| 考察 |
サハリン州生まれ。妻と息子2人。68年沿海地方の生産合同「ダリポリメタル」電気設備の組立工として働き始めたが、同年太平洋艦隊の水兵に徴集される。70年下士官として勤務を終えて、75年まで連合「ボル」で組立工として、80年まで「ボル」の現場主任、機械技師、部門長として働く。70年代半ば中等技術学校夜間部卒業。83年極東工業大学を通信教育で卒業。80〜93年生産合同「ダリポリメタル」勤務。83年から同合同の採金共同組合勤務。88年には同共同組合の先頭に立ち、3年後これを採鉱会社「ヴァストーク」にする。90年人民代議員に当選。93年5月19日、沿海地方行政長官に就任、同年12月選挙で連邦会議代議員に投票参加者の65%の票を集めて当選。中等専門教育を受けた40〜60歳の中所得者、カヴァレロフスク、ポジャルスキー、キーロフスク(以上地区)、ダリニゴルスク、レソザボツク、スパスカ・ダリニボ(以上都市)などの地方住人に支持された。無所属。連邦会議安全保障・国防問題委員会委員。現在、「ヴォストク」採鉱会社社長。自分の課題を次のように考える。「まず第1に沿海地方の利益を守ること。これはロシアの根本的な利益に矛盾しない。むしろその利益に、遠い極東の地から応えることなのだ。」沿海地方の困窮は、前任者たちおよび中央の働き不足のせいであると説明し、クリル諸島を沿海地方に合併しようと行動した。ロシア・中国国境線境界決定の断固とした反対者である。「我らが家ロシア」運動が現れると同時に、その沿海地方支部のリーダーとなった。94年秋知事選に出馬したが、選挙はロシア共和国大統領によって中止された。95年12月、下院議員選挙と同時に実施された知事選挙で再選される。97年6月、中央政府と地域での影響力をめぐる闘争が同地方で始まり、同氏に対する退陣要求、繰り上げ知事選挙の提案などが中央から噴出。また、知事の重要な権限を大統領代理人に与える内容の大統領代理人の特別権限に関する大統領令が出される。同年12月、名誉と仕事上の評判を傷つけられたとしてコンドラトフ沿海地方ロシア大統領代理人から提訴される。 |