ヴォルガ中流域からウクライナへ(その2)

松里公孝(センター)

イジェフスクからモスクワ経由でキエフに飛ぶ。昨年12月にウクライナに出張した際は、慶応大学院生の藤森信吉氏と一緒だったのだが、そのとき彼が住んだ、小ジトミル通り、独立広場前の高級アパートに基地を構える(ほとんどキエフには住まなかったが)。この通りは、1997年に私が住んでいたミハイロフスカヤ通りのまさに隣であり、当時を思い出して懐かしさに浸る。モスクワで言えば赤の広場にあたるようなところの高級アパートに週120ドルで住めるのだから有り難い(そのかわりホテルはキエフの方がずっと高い)。しかし、少なくとも日本の世論においては、赤の広場と独立広場とでは重要性が全く違うようだ。

かつては「十月革命広場」と称された「独立広場」

独立広場は工事と称して閉鎖されていた。昨年12月にクチマ大統領による「ジャーナリスト殺害依頼録音テープ」が暴露された直後、学生を先頭として独立広場で大規模な座り込みが始まった。するとクチマは、広場そのものを早速閉鎖してしまったのである。「クチマ抜きのウクライナ」運動として陣容を整えつつあった学生・市民は、すぐ隣のフルシチャティク通り(キエフの目抜き通り)の歩道に場所を移して座り込みを継続した。独立広場前からキエフ市庁まで300メートル近くテントが連なっている光景は圧巻である。テントの周りには綱が張ってあって、「クチマから自由なゾーン」と看板がかかっている。様々な党派が「自由ゾーン」で新聞を売ったり、チラシを配ったりしている。左翼系の青年・婦人団体もテントを構えているが、なんといっても存在感があるのは、黒い革ジャンを着込み、赤いファシスト風の腕章をつけた極右民族主義の「ウナンソー(UNSO)」である。ここのお兄さんたちは概して体格も良く、プリドニエストルだのアブハジアだのチェチェンだのあっちこっちの紛争地域に出しゃばって行って反ロ武装闘争に参加しているだけあって、何とも言えぬ凄みがある。近くで観察したいのだが、冬の帽子をかぶると私は中国人にそっくりになるので、中国人と間違えられて殴られるのではないかと思い、ちょっと怯んでしまう。

キエフの目抜き通り・フルシチャティク通り

最高会議で暴露され、インターネット上では肉声さえ公開された大統領執務室の録音テープは膨大な量に上り、「殺人依頼」云々の部分を別にしても、醜悪な内容である。民営化をクチマ系の地方クランに有利に進めるための打ち合わせ、その結果として起こる無数の裁判沙汰への干渉、裁判官人事権の政治利用(「あの裁判官は言うことを聞かないから飛ばせ」といった類のせりふが度々出てくる)などが満載され、ウクライナ国家が一握りの徒党の私物となっていることを示している。ウクライナ国民を驚かせたのは、内容もさることながら、大統領が使うことばの汚さである。ただし、私がインターネット上で読んだ限りでは、クチマも含むウクライナのトップ・エリートたちが予想外にウクライナ語に近い混合言語で話しているのに驚かされた。殺人依頼疑惑自体は、ナズドラチェンコでも、ルシコフでも、脱共産主義諸国の指導者ならば誰でも一度や二度は降りかかるものである。また、執務室電話での会話が逐一公表されたら、どんな国の大統領・首相でも辞めざるをえなくなるだろう。しかし、そのような録音テープを公表されたこと自体、やはり権力濫用が越えてはならない一線を越えていたことの証拠と考えるしかない。

それにしても大統領を守ることを本来の任務とするはずの保安機関の(おそらく高位の)幹部からこのような録音テープを買い取ることができる人物の財力はいかほどであろうか。亡命中のパヴロ・ラザレンコが一連の事態を組織したのではと巷でささやかれる所以である。たしかに、テープを最初に公表したのは、ラザレンコのかつての同志であったユリヤ・チモシェンコ元副首相(ラザレンコ時代にはウクライナ統一エネルギーシステム総裁)の新聞である『ウクライナ・プラウダ』だったし、その後にクチマがチモシェンコを報復逮捕したのも、クチマ・ラザレンコ間の対立の代理戦争という感じがする。ウクライナの政治学者はチモシェンコの運命をフィリピンのイメルダ・マルコスのそれに例えるが、こんにちのウクライナでのチモシェンコの人気はマルコス大統領失脚後のイメルダの比ではないだろう。まず若さが全然違う。「クチマからの自由ゾーン」では、チモシェンコのポスターがまるで殉教者であるかのように多数掲げられている。そこには、「私はまだ折れていないわ。あなたはどう?」というスローガンが印刷してあるが、チモシェンコの写真があまりに美しくて何か別のことを呼びかけているかのようである。

以上に見たように、「クチマ抜きのウクライナ」運動は、右翼、左翼、体制内野党の連合体にすぎないので、「クチマ後」の政権構想がここから生まれるとは考えがたい。それにしても、青年が集団的抗議行動の能力を奪われていないのは、脱共産主義諸国においては例外的である。ロシアでは、十月事件はもとより、青年を直接に苦しめた第1次チェチェン戦争に際してさえ、彼らの抗議行動は見られなかった。「クチマ抜きのウクライナ」運動が急速に広がる過程では、インターネットがフルに使われたそうである。これなどは日本の野党も見習ってはどうだろう。キエフのある若い研究者によれば、こんにちのウクライナの若者は学童だった頃に、「若者よ、ウクライナの未来はあなたたちにかかっている」というスローガンを徹底的に刷り込まれた。したがって、クチマがウクライナの国家性をも危機に晒す大統領だということが明らかになったときに、立ち上がらずにはいられないとのことである。ウクライナ民族主義は、何十年か前の共産主義に負けず劣らず問題の多いイデオロギーだが、かつての共産主義がそうであったように、このイデオロギーは青年の正義感を鼓舞する能力があるのである。そもそも現代世界には、問題は多いが青年を鼓舞することができるイデオロギーか、当たり障りはないけれども青年をミーイズムに追いやるイデオロギーしかないのではないか。

私が帰国して数日後、フルシチャティクのピケは強制撤去されたと日本で報道された。日本におけるウクライナ情勢の報道は全く弱いので、事情がわからずに苛々する。赤の広場や天安門は言うにおよばず、アジアや南米の小国で同じような事件が起こっても、日本の新聞報道がこれほどおざなりということはありえないだろう。これが、こんにちの日本にとってのウクライナの「値段」なのである。

ハルキフ市の駅前広場

さて、出張の最後の数日間は、ハルキフ州のチュグーエフ市、イズュム市、デルガチ郡で現地調査を行った。ようやく本来の勉強ができたという感じである。チュグーエフとイズュムはチェルク語起源の地名である。ヴォルガ中流域から千キロ以上隔てて、再びチュルク風の地名に遭遇するのは変な感じがする。実際、ハルキフ市には、左岸ウクライナの中心都市としての性格の他に南部ロシアの中心都市としての性格もあるのである。たとえば、革命前の学区制下において、タンボフ県とペンザ県とはハリコフ(ハルキフ)学区に属していた。そのため、教育学者-東洋学者イリミンスキーは、イリミンスキー・システムをタンボフ県とペンザ県に住むモルドワ人にも拡大するために、ハリコフ学区の視学官と骨の折れる文通をしなければならなかったのである。カザニ学区との間ではツーカーの仲にあったイリミンスキーであったが、ハリコフ学区の指導者たちにイリミンスキー・システムの意義を納得させることは容易なことではなかった。

現在でも、ベルゴロドをはじめとする南部ロシアの優秀な若者がハルキフ大学に進学する例は多い。モスクワ以南、ウクライナ方向にはいわゆる一流大学がないからである(ヴォルガ方向に、東南に進めばある)。ロシアからの留学生に加え、ハルキフでは、アジア・アフリカからの留学生と道ですれ違う頻度が非常に高い。この点では、ハルキフは、旧ソ連都市の中でもずば抜けてソ連時代を思い出させる都市である。日本からの留学生でさえ数名学んでいる。ハルキフが国際的な大学都市としての地位を保っているのは、官吏養成校でもあるウクライナ法学アカデミーを除けば、講義がロシア語で行われているからである。まさにこの特性のおかげで、外国人留学生は、ロシアに匹敵する水準の高等教育を、ロシアよりも安く(私学であるウクライナ人民アカデミーの年間学費は700ドルにすぎない)、しかもロシア語で受けることができるのである。安いとは言っても有料教育であるから、その一部は大学教員の副収入となる。教員側の語学力の問題ばかりではなく、この事情もまた、ハルキフの高等教育機関がウクライナ語化を、言を左右にして拒否する理由であろう。非常に面白いことに、これら大学は、定期的に、「ウクライナ語への移行計画」を文部省に提出しなければならない。現時点では、「2004年までの...移行計画」である。「では2004年には、ウクライナ語で講義を開始するのですか」と私が同僚に尋ねると、「さあ、パスモートリム」と言ってニヤニヤしていた。

ハルキフの郊外郡デルガチに行った2月23日は、ちょうどソヴェト軍創設記念日にあたっており、例によって郡指導者たちにヴェテラン向けの催しものの場に引っぱり出され、その後は指導者たちの飲み会につきあわされて、かなり困難な体調下でインタビューする羽目になった。ソヴェト建軍を祝うべきか否かは、こんにちのウクライナの公式イデオロギーからすると難しい問題だが、昨年から「祖国防衛者の日」として、祝日として復活したのである。「祖国防衛者」の中には、アフガン戦争のヴェテランや、チェルノブイリ救援事業の中で被爆した者も含まれている。もちろんここには、ヴェテランたちの機嫌をとりたいという政権の思惑がある。ましてや、大統領選でのプーチン圧勝を実現した組織母胎のひとつがアフガン退役兵組織だった様を目撃した後では一層そうである。現に、催しものに出席した郡長代理は、「こんにちの難しい政情状況(「クチマ抜きのウクライナ」運動を指す)に鑑みて、あなた方の責任は大きい」とヴェテランたちに呼びかけていた。
それにしても、ガリツィヤではバンデラを称えているのに、国全体としてはソヴェト軍創設をお祝いしている。ウクライナは本当に奇妙な国である。


スラブ研究センターニュース No86 目次