私が日本にいたとき

ヴィルモシュ・アーゴシュトン   (作家・ジャーナリスト・ハンガリー/センターCOE [Center of Excellence] 外国人研究員として97年6月〜9月滞在)


    私の日常会話にはこれから先、新しい表現が加わって、豊かになることでしょう。友人とおしゃべりしたり記事や論説を書くとき、「私が日本にいたとき」という言葉を使い、常に日本滞在期間を思い出すだろうと思います。

私の恩人である林センター長の推薦によって、丹保北大総長が私を招へいする、ということがなかったら、もちろんこんな言葉を口にすることもできなかったわけです。 実際、誰に感謝の言葉を述べるべきなのか、つい考えあぐねてしまいます。センター滞在中、私はスタッフの間にほんもののチームワーク − 仕事における日本固有のムード − があり、意思決定プロセスはコンセンサスに基づいているということを発見しました。そういうわけで私は図書館で手助けをしてくれた方から会計の方まで、センターのメンバー全員に感謝の気持ちをいだいています。皆さんなかなか日本語をおぼえられない私を助けようと、全力を尽くしてくださいました。 実際私はほとんどの時間を、パソコンの前に座り、センターや大学の“アンビシャス”な図書館から借り出した本を読み、自分自身に問いを投げかけ、その答えを日本の二千年の伝統のなかで見つけようと努力しています。

歴史的背景、習慣、伝統のまったく異なる世界から来た私は、あまりにもたくさんの問いを発し、いままで自分が抱いていた概念に合致しないあらゆることについての答えをすぐに得たくて、つい気がせいてしまいます。たぶん日本の“秘密” − 伝統の広野を急速な近代化のプロセスと結びつけるもの − のほんのすこしの部分についてでも、私が完全に理解するには長い時間がかかるでしょう。 日本の学者達が西欧の国々へ彼らの生活様式を学びに出かけていったのは、そんなに大昔ではない明治の頃でした。ところが今はもう西洋人が日本に来て、ユニークな日本の思考様式を研究する時代です。 1996年6月からビザなしの渡航が双方の旅行者に認められ、日本とハンガリーの関係が深化したことは、とても喜ばしいことです。これは相互理解のプロセスにとって非常に大事なステップです。また私はセンターの家田氏のご助力で、東海大学文学研究科の東欧文明研究専攻課程と、大阪外国語大学を訪ねる機会をもちました。多くの学生、研究者が東中欧の文化的・政治的問題についての深い知識を披露してくれました。また多くの学生がハンガリー語を学んでいるのを知り、非常に驚きました。 “共存のモデルを求めて”というテーマで開かれたセンターの夏期国際シンポジウムでも指摘したように、西欧だけでなく日本の企業も、中欧の国際化に貢献してきました。この地域の安定を維持し、東中欧の市場の安定性を増大させるためには、新聞、マス・メディアなどを確固たるものにするのが得策だと考えます。それによってこの地域は、マイノリティや外国人に対する不寛容や憎悪や恐怖が支配したりする代りに、多様な文化を受け入れる、開かれた社会を実現することができるでしょう。このことに関して、東中欧の人間は日本からの援助を期待しています。 私は5月の下旬にこちらに来て、10月のはじめにここを去ります。つまり私は日本で最も美しい、私の故郷のトランシルヴァニアにも似た北海道で“長く暑い夏”を過ごしたことになります。ときどき山の修行僧のように、人気のない場所を歩いていると、日本の治安の良さにとても驚きます。私が感じた脅威は疾走する自転車 − 歩道のアウトロー − によるものだけでした。彼らは歩きながら指を鳴らして瞑想にふけるよりは修験者の荒行のほうを好むのでしょう。私は前者のほうが好きです。 秋になり“サヨナラ”を言う時がきました。たくさんの新しい友人 − センターのメンバーだけではなくロシア、ウクライナ、イスラエルそしてポーランドから来た客員研究員の方々と、親切でチャーミングな奥様方 − に別れを告げるのはとても悲しいことです。彼らは私が余暇時間をすごすのにつきあってくれて、日本の日常生活と文化を一緒に体験し、分かち合いました。おおぜいの素晴らしい人たち(エレガントな女性たち、幸せな子供たち、教養ある男性たち)、そして興味深い場所、寺院、神社、そして“パチンコ”が私の記憶にとどまることでしょう。 「昔々、日本にいたときにはね・・・」 私自身のおとぎ話が始まります。 (英語から大須賀みか訳)