スラブ研究センターニュース 季刊 2013 年冬号No.132 index

エッセイ

二都物語:サッポロでヴィリニュスについて書くということ

セオドア・ウィークス(南イリノイ大学歴史学部/センター2012年度特任教授)



ヴィリニュスの創始者・リトアニア大公ゲディミナスの像
 私が想像するに、リトアニアのほとんどの人が地図 上で北海道を正確に指し示す事ができないだろうし、札 幌の人のほとんどがヴィリニュスについてよく知らな いだろう。なぜ、ずっと先延ばしにしてきたリトアニア の首都に関する本を書き始めるのに札幌を選ぶのか?
 その理由は個人的なもの、専門的なもの、実際的なもの と多くある。北海道とは反対の南端の島、沖縄で生まれた アメリカ人としては、数ヵ月間日本で暮らす機会は非常 に魅力的なものだった。北海道大学スラブ研究センター(SRC)は国際的に高い名声を有してい て、外国人研究員プログラムの前任者たちは、ここでどれだけ仕事がはかどったかということ に言及し、この研究所を賞賛していた。そして、私が札幌に滞在する可能性があることをワルシャ ワの歴史家たちに語ったとき、彼らは皆ノーマン・デイヴィス(訳注:ポーランド史の大家と して知られる)がここで本の一部を書いたことを知っていた。本当におすすめの場所なのだ!
 そして、事実、私のSRC に対する期待は達成された。ソ連用語を使えば、「超過達成」と 言ってもいいかもしれない。センターの教員も事務職員も、素晴らしい日本的礼儀正しさ(幸 運にも、このステレオタイプは正しかった)で、日本のお役所仕事(それは存在する)に対 抗しつつ、私の訪問を容易かつ快適なものになるよう努力してくれた。図書館は本当に素晴 らしいことが証明された。私が東アジアで見つけることなど思いもしなかったリトアニア語 の文献を複数所蔵していたのだから。北海道大学留学生センターで留学生たち(私のような、 留学生以外の者に対しても)の日本語学習を支援している、温かくフレンドリーな山下教授 と諸先生方にも賞賛を送らなければならない。
 私の研究対象であるヴィリニュスは20 世紀半ばまで、どの民族も多数派となることのな かった都市であった。1795 年から2000 年までの(もしかしたら、リトアニアがNATO と EU に加盟した2004 年まで)長い期間にわたって、国家権力、民族アイデンティティ、そし て都市の発展がどうお互いに関係しあっていたのか、ということが私の関心である。ユダヤ人、 ポーランド人、リトアニア人(そして1914 年まではロシア人)にとってこの都市がいかに重 要であったか、ということも私の研究の主要テーマである。19 世紀、ロシア帝国は街路にロ シア語の名前をつけ、正教会を建設することによって、そして1880 年代から顕著だったのが、 ロシアの文化的(プーシキン)・政治的(皇帝エカテリーナ)人物の記念碑を建てることによっ て、ヴィリニュス(ロシア人にとってはヴィリナ)のうわべの景観をロシア風にしようとした。最終的には、1915 年9 月にドイツ軍が侵攻したとき、ウィルナ(ドイツ風の言い方)はポーランド人とユダヤ人の街となり、1 世 紀以上続いたロシア支配の痕跡は消えたのである。
 20 世紀、ヴィリニュスは数回にわたって所有主を変えている。2 度の世界大戦におけるドイツの占領、 1920 ~ 1930 年代のポーランドによる支配、1940 年代にはソ連に組み込まれ、やっと1990 年代から独立したリ トアニアの首都になった。 それぞれの政治体制の変化によって、街路の名称から公共芸術、ある民族集団の他の民族に 対する特権にいたるまで、都市もまた直接的に影響を受けた。最も悲劇的であったのは、こ の都市の1939 年の時点の人口のほとんど全てが第二次世界大戦中とその直後に殺されるか (ユダヤ人コミュニティ)、追放された(ポーランド人)のである。ソヴィエト・リトアニア の首都の建設にもまた驚くべきエピソードがあるが、それについては現在のほとんどのリト アニア人は語るのを避ける。彼らはソヴィエト期の全てを抑圧とロシア化と考えたがる。確 かに、そのような考え方があるが、共産主義者もまた民族文化のある面については奨励しよ うとしていたのである。ソヴィエト・リトアニアの指導部は民族的にはほとんどがリトアニ ア人であったし、1980 年代後半にはリトアニアの共産主義者は(皮肉っぽく言えば)賢くも 自分たちとモスクワとの関係を絶ち、リトアニアの独立性を賛美したのである。1990 年以降、 ヴィリニュスは公的に二ヵ国語使用のソヴィエト・リトアニアの首都から、ほぼ単一言語の 都市となった(それでも、街中でロシア語とポーランド語が聞こえてくることがままあるが)。 再び、街路の名称と街中の記念碑はリトアニアの文化的・政治的重要人物のものとなってき ている。以上が簡単に言えば、私が伝えたく、札幌で書き始めたかった物語なのである。
 札幌に来る前、この都市がヴィリニュスとは全く異なることを知っていた。私の年代の多 くのアメリカ人がそうであるように、私は札幌をおもに1972 年の冬季五輪の開催地として、 そして日本の最北端の大都市として知っていた。しかしながら、この都市がどれほど若いの かは理解していなかった。1945 年以後でさえ、函館の方が栄えていたということに私は驚い た(私はこの魅力的な街の名前を聞いたことさえなかったことを認めよう)。ウィリアム・ク ラークの名前もまた私は知らなかった。ヨーロッパとイスラエルの大学で学び、研究をして きたが、北海道大学のキャンパスがまさに故国アメリカのようであることは驚きであった。 イリノイのカーボンデールと同じようにポプラとエルムの並木道まであるのだ。事実、街全 体も私にはヨーロッパというよりはむしろアメリカの街のように感じられた。それはアメリ カの名前がついたコンビニが沢山あったからではない(ローソン、セブンイレブン)。 札幌での5ヵ月を振り返ると、私のフェローシップがとても速く、同時に喜ばしく過ぎ去っ たことに驚いている。私は札幌で、刊行予定の本の各章をあらかた書き終えた。1795 年まで の「歴史の始まり」、ソ連支配の終焉までの道程、リトアニア国民国家の首都の創造(1980 ~ 2000)などである。

聖アンナ教会(ヴィリニュス)
  私は札幌と、講演を行った京都で多くの良き同僚に会い、日本で高等教育と研究機関がいかに機能しているかについて、 以前よりずっとよく理解できた(もちろん、まだ表層的であるが)。
 自分の大学では通常学期の間、私は研究よりも教育にはるかに多くの時間を割いている。 私が毎年(時々毎学期)行わなければならない授業は「1500 ~ 2000 年の世界史」である。 北海道での滞在は、数十冊の日本史に関する本を読み、アイヌについて学び、日本語を少々 学ぶことを可能にさせてくれた。私はパソコンで表音文字(にほん)と漢字(日本!)をタイ プする方法を教えてくれたSRC の山本さんに感謝したい。アメリカ人にとって、日本は近く (英語からの外来語がたくさんあり、野球のユニホームを着た青年たちを見かける)、また遠 い(漢字、交通において道路が反対、完全かつ難解に包装された食品)国である。5 ヵ月の間に、 私はイカやタコの揚げ物(私は“fried sea monster” と呼んでいる)が好きになり、ひらがな とカタカナを少し(しかし、いまだシとツとソの区別は難しい)学び、そして「お願いします」 というフレーズを数えきれないほど使った。おそらく、最も重要なのは、日本の歴史、文化、 言語、日常生活について、いかに自分が無知であるのかを学んだことである。繰り返し生徒 に言っているように、教育とは問いから始まる。北海道大学スラブ研究センターでの5 ヵ月 間のあと、私は多くの新しい問いを立てるのに十分なほどに、札幌、北海道、そして日本に ついて知っているのである。
 ヴィリニュス ― およそ千年前に築かれ、国家的、民族的、宗教的に多様な集団によって住 まわれたこの都市は、札幌 ― 1 世紀経っていない大都市であり、圧倒的に日本人が居住し、 外国に一度も支配されたことのないこの街とはかなり異なると言えるだろう。しかし、SRC での5 ヵ月のあと、この二つの都市はともに私の人生の一部となった。私は数日中にいくつ かの研究を完成させるためにヴィリニュスに戻るが、出来るならそう長く時間が経たないう ちに札幌に戻って来たいと思う。リトアニアでは昼飯におにぎりと“fried sea monster” を見 つけることは難しいのだから。

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