スラブ研究センターニュース 季刊 2008 年秋号 No.115 index

サンクト・ペテルブルグ:ロシアのキリスト教 教会の中心地として

ミハイル・シュカロフスキー(サンクトペテルブルグ国立中央文書館、
ロシア/センター2008 年度特任教授として滞在中)

 

サンクト・ペテルブルグは3 世紀にわたるその歴史の大半、かなりの程度、ロシア国家の キリスト教会の中心地の役を果たしてきた。建都後間もない1721 年、この北の首都には最高 宗務院―ロシア正教会の統治機関が設立され、1918 年初めに廃止されるまで存在し続けた。 サンクト・ペテルブルグには神学アカデミー、神学校、[ロシアの]4 つの主要な大修道院 のひとつであるアレクサンドル・ネフスキー大修道院も位置していた。聖使徒ペトロの街は 北西ロシアの伝統を受け継いでいたが、ここは正教が深く根を下ろした地域であった。この 地域はロシア文化とロシアにおける正教の基盤を生み出した最初期の古ロシア国家の一部で あった。

1917 年までに首都の主教区は国内最大で最も繁栄したもののひとつとなった。ペトログ ラードとその最寄の近郊には498 の正教寺院があり、当時の首都大主教管区全域には、さら に750 の正教寺院があって、16 の修道院では約1700 名が生活していた。10 月革命の後、ロ シア教会に苛烈な迫害が襲いかかってきても、主教区内では後に殉教者として列聖された 100 を超える聖職者がミサを続けた。その中にはペトログラードとグドフの府主教ベンヤミ ン(俗名カザンスキー)や致命者長司祭イオアン・コチューロフを数えることができる。レ ニングラードは1920 年代から1980 年代にかけてもまた、かなりの程度、国内の教会の中心 地の役を果たし続けた。20 世紀のロシア正教会の総主教のほとんどすべてがレニングラード 府主教であるか(アレクシーI 世、ピーメン、アレクシーII 世)、もしくは主教区の臨時監督 者(セルギー)であったことは偶然ではないのである。

サンクト・ペテルブルグの教会人たちは、国家の政治・社会活動におけるあらゆる変化に敏 感に反応した。まさにこの都市で親ソヴィエト政権的な教会革新運動(1922 年) とそれに対 抗するイオシフ派の運動(1927 年)が発生したのである。1917 年時点のペトログラードでは、 正教会は際立って確かな立場と一般大衆に対する影響力を有していた。したがって権力の極 端な行動に対する抵抗は不撓不屈のものであった。たとえば、1918 年1 月のアレクサンドル・ ネフスキー大修道院擁護運動は、長年におよぶ粘り強い教会の闘争の中でおそらく唯一のソ ヴィエト政府に対する大勝利を得ている。そしてトロイツキー聖堂に属した最後の政権反対 派であるイオシフ派の共同体もまた、同じレニングラードで1943 年まで合法的に存続しえた。 サンクト・ペテルブルグ主教区の現代史もぬきんでて豊かである。そのことは、ソヴィエト 時代にこの主教区を以下に挙げたような一群の傑出した府主教たちが率いた事実だけで十分 だろう。聖ベンヤミン(俗名カザンスキー)、イオシフ(俗名ペトローヴィフ)、聖セラフィム(俗 名チチャーゴフ)、アレクシー(俗名シマンスキー)、グリゴーリー(俗名チュコフ)、ピーメ ン(俗名イズヴェコフ)、ニコヂム(俗名ロトフ)、アレクシー(俗名リヂゲル)その他。

ファシストに包囲されたレニングラードでは、封鎖の期間中、10 の正教寺院が活動してお り、市民の精神力や物質的な支援を積極的に促した。1943 年10 月11 日、12 名のレニングラー ドの聖職者が、ソ連時代で初めて政府の賞「レニングラード防衛賞」メダルを授与された。 1980 年代の終わりになると主教区の目覚しい発展が再び始まった。この時代主教区を率いた のは現総主教アレクシーII 世である。何百という寺院・修道院が再び開かれ、アレクサンドル・ ネフスキー聖公、ソロフキ修道院の奇跡者たち、サロフの聖セラフィム、ベルゴロドのイオ アサフ、サンクト・ペテルブル グの庇護者として名高いクロン シュタットの聖イオアン神父と ペテルブルグの聖女クセーニャ らの聖骸が宗教史博物館から教 会へ返還された。このプロセス は21 世紀のはじめにおいても 継続中である。

サンクトペテルブルクのワシリー島
サンクトペテルブルクのワシリー島

しかしこのネヴァ河畔の町に 広がっているのは正教会だけで はない。サンクト・ペテルブル グとその周辺地域はその独自性 で際立っている。ここは宗教が その一要因をなす民族文化が相 互に影響し、混ざり合う場所であり、伝統的なロシアの諸地域と西側の隣接地帯なのである。 現在のロシアの境目では、最大かつ何世紀にもわたる起源をもつカトリックとルター派の信 仰が普及している。ロシア帝国のうち、おもにルター派の5 民族(ドイツ人、フィンランド 人、エストニア人、ラトヴィア人、スウェーデン人)とカトリック系2 民族(ポーランド人、 リトアニア人)の多くの人々が、ペテルブルグ一帯でのみロシア人と肩を並べて生活してい たのである(部分的にはいまだにそうして生活している)。

彼らのうちにはペテルブルグ建都以前(フィンランド人)や18 世紀(ドイツ人、ポーラン ド人、リトアニア人)にこれらの土地に現れたものもいる。ロシア福音派ルーテル教会の中 央組織、すなわち総局兼サンクト・ペテルブルグ(ペトログラード)監督法院が、また国内 のローマ・カトリック教会の主座であるモギリョフ大主教座と帝国唯一の神学アカデミーが 1917 年の10 月革命までに北の首都に誕生した。そして1990 年以降現在に至るまで、ロシア その他の国家における福音派ルーテル教会の長である事務局(最近までゲオルグ・クレチマー ル大主教)、福音神学校、カトリックの高等神学校がペテルブルグに再び展開している。

バルト海は1500 年以上にわたり、沿岸に住む諸民族を結ぶ北欧の「地中海」であり、ロシ アの北西部においてもこの相互影響関係はまったく一目瞭然に現れた。キリスト教受容以前 の時代のノルマン、フィン・ウゴルそしてスラブの文化の交じり合いは、ここに735 年以前 に建てられた最古の街のひとつラドガ建都に起因する。スラブ系の宣教団の影響のもと、先 住民のフィン・ウゴル系諸民族の間では11 世紀から15 世紀にかけて正教が漸次広まっていっ た。古代ロシアの国家が存在していた実質上ほとんどの間、北西部の大地はスウェーデン人 とドイツ人のノヴゴロドへの対抗の舞台であった。福音派ルーテル教会は4 世紀間、ローマ・ カトリック教会は3 世紀間にわたる歴史をこの地に持っているのである。18 世紀の初頭にイ ンゲルマンランドと呼ばれていた領土がロシア軍によって奪回された際、そこにはフィン系 の住民が多数残った。17 世紀に既にインゲルマンランドで教育的・文化的機能を果たすよう になっていた地元のルーテル教会は、その後もその教区民を維持し続けた。この教会の教義 は農民をふくめたすべての大衆がこれを受け入れることを前提としており、理想として彼ら に宗教文学を読む能力が求められた。そのために、それぞれの教区にはいくつかの学校、図 書館、聖歌隊などが存在していた。

ペテルブルグは1703 年の建都以降、ロシア帝国内でももっとも多民族的で多宗教的な都市 のひとつであった。1910 年の首都の全人口1,905.6 千人のうち、ロシア人は82.3% を数え、ポー ランド人が65 千人(3.4%)、ドイツ人が47 千人(2.5%)、エストニア人が23 千人以上、ラ トビア人が18.5 千人、フィンランド人が18 千人、リトアニア人が11.5 千人、スウェーデン 人が3 千人であった。1916 年から1920 年にかけて、ロシアの西方諸県からの避難民の流入 にともなって、非ロシア人人口は最多に達した。宗教生活はロシア人ばかりでなく、多民族 的な首都とその周辺に住まうその他の民族にも特別な意味合いを持っていた。教区こそが民 族共同体の結集する中心点であり、ペテルブルグに住まう諸民族の文化的中心地となったの である。首都においては正教信者が圧倒的多数を占めており、その上で外的な世俗要因と内 的な教会のそれの組み合わせや、様々な宗教的伝統に対する寛容の原則に基いた混ざり合い があり、そこにペテルブルグ文化の独自性があった。諸民族の文化的相互関係の形式と要因 としてのキリスト教諸教会の意義は、その生活と活動の様々な側面で現れた。

1910 年代ペトログラード県には570 のフィンランド人の日曜学校が活動しており、都 市内部では39 のドイツ人の教区学校があり、ペトロ学校(Петершуле)とアンナ学校 (Анненшуле)は帝国内でも最高のものに数えられた。リトアニア人とポーランド人にとっ て、もっとも重要な精神生活の拠点は1842 年にヴィルノから移転されたカトリックの神学ア カデミーで、貴重な図書館を備えており、一連の慈善団体が存在した。ペテルブルグのポー ランド人コミュニティは農奴解放後、取り立てて数が多いこと(1917 年で10 万人以上)と 活発な動きが目覚しかった。エストニア人の学校も4 校活動していた。

エストニア人とラトビア人にとってペテルブルグは民族文化発祥の中心となった。という のもリーヴランドとエストランドでは完全にドイツ文化が支配的だったからである。帝国の 首都では最初の演劇学校が設立、エストニア語、ラトビア語での演劇上演が行われ、しかる べき新聞が発行されて、民族宗教音楽のコンサートが催され始めた。ペテルブルグ在住のラ トビア人とエストニア人の精神的・倫理的発展を促進したのは、「ラトビア社会集会」(1895 年)、「ラトビア青少年教育協会」(1911 年)、「クリトゥーラ(文化)」(1910 年)、最初のラト ビア語の新聞を出版した「スヴェート(光)」(同年)、ペテルブルグの「エストニア人協会」(1907 年)、「ルター派信仰エストニア青年協会」(1897 年)に違いない。

ペテルブルグにおけるこれら諸民族の文化的・社会的生活の結集点であったのはそれぞれ の教区であり、まずルーテル教会のそれ、そして正教会のそれであった。1840 年代にはリー ヴランドでラトビア、エストニア農民のルター派から正教への自然発生的な大量改宗が始ま り、1883 年からはそれはエストランドの農民にも及んだ。土地を持たない農民はペテルブル グ県境の雇われ仕事に移り、首都と県内にエストニア人の教区が組織され始めた。主教区の エストニア人正教寺院の立役者の中には、クロンシュタットの聖イオアン神父のほか、列聖 された6 名の新致命者(内3 人がロシア人で、3 人がエストニア人の司祭)がいる。「正教= ロシア的な原則導入のために」パーヴェル・クリブシュ司祭(殉教者プラトーン司祭)は、 エストニア語で教え、ロシア語を学ぶ、エストニア人のための最初の教会・教区学校を創設 する許可をもらった。

教会・社会活動、また文化活動は民族的な特徴から常に独立していたわけではない。 多く の非正教共同体ははっきりとした民族的な性格をもっていたが、教区の中には混合的なもの もあった。例えばクロンシュタットにはルター派の2 教会―エストニア・フィン・スウェー デン聖ニコライ教会とドイツ・ラトビア聖エリサヴェータ教会―があった。これら非正教寺 院は住民の民族的構成ばかりか、都市の外国との繋がりの性格をも反映していた。フィンラ ンド語とエストニア語は同族語であったし、ラトビア人とエストニア人のかなり多くはドイ ツ語を解し、彼らの教区の牧師を務めたのはドイツ人であることがままあったためにも、コ ミュニケーションは容易であった。クロンシュタットでエストニア人正教徒のために買いだ されたイギリス国教会の建物の中では、契約の条件にしたがって、どちらの共同体も祈祷を 挙げることができた。

20 世紀初頭にまさにサンクト・ペテルブルグで、ロシア人ルター派とロシア人カトリック の運動が発生したこと、また主教区においては7 つの教区でエストニア人正教徒の監督司祭 教区が組織されたことは偶然ではない。ロシア人ルター派の運動がペテルブルグのロシア化 したドイツ人たちの末裔の間で当初形成され、伝統的な教区との結び付きが明白であったの に対し、ロシア人カトリックはその他のカトリックの教区からむしろ独立したものとして発 生したものであり、エスニックなものではなく、理念的宗教的あるいは理知的な素地を持っ たものだった。

ロシア人のカトリック、ルター派共同体の出現に関ることを含め、国家権力と非正教の関 係は常に青天白日といったふうではなかった。たとえば、ロシアとローマの間の長年にわた る対立の関係から、ローマ・カトリックの共同体の活動はある種の複雑さを帯びていた。第 一次世界大戦もまたさまざまな宗教間、民族間の関係を一時的に先鋭化するものであった。 10 月革命の後の飢餓、破壊、弾圧、難民や捕虜の自国への帰国、外国籍の取得などによって、 ペトログラードの非ロシア人人口は著しく減少した。

しかし、ロシアのルター派やカトリックの民族間のつながりは革命後強化された。一方で は民族的な自覚の高まりと、さまざまな民族の文化的な自治体を創設するプロジェクトとの 関係で、後に最高教会評議会と改名されるエストニア、フィンランド、ラトビアの総合監督 法院が1917 ~ 1922 年の間に組織された。他方、ソヴィエト指導部の反宗教運動が始まった ことによって、信者たちは団結する必要に迫られ、1924 年6 月にはソ連福音派ルーテル教会 最高宗教会議が組織された。この会議は国内すべての民族を統一する唯一の教会を創設する ことを宣言した。それほど目立ったものではなかったが同様の動きはカトリックの間にも見 られた。

新権力が禁止したにも関らず、多くの学校では1920 年代末まで、レニングラードのルター 派共同体では1938 年まで、宗教教育が続けられた。この北の首都では1934 年の夏までソ連 で唯一のルター派神学校が機能していた。革命後もしばらくは宗教的な出版活動を行う余地 が残されており、例えば1927 ~ 1930 年にかけては教会カレンダーと雑誌『わたしたちの教会』 がドイツ語で出版された。これもまたレニングラードで半ば合法的に存続していたカトリッ クの神学校は1927 年に破壊された。1938 ~ 39 年の大規模な反宗教キャンペーンで最後のルー テル教会が閉鎖された。カトリックの教会ではレニングラードにひとつだけ活動している教 会が残ったが、そこでも1941 年からは司祭がいなくなった。また当時党の州委員会と市委員 会のビューローの決議案に基づいて大多数の民族学校と民族文化施設が廃止された。

迫害、強制収容所、流刑の状況下、人々の心の中に信仰は生き続けた。1950 年代後半から 追放されたフィン、ドイツ、エストニア系住人がレニングラードおよびレニングラード州に 戻り始めた。1977 年には長い断絶の期間を経てはじめてルーテル教会がプーシキン市に開か れ、フィンランド人= インゲルマンランド人の精神的・文化的生活の中心となった。教会の 大規模な復興が始まったのは1980 年代の末のことである。現在、北の首都には18 のルター 派共同体と13 のカトリック共同体が存在している。かつてと同じように、サンクト・ペテル ブルグとその一帯は総体として、復活したロシア福音派ルーテル教会、イングリア福音派ルー テル教会の中心地となり、またかなりの割合でロシア連邦におけるローマ・カトリック教会 の中心地ともなったのである。

宗教的多様性、宗教的寛容、相互理解は歴史的・文化的に継承されてきたために、ペテル ブルグにおいて現在も保たれている。それとともに聖使徒ペトロの街はなによりもロシア正 教会の重要な拠点のひとつであり続けている。21 世紀の初頭、サンクト・ペテルブルグ主教 区では458 の教区・登録教会があり(内218 がペテルブルグ市内)、172 の礼拝堂、12 の修道 院、17 の修道院付属寺院が活動している。北の首都は正教神学教育の中心地でもあり、神学 アカデミーや神学校のほか3 つの進学大学や多数の神学講座、学校などが教育に当たってい る。サンクト・ペテルブルグの府主教は聖シノドの常任メンバーであり、市内にはモスクワ 総主教庁渉外部支部が置かれ、教会アーカイブ文書の主要なコレクションがあり、ロシア正 教会全体にとって意義を持ち、特に崇敬されている聖物が保存されている重要な寺院が点在 しているのである。

(ロシア語から高橋沙奈美訳)


[page top]
→続きを読む
スラブ研究センターニュース 季刊 2008年夏秋号 No.115 index