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●セルゲイ・ドヴラートフ Dovlatov,Sergei

「ゾーン ─ 看守の手記」

守屋 愛

1. 作者と作品

セルゲイ・ドヴラートフ(Сергей Довлатов)については、沼野充義氏による報告「セルゲイ・ドヴラートフ『わが家の人々(Наши)』」(本領域研究報告輯 第2号)ですでに述べられている他、翻訳『わが家の人々』(沼野充義訳、成文社、1997年)の解説にも詳しく言及されている。

本作品『ゾーン ─ 看守の手記(Зона: Записки надзирателя)』は、ドヴラートフが実際に1962~65年にコミ自治共和国で刑務所の看守として働いた体験をもとに執筆した中編小説である。作品中の作者の言葉を信じるならば、もともと本作品の原稿は亡命前から作者がソ連本国で書き進めていたのだが、そのマイクロフィルムを外国人の知人に依頼して海外に持ち出してもらったという。その際、フィルムの一部は喪失してしまったが、後にドヴラートフ本人が亡命し、原稿の修復をすると共に、亡命後の自分の立場から書いたテキストも加えて作品を再構築している。そのため、1982年に『エルミタージュ』社(Ann Arbor)から単行本の『ゾーン』として一旦は出版されたものの、その後別個に発表された『芝居(Представление)』(Континент. №39, 1984)という短編小説を作品中の一エピソードとして取り込んだ形で、1991年にモスクワで出版された小説『ゾーン』(≪Независимое издательство ПИК≫は完成しており、1993年にレニングラードで出版されたドヴラートフ三巻選集(『リンブス・プレス』社)もこのモスクワ版を採用している。

1982年に発表した段階で、ドヴラートフは「この作品は実に17年間温め続けてきたものだ」と語っており、また「この作品は他の作品に先駆けて発表しなければならない。というのは、ここから私のしがない執筆活動は始まったのだから」とも言及している。

この作品の発表経歴は以下のとおり(太字は単行本での発表)。

以上からもわかるように、この作品は短編として読むことのできる断章を集めた作品である。とりわけ、秀逸な『芝居』の部分は、これを題材に取った ≪Комедия   строгого   режима≫(1992年 ≪Краун≫)という題名の喜劇映画が製作されている。 ちなみに日本では、『Sudden Fiction 2 超短編小説・世界編』(ロバート・シャパード/ジェームズ・トーマス編 柴田元幸訳 文藝春秋 1994年)にドヴラートフの短編『カーチャ』が英語から翻訳されているが、この短編も『ゾーン』の一部を取ったものである。

以下、本報告は1993年に出版されたドヴラートフ選集の『ゾーン』を最終版として、これに則して行う。

2. 作品概説

2-1 構成

作者と等身大の語り手、ニューヨークに亡命している作家ドヴラートフが出版者イーゴリ・マルコーヴィチに宛てて手紙を書いていく。作品中、その自分の原稿を読んでくれという依頼の手紙と、手紙の後に同封して出版社に届けたという原稿が交互に続いていく。どの版でも、原稿部分は普通の字体・行幅で書かれているのに対して、書簡部分はイタリックなどに字体が変わり、行幅も原稿部分に比べて短くなっており、二種類のテキストには視覚的にもはっきりとした区別がつけられている。

作家が出版者に宛てた手紙は1982年2月4日付けから同年6月21日付けまでの15通、手紙と一緒に送られた原稿は14編である。原稿の一編一編はそれぞれ独立した短編としても読めるだけの完結性をもっているが、内容はどれもコミ自治共和国の刑事犯用ラーゲリを舞台として、そこで看守として徴兵に就いている語り手(若き日の作家)を取り巻く世界を描いたものである。一方、この14編の短編を連作形式に結び付けているのが、現在すでにアメリカに亡命した作家が書いていく書簡部分である。ここには、原稿を送る経緯、原稿への注釈、当時の体験に対する回顧、人生観、出版者からの質問への回答、アメリカでの生活などが書かれ、総じて原稿に対するメタフィクションとなっている。

原稿部分と書簡部分には同一人物が執筆したものとは言え、17年間もの時間的隔絶、ソ連とアメリカという空間的隔絶が存在している。この隔絶は上に述べたようなテキストの視覚的相違によっても増幅されているのだが、そのため、交互にあらわれる二つのテキストの語り手は同一人物でありながら、あたかもすでに別の人物のように感じられ、作品は全体として過去の視点(ソ連の視点)と現在の視点(アメリカの視点)という二重の視点によって語られる。

2-2 内容

すでに述べたように、本作品の原稿部分は十四の短編ともなっているので、ここではいくつかのプロットを例示することにする。また、ここでは出版者への15通の手紙をまとめているが、実際にはそれに続く原稿部分と交互に現れることになっている。

出版者への手紙
親愛なるイーゴリ・マールコヴィチ 私はこの『ゾーン』 をここ3年間ずっと、少しでも早く出版したいと思っていた。というのも、ここから私のしがない執筆活動は始まったのだから。だが、すでに二社に断られた。ソルジェニーツィンでラーゲリ文学はもうたくさんということらしい。でも、私の本は全く違う。ソルジェニーツィンが描いたのは政治犯ラーゲリだが、私のは刑事犯ラーゲリだし、彼は囚人だったが、私は看守だった。ラーゲリは地獄だと彼は言うが、私に言わせれば地獄とは私たち自身が……。// ラーゲリでの徴兵体験で私はすっかり別人のように変わった。恐ろしい世界だったが、それでも生活は続いていた。ここでは善と悪、悲しみと喜びの相関関係は不変だが、あそこでは価値のヒエラルキーが完全に崩壊し、この世は不条理だという唯一の馬鹿げた思想が宣言されている。//人々を善人と悪人に分けるなんて馬鹿げている。共産党員と非党員、極道と堅気、男性と女性だってそうだ。人間は環境の影響でまるっきり変わってしまう。ラーゲリでは特にそうだ。……それから、ラーゲリは国家の、とりわけソビエト国家の非常に正確なモデルである。ラーゲリにはプロレタリアートの独裁(つまり支配体制)、人民(囚人)、警察(看守)が存在する。そこには党の機関も文化も産業もあり、国家にあるべきものはすべてあるのだ。……うちの方はすべていつもと変わりなし。母はスーパーマーケットで不安のあまりグルジア語をしゃべりだしたりするし、娘は車の運転ができないからと言って私のことを馬鹿にしている。//私はラーゲリと娑婆、囚人と看守の驚くべき類似に気が付いた。これがラーゲリ生活で最も重要なことだ。私の物語はすべてこれについて書いたものである……。//アメリカで自分が一番驚いたのは、カルタゴやトロイのように思えていたアメリカが本当に存在していたこと、これが現実だということだった。あるときローワー・マンハッタンで、『ジョニーズ』というバーに立ち寄り、アイリッシュ・コーヒーを飲んでいた。すると、窓のそばにすっかり酩酊状態の、赤いシャツを着た黒人がいる(いつだったか、エフトゥシャンコもこんなシャツを着ていた)。もちろん、幸福でもなく、平穏でもなく、意志も弱い私だが、突然、意味のない歓喜が込み上げてきて泣きそうになった。アメリカのバーでコーヒーを飲み、黒人の酔っ払いを見ている、これが私だろうか?!と思ったのだ。今はシンポジウム出席のためミネアポリスに来ている。アメリカのスラビストたちの目の前でミシシッピイ川を泳いで渡ってみせた。エフトゥシェンコなら羨みそうなジャンパーを着た浮浪者にマッチをねだられる。//自由を怖がって出所の前日に逃亡を計って刑期を延長された囚人がいたが、われわれロシア系亡命者たちもこれと似たようなものを経験している。自由は重荷にもなるもので、悪い人間にも良い人間にも同様に好意的である。ブライトンビーチはネップ真っ盛りだが、ごろつきだらけだ。//ラーゲリ生活で最も荒っぽくて血なまぐさくて恐ろしいエピソードは無視することにした。それを書くと、効果が芸術的構成ではなく、題材そのものになってしまっただろう。私が書きたいのは、刑務所と囚人ではなく、生活と人々なのだ。//ついに原稿は完成した。17年間も温め続けた原稿なので、ほっとすると同時に空虚な感じがする。ヘミングウェイなら ≪The end of something≫とでもいうところか…。作家の仕事というのは女性的だし、目立つし、苦しく辛い職業だが、私がこれを選んだわけではなく、職業が私を選んだのだ。もはやどうするわけにもいかない。あなたが最後のページを読む頃、私は新しいノートのページを開いているだろう……。

■ グスタフ・パハピリの父親は「エストニアにはエストニア人が住むべきだ」と言うのが口癖だったが、徴兵拒否の咎でソビエトによって南方に流刑されて亡くなった。一方、グスタフの持論は「真のエストニア人はカナダに住むべきだ」というもの。ある夏、徴兵で刑務所の看守となったが、そこの生活になじめず、番犬にさえエストニア語で話し、いろいろ問題を起こしたりしている。あるとき、叔母からお金が届きいたので酒を買い、近くの墓地に行って一人で飲んでいた。

 ちょうど、その頃、イデオロギー部門のマール中佐がこの戦士たちの墓を支援し、 彼  らの功績を称える祝典を行おうと考えている。そんな彼にある兵士が面白半分に「パハ  ピリこそすでにそれを実践して墓地の世話をしている」と報告したため、パハピリはそ  の式典をマール中佐と計画する羽目になった。式典当日、パハピリの演説は成功し、彼 の功績は称えられ、パハピリがエストニア人であることは民族間の兄弟的友情の結果と まで言われる。  だが、その後パハピリはまた酒を持って墓地にいき、赤いベニヤ板の墓碑に肘で寄りかかって煙草を吹かし始めるのだった。

■ ミシュークは優秀なパイロットだったが、魚の闇取引に手を出し、パラシュート用の絹地を一リール盗んで逮捕されてしまった。まじめに勤めれば刑期が半減するので、彼は労働を率先して行い、『短刑期での釈放のために』紙を購読し、内規部にも登録している。そんなある日、荒地で作業している彼のところへ友人のマルコーニがなんとヘリコプターでやってきた。しばし歓談した後、看守に咎められて去ろうとするとき、マルコーニはお金を置いていこうとする。「金は持っちゃいけないことになっている」とミシュークが言うと、「なるほど、君たちはもう共産主義を建設したってわけか」とマルコーニはマフラーと時計とライターを渡し、「また一緒に飛ぼう」と言い残しヘリコプターで帰っていく。

 三年後ミシュークは釈放されたが、前科のせいで空港には入れず、二度と飛ぶことはなかった。マルコーニは事故死し、事故車の残骸からは一プード缶に入ったキャビアが見つかった。

■エゴーロフ大尉は休暇をとってソチに出かけ、大学院生で文学的で理知的なカーチャと出会う。ちょうどカーチャと食事をしているときに、かつての囚人が現われて報復されそうになるが、エゴーロフはこれを格好良くあしらって逆にカーチャの心を射止める。

 //エゴーロフとともにゾーンにやってきたカーチャだが、ここでの生活は彼女には我慢がならない。犬の鳴き声、電気鋸の音、下衆な人々。カーチャは「どこかにきっと別の人生があるはず」と少しノイローゼ気味になっている。エゴーロフは「きっとなにもかも上手くいく」と言ってきかせ、カーチャのためにパハピリの犬ガルンまで殺してしまう。(パハピリとガルンはゲラーシモフとムムーのようで、パハピリはこの犬にいつもエストニア語で話しかけていた)。

 //何が起こったかは不明だが、カーチャは病院に収容される。妻の安否を気遣って  おろおろするエゴーロフだが、外科医に大丈夫だから食事でもして来いと病院を追い出  されてしまう。戻ってくると、「奥さんは良くなりましたから。先生が奇跡を起こして  くれましたよ」と言われる。カーチャはきっと夢の中でも不機嫌なのだろう……と考えな  がらエゴーロフは病院を後にする。

■ ある夜、私は事務局のトーカリ大佐に呼び出され、ロプチャの中継監獄に行ってある囚人を護送して連れてくるように命じられる。この囚人は名をフョードル・グーリンといい、前科五犯で十一年の刑期の男なのだが、なんでもソビエト政権樹立60周年記念の出し物でレーニンの役をさせるために護送してこなければならないのだ。

 護送の翌日、今度は政治部長代理フリーエフにその『クレムリンの星たち』という一幕劇の制作に参加するように言われる。その他、ジェルジンスキー役はツーリコフ、児童に対する教唆で刑期は六年。チェキストのチモフェイ役をするゲーシャは衛生隊勤務のホモである。彼の恋人役は管理局にいる民間人トムカ・レベジェワ。滑稽な稽古が始まり、ラーゲリ内でもうわさが広まって揶揄されるのだが、グーリンだけは完璧にレーニン流のしゃべり方をマスターしてみんなを驚かせる。

 そして当日、クルィロフの寓話やマヤコフスキーの詩の朗読などのあとに、革命劇『クレムリンの星たち』が始まる。観客に嘲笑されながらも芝居は進み、グーリンのレーニンはロマンチックなトーンで彼らに訴える、「これが七十年代の若者か?未来からの使者よ、君たちが羨ましい!君たちのために我々は新たな建設の最初の光を灯したのだ!」と。すると観客からまた野次が飛ぶ。しかし、最後にグーリンが『インターナショナル』を歌い出いた時、思いがけず神秘的でよく響く美声に一同は静まり返り、一人二人と声を合わせ始め、ついには全員で唱和していた。私も特別な国の一員であることに感動が込み上げてきて、目頭が熱くなる。こうして、芝居は終わった。

3.コメント

ドヴラートフにとって、収容所で看守として働いたという実体験は自分自身に大きな衝撃をもたらした。この体験から得た『この世は不条理である』という帰結は、その後一貫して彼の文学活動の原動力になっている。それだからこそ、この作品はアメリカでの出版に際して他の作品に先駆けて発表したいと望んだものだった。

作品中、若き日の作家が勤務する刑務所には、囚人といい、看守といい、一癖も二癖もある連中ばかりいる。徴兵期間中の「私」を始めとする看守たち、囚人も元パイロットの闇屋、自称ロシアの伝統的泥棒という常習犯、裁判で検察官に毒づいたがために刑期を言渡された者などなど、それぞれ民族的・地理的出自も多種多様なら、このラーゲリに来ることになった経緯も十人十色である。作家が出版社に送った原稿の中でかれらは時には中心人物となり、時には脇役となりしながら、収容所全体の物語に登場していく。語り手は収容所の生活にソビエトの現実の縮図を見て取りながら、ソヴィエト社会の理念通りにはいかない不条理に満ちた日常生活とともに、祝典・新年・革命記念日といった時々訪れる祝祭的な瞬間に看守と囚人の立場を逆転させたり、軍隊的ヒエラルキーを打ち壊したりする。たとえば、しがないパハピリは絶賛を受け、前科五犯のグーリンがレーニンを演じた。こうした状況は既存のモラルや価値観、常識を逆転させ、世界の不条理を一層深く描き出している。このラーゲリでのカーニバル的事件はその後もドヴラートフの創作の一パターンとなっており、たとえば中編小説『かばん』の中でもゾーンの看守チュリーリンが同志裁判にかけられた際、理性を失って上官を口汚なく罵りだすというエピソードが描かれていた。

また、この作品の特徴は囚人からではなく、看守の視点から描かれたラーゲリ文学ということにあるだろう。ラーゲリに関する文学はすでにロシア・ソ連文学の中である伝統となっている。たとえばドストエフスキーの『死の家の記録』を筆頭に、ソ連時代のソルジェニーツィン、シャラーモフ、シニャフスキーなど今更挙げるまでもないだろうが、これらはすべて囚人の観点から描かれたものであったから、ドヴラートフの看守からの視点は全く画期的なことである。しかもその際に、単に視点の交代だけではなく、ラーゲリは国家のミニチュアであるという独特のラーゲリ観が存在している。そこでは、プロレタリアートの独裁はレジーム(режим)であり、人民は囚人であり、警察は看守である。そこには党組織もあれば、文化も産業もある。作品に描かれる数々の不条理は、ゾーンの中だから不条理なのではなく、ソビエト社会にいるから不条理なのである。ちなみに、ドヴラートフがラーゲリから出所した者の心境によせてソ連から亡命した者の心境の類似、つまり慣れない自由への適応の困難を語っているのは興味深い。

また、この作品がいままでの使い古されたラーゲリ文学へのアンチテーゼとなっているもう一つの理由は、ありのままのラーゲリ言葉を用いようと努めたところにある。これまでのラーゲリ文学では作品内容に力点が置かれ、実際にそこで使われる口汚ない言葉はあまり積極的に用いられなかったのに対し、ドヴラートフはラーゲリ生活に存在する美の一つとしてその言葉を取り上げた。彼に言わせれば、より上手いラーゲリ言葉の使用はそれだけでラーゲリの中で力となり、尊敬を得ることができたという。そして、『ラーゲリの言語は創作的・厳格に美的・目的なき芸術的現象である』として、この作品を口汚ない言葉を用いた芸術的試みとしている。これは政治的なテーマに終始しない、ラーゲリの文学的要素といえる。しかも、この作品が非常に巧妙に創られている点は、アメリカで亡命者となった作家が出版者に送る手紙にはすでにアメリカ移住者としての英語的要素を含んだ言語が使われており、これをラーゲリ的言語で書かれた原稿部分と比べた場合、手紙と原稿という二つのテキストの言語的隔絶は、そのテキストの時間的・地理的隔絶をも想起させるのである。ドヴラートフは『ラーゲリ文学は使い古された』と自覚しながらもあえてそのテーマを取り上げた。しかし、それを逆説的に活用しながら、まったく新しい芸術的ラーゲリ文学を書き上げたのだ。