一年間のCOE非常勤研究員勤務を終えて
幸か不幸か、スラブ研究センターの勤務を離れてからこのエッセイを書くことになってしまった。しかし、離れたといっても、必ずしもセンターを客観的に見つめ直せるかというと、必ずしもそうではないような気がする。いずれにせよ、かなり主観的な見解もあると思われるが、その辺はご容赦いただきたい。
さて、センターを離れる際に、どうせ何か書くのならセンターへの提言になるようなことを言ってもらった方がよいという意見もあって色々と考えていたが、いざ別の大学に赴任してみると、やはりセンターの運営が極めて円滑であること(無論、それはセンターの全職員の努力の成果としてあるわけだが)に改めて驚かされる。スラブ・ユーラシア地域の研究機関としてばかりでなく、日本の国立大学の一部局としても、運営の健全さは大いに誇れるのではなかろうか。全国共同利用施設として、常に開かれた機関として存立しなければならないという使命感も手伝っているのかもしれないが、往々にして硬直した大学行政の中にありつつも、知恵を絞って「本来の職務」である研究活動を全うするための体制を作る努力を惜しまない姿勢は、お世辞抜きに卓越している。
無論、そうした努力では如何ともしがたい部分があることも事実である。しかし、そのほとんどは国立機関としてのセンターを取り巻く様々な束縛に由来するものである。例えば、たった二名しかいない事務官の削減という無理難題を、公務員の削減という大義名分のために要求してしまうような、やはり「硬直した」行政の態度などはその典型ではないだろうか。研究対象となる地域の広大さに全くつり合わない教官数の少なさも一向に改善されないし、研究活動をバックアップするための非常勤職員の雇用についても、ロシア語や東欧圏の言語に関する外国語能力を特殊な技能として認めないなど、現状とはかけ離れた「机上の空論」がセンターの足を引っ張っている。よく考えてみれば、こうしたことで往々にして国立機関を機能不全にしてしまうような役所や政治の「勘違い」こそが、日本の将来を暗くしているのではないのだろうか。おっと、こんなつまらない話をするために貴重なセンターニュースのページを与えられたのではなかった。
さて、多少提言めいたことで思いつくものを挙げてみることにする。一つは、センター外部の人間、特に若手研究者が何らかの形でセンターを研修機関として利用する道がもっと広がるような方策が必要ではないかということである。ある程度の年齢になれば、客員教授という形でセンターを利用することもできるが、若手研究者ではこの制度は利用できない。COE非常勤研究員は定員が極めて限られているし、研究ばかりではなく、ある程度の業務遂行を要求される。また、非常勤職員であるから、通常の大学で考えられるような制約も存在する(もっとも制約といっても、研究費も旅費もない、従って例えばセンターの業務に必須であるコンピューターを自弁しなければならないなどという、日本の大学では「当たり前」のことばかりだが。それ以外の面では、優れた研究施設を存分に利用できるわけだから、下手な国立大学の助手などよりも、はるかに研究者としての「生活環境」は良い)。
また、主として博士課程の大学院生に対する奨学制度として鈴川基金が利用されているが、センターを利用できる期間が短いため、実際には図書館の資料をコピーして帰ることぐらいしかできない(無論、日本でセンターのみが所蔵している資料を直接手に取ることができたり、教官との直接の意見交換などもおこなわれているので、鈴川基金の功績が極めて大きなものであることは言うまでもない。問題は旅費と滞在費の負担が大きいため、大体二週間前後の滞在しかできないということである)。 比較的長期間センターに滞在して研究活動ができる制度としては、学振のPDを取ってセンターの教官に指導してもらうか、国内留学を使うことが考えられる。だが、これらの制度も現状ではまだ手探りで利用されている段階であり、今後より利用しやすい形での長期滞在制度が必要だと思われる。
勤務しての率直な感想を言えば、とかく自閉的になりがちな大学院から移って来た時には、こうした環境の良さと、それを世界的な水準での研究へと結実させなければならない義務を負わされているというセンターのあり方はショックですらあった。一年とはいえ、こうした環境に身を置けたことは自分の意識の面でも大きな変化をもたらしたと思う。一般的に考えても、若手研究者が研究者として自己確立していく上で、センターのように整備された環境で修練できれば、それは間違いなく高いレヴェルでの研究者育成に寄与することになると思われる。ひいては、スラヴ・ユーラシア地域を対象としている日本の人文・社会系研究の水準向上につながることも間違いない。だが、日本は外国からの研究者の滞在のためのプログラムを色々と用意している割には、国内の若手研究者に対する支援が手薄である。今まで文系の研究者が所属機関の枠組みを超えて研究活動をおこなうことが少なかったのかもしれないが、大学院生やオーヴァードクターの時期にもっとアカデミックな刺激に晒されるような環境を整備することで、より独創的で、ワールドワイドな知的活動を展開することが研究者としての義務であることを認識させることになるのではないだろうか。そうした場としても、センターを利用できるようにしていただきたいと思う。
例えば、現在取り扱いが問題になっている任期制教官の枠組みを、専ら若手研究者の修練のために運用するのはどうであろうか。任期制教官というと、とかく既存の大学教員の頭数を減らすための方策として捉える向きがあるが、上述したように、本来の使命を果たすのに明らかに不十分な数しか確保されていない現状では、任期制教官の導入と引き替えに任期のない教員を削減するのは日本の高等教育システムを根本から瓦解させる可能性がある。社会のニーズが多様化し、個性や独創性を高めるような教育が必要とされているのに、教育の中心となる中堅教員の数を減らせば、それに見合った多様なメニューを提供することができなくなる。それどころか、一部の大学に見られるように、表向きのメニューの数を増やすために本来の専門とは異なる教科まで担当することを要求するに至っては、大学が教員の個性や独創性を奪っているとしか言いようがない。そうした自己撞着が繰り返される限り、世界に誇れる高等教育システムを作り出すことなど不可能である。
またしてもつまらない話が入ってしまったが、任期制教官を導入した国立大学の多くは助手などのポストをこれに当てており、若手研究者の修練のために運用していると思われる。センターでも任期制の助手や講師という形で新規に教官を確保すれば、現在カヴァーできていない領域・分野の専任スタッフを置くことができるし、人材の流動性を高めるという任期制導入の大義名分とも合致する。もっともこうした形での教官ポストの拡大は、うがった見方をすれば、公務員削減の流れに逆行するわけだから、さらなる大義名分が必要になるかもしれない。 以上のことと関連してもう一つ提言めいたことを言わせて頂ければ、センターの外部に対する研究支援体制をもう少し強化することで、より付加価値の高いあり方を目指すという道もあるように思われる。日本のスラヴ・ユーラシア地域の学会、研究会が協同で海外の学会や研究機関、団体との連絡を一本化し、協力体制を作る話が出ており、それに向けてセンターも一定の役割を果たしていくという方針が過去のニューズレター等でも公にされている。そのほかにも、今年3月に終了した重点領域研究を中心となって組織したり、毎年国際シンポジウムを開催するなど、多くの貢献をおこなっている。ただ、そうした場で活躍しているのは、すでに一定の業績をあげた中堅以上の研究者である。言い換えれば、センターは教育に携わっていないがゆえに、研究者の育成において何ができるかという点では、まだ知恵を絞る余地がある。上に述べたような若手研究者支援はそのひとつの方法である。
そして、それとは別に研究環境を整備するためのノウハウを他の機関に提供するという道もあるように思われる。例えば、センターは自前の図書室とスタッフを有しており、外部の研究者に対しても情報提供をおこなっているが、逆に考えれば、センター外部の研究者は往々にして自分の所属する大学の図書館の機能では、十分な研究支援を受けられていないという背景がある。日本の大学の図書館でロシア語や東欧語、中央アジア諸国やコーカサスの言語、さらにはシベリアの少数民族言語で書かれた図書を十分に収集・整理できる機能を持つところは極めて限られている。特に、国立の機関では、外国語が特殊な能力とみなされないのだから、そのために特別に職員を持つことは無駄以外の何物でもないのであろう。しかし、そうした建前論がまかり通るがゆえに、国立大学の研究支援状況は貧困であり続け、センターの情報支援が研究者の立場からすれば極めて恩恵あるものになるという矛盾した状況が恒常化しているのである。しかし、センターの情報サーヴィスを支える人的資源に目を向けた場合、北海道の特殊な雇用事情に依拠する現在のあり方が将来も確保できるとは限らない。札幌には北大、札大とロシア語の専門教育をおこなう大学が存在するが、昨今の道内経済の不振のため、有為な人材が社会で十分に活用される雇用状況にはない。そのため、非常勤職員というあまり望ましくない形ではあるが、ロシア語に堪能な職員を常時確保できている。ただし、その雇用限度は最大二年間でしかないため、事実上センターが受け入れる図書の整理作業に必要なノウハウを、新規雇用の度に習得してもらわなければならず、時期によって整理業務の進行状況にばらつきが出ることになる。また、今後日本とロシアの間で平和条約が締結され、北方領土の返還が現実のものとなったとき、北海道が対ロ交流の最前線基地になる可能性は極めて大きい。その時に、今のように恵まれた人材を非常勤という不安定な仕方で確保できるという保証はない。それに、そもそもこうした基幹業務に関わる部分で、非常勤による雇用を国立機関が恒常的におこない続けることが社会的に認容されてしまって良いのかという道義的な問題もあるように思われる。無論、公務員として常時雇用される者を徒に増やすことは時代の流れに逆行することであるが、一方で大学の機能が高度化するにつれて、それに付帯する様々な業務に携わる職員を必要とすることも自明であるわけだから、例えば民間の契約社員と同じように、常勤並の待遇で一定期間契約雇用できる任期制職員のようなものを設定する必要もあるのではないだろうか。その裏付けとして、司書資格等に立脚する技能職者の雇用を何らかの形で制度化する必要もあるように思われる。そうした技能職の必要性が文系の場合これまであまり表立って注目されてこなかったが、多様な技能を持った人材の育成とその流動化を促すことは社会の多方面に良い影響を与えるのではないだろうか。
多少込み入った点にまで話が及んでしまったが、手短に言えば、センターの情報サーヴィス業務の基幹部分においても、今後さらにスラヴ・ユーラシア地域の研究が発展するための十分な裏付けを持っているとは言えない面があるということである。また、研究者個人と情報資料部教官との個別的な情報対応では、折角の研究支援情報が蓄積されず、公に利用されないままになってしまう。現状では、センターが日本で最も優れたスラヴ・ユーラシア地域関連の図書情報処理能力を持っていることは確かであるから、日本の大学の図書館に図書の整理情報やリファレンス情報を公開し、その分野でも日本の中心的な機関とするような方向で発展させてはどうだろうか。学術情報センターを介してオンラインで図書検索ができる(もっとも、これも「研究環境」によってばらつきがあるため、必ずしも万人が満足に利用できているわけではないが)わけだから、オープンな情報サーヴィスのための基盤はできつつある。それをさらに充実した研究支援の枠組みとして利用する方法を「開発」していただけないだろうか。敢えて、「開発」という言葉を使ったのは、既存の図書館学や司書学、さらには文献学の延長線上で誰もが考えそうなことではあるにも関わらず、事実上外国語書籍を有効活用するための次世代の研究支援事業の枠組みは、管見の限りでは、まだ提出されていないように思われるからである。極端なことを言ってしまえば、日本の大学の図書館で、欧米の図書館が持っているようなリファレンス能力を持っているところはほぼ皆無なわけだから、その意味でも新分野の領域を開拓することと同義にならざるを得ないということである。
以上の二点を提言めいたこととして書かせてもらったが、実現にはセンターだけの努力では不可能な要求もある。しかし、日本の大学が内部から新たな制度やシステムを作り出す能力を改めて発揮しなければ、21世紀の高等教育全体に関わる将来的展望を持ちえないのではないだろうか。そうした印象を、センターを離れてより強く持ったことも事実である。センターには今後も研究機関としての使命の遂行をさらに裏付けるようなシステムの確立のために、必要な模索を続けていただきたいというのが偽らざる心境である。