1955年にスラ研が官制化したときの教官定員は経済部門半講座で助教授1、助手1であった。この助教授には北大の農経出身でロシア経済史を専攻していた山本敏氏が講師として就任し、翌1956年に文学部から鳥山助教授が移ってこられて、研究室主任事務取扱いに任命された。事務部門には先述の豊田・芳賀両氏のほか1956年には北大露文出身の松原道子(旧姓更科)さんが図書整理の雇員として就職し、58年から教務員になった。事務職員はその後次第に制度化されて、事務員が正式な事務官に就任するようになるが、当初は豊田氏がただひとりの事務官で、芳賀さんは事務員だった。50年代にはまだ雇員・庸員などといった「身分」がのこっていて、国立大学の職制は戦前の制度や慣習が色こく残存していた。松原さんは59年に助手(教官)になり、61年まで勤務された。しかし、その仕事の内容はもっぱら図書の整理であった。大学における助手の身分と仕事については、その後大学紛争のときに問題になるが、北大の場合、研究助手と事務助手の二種類があって、文学部の助手が研究助手であるのに対し、法学部には両方いた。そして、その事務助手は圧倒的に学部卒の女子であった。
1960年度冬のスラ研の研究員会議で翌年春に辞任する松原さんの後任として私が選ばれたと、鳥山主任からお手紙をいただいたとき、私はロックフェラー財団のフェローとしてバークレーにいた。当時私の身分は北大大学院文学研究科の博士課程の院生で、休学中であった。
バークレーに行ってほどなくして、鳥山施設長から手紙をもらった。そこにはこのたびロックフェラー財団から定期刊行物のマイクロフィルムを購入するためにかなり多額の寄付をもらったので、カリフォルニア大学の図書館にあるロシア・スラヴ関係の主な雑誌のマイクロフィルムを作って送ってもらいたいとあった。これがスラ研のマイクロにより定期刊行物収集のはじめであるが、このときカリフォルニア大学の図書館職員があまりにも発注量が多いので露骨に嫌悪の表情を示したことが忘れられない。
当時バークレーにいた日本人留学生は電気工学や生化学など自然科学系が圧倒的に多く、文化系では二、三人ビジネス・アドミニストレーションがいるくらいだった。そんななかでロシア史の研究にきたわたしは、「サッポロサン」という渾名をもらって、いささか異端視された。親しくなったアメリカ人の学生でロシア文学やロシア史を勉強しているものにはスラヴ系のユダヤ人が多く、かれらは日本人であるわたしにまったく偏見をもたず、いろいろアメリカの人種差別についても率直に語ってくれた。その後だんだんとアメリカのソ連研究を知るにつれて、ユダヤ系の研究者の役割がきわめて大きいということがわかってきた。またリアザノフスキー教授のように少年時代をハルビンで過ごした亡命者も少ないないことを知った。わたしはこれらの学者を勝手に「ハルビン学派」と命名した。リアザノフスキー教授の博士課程のゼミにはのちにスタンフォード大学のロシア史の教授になったテレンス・エモンズ君がいた。アメリカの多くの大学院学生がそうであるように、彼は結婚していて、奥さんが大学の事務で働いて家計をささえていた。
夏休みは前に岩間さんも過ごしたことのあるヴァーモント州のミドルバリー・カレッジのロシア語学校でロシア語で文学や歴史の講義を聞いた。先生のなかにはヴォルコンスキー夫人など帝政ロシアの名門貴族もいたが、この人は気取らない、いかにもロシア人らしいタイプを感じさせた。このとき同級だったカトリックの尼さんは、その後還俗してバークレーのスラヴ語・スラヴ文学の教授になり、しかもユダヤ系の経済学の教授と結婚した。彼女はAAASSの学会でわたしに会ったとき、自分がだれかわかるかと聞いたが、服装も名前もすっかり変わっていて、わたしにはまったく見当がつかなかった。そのあとで自己紹介されたとき、わたしはアメリカには確実に文化革命があったと思った。
ミドルバリーではときどきスラヴ研究者が招待されて講演をしたが、アーネスト・シモンズ教授のトルストイについてと、フィリップ・モーズリー教授のソ連外交についてが記憶に残っている。モーズリー教授はその講演のなかで中ソ対立をさかんに強調したが、当時のわたしはこれをためにする話と受け取った。
帰国するに際して、わたしはぜひイギリス・フランスからソ連を見て回りたいと思ったところから、サンフランシスコの日本総領事館に行ってパスポートの渡航先追加の申請をしたが、イギリス・フランスなど西側の国の追加は銀行預金通帳とロックフェラー財団の証明ですぐに承認されたが、「共産圏」であるソ連の渡航許可は次官会議にかけられるからしばらく待つようにといわれた。
1961年の3月末に私はサンフランシスコからグレイハウンド・バスで南部諸州を通ってワシントンからニューヨークへ出た。このバス会社の北回りのコースは前年夏にすでに利用していて、アメリカ各地を見て回るにはこれがいちばん安上がりで便利だということを知っていた。カリフォルニアからアリゾナ、ニューメキシコ、テキサス、ルイジアナへと行くにつれて人種差別の色がだんだん濃くなり、レストランに掛かっているプレートは、 We have the right to refuse our service to anyone.というのから、White only. に変わっていった。
バークレーでアメリカからイギリスを経てフランスへ行く最も安い航空便をさがした結果、私はアイスランドのレイキャビックを経てグラスゴー、ロンドンを経由してパリに行く便を選んだ。当時日本では『何でも見てやろう』とか『ヨーロッパ一日・5ドルの旅』とかいう本が出始めたころだった。
はじめて見るパリは町を行く車がやたら小さく見え、またアメリカにくらべて物価がやすくて、それを口にしては日本から直接フランスにやってきた留学生の友人たちの顰蹙をかった。このとき川端香男里君(旧姓山本)と一緒にブルゴーニュのロマネスクの教会や古いシャトーを見て回ったのは、いまでもよい思い出としてのこっている。もっともトロワの郊外で川端君の運転していたレンター・カーが田舎道で大きなトラックとすれ違うとき、道からはみだして麦畑に乗り上げ、気がついたときには完全に逆さにひっくり返っていたという、九死に一生を得るような出来事もあった。
パリではバークレーを出るときマーチン・マリア教授からもらった紹介状で、社会科学高等研究院のメートル・アシスタンをしていたアラン・ブザンソン氏と知己になった。彼とはその後現在にいたるまで親しい関係がつづいている。
パリからモスクワに飛ぶ直前、メトロのなかで乗客がみな異状な熱心さで新聞を読んでいるので、キオスクで新聞を買って見ると、そこにはソ連のガガーリンの乗った有人衛星の成功が大きく報道されてあった。
初めて見るモスクワの町は赤の広場のワシーリー寺院の強烈な印象もあって、きわめて「東洋的」であった。これはわたしが一年余アメリカで暮らしたあと、ロンドン・パリを経てロシアに来たためもあっただろう。わたしはこのときの印象を『スラヴ主義者の教説におけるロシアとヨーロッパ』という著作のあるリアザノフスキー教授に書き送った。
粉雪の舞う1961年4月のモスクワは、ついさきごろのガガーリンの成功のあとということもあって、人々は意気軒昂たるなかで近付くメーデーの飾り付けをしていた。町も清潔で、一見市民生活は着実に向上しているかに見えた。町のなかで道を聞いた人のよさそうなミリツィアはわたしが日本から来たと知るや、道を教えてくれたあと、今度は向こうから「キューバ」問題についてどう思うかと尋ねてきた。
一日35ドル払って一週間たらずいたウクライナ・ホテルで、わたしはモスクワ大学に留学中の旧知の米川哲夫さんにお目にかかった。当時モスクワ大学には米川さんのほかに安井侑子さんも留学されていたが、ちょうど彼女の試験とぶつかって会うことができなかった。このモスクワ滞在中、ゴーリキー通りを散歩していてブブノワさんの個展の看板が目に入り、ブブノワさんとお話をすることができのも忘れることができない。会場の一角には「日本の言語学者キムラ教授の肖像」が展示されていた。
モスクワからタシケント、ニューデリー、バンコック、ホンコンをへて日本へ着いたときはもう四月の末で、札幌にもどって、北大に就職するために身体検査を受けたりして、結局わたしのスラ研就任は6月1日づけとなった。当時スラ研は法学部に所属して関係から、私は法学部長の小山昇教授から辞令を頂戴し、国家公務員としての宣誓書に署名した。
私がスラ研に助手として就任したとき、教官としては鳥山助教授と二年前に講師から助教授に昇進した山本助教授がおり、北大内の兼任には法学部の矢田、五十嵐両教授、文学部ロシア文学科の北垣助教授と松井助手がいた。それに学外の兼任研究員としては前述のように歴史に岩間教授(東京女子大)、文学に金子教授(一橋大学)、政治に猪木教授、そして国際関係に江口教授(東大)がいた。それまでがスラ研の前史とすれば、このころからがスラ研の第1期といってよく、鳥山氏が正式に施設長に就任するのは翌1962年のことである。
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小樽水族館前で 外川親子 鳥山施設長 大垣さん 百瀬さん |
事務部門には私と同じ年に北星短大の英文科を卒業したばかりの赤樫安子さんが来られ、2年後の63年には他の部局に移って、その後任に高岡京さん(旧姓成田さん)が就任した。この年には創設当初からの豊田事務官が退任し、大垣徇さんがこられて図書業務を担当した。函箱出身の大垣さんは歌人で、親しい友人に同じ図書館職員で詩人の山川精さんや、日露関係をこつこつ勉強している秋月俊幸さんがいて、二人はよくスラ研に大垣さんをたずねてきていた。大垣さんは北大を定年退官されてからほどなくして亡くなったが、ながく北大図書館に勤務されていた未亡人が遺稿をまとめられて、立派な歌集『雪漫漫』と句集『雪しまき』を上梓された。山川さんには『山川精詩集 哈爾濱物語』があり、秋月さんには『日露関係とサハリン島』があるが、いずれもすぐれた作品・研究である。はじめて会ったとき大垣さんは、「わたしはまだ一度もショッパイ川を渡ったことがないんですよ」と言ったが、これは青函海峡を越えたことがないという意味であった。
昨年6月から11月にかけて在外研修の機会を与えられ、チェコに1か月、スロヴァキアに4か月滞在することになった。たまには他の場所を、と思わないでもなかったが、昨年6月にチェコで、9月にスロヴァキアで国政選挙があった。私の「選挙中毒」については、以前に書いたとおりである(『スラブ研究センターニュース』No.69)。今回も、選挙関連資料の収集やインタビューを行いながら選挙の経緯を眺めることになった。ただし、チェコでの社会民主党政権成立およびスロヴァキアでのズリンダ連立政権の成立については別稿に譲り*、ここでは「研究論文」以前の話題や旅の「余録」について述べることにしたい。
今回のチェコ、スロヴァキア滞在が選挙を意識したものであったことはたしかであるが、それを主目的とはしていなかった。NATO、EUの東方拡大という過程の中で変容しつつある中欧地域国際関係を、地方政治をも視野に入れて、これまでとは異なる視角から考えてみようというのがその主旨であった。「地方」研究は、目下、スラブ研究センターでは「ブーム」といっていい。専任研究員セミナーに提出される同僚の報告を読んでいるだけで、ロシアのサブリージョンや地方エリートなどについて、豊富な知識をえられるが、私のようにロシアを専門としていない者にはモスクワの動向が見えなくなるという「弊害」が生じるほどである。
国際政治学をおもな専門分野としている私が、地方政治にまで首を突っ込むことに躊躇はあったが、EUとの関係で中欧諸国の地方自治の在り方が問題となっており、また、国境を越えた地方自治体間協力を目的とする「ユーロリージョン」なるプロジェクトが各地域で進行しているので、私にとっても地方政治は無視できないテーマとなっている。センター内での流行に遅れじと、今回は地方回りを計画に組み込んだというしだいである。
チェコ滞在中、ポーランドやドイツとのあいだで「ユーロリージョン」プロジェクトが動いている北西部ボヘミアで市役所やユーロリージョンの事務所を訪問した。またチェコ科学アカデミー社会学研究所がドイツ、ポーランドの研究チームと共同でこれらの地域の住民調査を計画していると聞き込んだので、その準備研究会に潜り込んだりもした。ドイツ語、チェコ語、ポーランド語が行き交うこの研究会は、それ自身が「ユーロリージョン」そのものであった。研究会は三国の国境が交わる場所から遠くないスルプスカー・カメニツェという村のペンションで行われた。この地域一帯はかつてのズデーテン・ドイツ人地域で、会場となったペンションを含む村の建物の大部分はドイツ系の人びとの持ち物であったという。しかも、研究会ではこの地域に住むチェコ語とドイツ語のバイリンガルの老人がドイツ語で語ったライフヒストリーの録音テープを使って、研究方法を検討するという内容であった。
地方自治体が国境を越えて直接交流する「ユーロリージョン」プロジェクトは新しい国際関係のモデルとして興味深いが、ドイツとチェコ、ドイツとポーランド間には第二次世界大戦後に生じた「歴史問題」があり、このプロジェクトもその問題と無縁ではない。しかし、三国間で進められるナイセ(チェコ語ではニサ)地域協力は比較的順調であるという。地域協力に参加しているドイツ側自治体は旧東独地域に位置している。また、上記共同研究に参加しているドイツ側チーム3名のうち、実際に調査を担当する2名は旧東独出身者であった。こうした構成が、「歴史問題」に相対的にはこだわらない雰囲気をつくりだしているのかもしれない。ちなみに、ズデーテン・ドイツ人運動の影響力が強いバイエルン州とチェコが接する地域では絶えず「歴史問題」が協力の障害となっているという。
ユーロリージョンとは別にオーストリアとの国境に近い南ボヘミアのチェスキー・クルムロフでも調査を行った。市役所で地方行政実務について聞き取りを行い、また社会民主党に属する市会議員でかつこの地方選出上院議員(ただし、インタビュー後の11月に行われた上院議員選挙で同氏は落選してしまった)でもあるヴァフタ氏との面談も行った。地方政治と国政の媒介役を果たしている同氏の話は、チェコの中央=地方関係の理解に大いに役だった。
同市は世界遺産に登録されているチェコでも指折りの観光地である。この場所を「調査地」のひとつとして選んだ私の動機を疑う向きもあろうが、それはまったく偶然である。今回はプラハの社会学研究所が私の受入機関となってくれた。同研究所は地方政治と地方エリートの動態分析を続けているが、その定点観測地のひとつがこの都市で、そのデータや分析を利用できたし、また同研究所が市役所に強いコネをもっていて、訪問の手配をしてくれたということにすぎない。もっとも、インタビューに応じてくれた市の広報官のはからいで、聞き取りを行った日の夜、旧領主の館で開催された音楽祭初日のコンサートに招待されるという「おまけ」もあった。久しぶりに室内楽の演奏を聴いたあと、夜間照明に照らされる館を見上げながらチェコ・ビールでのどを潤したことはいうまでもない。
7月のはじめにプラハからブラチスラヴァに拠点を移した。ここでも、選挙見物をしながら「地方政治と国際関係」というテーマで資料収集や聞き取り調査を行った。4か月のスロヴァキア滞在期間中、合計で3回、東スロヴァキアの中心都市、コシツェを訪れた。ポーランド、スロヴァキア、ウクライナ、ハンガリー、ルーマニアのあいだで進められているカルパチア・ユーロリージョンの拠点のひとつがコシツェにおかれていたからである。もっとも、このカルパチア・ユーロリージョンは、その枠組みとなる組織はあっても、チェコ、ドイツ、ポーランド間で進行中のそれと比べると、さしたる実質的な活動はみられなかった。
とはいえ、コシツェ訪問は私のスロヴァキア地方政治理解にとってきわめて有益であった。たまたま、北大医学部の心臓外科で研究中のスロヴァキア人医師、ヤーン・ドゥドラ氏がコシツェ出身で、私のスロヴァキア滞在中に同氏も帰省していて、そのお宅に招待された。その父親で息子と同姓同名のドゥドラ氏も医者で、コシツェでは有名な心臓内科医であった。これは、好都合であった。同氏自身は、大都市の専門職の多くがそうであるように、リベラルな政治信条の持ち主で、当時のメチアル政権には批判的であったが、党派を超えた広い顔をもち、患者を含む知り合いに電話を2度もかければ私の希望する地方政治の有力者と連絡が付くのであった。
結局、コシツェ市長で市民合意党党首のシュステル、その側近で同党の地方組織幹部トレブリャ、キリスト教民主運動の市会議員で副市長(前市長でもあった)のバウエル、民主スロヴァキア運動の市議会議員で区長でもあったヴェベル、民主スロヴァキア運動など当時の与党を支持する圧力団体の地方幹部で国立東スロヴァキア図書館長のミジャークなどといったコシツェ政界(?)のお歴々と会見することができた。ちなみに、市長のシュステルは昨年9月の選挙で国会議員となり、12月の地方選挙で市長にも再選された。しかも今年の5月に予定されている大統領選挙では最有力候補のひとりである。トレブリャは市民合意党の筆頭候補として市議会議員に当選し、第一副市長におさまった。またバウエルもスロヴァキア民主連立の国会議員となり、中央政界に進出した。いずれにせよ、今回の調査で、国政と地方政治をつなぐいくつかの線をたぐることはできた。また、シュステルもバウエルもカルパチア・ユーロリージョンの積極的な推進者なので、このテーマでも今後の調査の糸口をつかむことができたといえる。
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ブラチスラヴァで演説をするシュステル |
コシツェではドゥドラ家にホームステイさせてもらった。ドゥドラ家はコシツェ市中心街のアパートに居を構えているが、それとは別に近郊の村に田舎屋をもっている。週末はその田舎屋で過ごしたが、その間に何度か、同じ村に住む親戚のお宅でのバーベキュー・パーティやらグラーシュ・パーティに招かれ、スロヴァキア・ワイン、特産のリキュールであるスリヴォヴィツァやボロヴィチカなどをごちそうになった。スロヴァキアでは、「もう満腹である」と「拒絶」しないかぎり、おかわりのグラーシュが空になった皿に盛られることになる。スリヴォヴィツァについても同様である。ちなみに、スロヴァキアのグラーシュはパプリカ味の肉の煮込み料理という点ではチェコのそれと同じであるが、どちらかというとスロヴァキアのグラーシュは「スープ」に近く、「シチュー」と呼んだ方がいいチェコのそれとかなり異なる。もちろんチェコではおきまりのクネドリーキがそえられることはない。食文化は明らかにハンガリーのそれに近い。こうして、すっかり酔っぱらった私は、ドゥドラ家の人びとを前にして、選挙予測などを夜遅くまでさせられることになった。
さらに、父親のほうのドゥドラ医師は、週末に一泊二日のドライブに誘ってくれた。現在はフォルクスワーゲンの子会社となっているシュコダ社製の新車で、東スロヴァキア地方の名所旧跡を巡る旅は快適だった。道路は驚くほどよく整備されていた。メチアル政権が公共投資の大盤振る舞いをした成果といえるかもしない。
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ドゥナイェツ川の筏による川下り |
体制転換のあと、チェコやハンガリーとともに西欧への統合を急ぐポーランドとそれにもたついているスロヴァキアとの違いをどこか象徴しているような光景であった。ただし、実際の筏は「西」ではなくて「東」に向かって進んでいたのではあるが。もうすっかり「資本主義的精神」に毒されているドゥドラ氏はイライラしていて、あとで、このようなスロヴァキア人の精神構造が問題なのだ、と車をとばしながら嘆いた。もっとも私は、美空ひばり流に「川の流れに身を任せ・・・・」といった雰囲気がむしろ好ましく思えたのだが。
旅の二日目、レヴォチャという町に立ち寄った。ここの聖ヤクプ教会には有名なゴシックの木製祭壇がある。ガイドの案内で教会の中を一回りしたあと、教会の外の広場を散歩した。広場を囲む古い建物は最近改装されたと見え、美しいたたずまいであった。散歩していた私は、広場のあちこちに張られているビラに気づいた。それによれば2時間ほど待てば野党の民主スロヴァキア連立の党首、ズリンダの遊説隊が来るようであった。毎週末、ズリンダが自転車に乗ってスロヴァキア各地を遊説していることはテレビで知っていた。そこでそれを見物することにした。
しばらくすると、先遣隊の車が何台か到着し、そのひとつは生ビールのサービスを始めた。これは、この国では選挙違反ではないらしい(ちなみに、ブラチスラヴァの市民合意党本部ではおみやげに「選挙グーラシュ」なる缶詰をもらった。これは、帰国直前に荷物になるので食べてしまった)。広場のステージでバンド演奏が始まるころには、かなりの人だかりができた。こうして手はずが整ったころを見計らったように、ズリンダ党首を先頭に数十台の自転車が現れ、広場を一周し、ズリンダたちは競輪選手のような出で立ちでステージにあがった。ズリンダの43歳という若さ、庶民性、平均的スロヴァキア人に受け入れられる範囲での「西欧性」といったものを前面に押し出す演出であった。メチアル政権の打倒、民主主義の回復、西欧統合への参加を呼びかける演説は短いものであったが、歯切れはよかった。こうして現首相を間近に見ることができた。
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ブラチスラヴァで演説するズリンダ |
今回は、この中北部地域については十分な調査ができなかった。この地域こそがメチアルとその率いる民主スロヴァキア運動の基盤である。政権を失ったとはいえ、民主スロヴァキア運動は今回の選挙でもこの地域では圧倒的な強さを示した。これまでの経験からいうと、政党の調査は与党のときよりも、野党の時期のほうがやりやすい。私の地方政治研究は始まったばかりで、その成果を発表するまでにはまだ時間がかかりそうである。スロヴァキアの地図を眺めながら、つぎの調査地点を検討している。もちろん調査の「おまけ」がなるべく多そうな場所を考えている。 *チェコの社会民主党政権成立については、拙稿「チェコ政治の最近の展開−1998年選挙と社民党政権」『ロシア研究』第28号(1999年4月)で述べた。またスロヴァキアの政変については、「スロヴァキア外交とロシア」(伊東孝之・林忠行編『ポスト冷戦時代のロシア外交』有信堂、1999年3月刊)で触れているが、詳しい選挙分析については別稿を準備中である。