まで)。実際は12時間ほどしか使わず。しばしば接続が切れる。
ヴィザ・滞在登録の手続、文書館・図書館への紹介状などでお世話になった旧科学アカデミー(現在は教育科学省)東洋学研究所は、
アブセイトヴァ所長とクシュクンバエフ副所長、学術書記と庶務担当の院生たちだけで成り立っているような感じだが、
外国の研究機関や大使館と連携して活発な活動を展開。
大使館がアスタナに移ったら研究所も移転するかも、と(ちなみに外交アカデミーはこの10月に移転)。
京大の藤本透子さんはフィールドワークの豊富な成果を携えて帰国。
Gulnar Dulatova女史(M.ドゥラトフの娘)は耳が遠くなって会話がしにくいが、2巻本の回想録を出すなど活発に執筆活動。
アラシュ・オルダ史研究のMambet Qoygeldiev教授はカザフ大学歴史学部長になって多忙(今年来日予定だったがキャンセル)。教え子に「オムスクで活躍したカザフ知識人」「カザフと関係の深いロシア知識人」などの研究テーマを与え、すでに成果が出ている。
3.カザフスタン国立中央文書館にて
4年半ぶりの利用。当時国全体の文書管理局長だったMarat Khasanaev氏が、いったん解任されたあと、館長として復帰。
入館許可はスムーズに得られたが、カザフ知識人関係のテーマ・カタログ(カード目録式。非常に有益)を勧められるまま見ていたところ、実は見せてはいけないものだったと言われ、6ページ分のメモ没収。カタログは来年2月か3月に何らかの形で公刊されるとのこと。
旧式の分類に基づくシステム・カタログ(やはりカード目録式)は効率が悪く、既に知っているフォンドや、テーマ・カタログで見覚えた番号のフォンドのopis'を調べにかかる。
フォンドI-840(Upravitel' Sarybulakskoi volosti 2-go Krest'ianskogo uchastka Karkaralinskogo uezda Semipalatinskoi oblasti)が最大の発見。1つのopis'、1つのdeloしかないが、約900葉(list)がある巨大なdelo。19世紀末〜20世紀初めのある郷の歴史をさまざまな面にわたってたどれるだけでなく、カザフスタン史全体にとって貴重な文書が多い。特に、第一次大戦下の植民地行政府の布告、1916年反乱と労役者徴用関係の文書、臨時政府系地方機関の布告、アラシュ派「カザフ委員会」の住民へのアピール(カザフ語)、1917年末の全ロシア憲法制定会議の有権者・投票者名簿、アラシュ・オルダ派と白軍派の関係など。
その他、フォンドI-25(Turgaiskoe oblastnoe pravlenie)、I-39(Semirechenskoe oblastnoe pravlenieか?)、R-1227(Lichnyi fond Bakhytzhana Karataeva。スルタン出身の赤軍派である彼が書いた"Kratkii ocherk Alash-Ordy"を含む)、R-1414(Semirechenskii oblastnoi komissar)などを閲覧(Iは大まかに革命前のフォンド、Rは革命後のフォンドを示すが、実際は時期が重なり合う上、カタログや研究書にこの区別が書かれていないことが多く、しばしば混乱する)。
5年前に比べ、私の作業方法は向上したが、文書館の作業環境は悪化。
こちらから尋ねもしないのに、パソコンとスキャナーを使ってよいと閲覧課長(?)のAmantay Jumataev氏に言われたので、フォンドI-840のアラビア文字カザフ語で書かれた2葉のみスキャナーで複写したところ、Jumataev氏がプリントアウトするよう要求。プリントアウトの方法で話がつかないままビシケクに行ったところ、帰ってくると全文書閲覧禁止の処分が出ていた。1日棒に振ったあと、スキャンした文書のロシア語要約を作り(文書館にはアラビア文字を読める人がいない!)、もう2日しかないからと館長に頼み込み、アブセイトヴァ所長の口添えもあってようやく作業再開。スキャナーは、文書にぴったりつかず部分的に写らないトラブルもあったため、それ以上使用せず。閲覧係の女性はスキャナーの使用そのものが規則違反だと主張、ファイルの破棄を要求されるが、拒否。
メモは時折チェックされる。最終日、Jumataev氏に利用料として8103テンゲ要求され、計算方法を尋ねるが教えてくれず、10分余り押し問答。次の用事が迫っていたためやむなく払う。領収書には文書館とも利用料とも書いていない。
新免康氏のケース。アメリカ人のケース。
今後は東洋学研究所の紹介状ではなく日本の機関の紹介状を持ってこいと言われる("dlia ekzotiki"!)。
4.カザフスタン国立図書館にて
革命期の新聞を閲覧する貴重書室はこぢんまりとして居心地よい。係も親切。ただし展示用の撮影で片隅に追いやられてしまうことも。
Sibirskaia rech'紙(オムスク、カデット)、Slovo trudovogo krest'ianstva紙(オムスク、エスエル系)、Omskii vestnik紙(以上はそれぞれわずかな号しか所蔵されていない)、Semirechenskie vedomosti紙などを閲覧。特にSemirechenskie vedomosti紙では、市民の自発性による自治と言いながら、ヴェールヌイでの暴動に直面して戒厳令を発布するシュカプスキイとトゥヌシュパエフ(臨時政府トルキスタン委員)の苦悩ないし権威主義的体質が分かる。
Qazaq紙の1917年3月以降の号の現物を初めて見る(Norman Ross社のマイクロも、旧アカデミー図書館の現物<マイクロはリーダーがなく閲覧できない>も、1917年2月で切れている)。貴重な情報の宝庫。次の機会に本格的に読みたい。
5.カザフスタン教育科学省中央学術図書館(旧アカデミー図書館)にて
館内修理中だった。貴重書室は暗い。
Qazaqstan紙、Sary Arqa紙、Ush juz紙(トグソフがアラシュ派批判を下品に展開)、Aq jol紙(20年代初めにタシケントでカザフ人・クルグズ人のために出た新聞。ドゥラトフら執筆)を閲覧。前2者はマイクロから落としたコピーで、極めて状態が悪く、解読困難。QazaqstanはNorman Rossのマイクロになく、Sary Arqaも途中までしかないだけに、残念。
革命期のロシア語地方新聞(ペトロパヴロフスク、パヴロダル、セミパラチンスクなど)も見たかったが、時間切れ。
6.ビシケクでの会議に参加して
Kyrgyzstan-Turkey Manas University主催の"The Turkic Civilization at the Beginning of the Third Millennium"という会議。前夜指定されたホテルに着くが、主催者と会えず。初日の朝、いきなりひな壇上に私の名札があり、挨拶させられる(1995年のマナス千年祭で因縁のあるアサンカノフ教授が大統領府社会政策部長として出席)。プログラムを渡されたのは午後になってから。
会議の使用言語はトルコ語、クルグズ語、ロシア語、英語(一応同時通訳つき)。しかしカザフ人はカザフ語で、ウズベク人はウズベク語でしゃべる。クルグズ人はなぜかロシア語で話した人が多い。私は主催者の指示により英語で報告。テキストはアルマトゥで書いたためプリントアウトしたものがなかったが、直前に必要だと言われ、通訳と一緒に紙に書き出す羽目に。
「テュルクの一体性」を言うものの、ほとんどの人は自分の国のことを発表。テュルク諸民族が互いのことを知らないことが浮き彫りに。クルグズ人とトルコ人がすべて仕切りたがり、アルマトゥに早く帰らなければならなかったQoygeldiev教授は、待たされたあげく発表させてもらえず。
7.その他
ビシケクへの行き帰りの道中、警察官・検疫官・麻薬検査官などのチェックが頻繁に入る(カザフスタン側。クルグズスタン側はなし)。アルマトゥでの銃撃戦の影響だろう。特に帰路は7回パスポート・チェックがあり、アルマトゥに入る直前には、「アルマトゥを離れるときは行き先・日数にかかわらず移民警察(migratsionnaia politsiia)に届けなければならない。届けなかったのは規則違反だ」と言われ、15分以上止められる。
「明日移民警察がアパートに行くから」と言われたが、来ず。大使館に尋ねたが、そんな規則はないはず。
帰国のためアパートを出ようとすると、建物の玄関(pod"ezd)が施錠されていて、出られず。近所の人に開けてもらう。
空港の税関の女性係官に金を取られそうになる。
過去10年間になく、トラブルの多かった旅。
(参考:地田氏の災難)