スラブ研究センターニュース 季刊2006年冬号 No.104 index

19世紀ロシア帝国の改革とナショナリズ

ミハイル・ドルビロフ(ヴォロネジ国立大学、ロシア/センター2005年度 外国人研究員)

 

19-20世紀始めのロシア帝国史に関する現代の研究者の多くが考えているところによれば、帝国権力とロシア・ナショナリズム とはけっして仲良く調和のとれた関係にあったわけではなかった。国民統合の理念は、身分階層のシステムや臣民(とりわけ多様な民族にわたる貴族エリート) のロマノフ王朝への忠誠といった帝国秩序のもっとも深い根幹部分との食い違いをしばしば露呈した。19世紀後半からロマノフ家および官僚機構は、支配王朝 への忠節の原則をナショナルな価値・属性と両立させようと努めるようになった。このことは国家から自立した意識的な社会エネルギーとしてのロシア・ナショ ナリズムの形成に悪い影響をおよぼすことになる。言葉を換えれば、帝国の利害が国民の創設を抑圧したのである。

Mikhail Dolbilov
著 者

この命題を拡張・修正する試みに捧げられたのが、スラブ研究センターでの研修期に私の携わっていたプロジェクト「大改革の周 辺、あるいは周辺の改革?ロシア帝国北西地域と国民創設の動因としての官僚機構、1855-1881年」である。私が研究しているのは、1863- 1864年のポーランド反乱の後に、おおよそ今日のベラルーシとリトアニアの国境線によって囲まれた六つの県で、帝国の行政機構が実施した措置の総体であ る。18世紀末までポーランド・リトアニア国家(共 和国)の一部だった北西地域は、19世紀中頃には、合法・非合法の出版物の紙上で、学術機関の構内で、想像力と歴史的記憶の領域で、そして戦場でなされた 激しい領土論争の対象となった。ロシア帝国の忠実な臣民にとって、この地域は国家領土の不可分の構成要素であり、戦略的な意義の大きい西の辺境だった(ロ シア・ナショナリストにとっては、「いにしえからのルーシの」土地の一部でもあった)。ポーランド解放運動の参加者たちはこの地域をポーランドの文明空間 に含めて見ており、この東の片翼なしでのポーランド独立の回復などは考えもしなかった。実際にこの地域に住んでいたのがポーランド人とロシア人だけでは決 してなかったという事実が、この論争に特別な緊迫感を与えた。

1863-1864年の反乱鎮圧の後、政府当局は西部諸県を中央ロシアとできるかぎり強固に結びつけることを目標とするように なった。歴史家がしばしば「ロシア化」と呼ぶような政策は、絶対的な同化、つまり北西地域における民族的、民族・宗教的集団をすべてロシア人の中に融合す ることを目指していたわけではない。このような課題は、ロシア人社会自体が身分間の障壁によって分割されており、単一の国民的な意識を持っていなかったと いう理由をひとつとって見ても、実現不可能であった。このような条件下でのロシア化とは、まず第一にポーランドの影響の浸透を予防し、次にはロシア語・ロ シア文化・ロシア国家への自然な志向を強化するであろう各集団のアイデンティティを組み替えることに存する。このような政策(いつもうまくいったわけでは 決してない)のための道具となったのは、農民にとって都合の良い農地改革、文字の改革、ローマ・カトリックやユダヤ教の礼拝にロシア語を導入することなど であった。政府が「ロシア人」とみなしていたベラルーシの農民については、正教への改宗もおこなわれた。


これらの措置を私はアレクサンドル二世の大改革の文脈において研究している。ロシアの歴史研究においては長い間、1863年以 降の西部辺縁のロシア化はアレクサンドル二世の統治初期における改革事業の気風と相反するものだったという考えが定着していた。諸改革が「リベラル」なも のと見なされた一方で、反乱鎮圧後に取られた措置は「反動への転換」だとされた。この十年余に、比較論的な視野によるナショナリズムの問題への歴史家の興 味が高まったおかげで、改革とロシア化の間の複雑な相互依存関係が明らかになった。農奴解放、地方自治機構(ゼームストヴォ)の設立、司法制度改革などの 1860年代初めの大改革そのものが、ロシアの国民創設の強力な契機となり、部分的にはロシアのナショナリズムにおける外国人嫌悪の傾向を刺激することす らあったのである。北西地域のロシア化の過程で、農民に有利な社会関係・農地関係の決定的な再構築(ポーランド人貴族に対抗してなされた)と、進歩の導き 手と「国民」の守護者を自認する役人たちが示したイニシアチブの中に政府の改革主義はまず姿を現した。同時に、地域内でのポーランド人の存在が新たに強化 されることが危惧されたため土地改革と裁判制度改革が遅れたことにより、ロシアのナショナリスト官僚は、それなしでは辺境地域とその多様な住民の完全な統 合が不可能となる民間社会の諸制度の助力を失うことになった。

私の研究が示すところによれば、ロシア化政策の多くが失敗したのは施行者たちの意思が不足していたことやロシア人官僚がポーラ ンド貴族に抱いていた文化的な劣等コンプレックスだけのせいではない。もっと根本的な失敗の原因は帝国という現象自体に隠されている。ロシア帝国はきわめ て複雑な社会組織体であり、その多様な諸部分やレベルは、単一の物理的な時間の中で共存してきたとはいえ、それぞれ異なる歴史時期に帰属する。

帝国的体制の優先がロシアの国民創設を遅らせたという主張は、発展段階において一様に停滞したもの、力動性を失ったもの、惰性 的な重みで「若い」ナショナリズムを圧迫するものとして帝国の諸制度をみる考えに基づいている。私の考えでは、19世紀の中頃にはまだ帝国の諸制度はその 発展の潜在性を汲みつくしてはいなかったし、近代的な価値や実践の侵入こそがその進化を中断させてしまったのだ。ある種の意味で、ロシアのナショナリズム は、帝国自体が国民の創設を邪魔したのと同じくらい、帝国の創設を妨げたといえる。

西部辺境の統治システムの中で重要な位置を占めていた宗教政策はよい実例になるかもしれない。スラブ研究センターでの研修期間に学問的興味の範囲を広げる ことにより、私は自分のプロジェクトにとってためになるよう、ロシア帝国内の他の地域や同時代のヨーロッパ諸国における宗教政策に関する研究に通じること ができた。ロシア帝国は「諸宗派の国家」だったのであり、政府は正教とともにいくつかの他の信仰をも認めていたし、何よりも重要なのは、臣民との世俗的な 関係の仲介者として聖職者階級を頼ったことである。国家による統制とカルトの害悪の規制が宗派容認の条件であったが、ちなみに「支配的な」信仰である正教 はもっとも官僚化された宗派でもあった。この帝国による宗教寛容政策は様々な宗派に対して同時に接近していったわけではない。帝国領土の拡大はゆっくりと 進行したのであり、新しい宗派が政府の視野に入ってきたのも同じくらいゆっくりとであった。したがって19世紀中頃に政府が帝国内のポーランド人の圧倒的 大多数が信じるローマ・カトリックに対して、18世紀の時点で大多数のロシア人の信じる正教に対して決められたのと同じような任務を課したのは驚くことで はない。「諸宗派の国家」の発展の内的リズムが許すかぎりで、政府は帝国臣民の忠誠を彼等の宗教心に啓蒙的にあるいは規律によってうったえることで強化す る可能性を期待することができた。しかしナショナリズムの増大によって、カトリック教徒を帝国政府によって庇護される宗派集団として見る視点は拒否される ようになる。1860年代の西部辺境におけるロシア化の研究によって、官僚機構内の小集団や諸サークルの間ばかりか個人の意識においても、前近代と近代の 価値観が葛藤しあっていた様相を跡づけることができる。

この所感を終える前に、スラブ研究センターのスタッフの提唱による一貫した研究分野としての帝国学のアイディアの有効性を確証しておきたい。ロシア帝国の 内的本性は複合的で多面的な分析の対象とならねばならない。

(ロシア語より越野剛訳、松里公孝監修)  



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