19世紀ロシア文化におけるシューベルト
相沢直樹
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3. 文学作品における反映
ロシア音楽界にデビューを果たしたのと相前後して、シューベルトは文学の世界にも登場している。音楽評論を通して早くからシューベルトをロシア
に紹介していたオドーエフスキイがここでも先鞭をつけている。彼が『1838年の文芸年鑑』の中に発表した『孤児』(1838)に早くもシューベルトの名
と作品が顔を出している。
『孤児』は当初『棺桶屋の手記』という題の下に計画されていた連作短篇小説のうち最初に発表された作品である
(63)
。この短篇小
説の語り手が棺桶屋と知り合う場面にシューベルトの名と作品が登場する。なお、この作品は現在刊行されているオドーエフスキイの各種作品集には収められて
いないので、実際のテクストに当たることはできなかった。この作品に関する記述は、もっぱらサクーリンの研究に拠っていることを予めお断りしておく。
サクーリンの紹介する粗筋によれば、語り手と棺桶屋が知り合ったのは次のような訳である:鬱ぎの虫に取り付かれ、雨のペテルブルグをさまよい歩い
ていた若者が張り出した屋根の下で雨宿りしているうち、ふと見上げると棺桶屋の看板が目に止まり、彼は衝動的にその家の中に入って行った。すると中は心地
よく、色々な絵画やゲーテの肖像が飾ってあった。彼の心理状態を察した棺桶屋は身内のエンヘンに何か歌うよう求めた。彼女はピアノの伴奏で「美しい澄んだ
声でシューベルトの有名なアリア Das Glocklein
を歌い出した」。この歌は「どこかの未完成の墓場」を舞台に「人生でめったに出会わない瞬間、絵描きが捉え、詩人の魂にいつまでも残り、日々の生活の闇の
中で詩人のために光り輝く瞬間の一つをなしていた」。棺桶屋と若者は互いに名を名乗り、友人になった
(64)
。
ここで『鐘 Das Glocklein』と呼ばれているシューベルトの歌曲は、J. G. ザイドルの詩による『臨終の鐘 Das
Zugenglocklein』(D. 871)
のことであろうと考えられる。棺桶屋と「臨終の鐘」とはいかにもあざとい取り合わせであるが、そもそもオドーエフスキイは疾風怒濤詩人の顰みに倣って、シ
ラーの『鐘の歌 Das Lied von der Glocke』のエピグラフ ”Vivos voco, mortuos plango”
[我は生者を呼び、死者を悼む] をそのまま自分の『棺桶屋の手記』のエピグラフとして冠するほどだった
(65)
。自作短篇へ
のシューベルト歌曲の逸早い導入は、ドイツ観念論・ロマン主義に傾倒し、西欧音楽への造詣が深く、『ベートーヴェンの最後の四重奏』(1830)や『セバ
スチアン・バッハ』(1835)などの短篇小説まで物している、この多芸多才で異色の公爵ならではの一種の衒いだったのかも知れない。
* * *
И.И. パナーエフは中篇小説『アクテオン』(1842)の中で地方の地主貴族の生態を滑稽かつ批判的に描き出したが
(66)
、この作品で
は不幸な男女の心の拠り所としてシューベルトの歌曲が、彼らをめぐる物語の中で極めて重要な役割を担っている。
首都ペテルブルグから生まれ育った村に移り住み、時とともに正真正銘の田舎の「旦那」に変貌して行く夫と異なり、意に染まぬ結婚を強いられたオリ
ガ・ミハイロヴナは田舎の生活になじめず、姑はじめ周囲の人々とも折り合わず孤独でいる。彼女の唯一の慰めはシューベルトの音楽の響きであった。作中では
彼女が『セレナーデ』を歌う場面で、オガリョフによるロシア語訳が初めて公にされている
(67)
。彼女にとってシューベルトは、二度と戻らぬ人生で最良の日々の思い出と堅く
結びついていた。早くに両親をなくした彼女は娘時代をモスクワの伯母の家で過ごしたが、そこで知り合った大学生の家庭教師にシューベルトの手ほどきを受け
たことがあり、彼が歌曲王について認めた長い手記をずっと大切にしまっていた。「長いこと私は貴女にシューベルトについて少しお話ししたいと思っていまし
た」と書き出すその手記は「シューベルトは現代の天才的芸術家です。いつの日か19世紀が彼のことを誇るようになるでしょう」と最大級の讃辞を惜しまな
い。教師によれば、「シューベルトは歌曲しか書きませんでした」が、まさにこの点に彼の天才性が現れており、彼は素朴な歌を極めて芸術性の高いものにまで
高めた。「それらはム彼のこれらの歌曲はム人間精神の言葉にならないような極めて奥深い、秘められた内面性の発露に満ちています。<中略>そしてまさにこ
の神秘的な感情をシューベルトはその底なしの深みにおいて捉え、それをその聖なる暗がりから抽き出し、結晶化させ、白日の下に晒したのです」
(68)
。続いてベー
トーヴェンとシューベルトが比較され、もし前者の音楽が歴史的精神の偉大な現象を捉えているとすれば、「シューベルトの歌曲は、歴史から隠されたままの人
間精神の謎めいた側面を尽くそうとしているのです」。ベートーヴェンは勝利者としていつも勝ち誇っているが、「シューベルトにおいて表現されたのは人間の
生の悲劇的な側面、その秘められた、内面の真心の世界です」として、彼はさらに筆を進める。
しかしながら、これはシューベルトの天才の様々な側面のひとつにすぎません。彼の歌曲に優勢
な性格は、音楽的状態という以外に私には呼びようのなかった精神状態から来ています。この感覚はいつでもメランコリーと溶け合っています。〈中略〉喜びと
いうのは排他的なもので、喜びは喜びしか愛しません。反対に、悲しみは自分の土壌の中で育ちます。それは地下の世界です。〈中略〉悲しみの中では、人はい
つでもすべてをより強く、より深く感じ、より生き生きとすべてに共感することができます。悲しみの中で人はすべてのものを祝福するのです…〈中略〉メラン
コリーは悲しみの最高次の、理想的な側面ですムそれは心を苛む、重苦しくて暗い一切のものを除かれ、ただの芳香と化した悲しみです。メランコリーとはエー
テル、すなわち精神の音楽的状態の内的要素です。そしてシューベルトの創造物はすべてメランコリーを呼吸しています。 ”Alinde”
におけるように明るく素朴な感覚や、あるいは『セレナーデ』におけるように人生享受的な心の昂揚に彼が身を委ねることは稀です
(69)
。
この手記はシューベルト歌曲の本質を深い共感をもって見事に捉えた大変美しい、小さいながらもすぐれたシューベルト論の体をなしている。ただ悲し
みや不幸が強調されすぎる嫌いがあるのは、この小説における女主人公と謎めいた「彼」の悲しくも気高い生き方からの要請であろうか。
さて、二人は偶然再会するのだが、無理解な周囲の人々の流言の犠牲となる。急にイタリアに旅立つことになった教師(彼の名前は終いまで明かされな
い)の前で、もう一度彼女の歌うシューベルトを聴きたいという彼の以前からの願いを叶えるべく、病に落ちて痩せ衰えたオリガは最後の力を振り絞って『さす
らい人』を歌い上げる。この場面にはロシア語に訳された『さすらい人』の歌詞が示されている。これが彼女の「白鳥の歌」となり、女主人公がまもなく亡く
なったことを伝えて小説は終わっている。
* * *
1850年代のツルゲーネフはロシア・インテリゲンツィヤとドイツ・ロマン主義の関係という問題に精力的に取り組んでいた。この時期に彼は、この
問題を背景にした作品を集中的に執筆している。その一つ、短篇小説『ヤーコフ・パースィンコフ』(1855)において、作家は理想に殉じた「最後のロマン
主義者」の姿を深い共感を込めて描いているが、この主人公の周囲にはスタンケーヴィチ・サークルの雰囲気が色濃く滲み出ている。そして、このサークルの人
々同様、パースィンコフもシューベルトに特別な愛着を持っている。主人公がペテルブルクのズロトニツキイ家で過ごす場面に、次のような印象的な一節があ
る。
パースィンコフは音楽を大変愛していました。彼はよくソフィアに何か弾いてくれるよう頼み、
脇に腰を下ろして聴き入っては、時おり感じ入った調子の甲高い声で伴唱していました。とりわけ彼が愛していたのは、シューベルトの『星座』でした。目の前
で『星座』を弾かれると、音と一緒に水色の長い光線のようなものが、高みからまっすぐ胸に流れ込んで来るような気がするんだ、と彼はきっぱり言うのでし
た。私は今でも、雲一つない夜空に星たちが静かに瞬いているのを見ると、きまってシューベルトのメロディーとパースィンコフのことを思い出すのです…
(70)
この作品では「忘れがたきパースィンコフ」を回想する語り手の言葉のそこかしこに、敬愛するスタンケーヴィチへの作家の愛惜の念が響いている。
『ヤーコフ・パースィンコフ』よりも先に脱稿しながら発表の前後した『文通』(1856)は、ロマンチックな田舎の老嬢と「余計者」の間の往復書
簡という形式を借りて彼らの奇妙な恋愛劇の顛末を描いている。ある手紙の中でマリヤ・アレクサンドロヴナは、近隣の人々に奇異な目で見られ、「女哲学者」
と呼ばれたり、男装趣味があるなどという誤解の絶えない自分の不幸な境遇を訴えている。彼女は特に洒落好きを自認する隣人の嘲笑の的にされ、事あるごとに
根も葉もない噂を吹聴されていた。
この方は、私がいつも何か言葉を探していて、いつも「あちら」を目指していると言ってきか
ず、滑稽なまでの熱烈さで「どちらへムあちらへ? どちらへ?」と訊ねるのです。彼はまたこんな噂を広めてくれました。私が夜毎馬に乗って川の浅瀬を行き
つ戻りつしている、それもシューベルトのセレナーデを口ずさむか、ただ「ベートーヴェン、ベートーヴェン!」と言って呻きながら。まったくあの女は実に血
の気の多い婆さんだ! 云々云々、ですって
(71)
。
彼女がいつも「あちら」を目指しているとして「どちらへムあちらへ? どちらへ?」と訊ねるという件は、ロマン主義者の「彼岸」への憧憬に対する
揶揄だろう。一歩踏み込んで、シューベルトの歌曲『さすらい人』のパロディーと見ることもできる。この手紙は虚構とはいえ、ドイツ・ロマン主義に傾倒した
ロシアの知識人がそれと無縁の田舎の人々の目にどのように映っていたかを知る一つの手がかりを与えてくれている。
ツルゲーネフはロシア知識人層とドイツ・ロマン主義の問題に一つの区切りをつけるかのように、最初の長篇小説『ルーヂン』(1856)に傑出した
個性を登場させ、彼のすべてを描こうとした。この作品の主人公はラスンスカヤ邸に現れた最初の晩からすでにドイツ・ロマン主義の唱道者の衣を纏っている。
登場早々ルーヂンがパンダレフスキイに「シューベルトの”Erlkonig” を御存知ですか?」とたずね、『魔王』のピアノ演奏を促した
(72)
のは故なきことではなかった。この瞬間から彼は周囲の人々に特別な魔法をかけたのである。
「ドイツ・ロマン主義三部作」とも呼ぶべきこれらの作品群の中でツルゲーネフはドイツ観念論・ロマン主義がロシアの知識人層に及ぼした魔術的な力を、そ
の美しさも滑稽さもすべて示そうとしたと言える。そしてその舞台に必要不可欠なものの一つがシューベルトの歌曲だったのである
(73)
。
『ルーヂン』に続くツルゲーネフの長篇小説『貴族の巣』(1859)では、ラヴレツキイにやりこめられたパンシンが話をそらそうとして、会話を
「星空の美しさやシューベルトの音楽に移そうと試みた」
(74)
が不首尾に終わっている。ここではシューベルトの名は軽薄な社交界の人々が澄まし顔で口の端に上らせる話題のひとつに過ぎない。
様々なロマンスやオペラのアリアなどが散りばめられた『その前夜』(1860)にはシューベルトは直接は現れないが
(75)
、ベルセーネ
フについて次のような一節がある。ロシア貴族の音楽との関わり方を述べている点で、またこの「哲学者」がスタンケーヴィチ・サークルに属したグラノフスキ
イをモデルにしているとも考えられる点で興味深い。
ロシアの貴族たちは皆そうであるが、彼は若い頃音楽を学んだ。そしてロシアの貴族はほとんど
皆そうであるが、弾くのはとても下手だった。だが彼は音楽を熱烈に愛した。実を言えば彼が音楽の中に愛したものは、わざでもなければ音楽が表現されている
形式でもなく(交響曲やソナタ、さらにはオペラにも彼は気が滅入った)、その本然の力[стихия]であった。音の結合と変化によって心の中に引き起こ
される、あの漠として甘く、対象もなく一切を包み込む感覚を愛したのである
(76)
。
『父と子』(1862)でもツルゲーネフはシューベルトを取り上げた。今度は主人公バザーロフたちの父の世代の愛着物としてである。バザーロフと
アルカーヂイが庭で話をしていると、「ちょうどこの時、ゆるやかなチェロの響きが家の中から二人のところまで聞こえてきた。上手ではないが、感情を込め
て、誰かがシューベルトの『期待』を弾いていた。甘ったるい旋律が蜜のように宙に漂っていた」
(77)
。シューベルト歌曲を心を込めて弾くアルカーヂイの父ニコライとそれを嘲笑す
るバザーロフの姿には、所謂40年代貴族インテリゲンツィヤと60年代雑階級人の価値観と趣味の違いがくっきりと浮かび上がっている。こんな所でも、この
小説は『ルーヂン』と呼応しているのだ。ツルゲーネフは時代を見越したかのように、これ以後の作品ではシューベルトを取り上げなくなる。
* * *
若きトルストイは1856-57年の冬をペテルブルグで過ごし、シェリングの観念論的芸術論を信奉するボトキンらのサークルでの嵐のような芸術談
義の雰囲気の中で、オペラや家庭音楽にのめり込んだ。中篇小説『アリベルト』(1858)には、作家が体験した当時の音楽界の状況が映し出されている。作
中第5章での「古い音楽と新しい音楽」をめぐるアリベルトとヂェレーソフの会話には1850年代半ばに人気を博した音楽と音楽家の名前が登場し、すでに
1843年からペテルブルグを訪れていたポーリーヌ・ヴィアルドーとルビーニの名演も回想されている。
この小説はまた一種の音楽家小説でもある。主人公アリベルトは天才的なヴァイオリン奏者だが、アルコール中毒の性格破綻者でしかるべき仕事に就か
ずにいる。彼の才能を惜しむ貴族のヂェレーソフが彼の面倒を見ようと申し出
(78)
、自分の邸に引き取った翌晩、天才ヴァイオリニストは音楽談義からいつしか自
分が見る幻覚の話を打ち明ける。しばしの沈黙の後、アリベルトは自らも精神の危機を予感しているかのように、”Und wenn die Wolken
sie verhullen, / Die Sonne bleibt doch ewig klar,”
[むら雲に覆い隠さるるとも、永遠に日は輝き続ける]と歌い、続けて ”Ich auch habe gelebt und genossen.”
[我もまた生き、味わいたり]と付け足している
(79)
。
この箇所についてメンデリソンは注釈の中で、第一の引用はヴェーバーのオペラ『魔弾の射手』の中のアガーテのカヴァティーナ冒頭の不正確な引用と
した上で、第二の引用はシラー詩によるシューベルトの歌曲の「疑いのない反映」であるとして『テクラ:霊の声』と『乙女の嘆き』の中のそれぞれ一節を示し
ている。すなわち、前者の第1連の終わり: Hab’ich nicht beschlossen und geendet, / Hab’ich
nicht geliebet und gelebt?
[私は事切れ、身罷ったのではなかったか。私は愛し、生きたのではなかったか]と後者の第2連の終わり: Ich habe genossen das
irdische Gluck, / Ich habe gelebt und geliebet.
[私は現世の幸せは味わいました。私は生き、そして愛したのですから]である
(80)
。愛を失った乙女が聖母に自分を天に召して下さいと訴える『乙女の嘆き』は、
メンデリソンによれば「我が国で特に人気のあった歌」であった。引用された箇所だけを比べると、アリベルトが口ずさむ二つ目の歌は『乙女の嘆き』を反映し
ているとするだけで十分そうに見えるが、注釈者は『テクラ:霊の声』のこの世を離れた魂が恋人に語りかけるという設定に主人公の心情を読み込もうとしたの
かも知れない。いずれにせよ、破滅型の天才の心の闇を映し出す印象的な場面に、トルストイはシューベルトの歌曲を効果的に用いていると言える。
一方ドストエフスキイはリストのロシア公演を訪れており(本稿第2章)、そこで彼はシューベルト歌曲を弾く天才ピアニストの名演を直に目にしてい
るはずだが、彼の作品にシューベルトの音楽の痕跡を探すのは難しい。それでも、30巻全集の注釈者は『罪と罰』(1866)の中でシューベルト歌曲が歌わ
れていると主張しているので紹介する。小説の第5部に狂ったカテリーナ・イヴァーノヴナが橋の上で子どもたちに歌を歌わせたり、踊らせて物乞いをしなが
ら、自分たちの不幸な境遇を見物人に訴える場面がある。彼女が幻覚にとらわれながら歌う ”Du hast Diamanten und
Perlen...” [ダイヤモンドと真珠があるのに……]、”Du hast die shonsten Augen, /Machen, was
willst du mehr ?”
[そんな美しい瞳があるのに、娘さん、そのうえ何がお望みなの?]について、コーガンはこれをハイネの『歌の本』の中の『帰郷』という詩で、シューベルト
のロマンスであるとしている。そしてその傍証として注釈者は、ドストエフスキイはこのロマンスを小説第5部に取り組んでいた1866年の夏にリュブリノ
(ルブリン)で耳にし、その後しばしば口ずさんでいたというフォン・フォフトの証言を引いている
(81)
。
だが調べた限りでは、そのようなシューベルト歌曲は見当たらなかった。また、確かにフォン・フォフトはその回想の中で、作家の前でこのロマンスを
ピアノで弾いて見せたところ、それが大変ドストエフスキイの気に入り、作家自身も歌ったり、『罪と罰』のカテリーナ・イヴァーノヴナに歌わせることになっ
たと述べているが、そこでは「ハイネの有名な詩によるドイツのロマンス」とされているだけでシューベルトのロマンスとは言われていない
(82)
。どうやらこ
れは注釈者の勇み足のように思われる。ドストエフスキイについてはむしろ、初期の特異な作品『分身
・Двойник(1846)がもしかしたらハイネ/シューベルトの ”Doppelganger”
に想を得たのではないか、などと空想をめぐらすことの方が楽しい
(83)
。
* * *
この他いくつかの作品においてシューベルトの名や歌曲が19世紀のロシア文学の世界を彩っている。
ロマン主義を身をもって生きたレールモントフも、やはりシューベルトの歌曲に通じていたようだ。詩人が決闘に斃れる直前に書き遺した未完の作品の
中には、伯爵邸で催された音楽会で外国の歌姫が『魔王』を歌う場面が挿入されている。「彼らの会話はしばらく途切れ、二人とも音楽に聴き入ったようだっ
た。旅の歌姫がゲーテの詩によるシューベルトのバラード『魔王』を歌っていた」
(84)
。この歌姫は1841年にペテルブルグで客演し、シューベルトのロマンスを
歌ったドイツのオペラ歌手ザビーナ・ハイネフェッター(本稿第2章参照) を念頭に置いたものであろうと考えられている
(85)
。
意外なところではゴンチャローフの『オブローモフ』(1859)の中にもシューベルトが歌われる場面が出てくる(第2部第10章)。臆したオブ
ローモフから突然別れを告げる手紙を受け取って一人公園で泣いていたオリガは、彼と話をして誤解が解けた後、胸を昂ぶらせて
走り去り、自室で熱狂的に歌い続ける。
オリガの窓のそばを通った彼の耳に、彼女の胸のつかえがシューベルトの響きの中で解れてゆく
のが、まるで幸福のあまり号泣しているかのように聴こえた。
あゝ! この世に生きるのはなんと素晴らしいことだろう!
(86)
なお、女主人公のオリガは歌が上手で作中で色々な歌を歌っているが、具体的な曲名や作曲家の名前がわざわざ言挙げされるのは稀であることを付言し
ておく。
短篇小説の名手チェーホフにもシューベルトの登場する作品があった。『道に迷った人びと』(1885)という短篇の中で、酔っ払った弁護士のコ
ジャーフキンがラーエフを自分の別荘に連れていこうとして、深夜に森を抜け、別荘群を目指して千鳥足で歩いて行くのだが、酩酊状態のため道を間違えている
ことに気づかず、他人の別荘(誰もおらず鳥小屋になっている)を自分の別荘と思い込んで妻を呼ぼうとする場面である。
「あれあれ大胆不敵な女だな、床に入りながら窓を閉めておらん。(マントをぬいで、折カバン
と一緒に窓から投げ込む)うう暑い! 一つセレナーデでも歌って、あいつを笑わせてやろうじゃないか。……(歌う)『夜空を月がただようて……そよ風がか
すかに息をつく……そよ風がかすかに揺れる。』……歌えよ、アリョーシャ! ヴェーロチカ、君にシューベルトのセレナードを歌ってやろうか? (歌う)
『わ・が・う・たは……祈・り・と・共に・飛び・行かん……』(声はけいれん的な咳に断ち切られる)ちぇっ! ヴェーロチカ、アクシーニヤに木戸を開ける
ように言ってくれよ!」
(87)
コジャーフキンが歌う最初の歌はシロフスキイのよく知られたセレナーデとジプシーの歌『そよ風』の冒頭部で、後に出て来るシューベルトの『セレ
ナーデ』は、酔っぱらいが鼻歌で歌うほど人口に膾炙していた傍証と見てよかろう。御機嫌な弁護士は
《Пе-снь моя-я-я...лети-ит с мольбо-о-о-ю》
と歌っているが、これはオガリョフが訳したロシア語の歌詞で歌おうとしたものであることが判る。この『セレナーデ』は上のジプシーの歌とともに、この作品
の前年に出版された『歌曲愛好家の男女のための黄金のメロディーのアルバム』に収められているという
(88)
。
4. 琴線に触れる響き:ロシアにおけるシューベルト異聞
ロシアの文豪たちの日記や彼らについての回想等を繙くと、遅くとも19世紀後半にはシューベルトが公の演奏会のみならず家庭音楽のレパートリーの
一つとなっていたことが明らかである。とりわけレフ・トルストイの回りではしばしばシューベルトの曲が演奏され、彼自身も好んでピアノに向かっていたこと
が報告されている。
ペテルブルグで文人たちと交友を深めていた1856年11月28日の日記に作家は「アン[ネンコフ]、ボトキン、マイコフの所へ行った。彼女は素
晴らしい声をしている。ム Wanderer。ドルジーニンの所で3時過ぎに素晴らしいパーティーがあった」
(89)
と記しており、シューベルトの歌曲『さすらい人』を歌った女性の声を讃えている
(90)
。作家が短篇小説『アリベルト』を発表したのはこの2年後のことである。
ヤースナヤ・ポリャーナに引っ込んで教育活動に携わるようになってからのトルストイのシューベルトとの関わりについて興味深いエピソードがある。
トルストイの理念に共鳴し、協力者となったエルレンヴェインは1861〜63年を回想して、ヤースナヤ・ポリャーナでの作家の姿を詩的なタッチで生き生き
と伝えている。
バルコニーの開け放たれた窓から、夜のしじまを縫ってピアノの音が鳴り響く。シューベルトの
バラード ”Erlkonig”
を弾いているのだ。トゥ-トゥ-トゥ-トゥ-トゥ-トゥ。ピアノが轟く。レチタチーヴォで歌う誰かの声がする:「あれは誰だ? 冷たい闇の中、馬を駆る者
は」。トゥ-トゥ-トゥ、トゥ-トゥ-トゥ。鍵盤がとどろく。「それは遅れた馭者、幼い息子を抱いて」同じ声が繰り返す。荘厳な……が次第にもっと優しい
調子に移って行く。ピアノの回りを聞き手がひとかたまりになって陣取っていた。ゲーテの詩的な伝説の詩句を砕いて物語りながら、霊感に満ちたシューベルト
の音楽を演奏しているのはレフ・ニコラエヴィチだった。〈中略〉「馭者が馬を駆り立て、家にたどり着くと、その腕の中で幼子は死んでいた」という悲劇的な
終局の描写に至って、演奏している本人も描かれた場面の不気味さに捉えられ、筋骨たくましい両の手で思いきり鍵盤を叩くと、音楽は甲高い和音で終わり、バ
ラードの最後の言葉「幼子は死んでいた」がうめき声のように夜のしじまに響き渡る
(91)
。
回想は演奏後静けさを取り戻し、再び眠りにつく自然の描写に続けて、音楽の印象で黙り込んだ人びとの雰囲気を和らげようとトルストイが再びピアノ
に向かう場面を伝えている。作家がお気に入りのメンデルスゾーンを弾こうとすると、たった今聴かされた音楽に恐れをなした子供たちが口々に「『森の精』は
やめて」、「どうして森の精はよその子をいじめたの?」、「自分の子どもがいなかったのかな?」などと色々なことを言っている様が描写されており、微笑ま
しいとともに大変興味深い
(92)
。
エルレンヴェインと同様にトルストイ学校の教師をしていたペテルソンも、ヤースナヤ・ポリャーナで仲間たちとトルストイの話を聞く楽しさを語った
後で、「私にとってさらに楽しかったのは、彼の見事なピアノ演奏を聴くことでした。特に私の記憶に深く刻みついているのは、ジュコーフスキイのバラードの
詩を付けたシューベルトの『魔王』でした」と回想している
(93)
。
音楽に造詣の深かったトルストイの趣味と芸術理念の関係について示唆的なのが、彼のユニークな芸術論『芸術とは何か』(1897-98)である。
その中の音楽を論じた部分で、彼は「新しい音楽家たち」の旋律が無内容で排他的なために「世界的はおろか、民族的ですらない、すなわち民族全体ならぬ一部
の人々にしか容れられないものになっている」ことを批判している(第16章)。そして、芸術に力強い素朴さを求める思想家は、推奨できる音楽として「全世
界的芸術の要求に近づいている」音楽家の行進曲と舞曲、様々な民族の民謡を挙げた後、「専門的な音楽の中からはごくわずかな作品をムバッハの有名なヴァイ
オリンのためのアリア、ショパンのノクターン
Es-dur[変ホ長調]、それからたぶん、ハイドン、モーツァルト、シューベルト、ベートーヴェン、ショパンの作品のうちの曲全体ではなくその部分的な
箇所から選ばれた十ぐらいのものを挙げることができよう」
(94)
と
留保つきで述べている。興味深いのは、当初この中に含まれていたヴェーバーの名前が単行本の校正の途中で削除され、シューベルトの名に代えられたというこ
とだ
(95)
。こ
こには思想家トルストイのシューベルトに対する微妙なスタンスが窺われる。
一方、シューベルトの音楽はまた、育児ノイローゼになったソフィア夫人の心にも不思議な力を及ぼしている。1864年秋にトルストイは落馬して手
を骨折し、治療に専念するためモスクワの夫人の実家ペルス家に留まり、離ればなれになった二人はこの間毎日のように手紙を交わしているが、夫人が夫に宛て
た手紙(12月7日付け)の中に次のような一節がある(この直前まで夫人は病気がちの幼い子どもたちを抱えて塞ぎ込み、自身も体調を崩してひどく感傷的に
なっていた)。
あなたの書斎に座って、泣きながら書いています。自分の幸福を、あなたのこと、あなたがいな
いことを思って泣いているのです。自分のこれまでのことを色々思い出しています。マーシェンカが何か弾きだしたので泣いています。その音楽は私が長いこと
耳にしなかったものですが、私の世界、私が長いことそこから一歩も出られないでいた、子どもたちの、おしめの、子ども相手の世界から私を引っ張り出し、そ
れとは全く別のどこか遠くに連れて行ってくれました。〈中略〉今私は音楽を聴いて全神経が高ぶり、あなたのことを滅茶苦茶に愛していて、あなたの窓越しに
太陽が美しく沈んでいくのを眺めています。私がこれまで無関心でいたシューベルトのメロディーが、今や私の心持ちを全く一変させようとしていて、この上な
く苦い涙に咽ぶのをこらえることができません。それはそれでよいのですけど。愛しいレーヴォチカ、あなたは私のことを笑って、気が狂ったと言うでしょうね
(96)
。
シューベルトの音楽が悲しみや不幸を感じている人の心に沁み入る不思議な力を持っているというのは、国籍や時代を問わないもののようだ。トルスト
イからは外れるが、1881年1月31日のドストエフスキイの葬儀の夜、重苦しい雰囲気の中で友人とともに作家を偲んで過ごした音楽家のチュメーネフは
「私は気分に相応しいベートーヴェンとシューベルトの曲をたくさん弾いた。彼は座って聴いていた」
(97)
と回想している。
ヤースナヤ・ポリャーナでは世紀の変わり目になってもシューベルトの響きが止むことはなかったようである。作家の日記等を繙くと、トルストイ邸を
訪れたプロの音楽家たちによってシューベルトが演奏されていた事実が散見される。1899年1月12〜14日の間に高名なピアニストのイグムノフがトルス
トイ邸で演奏した演目の中に、ショパン、ルビンシュテイン、メンデルスゾーンと並んでシューベルトの名が見える
(98)
。
世紀を越えた1907年4月26日、ヤースナヤ・ポリャーナに高名なピアニストのゴリデンヴェイゼルとヴァイオリン奏者のシボルがやって来た。そ
の晩、モーツァルトのソナタ2曲、シューベルトの作品1曲、ベートーヴェンの『クロイツェル・ソナタ』が演奏された
(99)
。「とても楽
しかった」という作家のメモが残っている
(100)
。
翌1908年8月3日から4日にかけて両人は再びトルストイ邸を訪れ、最初の晩はモーツァルトのソナタ3曲、ベートーヴェン1曲、グリーグ1曲を、2日目
の晩はモーツァルトのソナタ1曲、ベートーヴェンの『クロイツェル・ソナタ』、シューベルトのソナタ、ベートーヴェンのロマンスなどを演奏した
(101)
。作家
は、芸術・文学のあり方について「演奏中、これを最後と色々考えた」と日記に記している
(102)
。
* * *
あまり知られていない話だが、シューベルトはロシア皇帝たちのために曲を書いたことがある。アレクサンドル1世の逝去に寄せたピアノ連弾曲『大葬
送行進曲ハ短調』(D. 859)とニコライ1世の戴冠式のための同『英雄的大行進曲イ短調』(D.
885)である。1825年末から26年にかけて作曲され、どちらも26年に出版されているが、おそらくスタンケーヴィチの夢想だにしなかったことではな
かろうか。アルフレート・アインシュタインはそのシューベルト伝の中で「これは、かつてベートーヴェンが皇帝ヨーゼフの死に寄せる哀悼カンタータと皇帝
レーオポルトの即位に寄せる祝賀カンタータを作曲したのに似ている。<中略>われわれはシューベルトがロシア皇帝たちのことをどう思っていたか知らない
が、彼はおそらく彼らの伝統的な気前のよさを想い出したのであろう。さらにわれわれは、はたしてこの気前のよさが発揮されたかどうかも知らない」
(103)
と述べている。実際、デカブリストの蜂起の後始末に追われてそれどころではなかったかも知れない。
最後に筆者のロシアでの個人的な体験に触れることをお許し戴き、小論の筆を擱くことにしたい。シューベルト生誕200周年に当たる1997年の3
月半ば、2ヵ月に満たないモスクワ滞在の合間を縫って筆者が初めてロシアでシューベルトを聴く機会を得たのは、ポヴァルスカヤ通りのシュヴァーロヴァ館の
小さなホールでのことだった。「シューベルトの夕べ」と題されたこのコンサートでは彼のピアノ・ソナタを2曲と連弾曲も披露されたが、この晩の最大の収穫
はロシアの歌姫によるシューベルト歌曲だった。『糸を紡ぐグレートヒェン』(《Маргарита за прялкой》
と紹介されていた)に始まり、『セレナーデ』、『至福』、『君こそは憩い』、『ミューズの子』、『アヴェ・マリア』がこの日の演目で、すべてロシア語で歌
われた(『セレナーデ』はオガリョフの詩で歌われていたように思う)。19世紀に播かれた種がしっかり根づいているのが感じられた。間近に仰ぐ歌姫ジーロ
ヴァはスラリとした体躯に似合わぬ声量で圧倒したのみならず、聴く者の心の琴線に触れる術を心得ているかのようで、筆者は『グレートヒェン』の冒頭から身
体に震えが来るほど引き込まれ、最後の方は嗚咽しそうになるのを必死でこらえなければならないほどだった。異郷での生活に神経が昂ぶっていたのかもしれな
い。筆者の脳裏にゲーテの詩が、狂気に陥りながらファウストを想うグレートヒェンの声が、糸車を模したピアノの響きとともに目くるめくように浮かんでは消
えて行った…。シューベルトに捧げられた10,000ルーブルばかりのささやかなコンサートに心を洗われる思いで、筆者は会場を後にした。星の美しい夜で
あった。
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