スラブ&ピーテル雑記
久保久子(センター1998年度COE非常勤研究員)
ペテルブルグから手紙がきて、セミナーをやるから発表してもいいぞ、と言う。
初めてスラブ研究センターというところへ来た時、私はまだ北大の学部生で、長谷川毅先生の資料整理のバイトを先輩から譲られた(ちなみにその先輩とは現在通訳・翻訳者として活躍中の北川和美さんである)。露文の後輩、そう、とおっしゃると長谷川先生は、私に向かっていきなりロシア語で話し始めた。パニックしている私を先輩が、もう、いじめないでくださいよ先生、とフォローしてくれた。
卒業後勤めていた会社をやめて研究生になり、いまではもうそういうことはできないかもしれないが、同時にスラ研の図書バイトとして働いた(そういえばこれも北川さんに紹介していただいた。まったく足を向けて寝られない)。とんでもないバイト生で、授業の時間になると、いってきます、などと言ってとなりの学部へ出かけていくのである(いえ、ちゃんと土曜日とか出勤して規定時間働いてました、はい)。その年、8月クーデターがあった。仕事しているとロシア人のおばさんが大きな声で、ヤゾフが自殺した、と言っているのが聞こえた。いいえ、自殺したのはヤゾフではなく、プーゴです、と私が言うと驚いて、どこでロシア語を学んだのかと聞いた(当時ロシア語のできる図書バイトはいなかったのである)。大学院を受けるために準備をしています、と言うと、では論文を見てあげるからいつでもいらしゃいというありがたいお言葉をいただいた。
そのおばさんはクラスノシチョーコヴァ(センター1991年度外国人研究員)というとんでもなく偉い学者であった。家へ帰って突然、彼女に見てもらうためには、ロシア語で論文を書かなければならないことに気づいた。真っ青になったが後の祭り、必死ででっちあげたものをおそるおそる持っていった。そのおばさんが帰国するまでに合格通知をもらうことができたので、報告しに行った。抱きしめて、キスしてくれた。
1996年4月から1997年1月まで、ペテルブルグにあるロシア文学研究所の研修生をしていた。これは、その2年前にスラ研に滞在していたトゥニマーノフ(センター1994年度外国人研究員)というこれもまたものすごい学者のおかげである。留学したいのだけどどこに働きかけたらいいのか、という私に、彼は指導教官を探してあげようと約束してロシアへ帰っていった。半年後大学宛てに送られてきたFAXには、指導教官トゥニマーノフの文字が黒々と印字されていた。ホームステイ先から空港への出迎えまで、奥様が手配してくださった。
ロシアといえばピロシキ(ああ何て素人クサい…他にないのか!)。ピロージナヤのコーヒーはどうしてみな甘くてミルクたっぷりなのだろう。落ち込んでいるときには本当に涙が出てくる。留学してしばらくの間、私はどこでもメニューの筆記体にてこずり、よく必殺技「前の人の注文を繰り返す」を使った。どうでもいいことだが公共図書館のビュッフェで、じゃがいもとソーセージと黒パンと小コーヒーを頼んで、いもとソーセージの皿に黒パンをのせて片手に持ち、もう片方にコーヒーを持ってカウンターを離れる、という最低限の技能を、私は長いこと知らなかった。これを知らないばかりに、この店で私はけしの実パンやカップケーキばかり食べていたのである。こんなことを書いても、並み以上の現実適応能力を持つ方々には何のことだかわかっていただけないかもしれない。私は人々がじゃがいもとソーセージと黒パンと小コーヒーという組み合わせのものを食べているのを見て、自分もそれを食べたいと思った。しかし注文したものをもらった後それをどうやって持っていったらいいのかわからず、誰かそういう組み合わせのものを運んでいる人をずっと探していた(逆立ちに玉乗りでもしながら持っていくとでもいうのだろうか)。もうひとつ、そこでソバのカーシャ(お粥)を食べている人を見たのだが、メニューにはどこを探してもなかった。仕方ないので(どこが仕方ないんだろう)誰かがそれを注文するのに出くわし、何と言えばいいのか判明する日を待っていた。なんのことはない、グレーチャ、と言えばいいのだった。当然である。
私は公共図書館のビュッフェのおねえさんが苦手だった。彼女は注文する私の声が小さいのにいつもいらいらしているらしく、私の注文を物まねされたこともある。大きな声を出さなきゃ、と思って列の後ろについても、並んでいるうちに忘れてしまうのだ。(私は教師をしている時や後輩の前では受けねらいの過剰演技に走るよくない傾向があるが、それ以外の時はコミュニケーションの基本原則を忘れるさらによくない傾向がある)。その点でペテルブルグ大歴史学部のビュッフェのおばさんは気が楽だった。別にこの人としゃべる時に私が大きな声を出すわけではない。ただこの人には聞き返されても、レバーを温めるのかどうか聞かれても、おつりがないと文句を言われても、不思議と怖くなかった。奥のほうでおしゃべりしていれば、すいませーんと呼ぶこともできた(これがどういうわけか公共図書館のおねえさんにはできなかった)。留学の最後に花でも持っていこうと本気で思ったが、なんだか自分の無能を証明するようなのでやめた。
ペテルブルグから手紙がきて、セミナーをやるから発表してもいいぞ、と言う。今度はもう少し人並みに、コーヒーをたのむ時は砂糖入りか砂糖抜きか、ソーセージならケチャップをかけるかかけないかはあらかじめ決めておき、並んでいる間は並んでいる目的しか考えないようにしよう。小銭は先にチェックしておいて、それから…