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3. なにが起こったのか

スターリンの石像の顔から生まれたゴットヴァルトの上半身の石像は、手術室(あるいは分娩室?)のなかで演説をはじめるが、画面では、そのときよろこびの表情を浮かべる人びとの映像が重なってくる。つづいて1948年2月25日という日付が記されたコラージュ - さきほどのファシズムからの解放のときと同じようなコラージュ - があらわれて、この出来事が、ゴットヴァルトが率いる共産党が政権を奪取した二月事件であることをしめし、このあとゴットヴァルトの肖像のほかに、全会一致の会議の模様、行進する人びと、合唱団、民族舞踊の踊り子、労働者などといった社会主義の発展を好意的に表現する写真が何枚も連続して画面にでてくる。チェコスロヴァキアにあっては1948年2月以後ソ連型の社会主義の導入がはじまり、それにともなってスターリン主義の時代が訪れることになる。したがって、ここにきてようやく『ボヘミアにおけるスターリン主義の終焉』の最大のテーマが提示されたことになる。
スターリン主義といえば、そのもっとも大きな犯罪的行為のひとつに粛清があり、この映画のなかでもそれがたいへん印象的な方法で描かれている。社会主義の建設をよろこぶ人びとの写真のあと、突然ひとりの憂い顔の男の写真が映しだされる。それは、ゴットヴァルトにつぐ共産党書記長という地位にあったにもかかわらず、国家への反逆という罪で逮捕され、処刑されたルドルフ・スラーンスキーであり、1952年に行なわれたその裁判は、スターリン主義時代の粛清裁判を代表するものと考えられている。この映画のなかでは、スラーンスキーの肖像写真のあと、絞首刑用の輪になったロープが大写しにされ、それにつづいて、カメラは流れ作業方式で粘土の人形がつくられていくプロセスをとらえている。指先が外にでる黒い手袋をはめた作業員が、バケツから粘土を取って型のなかにいれ、人間の両脚をつくってからベルトコンベアのうえに載せる。この両脚に、同様のやり方でつくられ、運ばれた両腕と胴体がつなぎあわされて粘土の人形に仕上げられる。作業員は物差しで人形の長さを計り、ベルトコンベアに載せるが、そこには同じかたちの人形がいくつも並べられており、横たわったまま運ばれていく。ベルトコンベアからテーブルか作業台のようなところに落とされた人形は、なんとテーブルの端のほうに向かってひとりで歩きはじめる。そこにはべつの作業員が控えていて、人形の首を絞首刑用のロープにかけ、人形の背中を指ではじいて絞首刑に処する。作業員がナイフを手に取り、人形を吊しているロープを切ると、人形はその下におかれたバケツのなかに消えていく。人形はひとつ、またひとつと絞首刑にされては、バケツのなかにいれられ、バケツが粘土で一杯になると、同じプロセスが永遠に引き続くことをしめすかのように、ふたたび流れ作業で人形をつくる作業員のもとに運ばれていく。スターリン主義の時代にあっては画一化された人間が大量生産され、誰もが容易に粛清の対象になりえたという事実が、こういった場面によって表現されていることはいうまでもない。
『ボヘミアにおけるスターリン主義の終焉』は、そのあと「計画の遂行」という標題のあるグラフの線が右上がりに伸びていくシーンとなり、それにつづいて笑顔を浮かべる人びとの顔の絵が何枚か連続してでてきてから、スターリンの顔写真が大写しにされる。それを打ち破るようにしてドクロがあらわれ、スターリンの顔をむさぼり喰ってその場所に居座ってしまう。そのあとすぐにゴットヴァルトの顔写真が大写しにされるが、同じようにドクロがその顔に取って代わってしまう。ドクロはどうやら死を意味しているらしい。というのも、歴史的事実をたどってみると、スターリンはスラーンスキー裁判の翌年の1953年3月に亡くなり、その直後にゴットヴァルトも亡くなっているからで、映画のなかではそれを裏打ちするかのように、1956年にスターリン批判を行なったフルシチョフの顔が画面いっぱいに映しだされる。レーニン廟の中央壇上から手を振るフルシチョフを遠景から収めた写真のあとで、ふたたびその顔がアップになって、「雪解け」ないしは「非スターリン化」が暗示されるが、その直後にフルシチョフの写真はくしゃくしゃに丸められてしまい、今度はブレジネフの顔があらわれてくる。どうやらこれは1964年のフルシチョフの失脚を表現しているらしい。
映画は歴史的事実に忠実にプラハの春に向かっていき、実際にそのあとで「1968年プラハの春」という文字とアレクサンデル・ドプチェクの写真を収めた額縁が映しだされるが、そのを予告するかのように、すぐに画面はブレジネフの顔写真にかわり、しかもブレジネフの鼻のしたにはスターリンのような髭が生えてくる。やはり、そのあとには、あきらかにワルシャワ条約機構軍のチェコスロヴァキア侵攻を象徴していると考えられる場面がつづいている。粘土の人形のシーンと同じ黒い手袋をはめた作業員らしき人物があらわれ、抽き出しからめん棒を何本も取りだして坂道のうえにおくと、めん棒は空き缶を押しつぶし、石をけちらしながら転がり落ちていく。ドプチェクの写真が何枚もめくり取られたあと、冒頭の場面と同じように、壁に撃ち込まれていく銃弾をカメラが追っていくと、「1968年8月21日」という日付の記されたコラージュがあらわれ、ブレジネフや暗い表情のドプチェクの写真が貼り付けられている。
チェコスロヴァキアではこの事件のあとグスターフ・フサークによる正常化がはじまるが、映画のなかではすこしばかり時代が前後しており、ちょうどスターリンとゴットヴァルトのときと同じように、ブレジネフの写真を打ち破るようにしてドクロがあらわれ、その死が最初に暗示される。そのあとでカメラがとらえるのが、フサークの写真と「現実的な社会主義」という文字などからなるコラージュ。それにつづいて、フサークの写真の口のところからパンが数本でてきて食卓の皿のなかに落ちていくという場面、それにピルスナー・ビールのラベルが映しだされてから、アンドロポフ、チェルネンコ、そしてゴルバチョフというブレジネフ以後のソ連の指導者たちの顔が大写しにされる。このあと、マルキ・ド・サドの『ジュスチーヌ』と『ジュリエット』のオリジナルのイラストやチェコスロヴァキアの全国的な体育大会〈スパルタキアーダ〉の写真をちりばめて映像を構成したり (11) 、いろいろな種類の紙幣の図柄などが連続してでてきたあとで、カメラは鍵の束をとらえ、すぐに、その鍵の束が数人の手で揺すられる場面にかわる。そして、政治指導者たちの写真がくしゃくしゃに丸められ、坂道を転げ落ちていくシーンのあとに、チェコスロヴァキアの国旗を振りかざす群衆を遠くから収めた映像が提示される。どうやらそれは1989年に起こったビロード革命のひとコマのようだ。
もしそれが正しければ、第二次世界大戦以後のチェコスロヴァキアの歴史をスターリン主義というパースペクティヴから概観するこの映画は、あきらかに終わりに近付いていることになる。では、いったい「ボヘミアにおけるスターリン主義の終焉」はどのようなかたちを取るのだろうか? おもしろいことに、そこでまたあらわれるのが、指先がでる黒い手袋をはめた作業員で、今度はくず鉄置き場か自動車の解体作業場のようなところで、最初は灯油缶、つづいて水差し、さらにタイヤやスコップなどに、青、赤、白のペンキを、手当たり次第にといった感じで塗ってチェコスロヴァキアの国旗を描いていく。そのうちにカメラが古新聞につつまれた何かをとらえ、作業員がそれを開けると、映画のはじめにでてきたスターリンの石像の顔があらわれる。作業員が軽くブラシをかけてから、その顔のうえにも同じように青、赤、白のペンキを塗ってチェコスロヴァキアの国旗の模様を描く。すると、顔が三色に塗られたスターリンの石像がゆっくりと歩いている場面にかわる。映画は、ちょうどはじめの部分をくり返すように進行しており、やはりつぎは手術室のシーンとなる。薄いゴムの手袋をはめた医師が、手術台に横たわったスターリンの石像の、チェコスロヴァキアの国旗の模様に塗られた顔をメスをつかってまっすぐ縦に切り裂くと、真っ赤な内臓があらわれる。ここまでははじめの部分と同じだが、今度は医師がそのなかに手を入れて探ってみても何もみつけられず、内臓のなかでいたずらに手を動かしている、というところで画面が暗くなり、白い文字で『ボヘミアにおけるスターリン主義の終焉』というタイトルと「アジプロ作品」というサブタイトルがあらわれ、それとともに赤ん坊の泣き声が聞こえてくる。このあと映画のスタッフのクレジットが提示されてから映画は完全に幕を閉じる。
ヤン・シュヴァンクマイエルが1990年に制作した『ボヘミアにおけるスターリン主義の終焉』の内容をゆっくりたどってみると以上のようになり、そのエピソードのひとつひとつが歴史的事実にほぼ忠実に対応しているということが確認できたし、それによって物語内容のレベルで映画をよりよく理解するという当面の目標にも到達することができた。すでにふれられているように、シュヴァンクマイエルはこの作品に「カタルシス」をもとめているという。しかしながら、本当にそれだけのために彼はこういった歴史の出来事を描かなければならなかったのだろうか? そのとき芸術的価値はかえりみられていないのだろうか? 映画の内容をふまえたうえで考えていかなければならないのは、まさにこの芸術的価値にかかわる問題だが、それをあつかうには、いまのうちに、シュヴァンクマイエルがどのようなかたちでチェコスロヴァキアの当局側と対立してきたのか、という点をおさえておいたほうがよいかもしれない。
そこでまず、あらためて第二次世界大戦後のチェコスロヴァキアの歴史を確認するために、映画のエピソードをつかって簡単な年譜をつくるとするとつぎのようになる-
1945 ファシズムからの解放
1948 二月事件[スターリン主義の時代の到来]
1952 スラーンスキー裁判
1953 ゴットヴァルト(およびスターリン)死去
(1956 フルシチョフのスターリン批判[雪解け=非スターリン化])
1968 プラハの春/ワルシャワ条約機構軍の侵攻
1969 正常化
1989 ビロード革命
つづいてシュヴァンクマイエルがたどってきた経歴を、とくに政治的な側面に注目して、年譜にするとつぎのようになる (12)
1934 プラハに生まれる。
1950-1954 プラハの工芸大学で学ぶ。
1954-1958 プラハの演劇映画アカデミーで人形劇を専攻。
1957-1964 さまざまな劇場で人形劇の仕事にたずさわる。
1964 最初の映画『シュヴァルツヴァルト氏とエトガル氏の最後のトリック』。
1970 〈チェコスロヴァキアのシュルレアリスト・グループ〉に参加。映画『納骨堂』をめぐって当局側とトラブルが起こり、サウンドトラックの一部が差し替えられる。
1973-1979 映画『レオナルドの日記』をめぐる論争の結果、映画の制作を禁止される。映画スタジオで特殊効果の考案などを手がけ、さまざまな造形芸術の分野で創作活動を行なう。
1979 古典文学の翻案にかぎって映画制作が認められ、ウォルポールの『オトラント城奇譚』を制作。
1982 映画『対話の可能性』が国際的な映画祭で賞をとるが、チェコスロヴァキアでは上映禁止となる。チェコスロヴァキア共産党中央委員会イデオロギー委員会で敬遠すべきものの見本として上映される。
1990 ビロード革命ののちに、『ボヘミアにおけるスターリン主義の終焉』を制作。シュヴァンクマイエルにとってチェコスロヴァキアで最初に一般公開された映画となる。
このように70年代から80年代にかけてシュヴァンクマイエルは当局側から厳しい措置をとられ、映画制作という、彼にとってもっとも重要な活動がかなり制限されていた。そのような政治的抑圧から解放された1990年になって、この映画監督が『ボヘミアにおけるスターリン主義の終焉』をつくったのだから、そこに、それまで蓄積されてきた「スターリン主義」への反発を読み取ることは充分に可能だし、すでにふれられているように、実際に、シュヴァンクマイエル自身もそのような創作上の動機を認めている。しかしながら、そういった衝動からこの映画が制作されたという事実については、いまのところ確認さえしておけばよい。なにしろ、創作者個人の内的な選択にかんしては、これ以上何かを推し量ったとしても、たんなる憶測にしかなりえないし、また、シュヴァンクマイエルがきわめて直接的に「カタルシス」という言葉をもちいて、この映画の制作の理由を説明している以上、その個人的体験のなんらかの反映をそこにもとめても、それが映画の理解の助けになるとは考えられないからだ。そのような作業は、結局は創作者の同語反復以外のものにはつながっていかない。ここでは、むしろこういった情緒的動因とはべつの創作上の動機について考えてみなければならない。いいかえれば、もうすこし美的な観点からこの映画についてしらべてみる必要があるということだ。

4. 「戦闘的」シュルレアリスト

さきほどのふたつの年譜を見比べると、シュヴァンクマイエルと当局側の対立が、いわゆる正常化の時代のあと、とりわけ1970年に彼が〈チェコスロヴァキアのシュルレアリスト・グループ〉に参加してから起こっていることがわかる。これについては、当然のことながら、この映画監督が創作活動を活発に行なえる時期が、年齢的にみて、たまたまその70年代から80年代の時代に重なっていたにすぎないと指摘することもできるだろうし、また、自由化・民主化をもとめる精神という点で、その時代と、プラハの春を迎えようとしている時代を同列におくことができるかどうかについても疑問の余地がある。しかしながら、シュヴァンクマイエルが1969年にシュルレアリスム・グループの指導者エフェンベルゲルに出会い、その翌年にグループに参加したことについてつぎのように述べているのを知れば、それが彼の創作活動にあってきわめて重要な役割をはたしていることがわかるし、さらには、その見地からの考察が不可欠であるとさえ考えられる。「シュルレアリスム・グループに参加したことによって、私の人生のひとつの段階が終わり、べつの段階になりました。もちろん私は自分がシュルレアリストだと思っていました - それ以前でさえもそう思っていました - が、ヴラチスラフ・エフェンベルゲルと出会い、グループの活動に出会ってはじめて、シュルレアリスムについて自分が実際に抱いていた考えがどれほど表面的なものであるのか理解しました」 (13) 。それが反体制とみなされてしまうような政治的な活動に直接結びついていくかどうかはともかくとして、シュルレアリスムが70年代以後の彼の姿勢や態度、あるいは創作活動の方向をかなりの程度決定づけていることはまちがいないようだ。シュヴァンクマイエルに大きな影響をあたえているシュルレアリスム。このことを念頭におきながら、『ボヘミアにおけるスターリン主義の終焉』の美的側面について検討していくことにしよう。
そのようなパースペクティヴから考察するなら、まずはじめにシュヴァンクマイエルが創作者としてどのような態度をとっているのかという点を確認しておかなければならないが、そのさい、ペトル・クラール (14) が1985年に行なったインタビューがたいへん興味深い。シュヴァンクマイエルはそこでクラールに「あなたは映画制作者ですか、それとも芸術家ですか? それともなにかべつのものですか?」と問いかけられて、つぎのように答えている。
重要なのは創造者が自分のなかにもっている「蓄え」の内的な力です。自己表現手段は取り替えることができますからね。専門家の「分業」は、最後には不毛な思考と空虚な「人工主義」に行き着いてしまうので認めません。私がさがしもとめているのは、表現の普遍性なのです。この意味において私の態度は、「戦闘的」シュルレアリストの態度です。 (15)
この発言を手がかりに今後は議論をすすめていくと、わかりやすくなるかもしれない。
創作者が自分のなかにもっている「蓄え」の内的な力。シュヴァンクマイエルはこれをなによりも重視している。すでに引用されているように、BBCのドキュメンタリーのなかでシュヴァンクマイエルは、「スターリン主義のもとで人生を40年間も送ってきたために、自分のなかに蓄積されてしまった緊張を取り除きたいと思いました」と語っており、作品の総体についてはともかく、『ボヘミアにおけるスターリン主義の終焉』にかんするかぎりは、この「緊張」を取り除こうとする意志がその「内的な力」を呼び起こしている、と理解してよいのではないか。だからこそ、この映画はシュヴァンクマイエルにとっては「カタルシス」としてはたらいているわけで、彼がこのようなことを創作者の立場から語っていることを考えれば、その政治的性格そのものが、この映画の芸術という側面においてきわめて重要な役割をになっているとみなすことができる。つまり、この映画にあっては政治と芸術が対立しているのではなく、むしろその政治的性格が芸術を成り立たせる主要な条件のひとつになっているということだ。これをふまえたうえで、つづけて考えていかなければならないのは、そのような動因によって創作に向かったシュヴァンクマイエルがどのような態度を取っているか、という点、要するに、彼のいう「戦闘的」シュルレアリストの態度とはどのようなものか、という点以外にはないが、この場合、すべてはシュヴァンクマイエルにとってシュルレアリスムはなにかという問題に帰着することになる。
シュルレアリストが百人いれば、百通りのシュルレアリスムがあるといってよいほど、この「シュルレアリスム」という概念は変幻自在で、それを規定するのはむずかしい。だから、ここではあくまでもシュヴァンクマイエルのシュルレアリスムに話を限定していくことにしよう。シュヴァンクマイエルはBBCのドキュメンタリーのなかでシュルレアリスムにふれてつぎのように語っている。「人びとはシュルレアリスムがキュビズムや印象主義、あるいはほかのアヴァンギャルド芸術の運動に似た運動だと思っています。シュルレアリスムは両大戦間の時代 - 1924年から1938年までの年月 - にかぎられていると信じています。そして、その後は、美術史家もあまり関心をもっていません。けれども、私やチェコスロヴァキアのシュルレアリスム・グループの友人にとって、シュルレアリスムは生命体なのです。シュルレアリスムは美学ではないのです」 (16) 。ひとつの芸術運動、ないしは美的傾向以上のものとして理解されるシュルレアリスム。シュヴァンクマイエルはべつのところでも同様に、シュルレアリスムがたんに美的なものではないと述べてから、そのことについてこんなふうに説明している。「シュルレアリスムはほかのすべてです - 世界観、哲学、イデオロギー、魔術なのです。(…)シュルレアリスムにあって永遠に活動する要素は、世界にたいする態度、生にたいする態度なのです」 (17) 。シュヴァンクマイエルはシュルレアリスムをこのように世界観、世界にたいする態度、および生にたいする態度としてとらえており、このような考え方にしたがえば、この映画監督が『ボヘミアにおけるスターリン主義の終焉』をつくらなければならなかった理由もそのシュルレアリスムという「態度」にみいだすことができるにちがいない。これはつまり、この映画がもっている政治的性格も、前述のようなシュルレアリスト的態度のあらわれとして理解するということである。
シュヴァンクマイエルによれば、スターリン主義の時代にシュルレアリスムはいつもチェコ文化の「胃のなかの潰瘍」だったという (18) 。“社会主義リアリズム”という束縛を思い出すまでもなく、この時代にモダニズム的傾向をもつ芸術は当局側に許容されてはおらず、シュルレアリストたちが活動をつづけるには地下に潜り、体制にたいしてある程度「戦闘的」な態度を取らざるをえなかった。スターリン主義の時代にあっては、このように芸術的志向が政治的性格を帯びてしまうことが、いわば社会的要請としてあった。シュヴァンクマイエルがシュルレアリスム・グループのリーダー、ヴラチスラフ・エフェンベルゲルと出会い、決定的な影響をうけたのは、このような状況のもとでのことだったが、彼はそのころのエフェンベルゲルを振り返ってつぎのように語っている。「エフェンベルゲルは、スターリン主義に隷属した世界にあって揺るぎない道徳的信念をもち、彼が敵対的な態度をみせた人びとすべてから憎まれていました。彼の一貫した考え方とグループの考え方は、あらゆる種類の折衷主義者からは独断主義として斥けられました」 (19) 。シュヴァンクマイエルがエフェンベルゲルのこういった態度、スターリン主義の時代のシュルレアリストのこういった態度を共有しているのであれば、作品に政治的色彩が強くあらわれたとしても、それほどの不思議はない。だから、見方によっては、『ボヘミアにおけるスターリン主義の終焉』という作品には、スターリン主義体制のチェコスロヴァキアにおいてシュヴァンクマイエルがシュルレアリストとして活動してきたその体験が反映されているとさえいえるかもしれない。

5. 政治と魔術

したがって、みずからを「シュルレアリスト」と呼ぶヤン・シュヴァンクマイエルにとっては、ほかでもないそのシュルレアリスムという態度のために、スターリン主義との対立ないしは闘争がいわば必然的な、あるいは不可避なものとなっていた、というふうに考えられるにちがいない。この段階で確認しなければならないのは、シュヴァンクマイエルがスターリン主義を政治的側面だけで考えているわけではない、という点である。すでにふれられているように、この映画監督はスターリン主義が「人間のもっとも深いところにある本能」に訴えかけてくると理解し、それを人間のより本質的な部分にかかわる問題としてとらえている。だからこそ、シュヴァンクマイエルは、『ボヘミアにおけるスターリン主義の終焉』を制作したあとでも、「スターリン主義にたいする戦いはまだはじまってはいない」という見解を抱き、これからその戦いが「人びとの心のなか」で起こっていくと考えている (20) 。シュヴァンクマイエルの見方によれば、スターリン主義のような全体主義の問題は、政治制度に表面的にかかわっているだけではなく、「文明」そのものに根ざしているらしい。「以前の制度といまの制度のちがいが誇張されています。全体主義と民主主義は同じ文明のなかで場所をかえるだけです。文明がこのような制度を育むことができたとすれば、文明自体が病んでいるのです。私は、この社会を成り立たせている事物に浸食していく、ずっと深いところにある根をいつも攻撃しようとしてしてきました」 (21) 。ジョナサン・ロムニィとのインタビューでこのように述べるシュヴァンクマイエルは、アメリカ出身の映画監督テリー・ギリアムとの対話のなかでも同じように「文明」と「芸術」の関係についてつぎのように語っている。「多くの芸術家とちがって、私は、チェコの政治体制の変化とともに、芸術の諸分野に大きな変化がもたらされるとは思っていません。全体主義のシステムも商業のシステムも同じ文明から生まれてきたものです。芸術が標的にしなければらないのは、その文明が支えているシステムというよりも、むしろその文明の根なのです」 (22) 。以上の言葉からあきらかなように、シュヴァンクマイエルにとって攻撃すべき敵となり、芸術の標的となるのは、「文明」そのものの基礎に潜んでいる人間の愚かさ - 文明を築いている人間の愚かさ - にほかならない。そして、その具体的なあらわれのひとつ - 政治体制というかたちをとった、おそろしい表出のひとつの形式 - がスターリン主義と呼ばれているのだ。
このようにスターリン主義は人間の愚かさのひとつのあらわれ以外のなにものでもないが、これについて「たんにひとつの」という言葉をもちいることはできない。というのも、スターリン主義のもとではあまりにも多くのものが犠牲にされていったし、また、そのようにいってしまっては、ほかでもないスターリン主義の歴史的現実 - この映画がかかわっているのはチェコスロヴァキアにおけるスターリン主義の歴史的現実だけれども - を見落としてしまうおそれがでてきてしまうからである。この見地に立つとき、マイケル・オプレイが『ボヘミアにおけるスターリン主義の終焉』の映画評のなかで鋭く指摘しているつぎのような問題はどんなふうに考えればいいのだろうか? 「BBCの番組のなかで述べたシュヴァンクマイエルのひとつの言葉 - 全体主義は「もっとも深いところにある本能に訴えかけくる」といった趣旨の言葉 - が、映画をとおして響きわたっているが、充分にうけとめられているわけではない。これはシュルレアリスムそのものの核心に横たわる洞察であり、これによって、そのような本能ときわめて有害な政治的イデオロギーとの関係のみならず、二十世紀の芸術的実践のいくつかの形式との関係にかかわる問題が提出されている」 (23) 。この言葉についてなによりも注目に値するのは、シュルレアリスムの洞察がこの人間の愚かさを理解する手がかりになりえるとオプレイがみている点であり、そのような観点からこの作品を考えるには、やはりスターリン主義というひとつの具体的なテーマをシュヴァンクマイエルがシュルレアリストとしてどのように表現しているかをしらべてみなければならない。もちろん、それは『ボヘミアにおけるスターリン主義の終焉』をシュルレアリスムというジャンルないしはカテゴリーに属する映画として理解するということにはつながっていくわけではない。検討すべきことは、この映画をとおしてシュヴァンクマイエルがシュルレアリストと してスターリン主義にどのような態度を取っているのか、という点、いいかえれば、美的志向でもあるシュルレアリスムがこの映画になにをもたらしているのか、という点である。すでにあつかわれているように、シュヴァンクマイエルにとってシュルレアリスムは世界観、ないしは世界にたいする態度になっており、それゆえに創作上のポイントは個々の表現形式ではなく、ペトル・クラールとのインタビューのなかでシュヴァンクマイエルがもちいている言葉でいえば「思考の連続性」 (24) にある。しかしながら、この問題をあつかうには、たとえシュヴァンクマイエルがそれを二次的なものとみなしているとしても、やはり作品の表面にあらわれる表現形式、ないしは作品のなかでもちいられている表現手段をしらべる以外に方法はなく、そこにシュヴァンクマイエルの考える「シュルレアリスム」、シュルレアリスム的手法をみいだしていかなければならない。
そのとき『ボヘミアにおけるスターリン主義の終焉』にあって注目しなければならないのは、ほかでもない、シュヴァンクマイエルに特有のアニメーションの手法であり、じつは、それによってこの作品は、たんなる政治的メッセージ、たんなる「アジプロ」になることから救われているとさえいえるかもしれない。シュヴァンクマイエルは、その映像が独特な美的感覚によって支えられ、不可思議な印象をあたえているということだけではなく、ルドルフ2世が錬金術を追究した街プラハを活動の拠点にしているということもあって、しばしば映画の「錬金術師」と呼ばれることがあるが、テリー・ギリアムはこの錬金術師にたいして、その作品の魔術的特徴についてつぎのように語っている。「無生物が動きはじめると、世界はとてもつかみどころのない不確実な場所になります。あなたの作品は魔術的です。現実を神秘的なものにするのですから」。もちろん、ここで話題にされているのはアニメーションにほかならない。興味深いことに、ギリアムはそこに「魔術的」な要素をみており、また、シュヴァンクマイエルもアニメーションを「魔術の現代的なかたち」と呼んでいる (25) 。しかしながら、アニメーションのさまざまな技法を駆使しているとはいえ、シュヴァンクマイエルが重視しているのは、それによってもたらされる魔術的効果のほうであり、これについて彼はつぎのように述べている。「私は自分をアニメーション映画作家と呼ぶことはけっ してありません。というのも、私にとって興味深いのは、アニメーションの技術でも完全な幻影をつくりだすことでもなく、日常的な事物に生をもたらすことなのですから。シュルレアリスムは現実のなかにあるのであって、現実のかたわらにあるのではないのです」 (26) 。ここで見落としてはならないのは、シュヴァンクマイエルが、事物に生をさずけるというアニメーションの「魔術的」効果をシュルレアリスムと関連づけて考えている点であり、このことをふまえれば、やはり『ボヘミアにおけるスターリン主義の終焉』でもちいられているいろいろな表現方法のなかでも、とくにアニメーションによる映像に着目することが、そのシュルレアリスム的傾向を理解することにつながっていくと考えられるにちがいない。ここで、シュヴァンクマイエルがこの作品のなかでもアニメーションを意識的に利用していることを記憶に留めておいてよいかもしれない。「この映画の表現手段にかんしていえば、いままでいつももちいてきたのと、だいたい同じ方法をもちいています。ほかのすべての映画と同じように、私は現実の物体をアニメーション化しています」 (27)
それでは、実際に、この映画のなかではアニメーションの技法がいったいどのようなかたちでもちいられているというのか? また、それによってどのような効果がもたらされているというのか? この映画のなかではアニメーションの技法が全面的に駆使されており、そのすべてを拾い上げていけば、映画の全体を細かく説明することになってしまう。さきほどわたしたちは、シュヴァンクマイエルが芸術的価値を危険にさらしてまで描いた歴史的出来事を映画にそくして書き留めてみたが、そのときなされた記述と描写のすべてにアニメーションの技法がかかわっているといってもさしつかえないほどだ。そのうち目立った個所をいくつかあげてみると、たとえばスターリンの石像が歩くシーン、そのスターリンの石像が手術台に横たわるまえに眼を開き、その眼であたりを見回す場面、ゴットヴァルトの石像が口を動かしながら演説をするシーン、ドクロがスターリンとゴットヴァルトとブレジネフの写真をむさぼり食べるシーン、ブレジネフにスターリンのような髭が生える場面、政治指導者たちの写真がひとりでにくしゃくしゃに丸まってしまうシーンなどがある。さらにいえば、粛清がテーマになっているときには、粘土の人形が自分で絞首台に向かって歩いていく場面があり、ワルシャワ条約機構軍の侵攻が表現されるときにも、めん棒が空き缶を踏みつぶし、石をけちらすシーンがあるが、そういった情景が描かれるときにもアニメーションが全面的に駆使されている。こういった場面でもちいられているアニメーションは映画になにをもたらしているのだろうか? 
シュヴァンクマイエルも認めるように、『ボヘミアにおけるスターリン主義の終焉』は歴史的現実がもたらすアクチュアリティを前面に押し出すことを第一の目的にしているが、このような観点からみれば、そのアクチュアリティが時間の経過とともに失われていくにつれて、映画も古くなっていってしまうことは否定できない。そのようなかたちで映画が現実にとらわれていれば、そのぶん想像力にゆだねられる部分が相対的にすくなくなると考えられるかもしれないが、この作品はたんなるドキュメンタリー映画ともちがっている。ここでわざわざ異化なりデフォルメなりの言葉をもちださなくても、この映画のそういった特徴について考えるには、シュヴァンクマイエルの「直接的な象徴」という表現を思い出しさえすればよい。それを提示するためのもっとも重要な手法としてアニメーションがもちいられているが、いま注目しなければならないのは、それによってあるときは不思議な、あるときは奇妙な、またあるときは滑稽でおかしな感覚が映画のなかにもたらされているという事実である。アニメーションのこういった効果を、シュヴァンクマイエルが「魔術」と呼んでいることを思い出してから、この映画監督が芸術について述べているつぎのような言葉をみれば、この作品の美的側面においてシュルレアリスムがはたしている役割をより的確に把握できるのではないか。「私には魔術的な側面のない自分の作品など想像できませんでした。(…)魔術とは、“生にたいする積極的な関係の仕方”なのです。けれども、問題となるのは生を支配することではなくて、生を変化させることです。変形は、あらゆる魔術的はたらきの基礎となっています。すくなくとも、それが想像力とともに実行されるときには、ですね。かつて芸術と魔術は溶け合って、さまざまな儀式の分けることのできない一部分となっていました(…)。その後、芸術は魔術からは距離をおきはじめて、みずから図像学上の機能、美的機能、再現の機能などといった、ほかの機能を獲得し、とうとう全体主義体制のイデオロギーのしもべになりはてたり、あるいは美術市場のためにつくられる品物という悲惨な役割を引き受けるようになりました。シュルレアリスムはいつも芸術にその“魔術的威厳”を取りもどそうとしていました。そして、それがあるから、私はそのシュルレアリスムにつよい関心を抱いているのです」 (28) 。つまり、シュヴァンクマイエルにあっては、「シュルレアリスムとは、魔術的な側面を芸術にもどしてやる試みなのです。魔術とのこのような対応がない芸術は、何の役にも立ちません」 (29) 。シュヴァンクマイエルとってその「魔術的威厳」を取りもどす第一の手段となっているのがアニメーションであることはもはやくり返す必要はないはずだ。『ボヘミアにおけるスターリン主義の終焉』にかんしていえば、「シュルレアリスト」シュヴァンクマイエルは、まさにそのアニメーション技法をもちいてこの映画に魔術的性格を付与し、そうすることによって、これをたんなるドキュメンタリーとはことなり、独特な美的感覚が横溢する芸術作品にしていると考えることができる。これは、べつの見方をすれば、シュヴァンクマイエルのシュルレアリスム的態度にともなう政治的色彩が、そのシュルレアリスム的美学によって相対化されていると理解することもでき、芸術作品という見地からすると、この映画はすべてがこの点にかかっているとさえいえるかもしれない。『ボヘミアにおけるスターリン主義の終焉』では、このようにスターリン主義をめぐるテーマ的側面においても、アニメーションという表現手段にかかわる美的側面においても、「シュルレアリスム」の傾向がつよくあらわれており、その意味において、この映画は“戦闘的シュルレアリスト”シュヴァンクマイエルの性格がきわめて顕著にあらわれた作品になっているとみなすことができる。
ところで、シュヴァンクマイエルはあるインタビューのなかで『ボヘミアにおけるスターリン主義の終焉』を境に内容やメッセージに変化があったかと問われたとき、つぎのように答えて、それを否定している。「私は、自分の映画がすべて政治にとても深くかかわっていると考えている、と申し上げておきたいと思います。けれども、たとえば反体制芸術家がそうするように、全体主義体制に絞っているというわけではけっしてありません。文明には、ファシズムやスターリン主義のように病んだものが誕生したり、あるいは存在したりする余地があることがわかったのですから、文明全体こそがとても病んでいるのですし、何かがまちがっているのです。私はいつもこの問題の核心を理解したいと思っていました。うわべだけの政治活動に集中したいとは思っていませんでした。それで、私の映画は普遍的なものとなり、チェコ共和国以外の観客にも意思を伝えることができます。ですから、政治状況がチェコスロヴァキアで変化したからといって、世界や文明がそのときに変化したということにはなりません。私にかんするかぎり、自分の敵をかえる理由はありませんでした。これからもずっとかわることがないでしょう」 (30) 。どうやらシュヴァンクマイエルは永遠に「“戦闘的”シュルレアリスト」でありつづけていくつもりらしい。


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