謝 辞

武田昭文(センター1997年度COE 非常勤研究員)

あれはたしか4月1日だったろうか、辞令をもらい、林センター長に案内してもらって非常勤研究員の研究室に向かうところ、ガチガチに緊張してついていく私を振り返って、センター長はふとこう言われた「エー、使用員のかたの部屋は4階ですから」。頭の中が真っ白になった。今なんて言った、空耳か? そうか、そうなのか。オレってやっぱり、そうだったのか! 戸惑いながら、しかし妙にナットクしてしまった私は、ひょっとしてマゾなのかもしれない、ということはどうでもよく、そうして連れられていった部屋は、東向きの窓の明るい、広くて快適そうな部屋だった。何かおかしい。釈然としないものを感じながら、現金な私はとりあえずいい部屋でよかったと思った。 胸につかえていた疑問が氷解したのは、もうひとりの○○○、大須賀史和氏のおかげである。「……ねえ、ぼくらシヨーインなの?」「ハアッ?」「だっ、だから、シヨーインって」「それはCOEのことです」。不覚であった。中核的研究機関研究員、またの名を Center of Excellence 、略してCOE(シーオーイー)のひと。ナルホド! が、もう遅い。何か珍しいものをみるような大須賀氏の目の輝きに気づいたとき、ボケとツッコミというわれわれの関係は決まった。その後も思いきりボケさせてもらった気がする。ありがとう、フミカズ、フミカゼ、カミカズ、あのカミカゼ・ギョーザの味は忘れない。

取越苦労をしたものだ。私は断言したい、COEと使用員には音の類似以外に何の共通点もない。結局、半年近く携わることになった夏のシンポジウム論集の校正も、それほど負担ではなかった。勉強になったと思っている。センターの先生方は、われわれが自分の研究課題に集中できるよう様々に配慮してくださり、おかげで大部分は自由な勤務時間を過ごしながらのびのび勉強することができた。スラブ研究センターの印象を一言でいえば、いつでもまた遊びに/勉強に行きたいと言うにつきる。そして、この言葉にもう何もつけ加えることはないのだが、それではあまりに味気なく、またお世話になった方々への挨拶にもなるまいから。語りだせばきりのない思い出の数々を、折って、畳んで、束さんで、カレイドスコープ、綴れ書き。

まず、嬉しかったのは、重点領域研究「スラブ・ユーラシアの変動」の研究班「文芸における社会のアイデンティティ」に参加できたことだ。この研究会のおかげで知り合えた人々との出会いや、文学作品の発見を思うほどに、かけがえのない体験だった。80年代末以降、作家の名前から、読者の関心、出版事情にいたるまで、物凄い勢いで変化しているロシアの文芸状況を、この時期に着実にチャートしえたことの意義は測り知れない。文学研究をあえて社会論に近寄せようという姿勢ではなく、優れた文学の正確な分析こそが、結果的に社会論に有益であるとする、会の方針に私は深い共感を覚えた。この言葉を受けとめて仕事していくことが、スラ研で働いた私のつとめではないかと思っている。ロシアの現代文学に関連して、詩人のゲンナジイ・アイギ氏をセンターに迎えた日々のことは忘れられない。札幌滞在中の三日間(1997年12月15〜17日)、仕事と称して、ほとんどつきびとのように詩人に寄り添うことを許された私は、この美しい佇まいのひとを、父のように、祖父のように慕った。大通公園を手をとって歩きながら、話が弾んで、あやうく道立文学館の講演に遅れそうになったこと。望月先生の車で、アイギの詩の翻訳者のたなかあきみつさんと、四人で、オタル、クッチャン、羊蹄山。一日、ドライブしたこと。そのときの写真。アイギが見たこと、聞いたこと、話したことを、今でも想像しつづけている。

アイギ氏の訪問は、むしろ急遽とり決まったものだったが、臨機応変にとどこおりなく外国人を迎えられるセンターの体制には感心した。実際、外国人研究員には過ごしやすいところだろう。生半可な日本人である私もまた、風通しのよいセンターの雰囲気の恩恵に浴した。スラ研にはマック派とウィンドウズ派以外に派閥がないという噂は、もしかして本当かも知れないと、私はそこで働いたあとでも思う。それはまあいい。私自身に即して言えば、職場に外国人研究員がいるのは有難かった。なぜといって、うまく説明できないが、先生方とはまた別なふうにつきあえる人達がいるのは多面的でいい。その意味でアルバイトのひとが多いのもよかったし、図書室や、4階の奥の部屋や、遊びに行ける場所がたくさんあった。それに比べて、大学院というのは息苦しい。なかでも、よくお邪魔したのが、ヴォロージャとタイーサのポトゥルニツキイ夫妻(ウクライナ)、プロフェーソルこと、アルトシューラー氏(イスラエル)のところ。周知のように、緑の札幌で心晴れることのなかった私にとって、彼らの気さくで、明るく、強い人柄に接することは、得難い体験だった。結局、人間のすばらしさというのは、他の人間をどれだけ力づけられるか、エネルギーをあたえられるか、にかかっているのではないか。ポトゥルニツキイ氏のお宅では、タイーサのウクライナ風ブリンを美味しくいただいた。リヴォフに、イェルサレムに、ほんとの話、行きたいものだ。 さて、それにつけてもスラ研では、バーベキュー会、カンプー会等、楽しい呑む行事がにぎやかだった。外国人研究員の接待、アルバイトの慰労などの意味があるのだろうが、陽を浴びて、風に吹かれて、戦うように羊肉を食しながら飲むお酒は気宇が大きく、また東京の大学モンには、先生方がよく御自宅で開いてくださったホーム・パーティーという形式がまぶしかった。春、桜の美しい田畑先生のお宅でいただいだ鳥料理、あの時はモンゴルから来られたバドバヤルさんと楽しくおしゃべりした。夏、バーベキュー。秋、カンプー(はじめは大胆な名称だと思った)。よい写真が撮れた。冬、このお正月、いろんな国の人形が飾られた村上先生のお宅でいただいた蟹、そして梅干し。あの梅干しの製法を習うひまがなかったのは残念だ。そして、家田先生が開いてくださった私たちの結婚パーティー……。 ああ、やっとたどりついた。どうなることかと思ったが、書けそうだ。この一年の私の気苦労と消耗と回復と勇躍の賜物、この一年の仕事の総体で、たぶんは人生の作品である、妻は来た。夏に、式をロシアで挙げて以来、ヴィザの取得をめぐる暗転があり、どうなることかと思ったが、エレーナは無事、1997年12月20日、成田のロビーに笑顔で現われた。家田先生が特注でカラヴァイを用意してくださり、外国人研究員の方々と北大露文の院生たちが集まってくれたこの会は、札幌で過ごした気が気でない日々と、そんなイラついた私を影に陽に支えてくれた人々が会して祝ってくれる、何か真に象徴的な出来事だった。レーナはしきりに、日本に来てはじめて食べる本物のパンにぱくついていた。

そうしてエレーナが来てから、また実に多くの方々に助けられ、励ましていただいた。田畑先生の奥様のトモコさんには、毎週のようにエレーナを昼食とケーキに誘っていただいた。山村先生の奥様のユキコさんには、日本語学校を探していただいだ。そして、シゲチャン、キーサ、マアチャン、フミエチャン、ゴークン、サミックン……北大露文の院生たちには、よく集まっては遊んでもらった。堀越さん、あなたをトヤマに持っていけないのは残念だと、今でも言っている。それから兎内さんには、函館へ、小樽へ、ドライブに連れていっていただいた。まったく身に余る親切を受けた一年で、就職という喜ばしい形ではあっても、お別れするのは残念です。何もお返ししていないのに。

いや、もうどうあってもこのようにしか書けない。中学生の作文のようでもいい。冷静に振り返れるような一年ではなく、夢のようという言葉が雪景色のようにしっくりくる。スラ研の思い出は、あんまり濃くて言葉にならず、ひとに受けた親切ばかりがフラッシュバックする。こういう思い出こそ、あざやかなもの。最後に、公私とも限りなくお世話になった、私の指導教授であり、ボスである望月先生に心からお礼を申し上げたい。先生の下で働けてよかった、これからも一緒に働かせてください、と。