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ロシア文化史の新しい見方 -A・エトキント、B・グロイスの文化史研究を中心に-

貝澤 哉

Ⅰ.「ロシア文化史」という神話

80年代末から90年代にかけて、文化研究のさまざまな分野で、それまでのロシア文化史理解の常識的パースペクティブを解体し、その批判的な組み換えをめざす動きが顕在化してきた。ロシア文化史とは、「ロシア文化の本来性」といった神話を文化的に支え、再生産していくイデオロギー装置なのであり、したがってこれまでロシア独自の優れた成果と見なされ評価されてきた文学や文化も、実はそうした神話の再生産装置として批判されなければならない。それは最終的には、「ロシア文化史」という言説そのものが孕んでいるイデオロギー的機能を明るみに出すことなのである。

Ⅱ.銀の時代

アレクサンドル・エトキントは、「銀の時代」にたいするこうした従来のイメージを根底から覆し、スターリン時代のソヴィエトにおける全体主義的なイデーの起源が、「銀の時代」にまで浸透していることをあきらかにしようとしている。

「銀の時代」にたいするエトキントの姿勢のなかに一貫しているのは、この時代が、たんにロシア文化史における最大の高揚期であるだけでなく、ロシア史における後の悲劇を準備するものであったという認識である。  

文化史のなかに、モダニズムはその起源とその帰結を持っている。モダニズムとは伝統からの断絶、新たな形式をとって伝統のなかに回帰していく病的プロセス、ポストモダンへの過渡期……である。銀の時代はロシア文化史の偉大な飛翔を生み出したが、その悲劇的な墜落を準備したのもそれだった。銀の時代の理想化から、その批判的歴史へと移るべきである。ロシアの地下文化の忘れられた奇妙さから、世紀初頭の輝かしい飛躍、そしてそこから──今世紀のロシアで起こった恐ろしい出来事、あるいは精彩を欠く出来事へと向かう過程を見破らなければならない。

「銀の時代」とソヴィエトの全体主義文化との連続性はどこにあるのか。それは、「銀の時代」に広く浸透していた「フィジカルなものとしての自然(=カオス)を、精神的なものとしての文化(=コスモス)へと組織化したい」欲望である。

精神的な観念やイデー(文化)を、フィジカルで具体的な現実(自然)に投影することで、フィジカルな現実を抑圧し、支配しようとする欲望は、ボリシェビキ革命やソヴィエト全体主義イデオロギーへとつながっている。なぜなら、全体主義的文化がめざすのは、まさにイデオロギー(精神的なもの、観念)による、現実の支配、改造だからだ。  

ボリシェヴィキはイデオロギーの中に、人間のふるまいを変え、労働生産性に影響し、病人を健康にし、健常者をスタハーノフ作業員にすることの出来る全能の道具を見ていた。そしてかなりの程度まで、そうしたことが起こっていたのである。イデーは方法となり、テクストは生となった。

「人間の自然とは、たんにその文化である、という信仰は、人間の事業のあらゆる領域へのラディカルな干渉の規模をとてつもなく大きくする。事実上、自然を文化で置き換えることは、どんな全体主義プロジェクトにおいても知的な基盤となっている。」ソヴィエト全体主義やその根底にある革命イデオロギーの特徴は、人間や社会は完全に改造可能であり、イデオロギーによって完全にコントロールされなければならない、という点にある。こうしたイデーは、全体主義時代にいたってそのピークを迎え、ある種の屈折を受けながらも、革命期、そしてスターリン時代へと受け継がれ、機能しつづけていく。  

権力のイデーは、ロシア・モダニズムのセミオシスをつらぬき、その内的次元となっている。文化には、自然に対する権力が備わっていなければならない。自然はサボタージュするが、しかし従属しなければならない。ミチューリンが言っていたように、自然からの好意を待っているのではなく、それを奪い取ることが、われわれの課題なのだ。文化は記号の世界であり、自然は意味されるものの世界だ。記号は意義よりも重要であり、意義を変更する権力を与えられている。社会的権力は記号に支えられており、それ以外の何者にも決定づけられることはない。「意味するもの/意味されるもの」という対立は、「権力/従属」という対立に相関している。そしてどちらも、「文化/自然」という普遍的対立に一致しているのである。

Ⅲ.アヴァンギャルドと全体主義芸術

ボリス・グロイスは、『全体主義芸術スターリン』(ドイツ語版 1988、英語版 1992、ロシア語版 1993)において、これまでの見方を覆し、ロシア・アヴァンギャルドは、実は社会主義リアリズム(全体主義芸術)を準備したと主張する。

グロイスは、アヴァンギャルドがテクノロジーをポジティヴにとらえるという従来の考え方を否定する。テクノロジーは、伝統的な自然の統一を破壊することによって、自然の再現を前提しているミメーシスの芸術を無意味にし、芸術は真理や世界の反映ではなくなってしまう。この事態を、みずから新たな統一的世界を(テクノロジーを利用して)ゼロから人工的に創造することで打開しようとしたのがアヴァンギャルドである。

この意味でアヴァンギャルドは、未来を指向する前衛的運動ではなく、失われた理想郷を取り戻そうとする反動的なものであり、彼らがめざす「未来」とは実は、歴史を超越した絶対的過去、無垢の自然=無意識でしかない。アヴァンギャルドは初期値への「回帰」にほかならず、理想的な世界全体をゼロから創造しなくてはならない。

ゼロから世界を再創造するためには、アヴァンギャルドはたんなる芸術の領域を越えて、世界を変革し支配する力を持たなければならない。

自然の個々の局面を再現しようとする伝統的なタイプの芸術家が自己に課すのは限定的な課題でよい。というのも自然それ自体は彼にとってすでに完結した全体として現れるからだ。〔…〕。しかし外界が黒々したカオスに変貌してしまったアヴァンギャルドの芸術家は、新しい世界をまるごと作り出す必要性に迫られ、そのため彼の芸術的プロジェクトは必然的に全体的で無制限なものとなる。したがって、このプロジェクトを実現するためには、世界に対する全体的な権力ーーそして何よりも、全人類、あるいは少なくともある国の国民を従わせておのれの課題を遂行させることができるような、全体的な政治的権力が必要とされる。

失われた世界の統一を回復するというアヴァンギャルドのイデーそれ自体が、全体主義的な文化形態を要請する。社会主義リアリズムとは、このような、失われた統一的世界を人工的に創造しようとするロシア・アヴァンギャルドが追い求めた〈理想的な世界の創造〉という理念の極端な現実化にほかならない。

社会主義リアリズムは普通、形式主義的なアヴァンギャルドにたいする完全なアンチテーゼとうけとられているが、今後はアヴァンギャルドが持っていたプロジェクトにたいするその継承性という観点から検討されていくことになるだろう。[…]スターリン時代は、芸術が生の描写であることをやめ、トータルな美的・政治的プロジェクトという手段によって、生の変革となるというアヴァンギャルドの基本的要求を現実化したのだった。だから、もしスターリンのなかに、観照的で模倣的な思考様式の時代に伝統的な哲学者=専制君主のタイプをうけついだ芸術家=専制君主を見いだすならば、スターリンの時代の詩学は、構成主義の詩学を直接に継承しているのである。

Ⅳ.「ロシア的なるもの」のイデオロギー

「銀の時代」から社会主義時代にいたるロシア文化は何故、〈存在しない理想的統一を精神的なものによって再創造する〉という神話にこれほどまでに囚われ、その再生産にとりつかれてしまったのか。グロイスは、このような神話のイデオロギー構造を「ロシアの民族的アイデンティティの探求」という論文であきらかにしようとしている。

彼がとりわけ注目するのは、19世紀初頭以降の近代ロシア思想史において、ロシアの自己同一性の探求が、つねに、同一性の不在としてしか現れてこないという逆説である。ロシア文化史において、シェリングとヘーゲルの影響が普及した19世紀の10年代末から20年代にかけて大きな問題となったのは、「この時期までにロシア文化が、いったいいかなる独自なものをすでにつくりあげたか、ということである。答は例によってきわめて悲観的なものだった。事実上何もないのだ」。

ロシアにとって、ただひとつ残されたのは、独自性がないということ自体をロシアの独自性へと逆転することだけだった。その逆転を可能にする唯一の方法が、「独自性/非独自性」を問題とするような西欧文化の反省的ディスクールそのものを超越してしまうこと、「思考、文化、《精神》あるいは魂のいかなる形の歴史にたいしても、なにか根源的に《異質なもの》」になろうとすることだった。

ロシアの哲学とは、[…]このように、シェリング=ヘーゲル的歴史主義の危機の時代における、ヨーロッパのポスト観念論哲学に共通のパラダイムの一部分なのである。それは、反省、弁証法、思考あるいは認識を超えたところにある、客観化されえない《異質なもの》としての無意識的なものが、初めて発見された時代だった。[…]このため、チャアダーエフやスラヴ派たちのロシアは、ヨーロッパのポスト観念論における無意識的なもののもうひとつの名と見なすことができよう。

ロシアは、「独自性/非独自性」というような西欧的意識を超越した「異質なもの」=「無意識」を、自己の独自性として倒錯的に表象するしかない。つまり歴史的時間のなかにロシアの独自性、「ロシア的なるもの」の存在を見出せなかったロシア文化は、逆に、歴史を超越した、存在しないもの(異質なもの=無意識)こそ「ロシア的なるもの」であるととらえ、存在しないものの存在をポジティヴに再構成しようとする倒錯に囚われていく。一九世紀以降のロシアの思想史はすべて、こうした欲望に動機づけられている。

[…]自己の民族的アイデンティティ、独立性、オリジナリティの問題に直面させられ、西欧文化に比して本当にエキゾチックで異質なものを何も提示できなかったロシア思想は、つねに、《異質なもの》についての西欧的ディスクールを現実化し物質化する場所としてロシアを解釈することで、この問いに答えていた。その際、歴史的に形成されたロシアの生活形態はふつう批判にさらされ、本来のロシアは歴史以前の過去か、あるいはユートピア的未来に位置づけられた。それらは、《異質なもの》についてのしかるべき西欧の諸理論を手本にしてモデル化されていた。それに際してこうした諸理論は、そのネガティヴな、純粋に批判的な性格を除去され、そうすることで《異質なもの》を神学化する、あるいはすくなくとも《異質なもの》にポジティヴで肯定的な色合いを付加するようなかたちに変形された。

こうして、以後のロシア文化史においては、現在において所有されていない本来性、不在の「ロシア的なるもの」を、過去(失われたもの)/未来(いまだ手に入れられていないもの)へと投影し、そうした観念的な、不在の統一的世界を獲得するために、フィジカルで具体的な現実として存在しているロシアの歴史的現在を抑圧・消去しようとするのである。しかもこうした傾向は、現在でもまだ続いているのである。

今ロシアで、《異質なもの》、身体、欲望などについてのありとあらゆる現代的ディスクールにたいしてある種の興味が向けられているが、そのことが示すのは、こうした探求の結果がまたしても、ロシア思想にとって十分に伝統的なものになってしまうだろう、ということなのである。