スラブ研究センターニュース 季刊 2009 年秋号 No.116 index

19 世紀の中国における世界地理への関心と林則徐著『俄羅斯国記要』

セルゲイ・ヴラディ(ロシア科学アカデミー極東支部歴史・考古学・民族学研 究所
/センター2008 年度特任教授として滞在)

 

明朝初期における鄭和(生1371 年- 没1435 年)の大航海のあと、ほとんどの中国の学者 は外の世界に背を向けて内省に没入した。しかし、非中華世界に対する好奇心を完全に抑え 込むことはできなかった。19 世紀までに中国は、外の世界と中国に勝る発展に関して、時宜 にかないかつリアルで、信頼できる、詳細な文献を必要とした。

19 世紀中盤は中国史においてきわめて重要な時代だ。というのも、この時代にイギリス・ アメリカ・フランス・ロシアなどといった西洋諸国との交わりが増えたからである。この交 わりは、ヨーロッパ諸国の積極的な関与と、西洋諸国の侵略に抵抗するための中国側の消極 的な試みから成っていた。しかし、1840 年から1850 年までのアヘン戦争が、清朝にとてつ もない打撃を与えた。

夷狄の国々に対する中華帝国の優越性を宣伝する、伝統的な儒教原理の絶対性についての 疑いが、中国の知識人の間で芽生えた。一番先見の明のあった知識人の何人かが、西洋諸国 の力の源に目を向けた。彼らは国家制度、経済運営や教育の制度、軍事力の源泉について入 手しうる情報を調べ始めた。調査した知識人たちは「夷狄」から学ぶに値することが多いの に気がついた。

19 世紀前半に西洋諸国と対決したことは、さらに広い世界についてもっと現実的な認識を するよう、中国人を刺激した。アヘン戦争の前には、中国人は伝統的な中華圏の向こうの世 界についてはわずかな注意を向けていたにすぎない。アヘン戦争の間、海外の国々に関して 中国側で知識が不十分なことが、戦略的に不利であるとはっきりとした。1840 年代には、さ らに広い世界についての知識が西洋の侵略から中国を守るのに重要となり、こうした考えを 共有していた一握りの士大夫が外国を深く研究した。数は少ないが影響力のあるこうした中 国人のグループが、西洋に関する中国側の知識を広げようとしたのである。これは、中国が 生き残るのにそうすることが必要だという信念に基づいていた。林則徐(生1785 年- 没1850 年)や魏源(生1794 年- 没1856 年)・徐継審(生1795 年- 没1853 年)による総合的な報告書、 それと他の筆者による短文がこうした新しい見方の重要性を提起した。

中国近代史において中国の「西洋への反応」は主要テーマである。この反応は単純なもの ではなくて、西洋に関する中国側の知識はしばしば伝統的な概念を濾過したものであった。 西洋に関する新知識を吸収し始めた頃にも、古代の世界観の重要な部分がまだ力を持ってい たのである。

18 世紀のほぼ全期間、中国の知の潮流はいわゆる書院によって支配された。書院の学者た ちは政治を論じるのを避け、文献学的な研究やテクスト批判に没頭していた。清朝の衰退が 明白となって、士大夫が同時代の政治問題を案じ始めた19 世紀の第2 四半紀まで、書院の支 配的な地位が脅かされることはなかった。

19 世紀初めには「社会にとって有用な学問(経世之用)」すなわち経世致用の学に対す る関心が再び見られるようになった。この学派は17 世紀に栄えたものの、乾隆帝(在位 1736-1795 年)による知識人階級への弾圧政策が主因となって、18 世紀には保守的な学派に 比べると影が薄くなっていた。

19 世紀における経世致用の学の再登場は、現実的な方法で平和と繁栄を国家と社会にもた らす道徳的責務への、個人の感情的な欲求に重きを置いた古典的な修学による、「現代文(今 文)」の復権が証明している。

この知の復古派(訳者注: 今文学派・公羊学派・常州学派と呼ばれる)で重要な学者たちが、 壮存與(生1719 年- 没1788 年)と彼の孫の劉逢禄(生1776 年- 没1829 年)、多作な龔自珍(生 1792 年- 没1841 年)と包世臣(生1775 年- 没1855 年)、辺境統治に通じた姚瑩(生1785 年 - 没1853 年)である。この学派にはアヘン戦争で重要な役割を果たした林則徐や黃爵滋、改 革派としてのちに中国と西洋の外交にまつわる問題に何よりも関心を抱いた、魏源や馮桂芬 (生1809 年- 没1874 年)たちもいた。

『皇朝経世文編』の前文で、魏源はこの学派の基本的な二つのアプローチ方法を定めている。 すなわち、いま現在に重きを置いて、現実への応用の重要性を強調することである。

今文学派で興味が高じていた問題の一つに、内陸アジアと沿岸部の辺境問題がある。南東 の沿岸部から西洋の侵略が高じてくると共に、19 世紀の第2 四半紀には、中国の治政の焦点 は内陸アジアを離れ、新技術を持つ「夷狄」がやって来る海域世界へと大きく移動した。

(関天培、梁廷枏、林福祥らが)海防を論じた初期の書物は、当然のことながら広東の沿岸 部に焦点を当てている。幾人かの今文学派の士大夫たちの最大の関心は海の向こうの西洋を 理解することだった。(訳者注: 湖広)総督の林則徐にとって有効な方法の一つは翻訳を用い ることだった。魏源は後に公立の翻訳機関の設立を説いた。郭嵩燾(生1818 年- 没1891 年) は1859 年の覚書で外国語を教授する公立学校の創設を提案した。西洋の歴史・地理学・法律・ 政治情勢の情報が集められた。こうした中で興味深いのは、特に際立った影響を与えた世界 地理の研究であろう。

世界地理への関心は、よくわかっていなかった西洋世界や実際の地球全体の知識を得るこ とを目的とするように一見みえる。しかし、当時緊急に求められていたことを考慮すれば、 こうした関心は中国自身の知識と能力を強化するための動きと見ることもできる。言い換え ると、西ヨーロッパの野蛮な国家との戦争を経て、当時の中国の官僚や知識階級は敵を理解し、 ヨーロッパとはどのようなところか探究することを緊急に求めていた。正しい解答を導くこ とが必要だったのだ。このプレッシャーのもとで世界地理への関心が高まった。

1840 年以降、中国の知識人は徐々に世界地理の問題に注意を払うようになり、1860 年代ま でには20 冊以上の本が著された。

西洋諸国から得た知識を最初に応用した人物の一人が、すぐれた国家官僚で学者でもあっ た林則徐である。彼はアヘン貿易への反対と、外国の侵略に対する激しい抵抗の事績で顕彰 され記憶され続けている。私が見るところ、19 世紀の中国の社会政治思想の発展、それに西 洋科学の業績を利用することの必要性に関する見識と思考システムを構築した林の貢献もま た際立っている。後に「海外情報」の習得論と呼ばれるこの考えで代表的な著作が『四洲志』(1)、 『華事夷言』(3)、『奧門月報』(4)、『俄 羅斯国記要』(2)などである。

林則徐著『俄羅斯国記要』の最初の頁
林則徐著『俄羅斯国記要』の最初の頁

林則徐の『俄羅斯国記要』につ いて、まだ学者たちは注意を払っ ていない。一風変わった木版印刷 の19 世紀のこの書物は、ロシア科 学アカデミー東洋学研究所サンク トペテルブルグ支部 図書館の中国 語手稿部に保管されている。林則 徐はこの本を、勅命により欽差大 臣として送り込まれた広東での在 任中(1839 年から1841 年)に書き 上げた。当時アヘン貿易が最盛期 を迎えていた華南では、西洋諸国の影響と中国への進出が激しくなっていた。

『俄羅斯国記要』は当初、林則徐の『四洲志』の独立した一部分であった。そして『四洲志』は、 卓越した中国の思想家で詩人・歴史家の魏源がのちに著した『海国図誌』(6)の一部として 取り込まれることになる。『海国図誌』のメインテーマについて魏源は次のように書いている。 「この本の目的は何か?それは夷狄同士の争いをいかに利用し、いかにして夷狄同士の均衡を 我らに有利なように作り上げ、夷狄を制するために夷狄の優れた技術を利用するか、を示す ことである。」

魏源は「夷狄」を以って夷狄を制するという古代の思想を展開して、夷狄に反撃して追い 払うために夷狄から学ぶ、という新しい意味づけを与えた。

1882 年には、政府高官の姚瑩(生1785 年- 没1853 年)がロシアを論じた二作と共に、林 則徐の『俄羅斯国記要』を収めた『俄羅斯記要』が中国で出版された。

林則徐のロシアに関するアピールはただの偶然なものではない。ロシア帝国は中国と長大 な国境線で接しており、清朝の支配層はロシアに高い関心を抱いていた。(訳者注:中国に とって)ロシアはイギリスや他の西洋諸国に対抗するときに有効な道具として可能性がある だけでなく、大国だが弱く貧しい国家が、ヨーロッパの工業や軍事を真似て受け入れること で、他のヨーロッパ列強といかにして肩を並べることができたかの好例であった。後に中国 の近代化論者にとって有名となるピョートル大帝や、破廉恥で悪名高いものの有能なエカテ リーナ2 世でさえ、他の国民から技術を学ぶことの有用性を認めていたことに林は気がつい た。最終的には、ロシアは強大となっていた。これは後の変法自強を唱える者たちにとって 説得力のある話であった。

1880 年代初めにこの著作が出版されたことは当然のことだ。最初に世に出た時には中国社 会の注目を集めなかったものの、19 世紀後半には上記の林則徐や魏源、徐継審たちの著作に 「第二の誕生」の機会が到来した。日本では明治維新の間に、彼らの著作がとりわけ社会思想 の発展に影響し、佐久間象山や吉田松陰、西郷隆盛といった全世代を熱狂させた。彼らの著 作は最初に中国で出たにもかかわらず、日本で最初に関心を持たれ、中国の知識人も興味を 示すようになったのはやっと19 世紀後半になってからである。

ようやく1860 年代になって、西洋諸国、そしてこれらの国を描いた書物への関心が刺激さ れた。これは、いわゆる変法自強論に投じた中国の官僚の試みに表われている。

中国の歴史家たちは、林則徐が西洋諸国に関する本を書いた時の参考文献の一つを特定し ている。それはヒュー・マレーの『世界地理全書』(5)である。この本は19 世紀前半に出版 されたもので、全世界についての最新情報を載せていた。

林則徐の本は単に参考文献を逐語訳したものではない。林の本の課題の一つはロシアの現 在の力を示して、その力の源を探究しようとすることにあった。全体的に、この本はロシア 帝国を内外の境界で諸地域に分けて、各地域の兵力、気候の詳細な特徴、信仰宗派、その地 方の手工業、住民の税金、歴史の論点などを素描している。

地理の見方や政治や歴史の経緯について多くの間違いがあるにもかかわらず、この本は、 多様な習慣、社会、技術の進歩を特徴とする、明確な個性を持つ国々から成る世界を示した。

外国からのロシア観を知ることは重要であり、ロシアのイメージの起源や様式、現在の展 開をたどることを可能にする。また、ロシア国内の歴史と外国の歴史に対する理解の視野を も広げるものである。このことは、中露関係史のいくつかのエピソードをつまびらかにする のにも役立つ。

『俄羅斯国記要』はロシアのことだけを扱った、中国における最初の出版物の一つであるこ とは指摘しておくに値しよう。

19 世紀中国の社会思想で上記の進歩的な著作が果たした歴史的な役割は、彼らが活動した 時代を大きく越えるものだった。これらの著作はあまり研究されなかったものの、同時代の 人と後の世代の社会思想への良い影響が徐々に評価されるようになった。イギリスと中国が 衝突する非常に不向きな状況下だったが、こうした本は外の世界や西洋の科学技術の到達点 に対して関心を示した最初のものとなり、孤立政策への対抗軸となった。

中国の歴史における危機の時代にあって、中英関係の震源地にいて、主に儒教の立場に則っ て務めていたにもかかわらず、林則徐が優れていたのは、彼が伝統的な偏見に囚われずに、冷 静に外国人(夷狄)たちの科学技術の優位を評価していたことだ。外国の侵略に立ち向かうため、 中国が西洋科学の業績を取り入れて習得しなければならないことを彼は認識していた。

(国際取引の隆盛や国際的な労働力市場への中国経済の統合も含んだ)中華人民共和国の外 交政策を研究する現代の歴史家たちは、この問題についての先駆者として彼を引き合いに出す。

19 世紀中国の社会政治思想の代表的な人物たちの伝記と活動をさらに分析することは、ア ジア諸国の社会の発展にも大きく影響した、中国の社会政治思想の発達の全般的なプロセス を、もっと全面的に解明することにつながっている。

(英語から麻田雅文訳)

参考文献

  1. 林則徐『四洲志』20 巻、王錫祺編『小方壺齋輿地叢鈔』上海、に所収。
  2. 林則徐『俄羅斯国記要』、『俄羅斯記要』上海、1882 年(木版)、に所収。
  3. 林則徐『華事夷言』上海、1931 年。
  4. 林則徐『奧門月報』上海、1954 年。
  5. Murray, Hugh. The Encyclopedia of Geography. In 3 vols. London, 1834; 1st rev. ed. Philadelphia: Carey, Lea and Blanchard, 1837.
  6. 魏源『海国図誌』揚州、第一版50 巻・1844 年、第二版60 巻・1847 年、第三版100 巻・1852 年。
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