知られざるタジキスタン

宇山智彦(センター)

タジキスタン。中央アジア諸国の中でも、私にとってこれほど複雑な感慨を呼び起こす国はない。パミール高原の秘境と、そこに保たれているはずの様々な独自の文化。1992年から5年間にわたった悲惨な内戦。そして、国連タジキスタン監視団(UNMOT)員として働いていた、秋野豊さんの最期の地。

この国を訪れる日本人はまだ少ない。私自身、秋野さん記念の行事などでタジキスタンに関わる仕事をいろいろやっていながら、実際にこの国に行ったのは、12年前に遺跡の町ペンジケントを訪れたきりであった。以前から行きたいと思っていながら、内戦とその後の不安定な状況のため、思いとどまっていた。しかしニュースなどで判断する限り、ここ2年ほどの間に状況は随分好転したようだ。そろそろ行ってみよう、と私は思い立った。

タジキスタンに行くための招待状を手に入れるのは、一般には日本ユーラシア協会などの限られたルートしかなく、やや大変なようだが、私の場合は幸い、2000年秋の第3回JICAタジキスタン民主化セミナーで来日したタジキスタン外務省のA氏に頼んで、あっという間に手続きをすることができた。ヴィザそのものは日本では入手できないのでモスクワで受け取り、航空券もモスクワで買った。首都ドゥシャンベに乗り入れている国際線の飛行機は少なく、日本から行くにはモスクワ経由以外の便利な選択肢はない。

ドゥシャンベを走る「中塔友誼車」バス

2月7日、タジキスタン航空機でいよいよドゥシャンベに到着。乗客たちが降りようとすると、「席についてください」という2度のアナウンス。何事かと思うと、目出し帽をかぶり銃を持った男2人がやって来て、目つきの悪い乗客数人を連行していった。その場では何の説明もなかったが、あとで聞いたところでは、連行された乗客はモスクワで麻薬を売ってきた売人たちで、ロシアからの通報により治安当局が逮捕したのだという。それにしても、狭い機内で目の前を銃がぶらぶらしているのを見るのは、いやなものである。

空港ではA氏が大勢の部下や知人、弟などを連れて出迎えてくれた。ホテルにチェックインしたあと、すぐにA氏の友人B氏の誕生日を祝う宴会に招かれた。ウズベキスタンでよくあるような男性だけの宴会ではなく、女性たちもいる。ウォッカをしこたま飲みながら、陽気に語り合い、踊る。何となく、ソ連末期の古き良き時代の雰囲気を感じた。

飛行機内での物騒な経験にもかかわらず、町中は平穏で、安心して歩けた。警官は多いが、タシケントのように市民や外国人に頻繁に尋問してくることはない。ドゥシャンベの中心部はこぢんまりとしていて、ルーダキー通り沿いの歩いて30分ぐらいの範囲で、大抵の用事が済ませられる。アルマトゥやタシケントでは、1970年代あたりに建てられた機能的なスタイルの建物が多いが、ドゥシャンベの官庁や劇場の建物は、それ以前の重厚で古典的な様式のものが多い。内戦の傷跡はそれほど無く、廃墟と化していたというドゥシャンベ・ホテルの建物も、きれいに建て直されていた。

タジキスタンは旧ソ連で唯一イスラーム政党が合法的に存在する国であり、イスラーム復興が相当進んでいるように思う向きもあるかも知れないが、少なくともドゥシャンベを歩く限り、特にモスクが多いわけでも熱心に祈る人が多いわけでもなく、他の中央アジアの大都市と変わらない。人々の服装も、洋服が圧倒的である。ただ、ドゥシャンベはソ連時代にはロシア人が多く、日常会話もロシア語が優勢な町だったのが、内戦期のロシア人等の流出で現在はほとんどタジク人ばかりの町になっており、ドゥシャンベに昔から住んでいる人から見れば、イスラーム復興も含めこの町の変化は相当なもののようだ。

2日目からはホテルを出て、大統領府の近くのアパートに移った。大統領府の前は、92年春に反対派の集会が連日開かれたシャヒドン広場だ(今は大統領府の前庭の部分と道路とがフェンスで仕切られ、集会スペースはない)。ある本に収められた写真には、99年の第1回タジキスタン民主化セミナー(本誌77号の私のエッセイ参照)で来日した時は柔和な宗教者にしか見えなかったC氏が、かつてここで激烈なアジ演説をぶっていた様子が写っている。南に10分ほど歩くと、国会や外務省の前に、9〜10世紀のサーマーン朝君主イスマーイール・サーマーニー(現代タジク語の発音ではイスモイル・ソモニ)の大きな像が立っている。旧レーニン広場、92年当時のオゾディ広場であり、当時大統領派の集会が開かれていた場所だ。狭い都心部で2つ(一時は3つ)の大集会が並行して行われ、次第に緊張を高めていった様子が想像できる。

私のこの旅の目的は、内戦および和解の歴史と、現在の政治体制を調べることだった。調査内容の学問的な分析は別の機会に譲るが、印象的だったのは、政府関係者も市民も、内戦の話題を全くタブーにしておらず、当時のことをオープンに話してくれることである。長年の深刻な対立によって生じた内戦というよりは、地域的・思想的な違いに様々な偶発的要素が重なって起きたものであること、5年という比較的短期間で解決できたこと(和平に携わった人たちからは、世界各地の紛争解決の模範となりうるという意見も聞かれる)、新旧の諸勢力が手を結んでできた現政権が問題は抱えつつもそれなりに強固で、紛争の再発におびえている状況ではないこと、などの理由が考えられるが、いずれにしても、会う人たちから次々に興味深い情報が集められるのは、研究者冥利に尽きる。

ただ困ったのは、複数の人と話をしていると、彼ら同士の会話がすぐにタジク語になることだった。私はこの出張の2ヵ月前から、タジク語に近いペルシア語の勉強を始めたが、その程度のにわか勉強では、構文や単語の一部が分かるだけで、話の内容は理解できない。タジク人の多くはロシア語ができるものの、カザフ人やクルグズ人の場合ほど日常に浸透しておらず、彼ら同士がロシア語で話をするのは不自然という感覚なのだろう。もっとも逆に、ロシア語が事実上の母語でタジク語ができない人々も一部にいるのだが。

また、やや奇妙に思われたのは、外交官も常駐していないなどアメリカのプレゼンスはほとんど感じられないのに、「アメリカによる世界一極支配の危険」を語る人が大勢いることだった。ある時など、夕暮れ時の路上の立ち話で、日本は米軍の駐留を許し、アメリカの言いなりでいかんという説教を延々と聞かされた。そんなことより、タジキスタンが目の前にかかえる、山積した問題を私は話し合いたかったのだが。ソ連時代の超大国意識の遺産で、自分たちがパワーゲームの対象かつアクターとして戦略的に動かなければならないという意識を過剰に持っている面が、中央アジアの人々にはある。もっとも、独立以来ロシアやウズベキスタンなど大国・周辺国の思惑に常に翻弄されてきたタジキスタンの人々にとっては、無理のないことかも知れない。ドゥシャンベには「中塔友誼車」(「塔」はタジキスタンのこと)と大書した、恐らく中国が供与したバスが走り回っているが、中国との間にはかなりの面積にわたる領土問題があって、中国の脅威を唱える人たちもいた。

ポロの親戚にあたる競技、プズカシ

学問的な面以外でも、初めての見聞をいろいろすることができた。ある日、A氏のお父さんが故人の夢を見たということで、死者を弔うために羊を犠牲に捧げることになった。珍しく雪が激しく降る朝、町の北(山側)の川沿いの傾斜地で、羊のバザールが開かれていた。羊に目が利くらしいB氏が売り手と交渉して、82ソモニ(2000年10月に導入された通貨単位で、私の滞在中のレートは1ドル=2.55ソモニ)で1頭の羊を買った。抵抗することもなく足を縛られて車のトランクに放り込まれた羊は、A氏の両親が住むアパートの庭で屠殺された。首を切られて血を流しながら、何度か苦しそうに息をする羊が哀れだ。人間の生活が、多くの動物の犠牲の上に成り立っていることに想いを致す。

B氏は闘犬見物の趣味もあって、ドゥシャンビンカ川の河原の会場に連れて行ってくれた。幸い、私が見ている間に犬が怪我をすることはなかった。ここもタジク語の世界だが、トレーナーが犬にかけている言葉が、Khorosho! Molodets! Davai! Vpered!といったロシア語であるのがおもしろい。ほとんどの人は見ているだけだが、自分の出身地域の犬に賭けをする人々もいて、その相場は200〜1000ドルだという。町中には乞食がたくさんいて、働いていても7〜8ドルの月給しかもらっていない人が多いというのに。一番強い犬の飼い主は警察幹部だとか。ちなみに一説によれば、近年まで闘犬の北限はアフガニスタンだったともいい、それほど市民に広く親しまれているものではないようだ。その後会った人の中には、闘犬をやっているなんて初めて聞いたという人や、闘犬はタジク人の伝統にそぐわないと言う人もいた。

山と川のコントラストが美しいフジャンド

首都以外の地方も見たいので、2月16日、南西部に位置するハトロン州のクムサンギル地区と、州都クルガン・テュベ(クルゴンテッパ)に向かった。1泊しようと思っていたが、A氏は日帰りで十分だと言う。実際、クムサンギル地区の中心地でアフガニスタン国境まであと20キロというドゥスティー村まで、ドゥシャンベから車で2時間半もかからずに着いた。最寄りの大きな町同士の移動に4時間以上かかることが珍しくないカザフスタンやロシアに比べ、格段に小さな国であることを実感する。ドゥスティー村の入口では、雨の中、結婚式の祝いとしてブズカシをやっていた。馬に乗った多数の男たちが、山羊の死体を奪い合ってゴールに持っていく競技で、アフメド・ラシード著『ターリバーン』では、アフガニスタンのウズベク人将軍たちの、チームもルールもない争いのたとえとして出てくる。

私がクムサンギル方面を訪問先に選んだのは、この地区の議長D氏も、2月10日に任命されたばかりのハトロン州知事(当面は代行という肩書)も、第1回タジキスタン民主化セミナーで知り合った人たちだからである。D氏は、セミナーの時になかなか鋭い発言をしていたので、私は特に再会を楽しみにしていた。しかし再会した時、本人だとは一瞬分からなかった。以前は短めの顎髭を生やし、精悍な思想的闘士という風貌だったのに、顎髭をそり、少し太って、すっかり地方ボスの顔になっていた。彼は旧反対派で民主党員だったが、党もやめていた。以前のイメージとは違うが、自分の地区のために一生懸命働いている姿は、それはそれで快いものだった。もっとも州知事は、クムサンギルはうまく行っていない、あと半年で改善できなければD氏はクビだ、と言っていたが。一般に、和平によって反対派から政府側に組み入れられた人々は、行政経験の不足などから、元々政府側にいた人々に馬鹿にされることが多く、つらい立場なのである。

このあたりはタジキスタンでは数少ない広々とした平地で、綿作が盛んだが、クルガン・テュベ周辺は内戦期の激戦地であり、窓や壁の壊れた建物がまだあちこちにあった。戦闘は少なかったクムサンギルでも、運河の手入れがなされずに水浸しになって使えなくなった農地が多いという。また、クムサンギルから川一つ隔てたアフガニスタン側には、ターリバーンと北部同盟の戦闘を逃れてきた大勢の難民がつめかけているはずである。

この日ドゥシャンベに帰ってから食べたものが悪かったのか、既に体調を崩しかけていた私はすっかり具合を悪くしてしまった。普段ならまあまあいける油っこいタジク料理も(冬は特に油を多く使うらしい)、こんな時には拷問である。しかし何とか歯を食いしばって、18日に今度は北に進路を取り、タジキスタン第2の都市フジャンド(旧レニナバード)に向かった。ドゥシャンベからの直線距離は200キロ余りだが、ギッサル(ヒソル)山脈、ゼラフシャン山脈、トルキスタン山脈という3つの山脈が間に横たわっていて、冬は峠道も閉鎖されるので(夏でも悪路らしい)、飛行機で行くことになる。5000メートル級の山々をすぐ眼下に見おろし、もしここに飛行機が落ちたら救助隊が来るのにどれくらい時間がかかるだろうと思いつつ、神々しい風景に見とれていると、35分でフジャンド空港に着いた。

フジャンドは大河シルダリヤが育む肥沃なフェルガナ盆地の出口に当たり、町の中心部を流れるシルダリヤに山が迫っている様子は、少し京都の嵐山を思わせる。ドゥシャンベより明るい感じのする街並みだ。私の泊まったホテルの脇にある広場は「蜂起広場」といい、1916年に戦線後方労役を命ずるロシア皇帝の勅令に反抗して中央アジア各地で起きた反乱の中でも、最初の蜂起が始まった場所である。カザフスタンの1916年反乱を研究している私には感慨深かった。

ちょうどメッカ巡礼の時期で、バスで巡礼に出発する人々を見かけた。飛行機でも行けるのだが、バスで道々物を売り歩いたりしながら行く方が好まれるらしい。フジャンドの南東にはウラン工場とフジャンド空港があるチカーロフスク市、歴史家ボボジョン・ガフーロフの博物館があるガフーロフ市と市街地が切れ目なく続き、フェルガナ盆地の人口密度の高さを示している。

フジャンドからの帰りの飛行機では、タシケントから車で来て乗り換えてドゥシャンベに行く途中の、日本外務省の欧州局審議官一行と一緒になった。最近の日本の対タジキスタン外交はなかなか活発である。小型の飛行機(Yak-40)に乗客は20人足らずしかいないが、客室の前半部に貨物(医薬品)がどんどん積まれていく。紐で固定するでもなく、段ボールを椅子と天井の間にぎゅう詰めにすることによってずれないようにしているだけだ。しかし後から乗ってきた客たちは、不安げな顔も見せず、そのすぐ後ろの席に座った。

ドゥシャンベに戻った19日には体調も回復し、2日後に滞在の最終日を迎えた。激務を抱えながら毎晩のように宴会を開いていたA氏から(私は幸い数回しか誘われなかったが)、作業は不確かだが私のコピーする資料に深い興味を示していたコピー屋のおじさんまで、強烈な個性の持ち主たちとの別れが惜しい。しかし滞在する上で特別な危険はないことが確認できたので(タヴィルダラやガルムなど中部の山岳地帯、ウズベキスタンとの国境などにはまだ多少懸念材料があるが)、また来ることにしよう。政権中枢の人々の出身地である南部のクリャブ(クロブ)地方や、言語や習慣を異にする東部のバダフシャン(かつてテレビ朝日「ニュースステーション」で「美人の里」として紹介された)にも、次の機会に行ってみたいものだ。


スラブ研究センターニュース No85 目次