スラブ研究センターニュース 季刊 2012 年秋号No.131 index

エッセイ


シカゴ大学に滞在して

野町素己(センター)

 1. なぜシカゴ大学にしたか
 2012年3月末から9月中旬まで、センター関係者皆様のご理解とご支援をいただき、米国シカゴ大学の東欧・ロシア・ユーラシア研究センター(CEERES) にて在外研究をする機会を得た。留学先が米国である義務は恐らくなかったので、自分のフィールドである東欧で現地調査にどっぷり浸かるのも魅力的だった。 しかし、スラヴ語研究の歴史も伝統も、現地よりも浅いとはいえ、研究環境が現地よりも遥かに整い、優れた研究者を多数輩出する米国には昔から強い関心があった。 恩師の一人であるN先生が常日頃「私がアメリカにいた頃はね…」、「私がいたハーヴァード大学ではね…」と、ときに満足そうに、 またあるときは現地しか知らない学生を残念がるような調子でおっしゃっていたのが刷り込まれていたというのもあるだろうし、分野は違うといえ、 米国各地で大学教員をする親戚3人からの影響も多分にあるだろう。 米国の数ある大学の中からシカゴ大学に決めたのは、上記センター長を務めるヴィクター・フリードマン教授が、受け入れを以前に提案して下さったからだ。 フリードマン氏は、バルカン言語学、スラヴ語学、コーカサス言語学を専門とし、私が取り組んでいるテーマであるスラヴ世界の言語接触と言語変化の諸問題についての世界的な権威の一人である。シカゴ大学のスラヴ語研究は、60年代以降エドワード・スタンキェヴィッチやズビグニェフ・ゴウォンプといった学者が世界のトップレベルに引き上げ、現在も有能なスタッフが多数在籍する。そして一般言語学でも素晴らしい伝統がある。かつてサピアやブルームフィールドが教鞭をとり、現在もマイケル・シルヴァスティン、サリココ・ムフウェネといった大物を擁しており、そういった大学の雰囲気そのものに興味があった。また、親しくする米国のスラヴ学者の何人かは、 同じように親切に受け入れを提案されたが、その多くが「自分の大学以外ではシカゴがいい」と言っていたのも後押しにもなった。

左から:ゴルバチョフ氏、筆者、フリードマン氏

2. 大学での研究生活
 私が滞在したのはInternational Houseというシカゴ大学のキャンパスにある外国人や学生向け宿舎である。 ロケーション以外にあまり取り柄はないと思われるが、大学だけに用事がある場合には十分快適だ。 この在外研究期間中にしたいことは、主に3点であった。そのうちシカゴ大学でしたいことは2点で、フリードマン氏の下で、 主に西スラヴ諸語、南スラヴ諸語の言語接触の問題について研究を進めることであり、もうひとつは大学の講義に出席して、 その様子を見ることであった。まず後者に関して、「今さら大学の授業に出るなんて」と思う方もいることだろう。 しかし私も大学教員の端くれであり、しかもまだ経験は浅い。そして単純に米国のトップレベルの大学において、 どのような内容の講義が、いかなるレベルで行われているのか、また教員はどのような指導をしているのか、興味があったのである。 シカゴ大学は4学期制で、私が聴講したのは3月末~6月の最終学期であった。聴講したのは4科目、「スラヴ諸語通時研究」(ヤロスラフ・ゴルバチョフ助教授)、「イディッシュ語文法論」(ジェリー・セイドック教授)、「社会言語学」(ウン・ロイネラント教授)、「言語政策・言語計画論」(同)である。フリードマン氏やシルヴァスティン氏などの講義も聴講したかったが、私がいた学期にはあいにく開講されていなかった。 どの講義も魅力的なものだったが、特に印象に残ったのは、同世代のゴルバチョフ助教授のスラヴ諸語通時研究の講義であった。歴史言語学の多様な理論に精通し、実際の言語資料に関する膨大な知識を有し、難解なアクセント論なども軽々と論じてしまう。

ブライアン・ジョセフ氏夫妻と
聴講していた学生たちも彼の説明をよく理解していたようで、こういった授業が私にも出来ないものかとため息が漏れる。 なお、1科目につき講義は週2回あり、かつ大量の課題が出され、講義ではそれを踏まえた討論や報告も求められる。 私は自分自身の研究も別にあるので、4科目だけでも十分大変だった。いずれの科目でも教員は基礎的な内容からきちんと教え、 課題としてかなり専門的な論文を多く読ませるなど、その達成目標が非常に高い。 そのような充実した教員と講義に加え、設備も申し分ない。 中でもレーゲンスタイン総合図書館は特筆に値する。 蜃気楼でもないと端まで見えないくらい豊富な蔵書を有し、スラヴ関係のコレクションも実に見事である。 借り出し冊数は無制限、図書館サイトから研究論文が自由にダウンロードでき、また図書館にない資料は、現物取り寄せやスキャンで迅速に手配してもらえる。 図書館は午前1時まで開館しているなど、研究のサポート体制は整備されている。さらに通常の講義に加え、言語学の様々の分野のワークショップがかなりの頻度で行われており、それらは通年プログラムとなっている。 世界中から集まった学者が報告を行い、議論は常に白熱するようだ。こういったプログラムを消化するのは大変であるが、 学問的に極めて多くの刺激を受けられる環境である。それもあってか、時々目の覚めるような秀才学生もいたが、こ のように恵まれた環境を活かせるのであれば、恐らく当然の結果なのだとも思う。 フリードマン氏は、私を自宅に何度も招待してくださり、私の研究の進捗状況を熱心に聞き、執筆中の論文などにも様々な助言をして下さった。 また言語学科のティータイムやセミナーにも同行され、様々な研究者と知り合う機会を作って下さった。 シカゴ大学で知り合った研究者はどなたも大変親切で、施設などの物質的な環境だけではなく、人的環境にもかなり恵まれていたと思う。 CEERES副センター長のメレディス・クレイソン氏は、すべてのペーパーワークを迅速にしてくださっただけでなく、 様々なケアを想定してくれていたようだ。例えば、私がホームシックにならないように日本人コミュニティーと相談して準備しているなど、 日本でも珍しいくらいの心遣いである。 大学に慣れてきた5月頃からは、自分のこれまでの研究を少しまとめ、月末にスラヴ語・文学科にて私のセミナーが開催された。 カシュブ語統語論の言語接触に基づく特殊性を論じたが、思いの外出席者が多く、たくさんのコメントを頂いた。 ボジェナ・シャールクロス氏などの著名な文学研究者も参加し、活発に議論が展開されたのが印象的であった。 学期中はキャンパス外に出ることはほとんどなかったが、6月にはブライアン・ジョセフ氏に招待され、オハイオ州立大で研究報告を行った。 こちらでは手厳しい批判も受けたが、それらはどれも建設的なものであった。ジョセフ氏は自宅に泊めて下さり、コロンバス周辺の観光案内もしてくださった。 「言語学コース」と称して、ブルームフィールドが住んでいた家、ケンネス・ネイラーが住んでいた家なども案内して下さった。 フリードマン氏もそうなのだが、彼らのような超一流研究者は、大変な多忙にもかかわらずこういった時間を確保し、 しかも大変楽しんでおられるように見えるので、いつも不思議に思う。余談だがジョセフ氏との会話の中で、彼が私の論文を査読していることがわかり、 途中からお説教も加わったが、それもまた良い思い出となった。 

ヴィルノのカシュブ博物館

3. 移民の言葉
 「したいことは3点あった」と上に書いたが、残りの1点はスラヴ移民の言葉に触れることであった。 これは言語接触の観点からも実に興味深い。そしてシカゴにはとにかくスラヴ人が多い。上記N先生のエッセイで、シカゴのポーランド人街に行き、 ポーランド語で「もちろん」と言ったら驚かれたといったエピソードが思い出される。あるときシカゴ美術館の前の喫茶店で座っていたら、 後ろの席からポーランド語が聞こえてきた。ポーランド人の親子連れだ。幼い子供がニコニコしてこちらを見るので、ポーランド語で 「やあ、何してるの?」と話しかけると、その子は急に不審そうな顔になり「お母さん、どうしてこの人はポーランド語を話すの?」と聞いていた。 ポーランド語は恐らく両親や家族の言葉で、家族以外は英語なのだろう。我々はポーランド語でしばし歓談し、彼らは「よいシカゴの滞在を!」 といって去っていったが、その後同じ席から聞こえてきたのはロシア語だった。また次のようなこともあった。大学の近くの床屋での話だ。 床屋が私の髪の毛を切っているとき、私や他の同僚とは英語で話しているが、そのご主人と思われる方との会話では、急にクロアチア語になった。 私は思わず「あなたはクロアチア人ですか」と聞いたら、「あなたこそどうしてクロアチア語を知ってるのですか」と逆に驚いて聞き返された。 こういったエピソードには事欠かない。 この「移民の言葉」に関し、今回の米国滞在を利用し、せめて「調査の下見」程度しておきたいと思っていたのは、 カナダ・オンタリオ州のヴィルノというカシュブ人集落である。19世紀半ばに、彼らの先祖は「パンの一欠片を求めて」、 主にカシュブ中部から北米に移住した。ヴィルノはトロントからバスで片道6時間、バスは週3便しかない。仮に現地に行ったとしても、 土地の人の助けが無い限り何も出来ない。そして誰も知り合いはいない。先方の関係者に連絡しても、返事がもらえないので諦めかけていたが、 ポーランドのカシュブ人とトロントのセルビア人の友人の助けを借りて、なんとか現地を案内してくれる人を見つけた。 ディヴィッド・シュリスト氏という移民5世のカシュブ人である。彼は現在ヴィルノ町長で、近年はカナダのカシュブ文化の復興運動を積極的に行っている。 私が滞在したときはあいにく夏休みで留守にしている人が多かったが、それでもシュリスト氏のお陰で、 カシュブ語をよく知る60代から100才の方々数人に話を聞くことができた。特に高齢の方々(80才以上)の言葉は、 19世紀末から20世紀初頭にかけてカシュブ全域で方言調査を行ったフリードリヒ・ロレンツの記述通りだったため、その記述の正確さに改めて驚きを覚えた。 ヴィルノはカナダの大都市から比較的離れていて、彼らは生まれてから町を出ていないため、予想以上に言語変化のスピードが遅く、 彼らの言葉には英語の要素が入り込まなかったのだろう。私がつたないカシュブ語で話しかけると(といっても異なる方言だが)、それに驚くこともなく、 カシュブ語でご両親のことや子供時代のことを懐かしそうに話されたのが印象的であった。 現地のカシュブ人のうち、若い世代は、もうカシュブ語を話さず理解も出来ない。中年以上の多くの人は理解するが、会話には困難を感じるという様子である。 60代から70代では、よくカシュブ語を話せる人でも、語彙に英語の要素がかなり浸透していた。また私が知るカシュブ語の語彙で、彼らの日常に無い概念のものは通じない。 例えば、彼らの語彙に「日本」や「言語学者」は無いため、だいたい「彼はJapanからきたlinguistだ」と英語交じりになるし、私が「研究のために現地調査を行っている」 と本土のカシュブ語で言っても全く理解されない。そして、「ここのカシュブ語ではどのように言いますか」と聞いても「わからない」となるわけである。 彼らからよく聞いたのは「子供の時の会話はすべてカシュブ語だった。しかし家族が都市に出ていってから、また両親が他界してからカシュブ語はあまり話さなくなった」、 「自分が子供の頃、英語を知らなかったので学校で大変苦労した。自分の子供には同じ苦労をさせたくなかったので、カシュブ語は一切話さなかった。後悔している」 というエピソードである。昨年はポーランド本国からカシュブ語講師を招聘して、1年間カシュブ語のコースを組織したとのことである。 カナダのカシュブ語の前途は明るいとは言えないが、シュリスト氏の活動を中心に、本土のカシュブ人とも連携し、復興への道が開けることに期待したいし、 私も近い将来今回の訪問についてまとめ、また再調査の計画も立てたいと考えている。
4. 帰国して
 9月半ばに帰国してから、溜りに溜まっていた用事を片付け始めなければならず、さらに月末には新しく始まった「スラブ研究センター公開講演会」があったので、 その準備にすぐに取り掛かった。10月からは授業も始まり、さらに秋の学会や科研費申請シーズンで、シカゴ滞在の余韻に浸る暇はあまりない。 帰国後はCEERESのアソシエート・メンバーに任命されたので、これからもシカゴ大学には縁があるだろうし、可能ならば共同のイベントなども組織してみたいものである。 今回のシカゴ滞在に関して、センターのM研究員が特にご支援して下さったと認識している。M先生は30代後半になって初めて海外留学をされたと聞いた。 私は学生の時に東欧に2回長期で留学する機会があり、M先生の初めての留学を迎える年齢を前にして、3度も留学しているのは、まさに「恵まれすぎ」であろう。 わずか半年と言えばそうだが、それでも米国滞在を通じて身を持って知ったレベルの高さ、そして新たに出てきた研究課題、また次の世代に伝えるべき経験もたくさんある。 スラブ研究センター、シカゴ大学の関係者の有形無形のご支援・ご理解に改めて感謝し、今後の研究・教育活動に可能な限り還元し、 様々な形でスラブ語研究の発展に尽くしたいと思う。


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