人事の動き
◆ 新任の専任研究員に宇山智彦氏 ◆
センターはこの4月から専任スタッフとして宇山智彦氏を迎えることになりました。宇山氏は1967年東京生まれ。1991年に東京大学教養学部教養学科第二(ロシアの文化と社会)を卒業後、同大学の大学院総合文化研究科(地域文化専攻)に進まれ、博士課程在学中の1993年3月から1年間、アルマトゥ(アルマ・アタ)に開設されたばかりの在カザフスタン共和国大使館に初代の専門調査員として勤務され、昨年4月からはカザフスタン国立科学アカデミー東洋学センターの客員研究員を勤められました。卒業論文のタイトルは「革命前期中央アジアとカザフスタンにおけるロシア人移民と土着住民の相互関係」(露文)、修士論文のタイトルは「20世紀初頭におけるカザフ知識人の世界観:M・ドゥラトフ『めざめよ、カザフ!』を中心に」で、学部時代から一貫してカザフスタンの地域研究、カザフスタンとロシアの関係について研鑽を積まれました。「カザフスタンにおける民族間関係」(『国際政治』第104号所収)などの刊行論文があり、国際学会での発表経験も豊富です。昨年5月『カザフスタンスコ・ロシイスカヤ・ガゼータ』紙に「歴史家・政治学者ウヤマ・トモヒコ」の署名で発表された「カザフスタンに権威主義は必要か?」と題する記事は堂々たる政治評論で、現地の人々の話題をさらったものと推測されますが、その一方で『日本語・カザフ語会話集』のように地味な共著もあり、幅の広い才能を窺わせます。センターでの所属は国際関係部門ですが、学際的な地域研究の専門家としての活躍が期待されています。[原]
住所〒001札幌市北区北25条西5丁目2-8 マンション佐々木301号 ・011-758-0168
◆ 客員教授・昇任 ◆
1996年度は、次の方々に客員教授をお願いすることになりました。
生産環境部門 百瀬 宏氏(津田塾大学・学芸部)
社会体制部門 宇多文雄氏(上智大学・外国語学部)
民族環境部門 廣岡正久氏(京都産業大学・法学部)
山村理人助教授は、1996年2月1日付けで教授に昇任されました。[堀田]
秋月さんの退官記念講演会と送別会開かれる
この3月で定年退官された秋月孝子さんの講演会と送別会が3月15日に開かれました。講演会は、この日に合わせて改装されたセンターのセミナー室で開かれました。望月哲男センター長の司会のもとに、まずセンターの原暉之教授が秋月さんのこれまでの仕事を紹介しました。それは、センターの歴史そのものという感じがしました。秋月さんは「私の出会った本」という演題で、30年間に及ぶセンターの図書の仕事を通じて出会った数多くの本のなかで、とくに印象に残っている本について話をされました。それぞれの本を入手されるまでの苦労話や、個々の本にまつわる思い出話が次から次に披露され、本に対する深い愛着がほとばしるような話でした。司会者の言葉にもありましたが、このような話を聞く機会がもっと前にあったなら、図書の仕事や一冊々の本に対するわれわれ教官の対応もいくらか違ったものになったのでは、という気がしました。
北大百年記念館に場所を移して開かれた送別会には、センターに関わった研究者や、図書の仕事の関係者など多くの方々が集まりました。また、センターの図書のために、かつて秋月さんと一緒に働いた方々も数多く来られました。鳥山先生や五十嵐先生などの顔も見られ、さながらセンターの同窓会のような雰囲気でした。秋月さんの跡を継ぐという重責を担う兎内勇津流さんの軽妙な司会のもとに、秋月さんの貢献を讃え、感謝する言葉が多くの方々から聞かれました。[田畑]
秋月孝子さんを送る
原 暉之
スラヴィック・ライブラリアンとして多大の業績を残され、30年間の長きにわたってセンターに勤務された秋月孝子さんが、この3月末日をもって定年退官なさいました。
秋月さんは1961年に北海道大学事務官として附属図書館に着任され、1966年に法学部附属スラブ研究施設(当時)に配属されて以来、センターの図書業務全般に携わってこられました。1990年にセンターが全国共同利用施設に改組された時点で情報資料部の講師に配置換えになり、さらに1994年助教授に昇任されました。この間、秋月さんはスラブ関係図書の構築に尽力され、センターの蔵書を、出発点においてほとんど何もないに等しい状態からはじめて、今日の高い水準に引き上げられました。センターの蔵書構成が国際的に見て遜色のないものと自負できるとすれば、それはひとえに秋月さんの献身的な努力のおかげです。しかも秋月さんは、単に大量の資料を収集、整理されただけでなく(もちろんそれだけでも大変なことですが)、個人コレクション・マイクロ資料目録、ウクライナ関係図書目録など、多岐にわたる目録を作成され、まとまった資料、最新の情報については、そのつど『スラヴ研究』やニューズレターに周到な解説つきで紹介なさいました。また、きめ細かなレファレンス・サービスの面でもセンターの研究活動を支えて下さいました。つねに研究者・利用者の視点に立って教えて下さる誠心誠意のサービスのありがたさは、外国人研究員をはじめ国際的に著名な学者と、鈴川奨励研究員の大学院生を問わず、センターに滞在したことのある内外老若の研究者が一致して認めるところであろうと思います。
3月15日には、記念講演と送別会が催されました。「私の出会った本」と題する講演は、書物に対する秋月さんの高い見識、こよなき愛情が随所で披露され、聴衆に深い感銘を与えました。3月29日の夕刻、センター1階の廊下に集まったスタッフ全員の拍手に送られ、小さな花束を手にした秋月さんは、満面に笑みを湛え、爽やかにセンターを後にされました。秋月さん、長い間本当にご苦労さまでした。[原]
スラブ研究センターとインターネット
仙石 学(西南学院大学/元センターCOE非常勤研究員)
インターネットの利用が一般的になりつつある中で、インターネットを研究活動の道具として利用している層も少しずつ拡大しているようにみえる。実際スラブ系(これが適当な呼称ではないことは承知しているが、ここでは「スラブ研究センター(以下“センター”と略す)」についての話をするため、とりあえず今回はこの単語を利用する。本稿を読もうとなさっている、決して数は多くはないであろう読者の寛容を請いたい)の研究者の間でも、情報交換におけるE-Mailや情報獲得におけるWWWブラウザの利用はそれなりに広まってきているし、また今年の「ロシア・東欧学会」ではスラブ地域研究におけるインターネットの利用についてのラウンド・テーブルも開かれる予定となっている。そこで今回は、日本におけるスラブ研究の中核ともいえるセンターとインターネットの関わりについて、筆者が知り得た限りでの情報を整理しておくこととする。
現在のセンターとインターネットの関係は、パソコン通信の造語でいうところの「ROM」状況、つまり情報を受け取るだけ受け取ってはいるが自らは発信することがないという立場にある。インターネットからの情報の受信という面では、北大のネットワークHINESを通しての利用が可能となっている。ネットワークに接続された各自のパソコンから、世間一般で事実上インターネットと同一視されているWWWブラウザを通した国内外の政府・大学・新聞社・通信社その他の機関からの情報が得られる他、Telnetを利用しての蔵書検索、あるいはGopherやArchieなどによるファイルやソフトの入手などはできるようになっている。例えばポーランドの現状について情報を入手しようとした場合、まずOMRIのニュースを概観し、次に具体的に情報が必要なテーマについてPAP(ポーランド通信社)やZycie Warszawy紙のホームページをたどり、必要があれば内閣や政府出版局のデータ、あるいはCNNなど国外のニュースソースを参照する。それから北大を始め国内外の大学や学会のページを通して必要な資料を検索し、可能なら自分のパソコンにファイルとして落とす、というところまでは各自のデスクの上からできるようになっている(*)。この結果、資料を求めて学内外を徘徊したり、発見した資料の山を前に該当の部分を探して血眼になるといった研究活動における「肉体労働」がかなり軽減されたのは事実である。
だがインターネットの利用に関して、現在のセンターは必ずしも十分な状況にあるわけではない。例えば情報獲得と提供の手段としてインターネットで最も活用度の高い電子メールについては、現在ではセンター独自でメールを送受信するシステムがなく、北大のHINESをいわば「間借り」する形になっている。そのためメールの受信に際しては一定容量以上のファイルやバイナリーファイルを受信できないという重大な制約があり、論文の原稿をメールで受け取ったり、メーリングリストに参加したりすることは現状では不可能である。またメールの送信に関しても、一般に利用度が高く操作も容易なEudoraを利用できない上に、ファイルのアップロードによる送信も手間がかかるため、事実上ネットに入った後文章をベタうちするという古典的な手段に頼らざるを得ない状況にある。
加えて現在のインターネットにおいては情報を一方的に受信するだけでなく、自らも情報を発信しネット上における情報をより豊かな内容のあるものにしていくという態度も求められている。だが現在のセンターは日本で唯一ともいえるスラブ研究の拠点でありながら、国内外に向けてその活動や情報を提供するためのホームページの開設をいまだにおこなっていない(**)。これらは別に高額なインフラを整備しなければ実現できないという問題ではなく、サーバとなるパソコンを一台設定すればすむことであり、実際昨年の末からホームページの開設とメールサーバの設置に向けての準備は始められたようである。だが現段階では学内LANとの関係の問題もあるが試験運用の時期さえ明確になっておらず、またセンター内でのインターネットへの関心は高いとはいいがたいこともあり、実際の運用までには時間がかかるものと考えられる。
もちろん現段階では、研究活動におけるインターネット活用の可能性について疑問を持つ向きも多いだろうし、またインターネットに「肩入れ」することが本当に必要なのかという議論もなされるべきであるとは考えられる。だがインターネットの利用が国内外でそれなりに一般化し、ホームページを開設しているかどうかということがその大学なり施設を判断する一つの基準のようになりつつあることを考えると、全国共同利用施設、並びに中核的研究機関(COE)として日本におけるスラブ関連の研究の中心的存在となっているセンターが自ら情報発信をしないままでいることは問題となってくる気がする。現在のホームページ開設の準備は、重点領域研究に関連しての情報提供や文書送付を主たる目的とするものとされているが、そういった「内向き」の情報提供のみでなく、インターネットを通してのセンターの独自の資料(特に統計関連)や著作権の問題のない資料の提供、スラブ研究に関わる学会などの外部へのリンクの情報の提供、センターの活動や研究員の活動の報告、邦文・欧文の紀要やシンポジウムの記録のファイル形式での提供など、広く一般に向けた情報提供をおこなうこともセンターの活動として必要となるであろう。逆に言えばインターネットを利用することで、センターが全国共同利用施設の責任としてなすべき情報の提供が容易におこなえるようになるのではないだろうか。
(*)参考までに、ここで示した情報源のホームページアドレスは以下の通り。
OMRI=http://www.omri.cz/Publications/Digests/DigestIndex.html
PAP=http://www.pap.waw.pl/index_e.htm
Zycie Warszawy=http://www.vol.it/EDICOLA/ZYCIE/DATA/
CNN=http://www.cnn.com/
北海道大学図書館=http://ambitious.lib.hokudai.ac.jp/(WWWを利用した文献検索が可能になっている)
ポーランドのホームページ=http://info.fuw.edu.pl/pl/PolandHome.html(内閣・議会・主要政党・憲法・経済データなどいくつかのリンクに接続可能)
インターネット上のポストソビエト研究=http://solar.rtd.utk.edu/〜ikallen/pssri.html
ロシア・東欧研究(ピッツバーグ大学)=http://www.pitt.edu/〜cjp/rees.html
(**)このニュースが発行される直前に開設された。詳しくはP.7参照。
イサオさんの思い出
岩下明裕(山口女子大改め山口県立大)
はじめてお会いしたのは9年前のソ連、1987年秋のことでした。NHKロシア語テレビ講座の懸賞で「当てた」ソ連旅行(1)で、両親の反対を押し切り参加した「レーニン・メモリアルツアー」という怪しげな名称のツアーのなかに米川勲さんがいました。このツアー、とにかく、づくしの旅で、生誕の地から帝政時代の流刑の地(シベリアのシューシェンスコエ村)、旧レニングラード近郊の隠れ小屋(『国家と革命』を執筆したとされる場所)、晩年の療養地、とどめに赤の広場で革命70周年記念パレード観覧。夢でうなされるほどレーニン! にあけくれたものでした。
当然、参加者も怪しげな面々が多く、我々の一行は、某党の市議や某「声」の町議、軍事評論家風から某省のスパイ風、かと思えば大阪外大ロシア語科の女性4人組もいるという実に不思議な構成からなっていました。その顔ぶれのなかでも一際、不可思議な存在がイサオさんでした。ソ連側入国の地ハバロフスクで彼は早くもその怪しげぶりを披露します。持参したトランク3個はすべてカラ。いぶかる入国審査官はしつようにボディチェックを繰り返し、カラのトランクになめずるようにレントゲンを照射します。
怪しげぶりは行動の中でいかんなく発揮されます。寸暇を惜しんで動き回るフットワーク。一緒に町をぶらついているとすぐに姿が消えます。気がついたら10メートル先。いや、路地で買い物。ショーケースに並ぶレーニン・バッジを指さして「フショ」と一声。ルーブリの札束をきります。博物館ではパンフレットに「フショ」。本屋で棚一面をさして「フショ」。そうイサオさんは全部買うのです。
米川氏(左)と筆者(右)87.11.2 この国は買うモノがなくって。そう呟きながらも「フショ」。外貨ショップ(ベリョースカ)ではアメックスのゴールドカードも登場しました。カラのトランクはみるみる満杯です。なるほどイサオさんは「雑貨輸入」の商人だったのです。ある日「値切り方」を講釈してくれました。
「一つの値段で二つを買うのが関西風(上海風)」だけども、あれは余分に買うから無駄もある。「1000円」といわれて一般人はどうでるか。せいぜい「500円」と値切る。まだ相手のフンドシ。ここで真剣にかつ力一杯「10円」という。予想外の値段に面食らった相手は「そんなむちゃな。せいぜい100円っすよ」。「10円」とまじめに真剣にいえるかどうかが分かれ目。怒らしても、透かしても本音を引き出すこと。そこからすべてがはじまるのだと。
旅行中、毎晩のようにホテルのバーで杯を重ねましたが、米川さんは実にいろんなことをご存知です。都立戸山高校から京都大学へ、かの赤軍のシオミ氏と同期。単なる商人とは思えません。謎は深まるばかりです。
日本に戻ってからもおつきあいは続きました。米川さんはマメに東京から電話をくれます。当時、大学院生の貧乏な私にとってはありがたいことでした。東京に出かけた際に彼の事務所に立ち寄りました。なんと青山の一角にかまえているのです。そこでイサオさんのもう一つの顔を知りました。イサオさんの会社「ジャプラン」は貿易部門に加えて出版部門も備えていたのです(2)。
雑貨の債務の取立から本の出版記念パーティまで、出張にかこつけ博多にも足を運ばれ、その度に中州や箱崎(3)で一杯ごちそうになりました。彼の鋭敏なアンテナとフットワークでキャッチした情報はなかなかに時代を予見するものがありました。東西緊張が融けない頃から「日本海研究所」構想を持論とし、議員団に紛れ込むと北朝鮮でデモ。ビデオとカメラ2台、テープレコーダーをまわしながら自由行動を試みるイサオさんに、北朝鮮側もガイド2名をはりつけて両側からガード。さしものイサオさんも「封じ込められし」体験は、ジャプラン出版の企画へと生かされました(4)。まだ世間が「バラ色」であったとき、早くもバブル崩壊を予測し、同業者(雑貨輸入業)の相次ぐ倒産を理由に次なる不況を「オイル・ショック」以上と喝破されておりました(5)。
かくて、私にとってイサオさんの存在というのはかけがえのないものになりつつありました。私の訪朝前には貴重なレクチャーを受けましたし、バブル崩壊の予見は早速、講義ネタに使わせてもらいました。当時「景気底打ちキャンペーン」を行っていた某紙の「偏向」を改めて認識したものです。
93年2月、結婚の報告をかね東京でお会いした際、「8・29」パーティへの参加を快諾して頂きました。その後、欠席の通知を受け取りますが、不況が本格化して忙しいのだろうと推測し、気に止むこともありませんでした。もっとも、パーティ当日まで、何のメッセージも来なかったことに胸騒ぎがしていていたのは事実ですが。思えば、ここ数年ドクターストップで私と飲るのもウーロン茶でした。訃報を受け取ったのは9月末、新居先でのことです。享年50歳。すでに8月19日には他界されておられました。
10月末に東京出張の折、埼玉に足を延ばしお墓参りにいきました。案内してくださった親父さんから伺った話によれば、ジャプラン出版の本はいまだ注文後を立たずとのこと。息子に先立たれた親父さんのお気持ちにかえす言葉がみつかりません。それでも、世界中をまたにかけて仕事をされてきた米川さんの人生は、短いとはいえ楽しく充実していたのではないかと思います。
時代は変わり、ロシアでもいろんなモノが買えるようになりました。そして、市場を歩くたびに声が聞こえてきます。「フショ!」
― 注 ―
(1)ある日、NHKロシア語講座テレビの応用編をみていたら、ゲストで出演したロシアの旅行関係官庁の人が10のクイズを出し、正解者のうち1人を ソ連に「無料ご招待」というコーナーが突然始まりました。これ幸いと応募したら、 なんと80倍近い競争率を勝ち抜いて当選してしまいました。『冒険王』の懸賞で「ミニ野球盤」を当てて以来の快挙!と喜んだのもつかの間、世の中(ロシア)は甘くない。「無料ご招待」はソ連国内に限ると。要するに「招かれた客がホストの家に来るのに自分の足で(つまり、交通費は自前で)来るのが常識だそうな」。結局、3週間のパック旅行総費用40万円中、飛行機代・ビザ代など20万円は自腹。まあ、1ルーブリ=200円強の当時としては安い旅行には違いないか。
(2)ジャプラン出版の代表的刊行物としては、以下を参照。悪くいえば節操なし、よくいえば多趣味。
田中光四郎『照準の中のソ連兵―日本人ゲリラ、アフガンに死す』1987年。
佐々木良昭『アラブ爆発―なぜ湾岸危機なのか』1990年。
ジーン・マクソーリ(浜谷喜美子訳)『シャドウの恐怖―核燃料再処理工場で汚染された人々の運命』1991年。
力久隆積『私にすがって来い―「いのち」に神は宿るのか』1992年。
ヘンリー・デスロフ(宮川淳監修)『アメリカ米産業の歴史』1992年。
大貫悦司『PKOとは何か』1992年。
(3)福岡にある某大学文系地区の総称。空港バス・ターミナルではない。
(4)関川夏央ほか『検証・北朝鮮』ジャプラン出版、1992年を参照。
(5) 米川勲からの聞き取り、1992年2月29日、中州(ジガーバー)。氏はバブル崩壊への危機感を次のような身近な「皮膚感覚」から説明した。
・労働の買い手市場への急変(調布市で事務パートの求人1人に対し80人が殺到)
・取引銀行の不可解な動き(たった500万円の現金をジャプランに貸し渋るくせに、「米川さんのとこは優良企業だから5億円の土地を買え」とすすめる矛盾)。500万円も借りられない「優良企業」なんて。
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